気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ルーブル美術館 絵画編2

2013-05-02 | 旅行記

エロス(ギリシャ語)がローマ時代にクピド(ラテン語)と呼ばれヨーロッパに広まり、キューピッド(英語)で世界に広まる。

アフロディテも、ラテン語でウェヌスと呼ばれていた。ルネッサンス時代再びギリシャ文明に光が当たるとアフロディテと呼ばれたり、ウェヌスと呼ばれたり・・・やがてヴィーナスが主流になる・・・「美と愛の女神」・オリンポスの十二神も国際化するにつれ呼び名も変わり・・・困っていることでしょう。

ヴィーナス、女神:優しい柔らかい響きですね!しかしギリシャ神話では、神は(人間の?)強欲をストレートに表現しています。

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ヴィーナス:美のライバルが現れると、嫉妬心そしていじめが強烈ですよ。 

誕生に秘密があるのでしょうか?・泡から生まれたのです。・・海に男根が漂っていた所の泡から。・・・何故漂っていたのか?・・・・神のその部分が切り取られ投げられた所が海の上・・・切り取られた理由は、遊び過ぎ・・精気のある部品さえあれば、女神は自分で誕生するようです。

さて15世紀末から16世紀ルネッサンスの中心はローマ、ヴェネツィアに移る。ローマでラファエロは1520年37歳で亡くなる。

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(ヴェネツィアのHOTEL、掲示絵画より)

港町・水の都、ヴェネツィアは東方貿易で豊かになり貴族趣味が流行する。ジョルジョーネが宗教画から世俗画に足を踏み出し、ティツィアーノ、ティントレットなどヴェネツィア派と呼ばれる人々が暖かい色彩で豪華な美を競う。

ティントレットと呼ばれる画家は「小染物師」と言う意味のようです。父親が染物師で息子は小染物師・・・近隣の人々が家業で呼ぶのは一般的でしょうが、画家名・通称「小染物師」のままでは他の染物屋が困ってしまうでしょう。本名は、ヤコポ・ロブスティと言うそうです。

テッツィアーノ 20代後半1515年頃の作 「鏡の前の女」 縦0.93m、横:0.77m 

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テッツィアーノの25歳頃の作品「聖愛と俗愛」は、イタリア・ボルゲーゼ美術館の代名詞としても有名な作品です。ふくよかなモデルは一緒のようです。

次もヴェネチィアの画家(生れはヴェローナ)、宗教改革の時代、宗教を口実として風俗画を描くと人気があった。

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「カナの婚礼」 1562~63年頃の作、 縦6.77m、横:9.94m、作者:ヴェロネーゼ(正式名:パオロ・カリアーリ)

総勢130人、16世紀のヴェネツェア、当時の宴会のシーンが描かれている。左端のテーブルに手前から新郎新婦が並び、横には当時の著名人、フランソワⅠ世、スレイマン1世、君主カール5世など

中央手前の楽団員には画家仲間が、左からヴェロネーゼ、パッサーノ、ティントレット、ティッツアーノ。

中央にイエスとマリアを描けば宗教画となったのでしょうか。カナの婚礼とは・・・

新約聖書 ヨハネ福音書に「ガラリアのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも婚礼に招かれた。葡萄酒が切れると、・・・イエスが空の水瓶に水を満たさせた。とあります。・・・

イエスが「それを汲んで世話役のところに持って行きなさい」・・・すると水が葡萄酒に・・・イエスが奇跡を起こした最初の物語。

絵の題名は宗教画風だが、登場人物、時代背景は現代のヴェネチィアの宴・・・他に「シモンの宴」、「レヴィの宴」・・・これが宗教画と言えるのか?と、宗教裁判所で問題になる。

「シモンの宴」は、・・・画家が何を描こうと自由だと主張するが、裁判所から一部を描き直すように命ぜられている。

「カナの婚礼」はその後、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会修道院食堂から、1798年ナポレオン軍が戦利品として持ち帰ってルーブルに展示されている。

・・・

カラヴァッジョの作品が3点ほど展示されています。内2点を

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「女占い師」 (失礼:右側のブルーは色かぶり) 1595~98年頃の作品 縦:0.99m、横:1.31m ミケランジェロ・メリージ 通称:カラヴァッジョ 20代中頃の作品

ローマ時代、依頼主(顧客)は貴族階層の収集家やスポンサー、・・・この時代は聖書、ギリシャ神話、歴史物以外の題材も多くなり風俗画も人気があった。

しかし、宗教画、歴史画以外は殆どの知識人から批判される時代でもあったようです。

この絵のモデルも貴族階級の若者でしょう、女占い師が手相占いをしながら指輪を抜き取っていると説明されている有名な作品です。

カラヴァッジョの宗教画は、光と影の演出効果、構図がドラマチックで、モデルを使った写実主義が徹底し、迫力のある作品が沢山あります。

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この作品は「聖母の死」 1601~1606年頃 縦:3.69m、横:2.45m 大作でありローマのサンタ・マリア・デラ・スカーラ聖堂からの依頼であるが、レオナルドのように受け取りを拒否されています。

聖堂からの依頼です・・・天使が持ってきた棕櫚(シュロ)の枝、聖母は蝋燭(ロウソク)を手に持ち・・・北方ルネサンス絵画ではこんな約束があったようです。

ここはローマ、多少は自由が・・・しかしあまりにもリアルな写実主義に、依頼主は不快感を持ちます、話題にはなるが掲示すれば批判が押し寄せるでしょう。

この絵もモデルがいるの?・・・溺死した女性との説があります?・・・年老いたマリアが昇天した・、しかしモデルは、まだ若い・・でしょう、衰弱は無く、むしろむくみや皮膚のたるみ・・・観察が鋭くリアルですね。

カラヴァッジョは、人間・聖母の死を描きたい、教会が希望する単なる宗教画は卒業したのでしょう。

次の作品、大きい頭は、カラヴァッジョの自画像と似ていますが、旧約聖書の話ですネ。

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「ゴリアテの首を持つダヴィデ」 、この作者は、グイド・レーニ 1575-1642年、ラファエロの再来と言われた画家。

ローマで活躍していた時代、1601~05年頃の作、縦2.2m、横1.6m。 

時が流れて、かつてのフランス栄光の時代、為政者は歴史に名を残したい・・・、宮廷画家の出番です。

この大きな作品の前にジャケット姿の紳士が・・・彼も画家のようです。

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ルーブル美術館は、画家を育成しています。しかし、館内でこのように長期間模写するには力量が必要で審査があるようです。

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「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠」 1806~7年頃の作 カンヴァス 縦:6.21m、横:9.79m 

日時:1804年12月2日、場所は、ノートルダム大聖堂の内陣 戴冠式典の記念に皇帝首席画家に依頼された。

祝福を授けているのは教皇ピウス7世で、ナポレオンが皇后ジョゼフィーヌに戴冠する場面を描いている。

・・・次のフランスの画家の作品は、時代背景が気になる・・・

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1808年作 題名「アタラの埋葬」 縦:2.07m、横:2.67m

1801年発行のシャトーブリアンの小説<アタラ>はアメリカの一部族の物語で、恋人と結婚できずに、毒をあおる若く敬虔なキリスト教徒の女性が主人公。

葬儀・埋葬の場面・・・宗教とは?宗教の影響力について考えさせられる作品です。

何故結ばれることができないか・・・過去に、神に誓いを立てたから・・・。

・・・神との契約の内容が少し違うが、結婚も神との契約・・従って離婚が許されなかったイタリアで、法律が変わり離婚が認められるようになったのは最近のことです。

一転して、裸婦の画像

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この作品は、ナポレオンの妹のために描かれた、1819年パリのサロンに出展され、一部から批判が絶えない有名な作品。

1814年作 縦0.91m、横1.62m 作者:アングルはモデルの特徴を美化する、強調するために・・・脊髄を3本分付け加えたという有名な話

やはり誇張しすぎで・腰が長い・・気持ちが悪い・・・しかし、浴女シリーズは人気があったようです。

社会派・歴史物・・・

ジェリコー 、問題の作品が見えました。

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1819年作 縦:4.91m、横:7.16m 「メデュース号の筏(イカダ)」 作者:テオドール・ジェリコー

1816年悲劇が起こる、セネガル沖で軍艦メデュース号が沈没する。149人の乗客が筏1枚で生き延びようとしたが、発見されず1日・2日・・・12日後、15人だけが救出された。

この事件から間もなくジェリコーは死刑囚の遺体、危篤状態の人・・・デッサンを繰り返し写実的で地味な演出を考案し、強烈な悲壮感が漂う作品を完成させた。

1819年、サロンでの冷ややかな反応に傷つき、ジェリコー最後の作品となる。(ルーブルガイド抜粋)

補足:遭難の後にこの事件をもみ消そうとしたが、二人の生存者が漂流の手記を出版した。内容は軍艦は嵐で難破し、幹部は三つの救命艇に乗り難を逃れた、残された者が20m×7mの筏に・・・極限状態の人間がどのような行動に走ったか・・、この艦の未熟な艦長を人選した貴族支配者階級に非難が集まる、大きな事件に発展した。

ジェリコーの弟子、若きドラクロアもこの作品にモデルとして描かれているようです。

そしてドラクロワ、日本にも来ました大作「民衆を導く自由の女神」があまりにも有名ですが、この近くで、・・・この作品は、アラビアンナイトか悲劇の物語か?

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1827年作 「サルダナパロスの死」 縦:3.42m、横:4.96m ウジェーヌ・ドラクロワ

バイロンの悲劇:アッシリア王(現在のイラク)サルダナパロスが敵の手に落ちるよりもと女性と側近を虐殺し、宝物を燃やしたというよくある話が題材です。

暴君は臨終の床に、死にゆく瞬間に生涯で得た喜びについて瞑想している。

さすがプロですね、悲劇の物語からイメージを膨らませ、どのシーンをカットし、構図は、配色は、フォーカスは・・・この大作も

フランス革命後の時代で、この作品の大胆さは民衆を当惑に陥れ批判の的となった。。(ルーブルガイド)

フランスの美術館です。作品の収集に戦地から戦利品として数多く持ち帰った功労者、栄光の記録・肖像画を残しました。ナポレオン・ボナパルト

1800年、雪のアルプスで騎馬にさっそうとまたがり、軍隊を鼓舞する姿が有名ですネ・・・。「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン・ボナパルト」、ジャック=ルイ・ダヴィット作

本人の評判が良く、3枚描かれました。ウィーン美術史美術館、ベルサイユ美術館、マルメゾン美術館、若干色彩を変えて英雄伝説が残されています。

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あまり迫力がないですか?ポール・デラロッシュ作 1848年、作品名: 「アルプスを越えるボナパルト(ナポレオン)」、ルーブルにはこちらの作品がありました。

1800年、雪のアルプス越えをしました、歴史画です。ロバに乗って一歩一歩大変な進軍の様子が多少伝わってきます。天候に恵まれてロバで峠を越えました。

英雄の史実を後年、実際はこんな感じだったのでしょうとドラクロワ世代が描きました。

・・・さてナポレオンは、埋もれていた悲劇のヒロイン「ジャンヌ・ダルク」を再度、世に紹介しました。

これでヒーロー・ヒロインと役者が揃い、長く歴史に名を残す材料が整いました。


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1851~4年 ドミニック・アングル作 「チャールズ7世に奉献するジャンヌ・ダルク」 縦2.4m×横1.78m ・・・アングル?  有名画家です、もちろん浴女シリーズ以外も描いていました。

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