象が戦争に?・・・紀元前の昔から戦闘に参加されられているようです。
象の上に乗ると、・・・高いですね!視界が良くなるので見張りには役に立ちそうです。しかし、相手からも見えますが・・・
インドや中国では、4000年もの昔から象を飼いならす象使いがいたそうで驚きます。
しかし、アフリカ象は飼いならせないそうで・・・
・・・ところが有名な話が伝わっています。
紀元前218年5月、29歳の若きハンニバル将軍、征服していた現在のスペイン中南部?(アルハンブラの東約300㎞付近)から北上し、ピレネー山脈を目指していた。
アフリカ象37頭、歩兵9万人、騎兵1万2千人の大軍である。他に21頭の象と1万5千人は、現在地の防衛のために残していた。
(塩野七生 ハンニバル戦記より)
なぜこんな2200年以上も前の戦記が、具体的に・・・?
ハンニバル軍にはギリシャ人の記録者が同行し、一方この戦いを挑まれた・・・ローマ帝国にも記録者がいたのだった。
ピレネー山脈越えると別世界・・・ここで、このままでは遠くにつれていかれる、・・・と動揺してきたスペイン兵(傭兵)は、役に立たないと・・・ハンニバル将軍が全て帰宅させた。
ピレネー山脈を何とか越えると、そこはガリア(現フランス)、選抜軍は、象37頭、歩兵5万、騎兵9千、・・・何と4万3千人も脱落したが想定内だったようです。
・・・ガリアは今日のように平原ではなく、森や沼地が多かったようです。
ここは他国であり、通過するにも抵抗があれば戦うか、金で懐柔するか、・・・やがて川幅が広く流量も多いローヌ河を5万人以上の大軍が渡る・・・ここでも1万3千の兵士を失う。
( NATIOAL GEOGRAPHIC より)
イタリア北部に攻め込むには、最大の難所となるのが標高2~3000mクラスのアルプス峠越え、どこを通ったのか?
ルートは諸説あり決定的な物証がありませんでした。
ところが2016年4月 CNNが北アイルランドの調査チームが、海抜3000m近くのトラベルセッテ峠付近で、
堆積物から馬の糞らしき塊が発見され、年代測定の結果、紀元前2世紀頃のものと断定したと報じた。
峠は、赤マークの付近でしょうか。この東側にポー川の源流があります(青のラインの左端)
このアルプス山脈東側から流れ出すポー川が他の河川と合流しながら北に流れ、上図の中央上部(枠外)でポー平原を東に向かって・・・
イタリア北部を横切る長さ650kmの最大河川となりアドリア海に達します。
NATIOAL GEOGRAPHIC より拝借した地図のルートでは、アルプス越えはもう少し北側コースと予想していますが、
ポー川を渡るのは大変なので川の上流まで迂回し、浅瀬を渡り、北イタリアに侵入しています。
・・・さて、アルプス越えでも、敵対する部族の集落も通ります。
象部隊を先頭に進むと・・・見たことも無い光景に出くわし、圧倒されたのか争いは少なかったようです。
・・・崖の横に作られた狭い道を登ります・・・気が付けば 5月に出立したのに、・・・もう9月、標高の高い山では、小雪もちらほら・・・
( NATIOAL GEOGRAPHIC より)
峠の頂に達するまでに要した日数は、・・・9日間、疲労が蓄積し・・・頂上近くの平地で全軍を二日間休ませたが、マズイ、季節は冬に入っていた。
下りが想像以上に過酷だった。寒い、足元は薄い氷が張り・・・滑る、溶ければぬかるみ、馬や象は足を取られうずくまる。
雪崩も多発する地域です、声を潜めて通行は、・・・できなかった。多くの物が谷底に消えていく・・・・、4日後になんとか麓に降り立った。
峠を越えるのに15日間を要しています。・・・軍勢は、2万の歩兵と6千の騎兵となっていた。
・・・・・アルプス超えで、2万人の兵を失った。象は・・・?、わずか数頭となっていた。
この後、ハンニバルは甚大な損害にもめげず、ガリア人の傭兵も募り、ポー平原で勝利し、さらにローマ軍を名采配で撃破していきます。
・・・しかし、
何故か・・・山田長政とダブって見えます。
優れた武力と知力で、他国を支配する寸前まで駆け上りますが、住民を継続的に支配するのは、・・・敵国で外様状態では難しい、
敗戦した敵国を属国にして、戦利品を自国に持ち帰れば戦勝、凱旋と・・・完結するのでしょうが。
第二次 ポエニ戦争・・・ハンニバルの本国カルタゴは、・・・敗北した。
・・・
・・・アユタヤでした。バスで移動すると・・・近くに、アユタヤ エレファントパレスがありました。
象に餌を上げたり、一緒に写真を撮ったり、もちろん乗れます、各種のコースがあります。
乗ります? 比較的おとなしいと言われるアジアゾウです。・・・自分は遠慮しました。
このパークには、日本の皇族も来られ、写真も飾られてありました。
象の宿舎はどこだろうと探していたら、・・・このような光景に出会いました。
慣れたもので、あっと言う間に乗り込んで・・・どこかへと、走り去っていきました。
紀元前の昔から戦闘には、象使いが登場しているようで、このパークでも象を上手にコントロールしていました。
・・・さて、またバス移動です。
駐車場からチョット歩くと・・・木立ちの先に見えてきました。
この涅槃像 ワット・ロカヤ・スタ(Wat Lokaya Suttha)全長28m、高さ5m(ガイドブックによる)という大きな仏像だけがありました。
入場料は無し。1767年頃の建立とありますが、建物の雰囲気は残っていません。
ここもビルマ軍に破壊され、1956年に復元されました、レンガで原型を作り漆喰で化粧されているようで、白い涅槃像です。
この仏像も・・・穏やかな表情です。
北枕で横たわる。仏陀80歳、入滅時の姿、右わきを下側に・・・・穏やかな表情、今日でも最上の寝方とされる所も多いようです。
この寺院と涅槃像は山田長政が活躍した時代から百数十年後に建立されています。
・・・アユタヤの日本人町はどうなったのでしょう。・・・
その前に1630年、暗殺された長官:山田長政の後継者は・・・、長政の息子:オクンが周囲から進められて新長官に就任します。
牢獄の前長官は暗殺の疑いで収監していました。その弟により長政は毒殺されています。
前長官を処刑しようとすると、巧みな話術で、この地を治めるに必要な知識、経験があり、毒殺には関わっていない、新長官の就任式を盛大にと・・・。
前長官の弟は処刑されたが、前長官は牢獄から解放されると・・・、密かに城内、城下の人々に、外様の日本人に反旗を翻す工作をします。
新長官の盛大な就任式に・・・待てども、日本人以外は誰も出席せず、・・・異変を察知した日本人軍は、・・・反乱を武力で鎮圧した結果、大きな争いになり城下は荒廃した。
オクンを筆頭に日本人部隊は、この町を捨ててカンボジア国の日本人町に向かった。
一方、アユタヤでは、日本人の台頭が脅威となり貿易は王室が独占 する許可制とした。
長政暗殺後日本人町は「謀反の動きあり」との情報が流されて不穏な空気に、
日本人の成功が面白くないアラブ人や華僑の人々らも加わり、日本人町は焼き討ちに遭い、住民は虐殺された。
・・・アユタヤと友好関係にあった江戸幕府にも、この報はすぐ届いたでしょう。
しかし、その後1632年には、海外に逃れた日本人400人程度がアユタヤに戻り、日本人街が復興され、仲買商などに従事します。
・・・ところが、1635年、江戸幕府は長崎奉行に下知状(鎖国令)を発布し、日本人の東南アジアなどへの渡航禁止、この地域に永住する日本人の帰国を禁じてしまった。
この結果、この地で新たに活躍する日本人は、登場しなかった。
18世紀初頭まで日本人町は存続したようですが、男性日本人は現地妻と・・・、2世、3世世代が進み、タイ族との同化が進んで
・・・アユタヤに溶け込んでいきます。・・・やがてアユタヤも悲しいかな、隣国ビルマによって焼き払われ・・・消滅してしまいました。
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