トリCのブログ

ジャンル問わず現場に近いスタンスで書いていきます

何故こういう事に…裁判の構図

2016-10-28 09:10:29 | 社会

行政を訴える裁判はよくある。今日はそこを考えてみたい。


裁判は過去の似た判決結果から外れるのは非常に難しい。外した場合、そう判断した裁判官は法曹界の同業者(専門家)に対して、説得力のある考察を資料として残さなくてはならず、それはイコール自分自身の評価に直結する。芸能人の様に、でたらめこいて逃げ切って風化するのを待つ、というやり方が出来ないだけにこれはかなり難易度が高い。


テレビドラマなどでは、天才で孤高な主人公がバッサバッサと出世競争に四苦八苦する小並な同業者を打ち倒すものが多い。しかし各々、自分の業界で同じことを考えてみれば、プロ中のプロの先駆者たちが真剣に作り上げた事例を覆して、専門家を納得させるのは難しいものだ。


こうして苦心して出した裁判結果は、後の事例に再び利用される。例えばある被害者が国に100万円の損害賠償を求めて、それが通ったとしよう。ところがその10年後に同様の事件が大規模に起こり、1000万人が国を訴えたら10兆円を払う判決をしなくてはいけなくなる。当然払えるわけがないから前任者の判断を覆す理論を当事者がでっち上げなくてはならず、迷惑この上ない。


-------------------------


新聞などに載る「国が判定を不服として~」がある。国というと国家権力であり金も当然ながら沢山持っている上から目線の官僚機構の親玉の様なイメージがある。だから国を訴えてお金を巻き上げるのは後ろめたい行為ではなく、むしろ巨悪組織に立ち向かうヒーロー的な要素がある。


ところが国の正体は、「日本に住む人たち」だ。みんなが公営の事業の為に働けるわけではないので代わりに組織で働いてもらう人(公務員)を税金で雇っている、いわゆる個々人がオーナーで公務員はその従業員。


裁判で「国を訴えて何々」というのはこの場合、公務員ではなく、金を握るオーナーが相手だということだ。国が敗訴してお金を払う場合、政治家や公務員の給料が減るわけではなく全員のお金(税金)から捻出される点から分かるのではないだろうか。学校の先生が国を訴えて、などは従業員がオーナーを訴えて慰謝料を請求する図である。

 

例えをローカル視点で言ってみよう。------ある村で川の対岸に行きたいので皆でお金を出し合って橋を作った。台風の時に対岸の田んぼが心配になって出かけたじいさんが突風で橋から落ちて死んだ、その家族は橋の構造的な欠陥に原因がある、と主張して住民1000人に対して一人3万円、4人家族なら12万円の慰謝料を請求した------とするなら住民の大半は猛反発するだろう。


しかし行政相手の裁判は、小さくまとめれば結局はこういう図式だ。訴えた側からしてみれば、こっちは弱者で行政は強者なのだから正義は我にある、と思ってそれを期待して裁判長に訴えている空気が多分にある。マスコミも、無関係な人も同じ様に見る。しかし裁判は「こっちが弱い側でこっちが強い側だから手心を加えよう」という人情は文面として残せない。しかも強い側と思っている行政は結局個人の集合体であるわけで強者でもなんでもない。従業員(行政)としても当然、オーナーのお金をそんなにホイホイとばら撒けない、という事になる。


-------------------------

昨日は大川小で津波に流された児童23人の遺族へ14億円の賠償を県と市が払う事を命じられた(亡くなった児童は74人)。市と学校側の津波に対する対策が甘かった、と認定されたわけだ。


ただ正直言えば今回の場合、学校は崩落の危険、山はがけ崩れの危険が大きく、津波で死者が大量に出る、という想定は確率で言えば低いと思っていたはずだ。先生たちの頭をよぎったのは津波が来るかも、という選択肢の為に無理に山を生徒に登らせてもし大けが、あるいは死亡事故に繋がったら「親に訴えられる」があったはずだ。裁判官に「4㎞も海から離れた学校の校庭という指定非難場所にいながら、津波が来るかもしれない、という不確かな情報に惑わされて崩落の危険がずっと高い山に児童を無理やり登らせ児童一人の死亡事故につながった教員の危機意識の選択には大きな問題があった」と言われる可能性は当然考えたはずだ。亡くなった先生たちは一人なら多少の危険を承知で学校の屋上や山に登った人も当然多かったはずである。


ネットでは俺ならこういう選択はしない、と書いている人も多い。しかし震災時、原発のメルトダウンの可能性があったとしても、大半の人は自主的に会社に出勤していた。若干の危険の為に年度末の迫る納期は絶対遅らせられない、という選択肢ではなかったか。とっとと逃げたのは外国人やそういう社会的縛りのない人々だった。


-------------------------


先に書いた様にこういった判決理由は後の裁判に利用される。少なくとも海から4㎞離れた川沿いの学校であれば津波対策は、考えなくてはならない、という事だ。「まさか、うちの学校が」と思っている所は非常に多いはずだ。ちなみに俺の卒業した小学校は市街地の真っただ中で海から3㎞で川沿いにあるが、場所を知っているだけにやはり津波で死人が出るとは100%想像できない。うちの母校も渋々ハザードマップに着手するだろう。


訴えられたら確実に負ける、と分かれば責任者は真剣に考える。責任者の金ではなく、結局は住民全員の金が持って行かれると分かれば市民も追及が厳しくなる。自分が最も言いたいのはこれで、行政への裁判はイコール自分の金がかかっている、という認識があってほしいという事だ。今の左翼市民団体やマスコミの様に行政を対立構造の反対側、というスタンスの批難ではなく、行政そのものへの参加意識だ。要はオーナーはもっと店に出て現状を把握せよ、という事だ。


こういった観点で言えば裁判で示された市や学校側の予測認識の不足は、被害者遺族を含めた市民の行政へのお任せ体質の甘さがそのまま行政の甘さに繋がっている、とも言えるのだ。「行政が怠慢だった、賠償金を払え、まだまだ解明されていない」では本当のゴールは見えない。

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。