海外と比較して仕事中毒なところは日本の社会構造からきているがこれは結構根が深い。上っ面でこの問題を表現すれば「仕事好き」「生真面目」
個人に目を向ければ「家庭での存在感がないので会社に生きがい」「景気が一向に上向かないので働かないと食べていけない」「ブラックに勤めていて抜け出せない」
しかし最も個人的に問題だと思うのは日本人の「話し合い」だと思う。
所謂「話し合い病」は要約すれば「話し合いに参加した全員が均等に納得するまで結論を探す」事だ。
例に出せばこういう事だ。10人程度で映画を観に行った。その帰りにどこかで昼食をとるとする。当然全員に昼食の了解とどこに行くかを聞いてみる。半数以上の人はまず「私はどこでもいい」と言うだろう。企画が得意な一人が「近くの有名なイタリアン店はどう?」と聞いて「それいいね!」と賛同したのが3人。これで普通はイタリアンになるわけだがここに一人「ごめん、私昨日食べたし…」と言うと途端にイタリアン案は中止になる。その結果次の案のトンカツ店は「ダイエットしてるのでちょっと…」で頓挫、ラーメン屋「暑いのは嫌」で多数が拒否…結果最初にイタリアン案を出した人が「じゃあファミレスでどう?」でようやく決まる。この間約6分、10人いるから延べ時間60分だ。
人それぞれ食べたいものが別なのは全員が分かっている。そのうえで同じ店に行こうというのだから必ず誰かに不満が生まれる。あの店に行こう、と提案する立場の人間はそれだから行きつけか有名店というリスクのないお店を提示する。即座に賛同した人は有名な、という言葉で不利益を被る人がいないと判断した人たちであり、どこでもいいと答えた半数以上は「私はそれに関して不平不満を言わないから誰かに決めてほしい」という意味になる。
一番有望だった案を全員一致でないという理由で却下したことで2番、3番目の代替え案はますます納得できない人が増えていくのは当然だ。ベストな案をほんのささいな問題で却下したおかげで完全な手詰まり感に陥る。こうなると誰も提案すら出来ない。
そこで一番最初にイタリアンを提示した人がおいしいとは言えないファミレスで皆が別々のものを頼むという案を出し「全員が若干の不利益(大してうまくないものを食べる)を被る」案で妥結する。一人が不利益を若干被る案よりも全員が同程度の不利益を被る方を選んでそれでもその方が良いとする。日本人が「話し合い病」だと書いたのはこういう点にある。
同じ条件である程度整った社会を持つよその国ではどうなるか。お昼にするのか、その先のお昼を一緒にどこにするかを全員に相談する前に「近くに(自分が)行きたかったイタリアンがあるんだが誰か行くかい?」と一人が言いだし「いいね!」と乗ってくるのが数人、それに対し「それだったら中華もあるんだが」と対案を出す人が出てそれに数人が乗る。バラバラ行動になりそうなところに「まあ、もう少しみんなで一緒にいようよ」と提案する人間が出て「だったらイタリアンの人」「中華の人」の多数決でイタリアンに決定。中華組はぶーぶー言いつつも多数決に従う、となる。話し合いの時間は短くトータルで不満を持つ人が数人、満足度の高い人が多い。
日本人ならハラハラする展開だ。
しかし本来民主主義とはこういうものでA案を出す人間、対案を出す人間、まとめて決をとる人間、賛成多数でA案に決定となるのだ。重要な案件になれば案を出す両陣営が膨大な情報を提示し一歩も譲らないがそれでも結局は多数決で決まる。
対して日本の議会はどうだろうか。重要な案件になればなるほど延々と議論は続き内容的には「決」を採らなければ絶対決まらないようなものでもまだ話し合う(いつかは丸く収まると信じて)。集団的自衛権の問題など普通の民主主義国家であれば戦後15年前後に多数決で決まるのだ。散々もめてどちらに転ぼうが。それが戦後70年考えてもまだ決められない。
この集団の特性に気が付いた中国や韓国などは日本に「徹底して反対する政治団体を潜入させて国会を空転させる」工作を行っている。反対勢力の影のスポンサー。その存在とやり口を知っているからこそ安倍政権は強引にこの件を進めそうして支持率を下げつつも政策を押し通す。日本の首相は全方面の意見を聞きそこそこのバランスを成立させなければならない。話し合い病社会において大半の首相が1年そこそこで辞任するのは首相自身がこの病にかかっているからで第一案であるイタリアンを強引に通して結果を出す人だけが長期政権になるわけだ。
日本企業の欠点は政治構造と同じくカリスマ経営者が亡くなり「決める人間」が不在となってからが問題となる。会議に出席する各部門担当者の立場尊重とありとあらゆるユーザーの不満や意見を取り入れた結果、欠点は限りなくないが買いたいと思わせる魅力はゼロの製品が市場にあふれる。
個人的な感覚ではあるが芸能界や映画で当てるには100人中5人をファンにさせ3人をアンチにさせる位がボーダーラインでありこれを認識している人間が必要となる。
これが話し合いの日本企業では3人のアンチをなくする努力が注視され作品の良い所まで犠牲にしてしまう。結果として5人のファンが0人となりファミレス的製品の出来上がりだ。更に悪い事にアンチ対策に代替え案・改良を会議などで延々と「全員が納得」するまで続けるからそれが製品コストに跳ね返り価格が上がる。
何の面白味もない製品だが無駄に高品質・高価格を作り続け赤字に陥り希望退職者を募集する。それでも「話し合い」はやめられず無駄な会議と無駄な対策に追われ疲弊した日本人サラリーマンを海外からは
仕事中毒
と呼ばれることになる。
本来ならこういった極端な社会情勢はだんだんと是正されより良い社会に変貌していく、つまり世代交代による時間が解決すると期待したいところだが冒頭に書いた様にこれは相当根が深い。
そもそもの話し合い、という文化。西暦604年聖徳太子が「和を以て貴しと為す(自分だけではなく相手の事も思い協調して物事を決めよう)」と書いてから延々と続いているのだ。
一旦広まった社会規範はそうそう覆らない。争いを収める良ツールとしての民主主義もそもそも日本では全員が争いが起こらないように気を使う聖徳太子縛りによって民主主義を使う状況が少なくディベートが超苦手な国民性が形成される。
もちろん日本特有の長所も多分にこの話し合いと協調が役立っているのは間違いがない。
しかし長時間働いてる割には非効率だ、と海外から言われながらどこがどう非効率なのかどうも日本人自身が気が付いていない様な気がするのでブログで書いてみた。こういう観点で会議に参加するなりお昼を決めるシーンなどに立ち会ってほしい。恐らくだが暗澹たる気持ちになると思う。