「学校に行かず、ひっそりと暮らした」“無戸籍”全国に800人超 見落とされる現実

2021年03月21日 20時14分20秒 | 事件・事故

3/21(日) 18:31配信

FNNプライムオンライン

大阪・高石市の住宅で2020年、戸籍がない高齢の女性が餓死しているのが見つかった。
なぜ支援の手が届かなかったのか。
同じ無戸籍の人たちを取材すると、社会から孤立してしまう深刻な実態が見えてきた。

【画像】無戸籍のシングルマザーの苦悩 子供も無戸籍に…

881人。
これは法務省が今把握している無戸籍の人の数だ。
(2021年2月10日現在・法務省による)

ある無戸籍の人はこうつぶやく。

【無戸籍者】
「日本にいて、その紙一切れ(=戸籍)ないだけで私は存在しない人間になるから。どうしたらいいかわからないし、もう生きていけない」

2020年9月、大阪・高石市の住宅で、宮脇奈々美さん(推定78)が餓死しているのが見つかった。
一緒に暮らしていた息子(推定49歳)も衰弱していて、保護。

2人には戸籍がなかった。
関係者によると、息子は「貯金がなくなってきたが、無戸籍だったので行政に相談できなかった」と話しているという。

息子と幼なじみの男性(50)は「(女性は)毎朝外で掃除もしてたりとか、身なりもきちっとされてる方で、近所付き合いもしっかりしていた。ごく一般のご家庭でした」と当時を振り返る。

自治会長:
町内会費は貰っていたんですよ。(生活に)困っている様子はなかった。

――無戸籍と知ってどう思った?
『えっ』て絶句するだけ。町内役員も『えっ』というような感じで、あ然としていました。

無戸籍で学校に行かず…28年間ひっそりと家で暮らした男性「病院にも行けない」
周りの人も気づかなかったという「無戸籍」の状態。
戸籍とは、人の出生から死亡に至るまでの親族関係を公に証明するもので、本人からの届け出によって自治体が保管している。

奈良市にあるNPO法人「無戸籍の人を支援する会」には、年間30件以上の相談が寄せられている。
「無戸籍の人を支援する会」の市川真由美代表(53)は、無戸籍で悩む女性を紹介してくれた。

市川真由美代表:
婚姻中なの。別居してるけど。(母は)ご主人の暴力で避難していて、そのときに新しいパートナーと出会って、その間にできたのが“みさちゃん”。

埼玉県に住む、みささん(27)。
フィリピン人の母は、夫とは別の男性との間にみささんを設けたが、出生届を出すと暴力を振るっていた夫に気付かれてしまう恐れが…。
結局、離婚はかなわず、みささんを無戸籍のまま育てた。

みささんは戸籍がないことで、市役所に何度相談しても住民票を作ってもらえず、就職などで苦労し続けてきた。

みささん:
じゃあ採用します、いついつからお願いします。分かりましたお願いしますって言った瞬間に書類を見たら、『住民票をもってきてください』と書いてあって。
ちょっと『戸籍がなくて』っていう話をすると、企業から『戸籍ができたらお願いします』と言われました。

シングルマザーのみささんには、2人の子どもがいる。
みささんが無戸籍のため、子どもも無戸籍だ。

自分が無戸籍であることで様々な苦労をして来たみささんは、子どもの戸籍を作らなければいけないと、市役所に相談へ。
すると市役所は「みささんの戸籍を優先的に作らないと、子どもの戸籍も作ることができない」と答えたそうだ。
みささんはこれまで長年相談を続けているが、戸籍を作ることも、住民票を取ることもできていない。
そこから状況が変わることはなかった。

住民票がないことから母子手当も受け取ることができず、この2年間は定職に就けなかったという。

みささん:
お金がなかった。0円になって、財布に1円も残らず。仕事もできない、食べることもできない、子どもたちの好きなものも買ってあげられない。自分はもう母親失格なんだな

戸籍を作る「就籍」の手続きをしたAさん
小中学校にも通わず、28年間自宅の中でひっそりと過ごしてきた男性がいる。
山口県に住むAさん(30)だ。

兄弟には戸籍があるのに、自分だけ戸籍がなく、健康保険証を作ってもらうことができなかった。

Aさん:
病院に行けなかったのが一番の不都合でした。毎回実費(保険証がないため10割負担)だときついので、どこか痛くても市販の痛み止めで抑えるしかない。

戸籍を取るためには自分のおおよその年齢を示す資料を探したり、誰の戸籍にも入っていないことを証明したりと、かなりの手間がかかる。
支援する会の代表の市川さんは、それぞれの事情に合わせて戸籍を取る手助けをしてきた。
Aさんは2021年1月に戸籍を作る「就籍」作業を終えたが、市川さんに相談してから約1年半かかった。
市川さんは、Aさんはかなり早く戸籍を作ることができた例だと話す。

また、戸籍を作ることが難しい背景として、行政の知識不足が一因になっているという。

市川真由美代表:
住民課に行って、『戸籍課行ってください』と言われて。戸籍課に行っても、無い戸籍をどうしたらいいかわからなくて今度は『法務局に相談行ってください』。法務局に相談行っても、無い戸籍をどうしたらいいか法務局にも分からないことが多い。
無戸籍=命の危険があるんだよってことを、命の重さっていうことで考えてほしい。

「知識が行政にあれば住民票取れていた」公的な支援の課題
餓死した女性が住んでいた大阪・高石市。
無戸籍である親子の存在を、行政は把握していたのか。

関係者によると女性は戦争の混乱の中生まれ、無戸籍になった。
戸籍がないため結婚できず、内縁の夫と息子の3人で暮らしていたという。

高石市では戸籍がある内縁の夫の『単身世帯』として把握していたが、これまで女性や息子からの相談はなく、5年前に夫が亡くなった後も、2人の存在に気が付くことができなかった。

自治体の中には、無戸籍の人を積極的に支援しているところがある。

兵庫・明石市では、7年前に無戸籍専用の相談窓口を作った。
職員に研修を行い、戸籍がなくても生活保護などの必要な行政サービスを受けられる体制を整備。希望があれば民間の支援団体にもつなぐ。

明石市・泉房穂市長:
実際は(全国の)市役所の窓口でも勘違いされてる方(職員)が多くて、『戸籍がないからできません』というような、誤った情報を伝える方が今もいると聞きます。
戸籍がなくても普通の市役所サービスは受けられます

27年間無戸籍の“みささん”。
支援団体の市川さんに相談して2週間で住民票を取ることができ、ようやく仕事が見つかった。
みささんは、以前から出生証明書など必要な書類はそろっていて、実は戸籍がなくても住民票を取得する要件を満たしていたのだ。

「正しい知識が行政にあれば、みささんは中学生の頃には住民票を取れていた」と市川さんは語る。

みささん:
自分のやりたいこと、これから今まで叶わなかった部分をやっと叶えられる。ウキウキ、ワクワク

市川真由美代表:
嬉しい、よかった~。だって安定して給料が入ってくるのよ。
少しずつ(みささんの)27年間を取り戻して、子どもたちの人生を取り戻して。

戸籍がない人を見落とさない、社会の仕組みが求められている。

(関西テレビ)

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死刑執行日に出す予定だった妻への手紙に「これからもよろしく」と 地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉”

2021年03月21日 15時17分26秒 | 事件・事故

『死刑囚200人 最後の言葉』より #1

別冊宝島編集部 2021/03/20

1995年3月20日、東京都心を走る地下鉄の車内に有機リン化合物の神経ガス「サリン」が散布され、死亡者8人を含む約600名もの人々が被害を受けた。事件から2日後、警視庁はオウム真理教に対する一斉捜査を実施し、事件に関与した信者を次々と逮捕。日本中を震撼させた事件に携わった犯人たちには厳しい処罰が下された。

 ここでは別冊宝島編集部による書籍『死刑囚200人 最後の言葉』(宝島社)を引用し、オウム死刑囚たちの最後の様子をまとめて紹介する。大罪を犯した死刑囚たちは、最終的にどのような覚悟で刑に臨んだのか。彼ら一人ひとりの事件への向き合い方を見ていこう。(全2回の1回目/後編を読む)

◇◇◇


「教祖」執行前の最後の一問一答

 まずは、麻原彰晃(享年63)である。

 いつものように朝食を終えた麻原は、朝7時40分ごろに突然、出房を命じられる。麻原は抵抗することもなく刑場に連行されたという。

 7時50分過ぎ、死刑の執行が告げられる。

「お別れの日が来ました。教誨はどうしますか」

 一応、宗教家を自称していた麻原に「教誨」とは皮肉なことこの上ないが、麻原は無言だったという。

「じゃあやらないんだね。言い残したことはある?」

「……」

「遺体の引き取りはどうする?」

「……」

 何も答えない麻原に刑務官が問いかけた。

「誰でもいいんだぞ。妻とか、次女、三女、四女……」

 するとここで麻原が反応した。

「ちょっと待って」

 麻原は少し考え、こうつぶやいた。

「四女」

 刑務官が念を押して確認した。

「四女だな」

 すると麻原は「グフッ」といった声を出したが、その後遺言のようなものはなく、淡々と死刑が執行されたという。

 だが、麻原が「四女」を指定したという話を信じられないという人間もいる。2008年以降、親族、弁護士を含め誰も面会できない状態だった麻原の精神状態は誰にも分からず、本当にそのようなコミュニケーションが取れる状態だったのか、確かに疑わしい部分はある。麻原の遺骨は引き取りをめぐって紛糾し、いまも東京拘置所に保管されている。

「私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 麻原のあとに続けて執行されたのは、土谷正実(享年53)だった。筑波大の大学院で化学を専攻した土谷はサリン製造の中心的人物であったが、麻原への信仰心はまったく消え去っていたという。

 2008年に土谷と獄中結婚し、面会を重ねていた夫人が『週刊新潮』(2019年7月1日号)で次のように語っている。「(執行の告知は)いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 そしてこの日、3番目に執行されたのは遠藤誠一(享年58)だった。京大大学院で学んだエリートの遠藤は、教団で違法薬物やサリン製造に従事した。

 遠藤の執行前の様子や遺言は報道されていない。だが、遠藤の遺体は3名の死刑囚のなかで唯一、後継団体のアレフに引き取られている。その後、火葬された遠藤の遺骨は、故郷の北海道・小樽の海に散骨された。

死刑執行日に出す予定だった妻への手紙に「これからもよろしく」と 地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉”
『死刑囚200人 最後の言葉』より #1

◇◇◇


「教祖」執行前の最後の一問一答

 まずは、麻原彰晃(享年63)である。

 いつものように朝食を終えた麻原は、朝7時40分ごろに突然、出房を命じられる。麻原は抵抗することもなく刑場に連行されたという。

 7時50分過ぎ、死刑の執行が告げられる。

「お別れの日が来ました。教誨はどうしますか」

 一応、宗教家を自称していた麻原に「教誨」とは皮肉なことこの上ないが、麻原は無言だったという。

「じゃあやらないんだね。言い残したことはある?」

「……」

「遺体の引き取りはどうする?」

「……」

 何も答えない麻原に刑務官が問いかけた。

「誰でもいいんだぞ。妻とか、次女、三女、四女……」

 するとここで麻原が反応した。

「ちょっと待って」

 麻原は少し考え、こうつぶやいた。

「四女」

 刑務官が念を押して確認した。

「四女だな」

 すると麻原は「グフッ」といった声を出したが、その後遺言のようなものはなく、淡々と死刑が執行されたという。

©iStock.com
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 だが、麻原が「四女」を指定したという話を信じられないという人間もいる。2008年以降、親族、弁護士を含め誰も面会できない状態だった麻原の精神状態は誰にも分からず、本当にそのようなコミュニケーションが取れる状態だったのか、確かに疑わしい部分はある。麻原の遺骨は引き取りをめぐって紛糾し、いまも東京拘置所に保管されている。

「私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 麻原のあとに続けて執行されたのは、土谷正実(享年53)だった。筑波大の大学院で化学を専攻した土谷はサリン製造の中心的人物であったが、麻原への信仰心はまったく消え去っていたという。

 2008年に土谷と獄中結婚し、面会を重ねていた夫人が『週刊新潮』(2019年7月1日号)で次のように語っている。「(執行の告知は)いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 そしてこの日、3番目に執行されたのは遠藤誠一(享年58)だった。京大大学院で学んだエリートの遠藤は、教団で違法薬物やサリン製造に従事した。

 遠藤の執行前の様子や遺言は報道されていない。だが、遠藤の遺体は3名の死刑囚のなかで唯一、後継団体のアレフに引き取られている。その後、火葬された遠藤の遺骨は、故郷の北海道・小樽の海に散骨された。

「自分で歩いていきます」

 7月6日、広島拘置所で執行されたのは中川智正(享年55)。中川の故郷は広島に近い岡山県である。

 中川とは京都府立医科大在学中からの知人で、支援を続けた俳人、江里昭彦氏は遺族とともに8、9日の両日、中川の遺体と対面したという。

 江里氏が明かしたところによれば、執行のため広島拘置所の居室から出された中川は、職員に「体に触れなくてもよい。自分で歩いていく」と断った。また控室に用意された菓子や果物には手をつけず、お茶を2杯飲んだ。


「支援者、弁護士に感謝しております」

「自分のことについては誰も恨まず、自分のしたことの結果だと考えている」

「被害者の方々に心よりおわび申し上げます」

 中川の死亡確認時刻は午前8時5分だった。

 福岡拘置所で執行された、最年長の早川紀代秀(享年68)については、直前の情報がない。ただし、6月7日、執行の予感を感じ取ったのか、次のような手記を書き残している。

©iStock.com
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「国民が殺生のカルマ(業)を負うので、(死刑は)やめるべきと思います」

「自分では1人も殺していない者が死刑で、自分で2人も殺している者が無期というのは、どうみても公正な裁判とは言えません」

「申し訳なさは、事件発覚から3年たった今も薄れることはありません。真理のため、救済のためと思って戦い、テロを実行して得られたものは苦しみと悲しみでした」

 先に執行された7人とその順序は、おそらく事件における責任の重さを法務省が判断した結果であったのだろう。だが、先に執行されるのと、後に執行されるのでどちらの苦しみが少ないのか、それは分からない。

現金を災害義援金として寄付

 7月26日、東京拘置所では豊田亨(享年50)と端本悟(享年51)、広瀬健一(享年54)の3名が執行された。

 東京大学卒業者として初めて死刑囚となった豊田は、ノーベル賞も夢ではないとささやかれたほどの秀才だった。豊田は7月6日に麻原らの執行があったことを知ると、自身の執行も近いことを悟り、所持していた現金はすべて、匿名で西日本豪雨の義援金として寄付している。執行の直前、支援を続けてきた友人と面会した際、豊田はこう語ったという。

「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから絶たなければ」

 自分が元気でいるということ自体が被害者を苦しめるとし、一切情報発信の類を控えていた豊田は、最後もひっそりと死刑を受け入れた。

 端本悟は、再審請求をしていなかった。麻原の死刑を知ったとき「私は命乞いのようなことはしたくない」と支援者に語り、静かに死を受け入れた。

 早稲田大学理工学部応用物理学科をトップで卒業した秀才の広瀬健一も、公判中に完全に教団を離れていた。近年はなぜ自身が入信し、事件に関与したのかを検証する手記をまとめていた。自分自身ができることは「教訓」を残すことしかないとの思いからであったと思われる。

「生かされ感謝しています」

 7月26日、名古屋拘置所では岡崎一明(享年57、宮前に改姓)および横山真人(享年56)の2名が執行された。

 岡崎は、オウム事件で最も早く死刑が確定した。死刑確定直後は「命乞いのようなことはしない」と語っていたが、その後、次々とほかの信者の死刑が確定すると再審請求している。

 執行当日の朝、刑務官が扉を開けると、岡崎の顔面は蒼白になったという。だが、その後は冷静に刑場へ向かったと伝えられた。


 支援者には麻原の執行後、手紙を送っている。

「まさか、(執行が)7月末でなく七夕の前日とは愕いております」

「それまで生存しているか否か? は、よく分かりませんが、今月末(7/27頃)が危ないので、来週の7/25(水)までには、最期の手紙として、書くつもりでおります」

「毎月の如く月始めか月末が危険日です」

 岡崎の研ぎ澄まされた「予感」は的中してしまったことになる。遺体と対面した支援者は「安らかに眠っているような顔だった」と語っている。

 同じく名古屋拘置所で執行された横山真人は口下手な男だった。地下鉄サリン事件の実行犯ではあったが、横山の車両では死者が出ておらず、直接的な殺人行為はなかったにもかかわらず、死刑が確定した。

©iStock.com
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「誰にどう伝えても、理解してもらうことはできない」と固く口を閉ざし、確定後もほとんど表立った活動はしていない。麻原の執行から1週間後、面会した弁護士に「次、いつ執行があってもおかしくないよね」と聞かれたのに対し、笑みを浮かべながら「そうですよね」と応じたという。

「また会えるかな」

 最後にそう弁護士が語ると、横山はこう返した。

「これまでお世話になりました」

 横山の遺体は、1歳上の兄によって引き取られたという。

 仙台拘置支所では、林泰男(享年60、小池に改姓)が執行された。

 麻原の執行2日後の7月8日、林は「もうこの手紙が届くときには生きていないと思います」と弁護士に手紙を送っている。13日、最期に面会した際にはこう語っていた。

「生かされ感謝しています」

【続きを読む】「1日も早く、死刑囚から生還せねばと」林眞須美、加藤智大、木嶋佳苗…凶悪殺人犯が獄中で残した“言葉”

死刑囚200人 最後の言葉

別冊宝島編集部

宝島社

2019年8月8日 発売

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アイデアのつくり方

2021年03月21日 06時42分18秒 | 社会・文化・政治・経済

アイディアは、既存の要素の新しい組み合わせ!
アイディア一つで状況は一気に好転する。

by ジェームス W.ヤング (著), 竹内 均 (解説), 今井 茂雄 (翻訳)

アマゾン選定、
これだけは読んでおきたい
オールタイムベスト
ビジネス書100入り!


1940年から
世界中の人々を魅了し続ける
不変の法則。不朽の名著。

(序文より)
この小さな本のなかで、ヤング氏は、
もっとも学術的で詳細な広告原論よりも
さらに貴重なことを私たちに教えてくれている。
個々のコミュニケーションの
骨や肉にあたるものだけではなく、
その魂ともいうべきアイデアを語っているからだ。

生化学者は、大した費用もかけずに
人間の肉体を組み合わせることができる。
しかし、人体に生命の火を
スパークさせることはできない。
ヤング氏がここに書いているのは、
創造のスパーク、アイデアなのだ。

アイデアこそが広告に精神と生命を吹きこむ。
広告制作者がその手腕を発揮する上で、
これより大切なものはない。

創造の過程における
心の営みを記述するときのヤング氏は、
私たちのもっとも偉大な思索家たちの
幾人かの人々の伝統に連列なる人物である。

バートランド・ラッセルや
アルバート・アインシュタインのような
科学の巨人が、
このテーマで
彼とほぼ同じ趣旨のことを
説いているということが、
ヤングの偉大さの何よりの証しだ。

知識はすぐれた創造的思考の基礎ではあるが、
十分でない。
知識は、よく消化されて、最終的に、
新鮮な組み合わせと関連性をもった姿となって
心に浮かび出てこなければ意味がない、
という点で彼らの意見は一致する。

アインシュタインはこれを直観と呼び、
直観だけが新しい洞察に到達する
唯一の道だと言っている。

手に入れたアイデアが
価値あるものかどうかは保証の限りではない。
このことを言ったのは
ヤング氏がはじめてだったのではないか。

アイデアの良し悪しは、
遺伝子までも含めてあなたのもつ
すべての資質と能力できまるものだ。
しかし、ヤングがこの本で
単純明快にまとめた手法に従って
アイデアづくりに取り組めば、
あなたは自分の能力と素質のすべてを
最大限に生かせることになるだろう。
この問題の核心に触れることができるのは
ヤング氏のおかげである。

長年にわたって広告活動に携った結果、
適確でドラマチックなアイデアの作成が
コミュニケーションを成功させる鍵だ
ということを、彼は体得したのである。

彼はそのことを鮮明に
私たちに理解させてくれるばかりでなく、
その目標に向かってゆく
道筋へも教示してくれている。

内容(「BOOK」データベースより)

60分で読めるけれど一生あなたを離さない本。《アイデアをどうやって手に入れるか》という質問への解答がここにある。

レビュー

この小さくて薄い本は、1939年に大学院の講義で紹介され、
1965年の初版が刊行された半世紀の歴史を持つ不朽の名著である。
著者のジェームス・W・ヤングは、前書きで次のように述べる。

「このテーマは本来専門の心理学者の手がけるべきものだが、私は心理学者ではない。
従って私のこの小論は、人がアイデアと呼んできたものを作り
仕事でくらしをたてる以外に能がなかった人間の個人的な経験談としての価値しかない。」

ヤングは、少年時代から数々の仕事を経験した後、26歳で広告業界に身を投じ、
数々の斬新な広告のアイデアで頭角を表したが、42歳という若さで引退している。

本書は、
「人はどのようにしてアイデアを手に入れることができるのか」
という疑問に正面から答えようとしており、2つの原理を出発点としている。
一つ目は、
「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」
そしてもう一つは、
「新しい組み合わせを作り出す才能は事物の関連性を見つけ出す才能に依存する」
というものだ。
当たり前のようにも感じるが、原則なのだから当たり前で良いのだろう。
著者はこう論じる。
アイデアは、「材料収集」→「材料の消化」→
「孵(ふ)化」→「誕生」→「検証と発展」という過程で作られる、と。

この中では、「孵化」の部分が特徴的だ。
つまり、あれこれと情報を加工して思考を巡らせた後で、
問題を放り出し、できるだけ問題を心の外に追い出してしまうのである。
そして、十分に孵化した時点で、
「ふとした瞬間」にあたるアイデアの誕生の時が自然にやってくるのだという。

なるほど、確かに問題にぶち当たって、考えに考え抜いている時には、
ちっとも良いアイデアが浮かばない。
が、その問題を忘れた頃、何気ない瞬間に不意に
「わかった! これだ!」ということを多くの人が何度も経験しているのではないだろうか。
ところで、本書の解説を地球物理学者の竹内均氏が書いているが、
その中にも興味深い記述がある。
「ある問題について本を書くには、その問題に関係した話題を約100集めればよい。
一冊あたり原稿用紙の数約300枚を約100で割ると、
1つの話題あたりの原稿用紙の枚数は約3枚になる。

これは新聞の連載小説1回(1日)分の原稿量でもある。
というわけで私は、ある問題に関係した1つの話題を原稿用紙3枚にまとめたものを断片と呼び、
こういった断片をうまずたゆまず作り続けている」という“下り”である。
ちなみに、この本の紹介文も1冊の本あたりそれぞれ原稿用紙3枚程度となっている。
1つの事柄を解説し、言いたいことを伝えるのに、長くもなく短くもない、
丁度よい長さではないかと自分では思っているのだが、読者の皆さんはいかがだろうか。 --Nikkei BP Net/ 内山悟志

著者について

アメリカ最大の広告代理店・トンプソン社の常任最高顧問、
アメリカ広告代理業界の会長などを歴任。
広告審議会の設立者で元チェアマン。
 
 
アメリカの最大の広告代理店・トンプソン社の最高顧問であった、
著者が書いた本ですね。
広告代理店協会の会長も務めたことがあるようです。

まず、驚いたのは増版の回数。1988年に初版が発行されたよう
ですが、2017年までに70回も増版されています。

あとは、ページ数です。この本自体もたった100ページですが、
後の40ページは解説で、本編自体は60ページで終わりです。

キャッチコピーは60分で読めるとなっていますが、実際は60分
以内で読み切ってしまいます。

で、内容ですが、「本当に必要なことだけを書いている」と言う
感じです。具体例も極限まで絞ってアイデアの原理と方法のみを
書いています。

本書から読み取ったのは

●原理・原則
アイデアとは既存の要素の組み合わせだけ

●方法
1、課題を解決するための資料と一般的な知識の資料を絶えず集める。
2、集めた情報をどのように組み合わせるか、組み合わせることができる
  か、頭の中で咀嚼する。
  (浮かんだ組み合わせは紙に書いておく)
3、一旦すべて考えてきたことを横に置く。意識の外に出す。
4、絶えず考えておき、ひらめきを待つ。(で、突飛な時にひらめく。)
5、出てきたアイデアを具体化し展開させる。

書かれてある要素を抜き出すと、これだけです。

非常にわかりやすくまとめられている反面、使うには技量と努力が
必要と思います。

何もないところから突然アイデアは生まれるわけではないと思います
ので、努力は当然必要ですが。。

アイデアの出し方が分かりやすくまとめられています。

ポイントをまとめると、このまとめ通りですが、一度手に取って読ま
れることをおススメします。

ぜひ読んでみてください!
 
 
全100ページの本ですがそのうち本文は60ページのみ。
あとの40ページは解説と訳者のあとがきとなっています。

まず、他のコメントでも指摘されている通り翻訳が直訳的過ぎて回りくどく非常に読みにくい。
そして原文自体もどうでもいい著名人の話が挟まり話が右往左往するため読みにくい。
二重に読みにくいこの本を読み切るのはたとえ60ページでも私には苦痛でした。

内容は「いろんな事を深く知っていればふとアイデアが浮かんでくるよね」の一言に尽きます。
さして目新しくもないこの一言をだらだら60ページに書き伸ばしただけのものです。
これに気付かされてしまうような人は、よっぽど創造力がないのではないでしょうか。
文字や行間も大きく、下にはほぼ意味のない解説スペースが設けられていてこれです。
まるで中学生がいやいや書いた作文、あるいは出来の悪い大学生の論文ですね。

解説について・・・そもそもこの本に解説なんて必要なのでしょうか?
60ページの内容に対する解説が30ページに渡って書かれています、なんじゃこりゃ。
まあこの解説も本文よろしく話が右往左往する中身ペラペラ話なのですが。
解説内でも語られていますが、あまりにも薄すぎて売れるか不安だったので付け足したそうです。
上で書いたスペースがやたらあるのもページ数を稼ぐための涙ぐましい努力でしょう。
そのせいでこの本は「薄さ」というアイデンティティを失い、冗長なものとなってしまいました。
内容は「薄い」ですけどね(笑)

要約すれば、30ページ、いや20ページくらいの本にも出来たのではないでしょうか?
とにかくこの本に880円の価値は感じませんでした。
無駄にページを増やし、ハードカバーにし、それでも薄いのに割高の値段で販売する。
これが編集部の出した「アイデア」だったということでしょう。
お後がよろしいようで。
 
 
要約すると、
アイデアというのは既存の仕組みの新しい解釈や組み合わせ方の違うものです。

アイデアを出すにはめんどくさがらずに資料を集めてその意味をしっかり咀嚼しなさい。
その後その知識を頭の片隅においておいて、別のことをやってみなさい。
そのときふいに思いついたことがアイデアです。
大切にして、使えるかどうか検討してみましょう。

って感じの内容です。

・・・が、訳が直訳に近く、とにかく読みづらいです。
とても薄い本なのでカンタンに読めそうな気がするが、
直訳特有の回りくどい言い回しや
ホームズの小説などあまりに古い例えが多すぎて
臨場感がないので読みながらボーっとしてしまいそうになります。

内容に関しては、
アイデアが出ない人が見ても理解できない。
何をいっているんだ?というレベルだと思います。

アイデアが出る人が見ると
自分のプロセスの確認になると思います。
 
 
シンプルな内容ですが、アイデアを出すという作業のかなり真理に近い内容なんじゃないかなと思います。

そして、そういう重要な知識は得てしてとても基礎的で退屈なものなので、それへの評価が二分します。
初心者「ふーん、そんなの当たり前じゃん。言われるまでもなく俺出来てるし」19点
ベテラン「いやぁ、それが重要で大変なんだよね。俺なんてまだまだだよ」780点
みたいな感じに別れます。
今はネットでプロと素人が垣根なく交流できる時代なので、
ある技術について、初心者がそんなの出来ると言う一方で、逆に凄い技術を持ったプロが難しいと嘆いている
そんな光景を見かけたことがある方も多いんじゃないでしょうか。

これは前者が虚勢をはっているわけでも、後者が過度な謙遜をしているわけでもありません。
ただ双方で「出来ている」の世界が違うんです。
前者はそれを20点満点程度の世界としか認識できていなくて、後者は経験と知識からそれに1000点満点以上の奥行きがある事を知っているんです。

この本の内容は端的に言うと”情報を集めて分析しろ・いろんな事に興味を持て・気分転換も大事だよ”です。
それを丁寧に、なぜアイディアを産むことに、どういう工程を経てつながるのかを論理だてて書いています。
そんなの当たり前じゃんと思うかもしれませんが、本当の意味でこれを「ちゃんと出来ている」人は少ないんじゃないでしょうか。
 
 
アイデアを生み出すための方法を5つのステップに分けてこの本は教えてくれます。一朝一夕で取得できる方法ではないのですが、使いこなせれば絶大な効果を発揮すると思います。ページ数は少なく、30分から1時間程度あれば読めてしまいますが、それだけ無駄がなく、シンプルで完成されたシステムなのだと言えます。自分の中の直観力や閃きを大事にしようと、より強く思える内容です。デザイナー志望であれば必見の書です。
 
 
まずこの本はゴミ箱行き。
前書きが長い。内容が薄い。どこぞのなんとか博士とか知らんしそんな奴の名前出せば
凄いでしょ感満載。
メンタリストダイゴよ!こんな本勧めるなよ。
無駄金使ったじゃないか。
 
 
読むのに60分も掛からない古典的な本です
1000円以内で買えるし可愛くコンパクトな割に内容はしっかりしているのでビックリするかもしれません
他のレビューにもある通り1980年後半の古い本なので所々「ん?」と思う所があり現在ではインターネットの技術が進歩しているため現代のやり方に照らし合わせる必要があります
ですが読んで損は無いと思います仕事で悩んでいるのに何処かの知らない自分語りの1500円ぐらいする自己啓発本を読むよりマシです
 
 
 

 

 

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木内幸男監督しのぶ企画展 取手で24日まで

2021年03月21日 06時24分25秒 | 社会・文化・政治・経済

佐藤清孝 2021年3月20日 11時00分 朝日新聞

【茨城】高校野球で取手二や常総学院を全国優勝に導き、昨年11月に亡くなった元監督の木内幸男さん(享年89)。名将をしのぶ企画展が、第93回選抜高校野球大会が開幕した19日、取手駅前のギャラリーで始まった。ユニホームやスコアブックなどゆかりの品が飾られる。

 木内さんは、春・夏の甲子園で3回の優勝を果たした。「木内マジック」と呼ばれた自由な采配とユーモアのある言動で、高校野球ファンの人気を集め、2012年に茨城県取手市の名誉市民に選ばれた。

 今回は、市と市教委が木内さんを追悼するために、「取手のいちばん熱い夏―取手第二高等学校の甲子園優勝と木内幸男監督―」と題して企画。遺族や取手二などから借りた遺品と写真を合わせた約40点を展示する。

 第66回選手権大会(1984年)の取手二優勝時の盾や優勝メダルをはじめ、PL学園(大阪)との決勝のスコアブック、取手二と常総学院で身につけていたユニホームなどを飾る。取手二野球部OB会から贈られた黒いバットも披露している。甲子園通算40勝を記念して、「感謝」と刻まれている。自宅で妻とアルバムをめくり、談笑する写真もある。

 会場では、「勝負へのこだわり」とともに、プロ野球や高校野球に携わる教え子たちのインタビューを交えた動画も流す。19年に自宅で撮影された秘蔵映像では、「よく勝ったと思ったけど、取手二が勝ったのも自分の人生を変えた」などと語っている。

 市の担当者は、「木内さんの足跡を振り返り、名将をしのんでほしい」と来場を呼びかけている。

 24日まで。会場は取手駅ビル「アトレ取手」4階とりでアートギャラリー。入場無料。問い合わせは市秘書課(0297・74・2141)へ。(佐藤清孝)

 

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