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大前提【戦争は勝てなくとも、絶対に負けてはダメです。もし負けるなら主権を失っては絶対にダメです。】 日韓併合に至るまでの協約。勉強メモ。第一回・日露戦争

2018-06-10 17:38:05 | 日記



大前提【戦争は勝てなくとも、絶対に負けてはダメです。もし負けるなら主権を失っては絶対にダメです。】




日露戦争。1904年2月8日〜1905年9月5日。

ロシア帝国と、大日本帝国が朝鮮半島と中国東北部・旧満州の支配権を前提にし、主に日本海を主戦場として行われた戦争。

1894年〜1895年。日清戦争が大日本帝国の勝利で終わり下関条約を経て清朝に朝鮮半島の宗主権を放棄させる。その後、ロシア帝国は朝鮮での影響力を強める事と共に、極東に於いて不凍港を手に入れる為に1898年に清朝から旅順・大連を租借、支配権を行使する形で借り受け鉄道の敷設を進めた。総体的な前提は太平洋進出に繋がる海洋戦略で、ロシア皇帝ニコライ2世が支持していたと言われる。

1900年、ロシアは義和団との戦いのため清に出兵、鎮圧後も満州に居座った。それを受けた大日本帝国はロシア帝国との交渉をしつつも、戦争の準備を進めて行く、結果的に交渉は決裂し、1904年、大日本帝国軍は旅順のロシア艦隊を攻撃。朝鮮半島の仁川にも上陸して戦争が始まった。

多くの犠牲者を出しながらも、同年12月には旅順港を見下ろす203高地を占領し、翌年の1月には旅順の要塞を陥落させる。

大日本帝国海軍の連合艦隊は1905年5月27日〜28日。日本海海戦でバルチック艦隊に多大な打撃を与えると後に、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が講和を斡旋。その時、ロシア帝国内では革命運動が広がり混乱していた事も有り、また大日本帝国側も戦費調達が限界に達していた為、両国の利害が一致した結果、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和に至る。その結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシア帝国の租借地があった関東州は日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利と言う形になる。

日露戦争の勝利によって大日本帝国は大韓帝国の支配権を正式に得る事になる。元老であった伊藤博文は露戦争終結後の1905年11月17日に締結した第二次日韓協約に基づき、京城(ソウル)に韓国総督府を設置して初代韓国統監に就任。支配を強めて行った。

伊藤は植民地ではなく、保護国として統治しようとし、資金を投資し、産業や教育水準を近代化させ文明国に成長させようとする。

ただ、私が見る限り、第二次日韓協約の内容は主権制限が大きく、併呑に近いとしか言えない。だいたい所謂、植民国の開発投資は普通にどこの国でもするんです。しかも隣国。近代化・文明国に成長させようとしたと言うのは殊更褒められるような物では無い。支配しようとするなら普通の話。

更に言えば反発は治まらないどころか激しさを増して行く、その背景は大韓帝国王である高宗の反発だし、また協約が進む毎に強く成って行った義勇闘争の結果なのだから、待日論はけして大韓帝国の総意では無い。そもそも、ここまでの流れをからすればどう見ても半島支配が目的としか言えない。

日清戦争も、日露戦争も、その前提は支配権の確保なのだから、李完用のような待日派を上手く利用し、より楽に支配出来る方法を選択したようにしか見えない。伊藤博文性善説はやや出来過ぎのような気がします。だとするなら『負ければ賊軍』で、敗戦国であるのだから批判されるのは当たり前です。




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