人生に無駄なことなど一つもない
~ 病気も不幸も すべて意味がありました ~
「無駄なことは一つもなかった」
これは、曾野綾子さんの著書『老いの冒険』の一節です。
私は20代の頃から、「無駄の効用」という言葉をよく口にしていました。
ここでの“無駄”とは、おこがましい言い方かもしれませんが、主に「学問」のことを指しています。
当時の受験勉強といえば、「大学受験に必要のない科目は勉強しない」という風潮が主流でした。
でも、私はどこかで信じていたのです。
「勉強に無駄などないのだ」と。
その背景には、周囲からどんどん置いていかれるような、惨めさや焦り、そして恐怖がありました。
まだインターネットが普及しておらず、書籍も自由に手に入らない時代。
コンビニなんてもちろんない。
大学もない地方の町では、専門書の入手はほぼ不可能。
どうしても必要な本は、書店に注文して、最低でも2週間待たなければなりませんでした。
そんな時代の中で、同級生たちは電子計算機や宇宙開発など、最先端の仕事に就いていました。
一方、私はというと、6年もの間、誰も行きたがらない部署で“捨て置かれた”ような日々を過ごしていたのです。
それでも、なぜか「英語」だけは続けていました。
なぜか、英語だけは勉強していたのです。
そして、偶然にも都内へ転勤となり、英会話学校に通うことに。
その流れで、日本を飛び出し、3年間アフリカで過ごすことになります。
しかもそのうち約1年は、兄弟そろってアフリカで生活していたという奇跡のような時間でした。
若かったとはいえ、両親の覚悟にも今更ながら驚かされます。
私自身、別に在外勤務を目指して英語を勉強していたわけではありません。
必要とされる国家資格を取得したあと、「次は何をしようか」と思っただけでした。
国家試験はもう懲り懲り。試験なんて、まっぴら。
それでも何かを勉強したかった――ただ、それだけ。
「もしや英語で身を立てられたら…」
そんな淡い期待が心の片隅にあったのは否定しませんが、本気で目指していたわけではないのです。
結局、簡単な英会話がやっとの私は、アフリカの地で四苦八苦することになります。
30年以上前、私の職場では英語を使う機会などまったく想像できないものでした。
だからこそ、あのとき英語を勉強していたことは「無駄」と言われても仕方のないことだったかもしれません。
でも、その“無駄”だと思われたことが、実は大きな転機につながった。
無駄に思えることでも、いつか役に立つ。
それが“いつ、どこで、どのような形”で現れるかは、誰にもわかりません。
ただ、「面白そうだから」「やってみたいから」という気持ちに従って動くこと。
そんな動機の一つや二つ、人生にはあってもいいのではないでしょうか。
というわけで、私は今もなお、面白いことやワクワクすることを追い求め続けています。