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#ウーマン村本 #村本大輔 #井上達夫 #森本敏 琉球勉強メモ 沖縄の歴史編

2018-01-17 15:23:29 | 日記



「無知だからテレビに出すな」ウーマン村本批判のこれは間違っている 【ironna.jp】


流石に森本敏さんだが、根本的に1900年以前の話で、戦中戦後の話では無いように思うな・・・・・。


前提が本土は沖縄を蔑ろにしてると言う話。その確証バイアスの類いだろうが、俗に言う反知性主義でしょうね。

国民は無知だと定義し、その代表者として【無知の知】を装わなければ、朝生に出るような賢者に丸め込まれてしまう。恐らく、それを直感的に察してるんです。それはさて置き、少し、沖縄の歴史を見てみたいと思います。

手っ取り早く【ウィキペディア】参照。


1400年代。沖縄島には中山・山北・山南の三つの派閥が有り、其々、今の中国、時の明朝廷へ貢物を差し上げて覇権を競っていました。それを中山王尚巴志が統一して琉球王国と成ります。

時の沖縄島は、陸は今の朝鮮半島・中国大陸・東南アジア。海は今のジャワ島・スマトラ島・マレー半島・マラッカ海峡と高範囲の貿易活動を展開してネットワークの中心に位置して居たと言われてます。またポルトガル人とも接触していた記録があるとか。

陸のシルクロードは元より、欧州から東アジアへと至る、俗に海のシルクロードと呼ばれる航海路においても、その東の終端で琉球商人が活躍していた事に成ります。しかし、1609年。薩摩藩の大名である島津氏は琉球の資源と交易による利益に目を着けて出兵します。

当時、琉球王国は明と冊封状態で救援を求めたが、しかし救援を送らず黙殺しました。当時、秀吉の朝鮮出兵による戦闘で国力が疲弊して居り、遠征を行える状態ではなかったようです。そして、その後1644年に滅びます。

島津氏は首里城を制圧して琉球国王を捕らえました。そして従属する事を強要する。結果的に琉球王国は薩摩藩の支配下に入ります。その一方で1636年に成立した清朝との冊封関係も築く、ここで琉球王国は薩摩藩→徳川幕府に服属しながら、清朝を宗主国とする日清両属関係と成ります・・・。



1872年。明治政府の元で沖縄に対する強行的な廃藩置県が行われます。所謂、琉球処分です。

江戸時代、琉球王国は形の上で独立した国でありました。しかし、事実上は薩摩藩を通じて徳川幕府の支配を受けており、その一方で清朝を宗主国とした冊封を受けて朝貢もしてると言う両属の形を取っていた。そして江戸時代は、それが問題になる事は無かったのです。

しかし明治維新後。欧米に習うような主権国家を目指した明治政府は、より明確な領土概念を主張して、琉球王国を支配下に組み込もうとします。それに対して清朝は逆に宗主権(清朝が内政・外交などを支配・管理する権能)を主張して琉球王国を支配下に置こうとしました。この帰属問題は両国間の深刻な対立点と成ります。

1868年。明治政府は一方的に琉球王国を廃して琉球藩とし、中央政府の管轄としました。 その後、内務官僚の松田道之を派遣し、中国との関係を廃絶する事などを要求する処分の方針を伝えました。この措置に対して琉球王国側は士族層を中心とする反対運動が起き。この際に冊封関係に有った清朝にも救援を求めます。

琉球に対する清朝の宗主権主張は、その後も続き。また琉球内でも清朝への帰属を主張する動きも有りました。そこで明治政府は1879年に軍隊・警察を派遣して威圧した上で、一方的に琉球藩を廃止し、沖縄県を設置します。その時に琉球国王は東京移住を命じられ、ここで王国の歴史が閉じられます。

琉球王国が閉じられるまでの過程を日本史では「琉球処分」と言いますが、形の上であれ、実質的には独立国家であった琉球王国を明治政府が一方的に併合したのであり、それによって清朝の宗主権が失われた事に成ります。そこで清国の駐日公使はただちに明治政府に抗議し、琉球帰属問題は尚も両国の間で継続される事に成りました。そして、この問題は1894年の日清戦争に置ける一つの要因と成り。結果的に1895年の日本側の勝利で帰属問題は事実上、決着がつきます。

恐らく村元氏はこの辺の経緯を中国の一部を日本が奪ったとしたのでしょう。飽くまでも沖縄県民の清朝回帰派や、中国側の主張に立てば解らなくも無い見解です。そして、そもそも恐らく村元氏自体には外患誘致的な考えは全く無く、単に【基地問題で沖縄県の多数の民意を蔑ろにする本土側への皮肉】なのでしょう。

確かに冊封は支配では無いが、それでも島津氏は軍事征服で、明朝や清朝への朝貢は自発だった筈です。そして、島津氏による琉球侵攻の時も、当時冊封関係に有った明朝に救援を求めて居るし、また後の明治政府による琉球処分の際も清朝に救援を求めている。これを見て民族自決を力で蔑ろにされたと感じる人も居るでしょう。

更に言えば、1972年の沖縄返還以前は島ぐるみ闘争→復帰連と【日本復帰運動】が有った。その健気さが有るのに「中国ガー! プロ市民ガー!」と言われるのは余りにも酷いと感じる人も居る筈です。

史観とは論者の確証バイアスを経るもので、中には琉球の征服を近代化が進んだと言う人もいる。しかし、逆に薩摩藩・明治政府・今の日本と、その施政に不満を抱く人も居るでしょう。

後者の不満の声を村元氏が汲んだのなら、頭ごなしに無知と断じるのは、そもそも違うと感じる。それは賢者側の【無知の知】ではないでしょうか。

反知性主義者は、自らを庶民の代表とした【無知の知】が拠り所です。

朝生の賢人達のような合理主義・功利主義・現実主義に封じられると〚多数の利益は少数の犠牲に勝る〛と成りがちだが、そうでは無く、【ずっと民族自決を封じられて来た沖縄の歴史と、それに被害感情を抱く個人の思いに振り向くべき】してるのなら、幾ばくかでも理解出来る部分は有るのではないでしょうか?

アメリカの要求と普天間の危険除去を鑑みれば、私個人として海岸線に有る辺野古移設しか無いとは思うが、しかし、それでも1600年代から今の今まで、民族自決権を蔑ろにされて来た琉球→沖縄の事を村本大輔氏が訴えたかったのなら、これは理解はできますし、辺野古移設に賛成するのでも【理解しなければ先に進まない】と思います。





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