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東京都青少年健全育成条例・・・自由

2010-12-16 14:28:25 | 日記





俺はろくでもない人間ですから、どや顔されると「ムッ」とくる時もある。右派・左派、保守・革新、問わずに多くの政治家がいる訳だけど、その何れも嫌いだなんてことは俺にはない。ただ、例外はいかなるものにもあるもので好きになれない奴はいる。基本的に滲み出るものが頑迷な古臭ささの奴は好きにはなれない。

慣習や制度、また社会的状態、民情、精神などを新しく変え、問題を改めようとする革新派は人類の進歩を生む。しかし、大抵は多くの時間を要して馴染ませる作業が必要で行き過ぎれば問題が起きる。そんな時は保守派が重要になる訳だ。ただ、保守派が強ければ進歩は生まれない。旧態依然とした問題はいつまでも続くことになる。

重要なのはバランス。だから寛容さを旨に保守派は革新派の言い分に耳を傾けるべきで革新派も同様のことが言える。





話は替わるけど、民主主義を選択した以上、国民はできうる限りの自由を手にするべきでしょう。つまり社会全体の自由は最大限尊重して然るべき立場にいる訳さ。政治に対する民情のベクトルとしては社会全体の自由を常に求めるべきだよね。

社会全体の自由を尊重する以上、犯罪は間接的ではなく直接的に被害者がいるかどうかを基準にするべきでしょう。個々の表現を助長として法的に規制し始めると著しく自由が阻害されて行く訳さ。

極端な話をすれば、ほら、いるじゃん。「女性が露出度の高い服を着るから、強姦にあう、だから露出度の高い服は規制するべきだ。」とか言っちゃう人。自己防衛は否定しないよ。それは自由さ。でも犯罪者は強姦した人であって露出度の高い服を着た人ではない。社会全体の自由を前提とするなら、重要なのは女性が露出度の高い服を着ても大丈夫な環境を整えることだよね。

今ある危機として統計的にでも露出度の高い服を着た女性が狙われる傾向があるなら、そのことを伝え自己防衛の機会を与えるのは悪いことではないと思いますよ。

しかし、法規制の話になると、これは社会全体の自由を著しく阻害する恐れが出てくる。社会的方向性としては個人の着衣の自由は最大限認め、露出度の高い服を着ることを前提に社会的保護を構築して行くことを選択するべきじゃないですか。社会全体の自由はできうる限り保つべき。

犯罪者の取締りを強化、厳罰化して抑止効果を上げるとか、女性専用車輌を増やすとか、問題のある地域に避難所を作るとか、夜間の街灯を明るくする、また青色のように精神安定作用のあるものに替えるとか、死角を作らない、また解消するとか、巡回警備を行うとか。当然、社会的教育の向上も重要。

我々が選択したものが民主主義であるなら社会全体の自由を最大限に尊重して弱者を保護すると言うことが大前提になるよね。




東京都青少年健全育成条例の話をするけど、まぁ創作物における表現についての一般論に近いかなぁ。

ドキュメント作品でない限り、あくまでも虚構だからね。アニメ、マンガに限らず、あらゆる媒体に過激な性描写を含むものがあるでしょう。小説だってそうさ。小説なんて想像が主であるから作者の意図に反して、より過激に想像を膨らませることだってできる。

目にすることで非行が起きるって言うなら、あらゆる創作物に少なからず問題があるはずだよね。でもさ。犯罪者なんて日本人全体から見れば極々一部でしかない。更に当該の犯罪者って、その中でも一部でしょう。それはなんでか。

俺は必ずしも、そうとは思わないけどさ。青少年が自発的倫理観に欠けるって言うことを前提として話すならね。

人間形成に作用する全ての精神的影響を教育と言うでしょう。従って「多くが社会と接する内に教育され個人の倫理観が育ったって行った。」ってことじゃないですか。そう言った中、娯楽として、また見識として創作物も含め、あらゆる要素を目にして虚構と現実を区別してるってことじゃん。

一部社会的問題があるって言うなら、それは表現の問題ではなくて社会的教育も含め教育のあり方の問題だろうね。民主主義を標榜し、社会全体の自由を尊重することに立脚するなら虚構と現実を区別する術を、どう教育して行くかを問うべきさ。

まぁ、確かに自由には責任が伴なう。自由とは何をやっても許されると言うことではない。ここを認識して、それに沿い振舞うからこそ法に頼ることなく自由でいられる。民主主義の良好な運営は国民が賢くあることが大前提。ここを踏まえて話しているんだよ。

国民間でさ。民主主義に立脚する以上、表現のように基本的な社会全体の自由は最大限尊重するべきだよね。だって、そうでしょう。自ら自由でありたいからこそ人権の尊重を謳う民主主義を選択しているのだからさ。

人間なんてね。価値基準は様々だし、正義は其々が持ってるものさ。更に言えば、個人でも、ある考える材料に関して「Aと見れば良いけど、Bと言う見方なら駄目だね。」のような複雑な思考体系があるでしょう。つまり、ある良識が他の良識に合致するとは限らないのさ。

より多くが認める正義はあっても、普遍的な正義なんてない。単に数や力が左右しているに過ぎないんだ。必ず、別の正義が存在する。

民主主義を選択した我々は社会全体の自由を最大限尊重するべき立場いる訳だよね。単に「不快だ。」とか「自らに良し悪しを教えるだけの能力がない。」って言うだけのことで表現のように基本的な社会全体の自由を規制しようなんて動きは、とても誉められたものじゃない。

社会全体の自由。これを阻害することを是とし始めると、つまりは自らの自由が客体から法的に制限される可能性が高まると言うことさ。人間個人として複雑な思考体系を持っている以上、いつ少数派になるかなんて解らない。単に今は多数派だって言うだけのことさ。

理由は其々あるだろうけど、ある特定の主観を前提に社会全体の自由を制限することを是とするのは自らが少数派になった時に自由が阻害されることを是としているに等しいんだよね。





 


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