死刑執行日に出す予定だった妻への手紙に「これからもよろしく」と 地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉”

2021年03月21日 15時17分26秒 | 事件・事故

『死刑囚200人 最後の言葉』より #1

別冊宝島編集部 2021/03/20

1995年3月20日、東京都心を走る地下鉄の車内に有機リン化合物の神経ガス「サリン」が散布され、死亡者8人を含む約600名もの人々が被害を受けた。事件から2日後、警視庁はオウム真理教に対する一斉捜査を実施し、事件に関与した信者を次々と逮捕。日本中を震撼させた事件に携わった犯人たちには厳しい処罰が下された。

 ここでは別冊宝島編集部による書籍『死刑囚200人 最後の言葉』(宝島社)を引用し、オウム死刑囚たちの最後の様子をまとめて紹介する。大罪を犯した死刑囚たちは、最終的にどのような覚悟で刑に臨んだのか。彼ら一人ひとりの事件への向き合い方を見ていこう。(全2回の1回目/後編を読む)

◇◇◇


「教祖」執行前の最後の一問一答

 まずは、麻原彰晃(享年63)である。

 いつものように朝食を終えた麻原は、朝7時40分ごろに突然、出房を命じられる。麻原は抵抗することもなく刑場に連行されたという。

 7時50分過ぎ、死刑の執行が告げられる。

「お別れの日が来ました。教誨はどうしますか」

 一応、宗教家を自称していた麻原に「教誨」とは皮肉なことこの上ないが、麻原は無言だったという。

「じゃあやらないんだね。言い残したことはある?」

「……」

「遺体の引き取りはどうする?」

「……」

 何も答えない麻原に刑務官が問いかけた。

「誰でもいいんだぞ。妻とか、次女、三女、四女……」

 するとここで麻原が反応した。

「ちょっと待って」

 麻原は少し考え、こうつぶやいた。

「四女」

 刑務官が念を押して確認した。

「四女だな」

 すると麻原は「グフッ」といった声を出したが、その後遺言のようなものはなく、淡々と死刑が執行されたという。

 だが、麻原が「四女」を指定したという話を信じられないという人間もいる。2008年以降、親族、弁護士を含め誰も面会できない状態だった麻原の精神状態は誰にも分からず、本当にそのようなコミュニケーションが取れる状態だったのか、確かに疑わしい部分はある。麻原の遺骨は引き取りをめぐって紛糾し、いまも東京拘置所に保管されている。

「私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 麻原のあとに続けて執行されたのは、土谷正実(享年53)だった。筑波大の大学院で化学を専攻した土谷はサリン製造の中心的人物であったが、麻原への信仰心はまったく消え去っていたという。

 2008年に土谷と獄中結婚し、面会を重ねていた夫人が『週刊新潮』(2019年7月1日号)で次のように語っている。「(執行の告知は)いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 そしてこの日、3番目に執行されたのは遠藤誠一(享年58)だった。京大大学院で学んだエリートの遠藤は、教団で違法薬物やサリン製造に従事した。

 遠藤の執行前の様子や遺言は報道されていない。だが、遠藤の遺体は3名の死刑囚のなかで唯一、後継団体のアレフに引き取られている。その後、火葬された遠藤の遺骨は、故郷の北海道・小樽の海に散骨された。

死刑執行日に出す予定だった妻への手紙に「これからもよろしく」と 地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉”
『死刑囚200人 最後の言葉』より #1

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「教祖」執行前の最後の一問一答

 まずは、麻原彰晃(享年63)である。

 いつものように朝食を終えた麻原は、朝7時40分ごろに突然、出房を命じられる。麻原は抵抗することもなく刑場に連行されたという。

 7時50分過ぎ、死刑の執行が告げられる。

「お別れの日が来ました。教誨はどうしますか」

 一応、宗教家を自称していた麻原に「教誨」とは皮肉なことこの上ないが、麻原は無言だったという。

「じゃあやらないんだね。言い残したことはある?」

「……」

「遺体の引き取りはどうする?」

「……」

 何も答えない麻原に刑務官が問いかけた。

「誰でもいいんだぞ。妻とか、次女、三女、四女……」

 するとここで麻原が反応した。

「ちょっと待って」

 麻原は少し考え、こうつぶやいた。

「四女」

 刑務官が念を押して確認した。

「四女だな」

 すると麻原は「グフッ」といった声を出したが、その後遺言のようなものはなく、淡々と死刑が執行されたという。

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 だが、麻原が「四女」を指定したという話を信じられないという人間もいる。2008年以降、親族、弁護士を含め誰も面会できない状態だった麻原の精神状態は誰にも分からず、本当にそのようなコミュニケーションが取れる状態だったのか、確かに疑わしい部分はある。麻原の遺骨は引き取りをめぐって紛糾し、いまも東京拘置所に保管されている。

「私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 麻原のあとに続けて執行されたのは、土谷正実(享年53)だった。筑波大の大学院で化学を専攻した土谷はサリン製造の中心的人物であったが、麻原への信仰心はまったく消え去っていたという。

 2008年に土谷と獄中結婚し、面会を重ねていた夫人が『週刊新潮』(2019年7月1日号)で次のように語っている。「(執行の告知は)いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 そしてこの日、3番目に執行されたのは遠藤誠一(享年58)だった。京大大学院で学んだエリートの遠藤は、教団で違法薬物やサリン製造に従事した。

 遠藤の執行前の様子や遺言は報道されていない。だが、遠藤の遺体は3名の死刑囚のなかで唯一、後継団体のアレフに引き取られている。その後、火葬された遠藤の遺骨は、故郷の北海道・小樽の海に散骨された。

「自分で歩いていきます」

 7月6日、広島拘置所で執行されたのは中川智正(享年55)。中川の故郷は広島に近い岡山県である。

 中川とは京都府立医科大在学中からの知人で、支援を続けた俳人、江里昭彦氏は遺族とともに8、9日の両日、中川の遺体と対面したという。

 江里氏が明かしたところによれば、執行のため広島拘置所の居室から出された中川は、職員に「体に触れなくてもよい。自分で歩いていく」と断った。また控室に用意された菓子や果物には手をつけず、お茶を2杯飲んだ。


「支援者、弁護士に感謝しております」

「自分のことについては誰も恨まず、自分のしたことの結果だと考えている」

「被害者の方々に心よりおわび申し上げます」

 中川の死亡確認時刻は午前8時5分だった。

 福岡拘置所で執行された、最年長の早川紀代秀(享年68)については、直前の情報がない。ただし、6月7日、執行の予感を感じ取ったのか、次のような手記を書き残している。

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「国民が殺生のカルマ(業)を負うので、(死刑は)やめるべきと思います」

「自分では1人も殺していない者が死刑で、自分で2人も殺している者が無期というのは、どうみても公正な裁判とは言えません」

「申し訳なさは、事件発覚から3年たった今も薄れることはありません。真理のため、救済のためと思って戦い、テロを実行して得られたものは苦しみと悲しみでした」

 先に執行された7人とその順序は、おそらく事件における責任の重さを法務省が判断した結果であったのだろう。だが、先に執行されるのと、後に執行されるのでどちらの苦しみが少ないのか、それは分からない。

現金を災害義援金として寄付

 7月26日、東京拘置所では豊田亨(享年50)と端本悟(享年51)、広瀬健一(享年54)の3名が執行された。

 東京大学卒業者として初めて死刑囚となった豊田は、ノーベル賞も夢ではないとささやかれたほどの秀才だった。豊田は7月6日に麻原らの執行があったことを知ると、自身の執行も近いことを悟り、所持していた現金はすべて、匿名で西日本豪雨の義援金として寄付している。執行の直前、支援を続けてきた友人と面会した際、豊田はこう語ったという。

「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから絶たなければ」

 自分が元気でいるということ自体が被害者を苦しめるとし、一切情報発信の類を控えていた豊田は、最後もひっそりと死刑を受け入れた。

 端本悟は、再審請求をしていなかった。麻原の死刑を知ったとき「私は命乞いのようなことはしたくない」と支援者に語り、静かに死を受け入れた。

 早稲田大学理工学部応用物理学科をトップで卒業した秀才の広瀬健一も、公判中に完全に教団を離れていた。近年はなぜ自身が入信し、事件に関与したのかを検証する手記をまとめていた。自分自身ができることは「教訓」を残すことしかないとの思いからであったと思われる。

「生かされ感謝しています」

 7月26日、名古屋拘置所では岡崎一明(享年57、宮前に改姓)および横山真人(享年56)の2名が執行された。

 岡崎は、オウム事件で最も早く死刑が確定した。死刑確定直後は「命乞いのようなことはしない」と語っていたが、その後、次々とほかの信者の死刑が確定すると再審請求している。

 執行当日の朝、刑務官が扉を開けると、岡崎の顔面は蒼白になったという。だが、その後は冷静に刑場へ向かったと伝えられた。


 支援者には麻原の執行後、手紙を送っている。

「まさか、(執行が)7月末でなく七夕の前日とは愕いております」

「それまで生存しているか否か? は、よく分かりませんが、今月末(7/27頃)が危ないので、来週の7/25(水)までには、最期の手紙として、書くつもりでおります」

「毎月の如く月始めか月末が危険日です」

 岡崎の研ぎ澄まされた「予感」は的中してしまったことになる。遺体と対面した支援者は「安らかに眠っているような顔だった」と語っている。

 同じく名古屋拘置所で執行された横山真人は口下手な男だった。地下鉄サリン事件の実行犯ではあったが、横山の車両では死者が出ておらず、直接的な殺人行為はなかったにもかかわらず、死刑が確定した。

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「誰にどう伝えても、理解してもらうことはできない」と固く口を閉ざし、確定後もほとんど表立った活動はしていない。麻原の執行から1週間後、面会した弁護士に「次、いつ執行があってもおかしくないよね」と聞かれたのに対し、笑みを浮かべながら「そうですよね」と応じたという。

「また会えるかな」

 最後にそう弁護士が語ると、横山はこう返した。

「これまでお世話になりました」

 横山の遺体は、1歳上の兄によって引き取られたという。

 仙台拘置支所では、林泰男(享年60、小池に改姓)が執行された。

 麻原の執行2日後の7月8日、林は「もうこの手紙が届くときには生きていないと思います」と弁護士に手紙を送っている。13日、最期に面会した際にはこう語っていた。

「生かされ感謝しています」

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死刑囚200人 最後の言葉

別冊宝島編集部

宝島社

2019年8月8日 発売


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