日本代表には戦術、先発メンバー、フォーメーションなどよりもずっと大事なものがある。
月並みな言葉で言うと、みんなで一致団結、力を一つにして、だ。
この昭和初期の標語が使われなくなって久しいが、その価値観が失われたわけではなく、空気がそこにあるように、見えない常識になっている。少なくとも日本では。
日本人は、よく海外の人に、この標語の手本の様に言われる民族性がある。それは、長い事先人たちがどうすれば安定した社会になるのか、試行錯誤して作り上げてきたものだ。
西野さんが監督に就任した時に、真っ先に選手に伝えた言葉は「競争ではなく、共存」。
代表の中から日本社会の見えない空気が失われていた、という認識からの言葉だろう。
代表選手も特別な人間ではない。海外で働いていてもやはり日本社会の一員なのだ。代表のマイナスイメージを植え付けるメディアは、彼らを他国の内紛と同様に「エゴの強さ」同士がぶつかった、と書きたがるがこれは、日本人の本質を理解していない。
サッカーの話でもあるが、日本の企業や学校のクラブ活動の話にも当てはまる。
日本の場合、集団が同じ方向を目標に向けてまい進する時は、サブの人材でも能力値が二段階は上がる。その一体感に乗じてメインの人材も能力を発揮する。誰かの天才的なプレーで取っただけの結果は、本人も含めて誰も喜ばず、全員で戦った場合には、敗戦しようが大いに沸く。
ハリル前監督は、日本のパスサッカーを逃げのプレーとみなして、実質禁止令を出し、個々人が自分のエリアを断固として死守せよ、とやった。勝った時には、一部の活躍した人間を高評価し、負けた時には、明確に誰々のせいで負けた、とやったわけである。
会社でこんな上司がいたら、すごく嫌じゃないだろうか。日本人なら直感で分かる事だが、こういう上司は集団から疎外され、出社しても仕事を進めない実質ストライキに突入する。結果を出さない様にして上司を追い込み、何となくどこかに飛ばしてもらう様、上層部に「何とかしてほしい」空気感を出す(表立って言う事はしない)。
だから次にやってきた西野さんは、持論の戦術、フォーメーションを叩き込むよりも、まずストライキ状態にあった職場の一体感を取り戻そうとした。敗戦したら監督、スタッフ、レギュラー、サブ全員が敗戦を悔しがり、勝利したらもちろん全員で喜ぶ。誰が活躍したとか誰が戦犯だ、という空気を一掃させた。
日本人には「競わせて結果を出した人材には、多大な報奨と名誉が待っている」は、むしろ集団から孤立してしまうのではないか、一体感がなくなってしまうのでは、とマイナスに感じる人は多いだろう。
サッカーでは、よくエゴを出せ、そんなんじゃゴール出来ない、とは言われるが、それは日本国外の(一般的な)考え方だ。一部のエリート(多大な報酬)が大多数の一般人(やる気なし)を引き連れる国ではそうでないとならないだろう。しかし日本はエリートが不在で大多数の一般人がやる気を出しまくって成り立つ国なのだ。そういう国にはそれに見合ったサッカーがあるのではないか、などと感じる今回の代表だ。