気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

諏訪大社 前宮を歩いて

2023-09-15 | 旅行記

古事記の「国譲り神話」の登場人物が、建御雷(タケミカヅチ)神に勝負を挑んで・・・完敗、敗走して科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃げてきた。

「この諏訪の地から二度と出ないから、殺さないでくれ」・・・何とか許された。

・・・前宮前、・・・神宮 前ではなく、前宮(マエミヤ)の前の信号です。

上社 前宮 ここは長野県茅野市宮川2030

右手前の駐車場に車を入れ、諏訪大社 上社 前宮に  ・・・参拝です。

目の前の階段を上りますが、鳥居の左側の坂道を車で上り、右側の社務所に進むこともできます。

この上、右側に社務所があります。

境内はどこまでなのか、のどかな雰囲気に順路が心配になります。

階段を上がると広場、この左先にありました大きな案内板を見てみましょう。

歴史が古いだけあって、色んな史跡が表示されています。

信濃一之宮 諏訪大社 前宮 が正式名称のようです。 

この掲示は、安国寺区 史友会の提供、安国寺は・・・左下に安國禅寺があります。

この一帯は、神殿(ゴウドノ)と呼んで、建御名方(タケミナカタ)神の子孫であり、現人神(アラヒトガミ)でもある方の居館がありました。

この諏訪では、現人神が明治に廃止されるまで、大祝(オオホウリ)の役職が存在していたことを知り・・・何それ、・・・?

諏訪市のHPでは、大祝をこのように説明しています。

・大祝(おおほうり)とは、諏訪明神の依り代(よりしろ-神霊が宿る対象物)・現人神(あらひとがみ-生き神様)として、諏訪社(上社・下社)の頂点に位置した神職です。

・上社大祝は、古代から近世末に至るまで世襲され、「諏方(すわ)氏」を名乗りました。

・中世までは、諏訪の領主として政治権力も握っていましたが、江戸時代に入り、「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」ができ、完全に政教分離がなされました。

・明治維新で神官の世襲制度が廃止されたため、大祝職も廃止されました。

・生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は、全国的にも珍しいといわれています。

漢字源で「祝」を調べてみると:意読;いわ・・・う / はふり / ほぐ / いわい / のりと

はふり;神官やみこなど、神に仕えてのりとをあげる人。

のりと;神に申し上げることば。長く声を引いてのべるのりと。転じてめでたいと、ことほぐことば。

この案内板の、中央右下に縦書きで、「神殿跡」とありますが、シンデンではありますが、ゴウドノ跡の位置です。

この件も、諏訪市のHPで、その後の案内があります。見学もできます。

・大祝の居館は「神殿(ごうどの)」と呼ばれ、神聖な場所とされていました。

・中世までは前宮の麓にありましたが、遅くとも安土・桃山時代には現在地に居館を構えました。

・これに伴い、周辺に宮田渡(みやたど)と呼ばれる集落が形成されました。

・居館は江戸時代後期に焼失し、天保年間(1830~44年)に再建されました。

・再建当時は約3,000坪の敷地に、約320坪の主屋などが建てられていました。

・その後、明治・大正を経て昭和初期には、敷地とともに主屋も約80坪に縮小され、現在の主屋は約43坪となっています。

中央の少し下・・・社務所前に、若御子社(ワカミコシャ)があります。

ここは、建御名方(タケミナカタ)命の子供たちを合祀しているとのこと。

鎌倉時代以降、武士は戦いで死ぬことが現実となり、神様、軍神を求め始めたのでしょう。

ところで・・・古事記の「科野国」とは?

・・・飛鳥時代から奈良時代に移った713年に、科野国は信濃国と改められた。(小学館:日本歴史地名大系より)

古事記では、この諏訪の主人公:建御名方(タケミナカタ)神が、兄の事代主(コトシロヌシ)神に続き勝負に負けたことで、父の大国主神も国譲りを承諾した。

天照大御神の使者と交渉の地:島根県出雲市稲佐の浜

大国主神は、大きな御殿を要求し・・・「自分が鎮まるために建ててもらえるならば、出雲の国に鎮まるだろう」

・・・出雲大社が歴史に登場します。

驚くことに、巨大な柱が発掘されています。

日本史は知識が乏しく、調べてみると・・・飛鳥時代の壬申(ジンシン)の乱に勝利し、天皇中心の統治に必要な大宝律令を完成させたのが701年

天皇の系譜、歴史をまとめるよう・・・壬申の乱から40年、712年にまとめられた古事記は計3巻、上巻には神話の世界から天皇誕生までの記述が。

中巻は、初代天皇:神武から応神天皇まで。

下巻は、仁徳から推古女帝(天皇)まで、

710年に都を、藤原京(奈良県橿原市)から平城京(奈良市)に移しました。

そして奈良時代・・・720年に完成したのが全30巻の日本書紀、この最初の1、2巻に神話的性格の「神代記」があります。

日本書紀の「神代記」には、古事記の国譲りなどは登場しません。

古事記の編纂の目的は、神話を織り込み、天皇が統治していること、皇位継承の正当性を物語として広く告知したかった。

日本書紀は、対外的に日本国の正式な歴史を紹介することを目的としている。このような解釈が一般的のようです。

諏訪明神に「神体」無く「大祝」をもって神体となす・・・大祝は人間で現人神であり・・・皆の衆、神体であらせられるぞ・・ハハー!

秘密結社ではないでしょう?・・・多くの資料があります、系図などはデータベースに、国会図書館や明治初期に調査された資料など・・・

室町時代に編纂された、「諏訪大明神画詞(諏訪大明神絵詞(スワダイミョウジンエコトバ)」や諏訪市史、重要な資料です。

この鳥居手前の右側に、社務所があります。

そして階段を上がった右側に、内御玉殿(ウチミタマデン)が見えます。

左側は、十間廊のようです。

多分、拾い読みして印象に残ったのがWikipediaの諏訪氏史だったか・・・納得できる仮説、そこに多少プラスして推測してみました。

(茅野市の、地域誌研究と年表作成の諸問題・・・藤森 明 氏の年表試案 抜粋を・・・考古学のプロの資料として拝借)

672年、壬申(ジンシン)の乱のころ、奈良の都で舎人(トネリ)(天皇の護衛、雑務など)の職にあった金刺舎人氏が諏訪を支配するようになった。

それ以降、守谷氏と共同で諏訪地区の祭祀を行っていた。

当時も今も役人は権威が好き、人臣にも神(神道の神)にもランク付け、神は 神階(シンカイ)(正六位から正一位まで)があります。

そこで、諏訪大社の権威を上げるには、・・・神秘性のある物語、

・・・天界の天皇に負けた地上の神、悲劇の主役は出雲、脇役に信濃とメリハリを付ければ、信ぴょう性が高まるのでは?

知人の古事記 編纂者に、神話に「建御名方神」を創作として掲載するよう金刺舎人氏が働きかけたとすれば・・・知恵者です、納得。

下社の大祝が金刺舎人氏系統ですが、上社と下社では上社の方が上位の位置関係のようです。

「建御名方神」を祀るのが上社。901年 神階・・・正一位となる。

下社は、「建御名方神」の妻とされる「八坂刀売神」(ヤサカトメノカミ)、神階:従一位 です。

イベントは地域の活性化に必要で、大祝・現人神がこの地を平定し 浸透すれば・・・

儀式が格式をあげ、いつしか「建御名方神」が伝説となります・・・継続は力です。

そして、年表では 806年、諏訪大社 式年造営 が始まると伝えられる。

・・・この前宮では、ご本殿があります。

内御玉殿から坂道を200mほど進むと到着しますが、少し登った右側に、広い交流広場があります。

案内板があります。

鎌倉道(カマクラミチ)遊歩道のタイトルが目立ちます。

昔の人は、健脚が当たり前、鎌倉ですと180~200㎞くらいでしょうか。

この諏訪の地は、奈良時代には馬の産地として有名だったようで、天竜川や千曲川もあり交流も盛んな様子が残っています。

大祝を調べていると、上社下社での争い、山の裏側・高遠や隣の甲府 武田軍との争いなど・・・神様も大変だったようです。

・・・古くは神殿に付属したお社と、当前宮のHPに記載されていますが・・・坂道を登って到着。

歴史を感じる 諏訪大社 上社 前宮御本殿です。

両側の柵が、内部への侵入は禁止と、意思表示しています。

右側に平地があり、開けているので回ってみます。

御柱、一之御柱が手前にあり、奥に四之御柱が見えています。

神主様が御勤め終了でしょうか、

清々しい雰囲気です。

二之御柱は、本殿に向かって左側に

この道の左側に、守屋山の水眼(スイガ)を水源とする渓流?が流れています。

本殿のみを囲んで、御柱4本が建てられています。

「高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。

現在の社殿は昭和七年伊勢の神宮の御用材を以て建られたものです」とHPにありました。

諏訪大社、多少調べた程度では・・・奥が深くて、住んでみないと解らない。

地元にしっかり根付いた伝統が守られている信濃の国でした。

 

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