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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

セビージャ・・・どこ?

2017-04-26 | 旅行記

Sevilla:セビーリャあるいはセビージャとスペインで語は発音される都市ですが、日本ではセビリアの表示が多いようです。

スペインで最も人口が多い都市は首都のマドリード:320万人、バルセロナが半分の160万人、次いで地中海に面したバレンシアがさらに半分の80万人。

スペイン南部のアンダルシア州都、アフリカに近いこの都市セビーリャの人口は70万人、スペインで4番目の人口です。日本では・・・静岡市や岡山市くらいでしょうか。

セビーリャから大西洋岸の河口まで約80km、海岸線は砂浜で、良港の条件としての水深、入江、風向きに対応できず河の上流のセビーリャの街が発展したようです。

一方、地中海へはここから南東へ約180㎞、車で2時間のイベリア半島南端、ジブラルタル海峡のアルヘラシスの街(イギリス領)に良港があります。

 

ではジブラルタル海峡から地中海の東の端、内戦が続くシリアまでどのくらいの距離でしょうか、・・・内海ながら非常に幅が広く東西約4000kmです。

地球の円周40000kmの1/10にも達します。日本列島の長さ?・・・北海道東岸から・・・沖縄の先・・・さらに西に進み・・・香港で、約4000Kmです。

セビーリャ中心部を拡大してみましょう。

朝日が昇るころ・・・右側、半円状のスペイン広場に向かっています。(左斜め下が、北です)

ところでスペイン広場から左に約1.kmに、創立127年を迎えたセビージャFCがあります。

上の画像は北が上方になります。・・・セビージャFC(フットボールクラブ)昨年の夏、清武が入団して話題になりました・・・(半年後日本に帰国)

スペインはサッカー王国ですから、他にも・・・セビーリャ中心部の画像の上方(南)に目を向けると・・・

半円形の建物から地図の右上に約2.3km、こちらにも創立110年を迎えるレアル・ベティスがあります。(上の画像は、北が上方)

セビーリャFCが富裕層のサポータが多いと言われているようです。・・・こちらのレアル・ペティスは労働者のサポータが支えているようです。

がしかし、レアル(英ロイヤル)の冠と縁があるのか先代と現スペイン国王はレアル・ペティスの名誉会員だそうです。

・・・イタリアのミラノで、本田のACミランと長友のインテルミラノの地元2チームが戦う熱狂的なミラノダービーに対して

この地では、アンダルシアダービーあるいはセビーリャダービーと呼ばれ、スペインで最も熱くなる対戦だそうです。

・・・アンダルシア・・・・闘牛、フラメンコ、サッカー、情熱大陸です。

・・・競技場?と思えるような入口から・・・中に入ってみましょう。

この内部は・・・24時間無料で入場できるスペイン広場です。


年代物の建物のようです・・・1929年の万博時にパビリオンとして建てられ・・・築90年になります。

両端に塔が建つ半円形の回廊の下部壁面には、セビーリャの名物工芸品です、素晴らしい絵タイルが貼り込んであります。

スペイン48県の歴史などが描かれ、順を追って撮影した画像を・・・整理しようとしたら・・・

撮影したSDカードが見つからない、・・・紛失か?・・・マイクロSDカードも見つからない。

・・・暫定的に・・・スペイン広場から大聖堂まで同行者の画像を拝借しました。

この様な絵タイルで、床面に地図、上部に紋章、正面に出来事などが描かれています。

絵タイルは8世紀頃、北アフリカ経由でイスラム教徒からもたらされ、この地で発展します。

後にイタリーに輸出され、ルネッサンス時代にイタリーでマジョリカタイルとして人気になります。

・・・絵タイルを探してみると、やはりありました。

この槍を掲げた騎士と御伴の方、前方丘の上には風車が並び、・・・ラ・マンチャ・・・スペインを代表する物語ですが・・・描いてあります。

広大な半円形の回廊は(直径200m)、異国情緒あふれる光景です。エピソードⅡで映画の一場面、登場しています・・・スターウォーズで、

独特の幾何学文様がこんなところにも利用されています、

鳩も朝日を浴びて・・・各々好きな方向を向いて、今日も一日 拘束されないで、良い日でありますようにと祈っていました。

噴水やボート乗り場もあり、そして強烈な夏の日差しは、・・・緑多き広大な公園で涼みましょう。

スペイン広場を後にする・・・と

北隣に、18世紀に建てられたヨーロッパ最大級のたばこ工場がかつてあったそうです。

ここが、現在はセビーリャ大学の校舎です。

街路樹が整然と並び・・・早朝のジョキングは爽快だろうと思っていたら・・・走っていました、エネルギーが伝わってくる学生たちの街です・・・

そして、この区画の裏側(北側)川の近くには、少しピンボケですが豪華な王宮のような建物がありました。

これは、サン・テルモ宮殿、中央に大理石と思われる3段のファサードが豪華で存在感を主張しています。

凝った装飾はルネッサンス後のバロック調、・・・当時の王宮はかなり広大だったようです。

そして川に沿って左に曲がり、上流方向に少し進むと・・・こんな塔が見えてきました。

今日では、あまり目立たず、うっかり見過ごしそうな単に古い塔です。

この塔が、黄金塔と呼ばれ、1220年の建造当時は黄金色のタイルが貼られていたのでこのような名前とのことです。

グアダルキビール川の対岸にも同様に塔が建ち、(対岸はシルバーとの説)ロープを張って船の入港を見張る役目もあったようです。

(現在は海の博物館)

間もなく大聖堂の近くにやって来ました。

路面電車に、観光用馬車、移動手段の新旧そろい踏みです。

そしてこの右側には、観光名所の

スペイン最大の大聖堂(カテドラル)が1519年に完成しています。

ヨーロッパの聖堂では、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模と言われ、奥行き116m、幅76mの大きさです。

1401年に、この地のイスラム教のモスクを壊して立て直していますので、北側にモスク時代の特徴、オレンジの中庭が残り、

東側にはミナレット(尖塔)を残して、キリスト教の鐘楼に改造する・・・独特のレイアウトのようです。

一本だけ赤いつくしが気になります。だれかご存知でしょうか。

こちらは南側、サン・クリストバルの門(扉)です。

そして、扉の内側にジャンヌ・ダルク?と思えるような戦う乙女?のブロンズ像が救いを求めています、調べてみましょう。

右手に盾、左手には・・・ヤシの葉? 高さ4m、1288㎏、バルトロメ作といわれるようです。

「ヒラルディーリョ」の像

・・・大聖堂の東側・・・修理中です。奥の北側に鐘楼が見えます。

そして、鐘楼の先端に・・・何と同じ像がみえます。

この像は、・・・風見鶏の機能を持っているようです、盾とヤシの葉ユニークな組み合わせです

鐘楼の名前は、ヒラルダ(風見鶏)の塔と言われています。

ブロンズ像の名は「ヒラルディーリョ」

・・・少し移動しましょう。

モスクの尖塔時代は、階段を設けず螺旋のスロープになっていて、ロバに乗って70m近くまで登れたそうです。

カトリック教徒が改造する際に、スロープ構造はそのまま残したので、鐘楼は現在もユニークなスロープ式が残っているようです。

・・・近くの広場に聖母マリア像・・・ずいぶん高い位置に置かれています。

・・・同じ目線にあると慈愛が感じられる気がしますが、見下ろされると・・・聖母マリア・・・布教ではどんな役割なの?

そして隣はアルカサル、門を抜けて、バンデラスの中庭です。

中庭のこれらの樹木も、オレンジです。

さてこの旧市街には、狭い路地が残っています。

建物の中を抜けて南側に進んできました。

サンタ・クルス街(旧市街地・ユダヤ人街)を歩きます。

ユダヤ人は知識が豊富で、いろんな仕事を考えます・・・ある仕事でこの界隈には悪臭が漂い、市民から嫌われていた時代があったようです。

今日では同じ仕事が・・・海の向こうアフリカ・モロッコで地場産業となっています、・・・皮のなめし・染色作業です。

悪臭が漂うのは動物の皮を鳩の糞や小便のアンモニアで洗うと柔らかくなるようで、柔らかくしてインディゴやサフランなどの染料で染める、・・・そんなユダヤ人の街並みがあったようです。

マァ・・・、キリスト教徒も裸体は禁止と風呂に入らず、おかげで教会では悪臭対策に香炉を振り回し、近代では香水が発達したことも有名な話しですが、・・・

ローマ人やイスラム教徒は、清潔な人々だったようです・・・今日では、多分宗派にかかわらず清潔でしょうが・・・

レコンキスタ後、この地でもユダヤ人は追放され、今日は住宅地になって、旧ユダヤ人街のキャッチフレーズで観光地になっています。


お土産店やレストラン、小さな広場、案内板がありました 

左上の大聖堂から左下に進んできています。

現代の航空写真ではこんな感じです

もうすぐ下側で、右に延びる塀の近くに向かっています。

・・・食用に適さないから誰も食べないという・・・たわわに実ったオレンジの樹がかわいそうで・・・

そこで、グレープフルーツくらいのオレンジを食してみました。ハッサク並みに皮が厚い。

水分も適度にありグレープフルーツ並みの糖度だったが、ビタミンCも多いのでは・・・食べられなくはなかった。

しかし、糖度が高くジューシーなオレンジが沢山取れるので、だれも見向きもしないということでしょう。

オレンジはアラブ人が持込み、中庭に植えてオアシスにと、香りや観賞が目的だったようです。

しかし多分、レモネードに利用されているようですが・・・

地面に沢山落ちているオレンジを踏まないように・・・路地をさらに南に進みましょう。

レンガの塀に沿って続く小道があります。

アクア(水)の道・・・では歩いてきた道を、振り返ってみましょう。

左側の塀は何と2000年前のローマ帝国時代の城壁のようです。

更に進むと城壁が途切れた所で、断面が公開されていました。

水道管、太いですね、

この水道水は先程の中庭近くの宮殿(アルカサル)に届けられていました。

・・・ローマ帝国は、世界各地で水道工事を行っています。

数10kmにも渡る水道橋を造る優れた土木技術がありました。

しかし、技術だけでは実現しません、今日でも驚く壮大な計画、大量の資材の調達力、そして労力(大半が奴隷でしょうか)ローマ帝国時代は、興味が尽きません。

 城壁沿いにこんな大木が

ゴムの大木です、南米から贈られたそうです

そしてこちらの葉は、どんな形か分かり難いでしょうか・・・ローアングルの方が良かったですね

砂地に濃い緑の植物、縁にギザギザの切込みが入った長い葉です、50cm以上はあります・・・この葉が素敵な文様となって我々の目を楽しませてくれています。

大きな丸いプランター鉢に、この様な葉のレリーフ文様を見たことがありませんか。

地中海産 アカンサス(Acanthas)・・・、ギリシャの国花、和名は、ハアザミ、アザミではない。

古代ギリシァ文化がこの葉を装飾に用い、葉の先端を巻き込むようなデザインなど、洗練された文様が、

建築意匠として(コリント様式)大理石や材木に彫刻され、柱頭(柱の上部)などにも利用され、イスラムの文様にも使用されているようです。

・・・ムリーリョ公園です。

帆船が遠くから目立ちます、

スペインで大航海時代の先駆け・・・有名な船? 冒険家・しかしイタリア人

コロンブスとサンタマリア号のモニュメントです。


船の中央に ISABEL イサベル女王の名前が刻まれています。裏側は国王。

ポルトガル王に大西洋を西回りに航海し、新大陸を発見する計画の援助を申し出ていたが喜望峰経由が現実的と・・・1485年に断られ、イギリス、フランスも懐疑的で・・・

スペイン王室に援助を・・・女王が関心を持たれたが、1490年委員会が否決する、その後も進展せず・・・

しかし、レコンキスタ、最後の紛争地点グラナダが陥落した。

戦争の経費が軽くなり、イサベル女王はコロンブスの計画を承認し、1492年 大陸発見となる航海に出発しています。

キリスト教の布教と、金銀財宝、奴隷の持ち帰り、原住民の虐殺・・・

キリスト教徒の作成する歴史では、どのような記述になっているのでしょうか・・・

この見事なデザイン、二本の柱の柱頭に・・・デザインされていましたアカンサスの葉です。

そしてこちらは、オレンジの街路樹

収穫?、落下したオレンジの回収業務でしょうか。

オレンジも資源です、有効利用されていることでしょう。

セニューラ? セニョリータ、若いから大丈夫でしょうが・・・腰痛に気をつけて、

オレンジがいっぱいのセビーリョから、・・・白い街、ミハスに移動します・・・約240km




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メスキータ

2017-04-10 | 旅行記

・・・ここのメスキータは殺風景な壁に囲まれている・・・、8世紀~13世紀(ルネッサンス以前)のモスクとはどんな礼拝堂の内部なのでしょうか、

宗教の教義ではなく、建造物の内装に多少好奇心を持ちながらの入場です。

メスキータ コルドバ大聖堂 のガイドブックを参考に、撮影した写真でモスクからカトリック教会への歴史を見てみましょう。

・・・イスラム軍がアフリカ・モロッコから攻めてきて西ゴート王国を滅ぼし、711年からこのコルドバは後に「後ウマイヤ朝」と呼ばれる王国の首都となりました。

占領後イスラム支配が70数年続き、権力基盤が確立された785年、大モスク(今日のメスキータ)の建設が始まります。

では、歴史がわかるメスキータの平面図を見てみましょう、上側が南東、下が北西になります。

(最初のモスクが黄色プラス緑の1/5位、次の増築は、上(南西)に(オレンジ)、第三次増築(濃いオレンジ)、第四次増築(朱色の東側と緑の部分))

 

南北175m、東西128m 総面積22,400㎡、これは城壁で囲まれた現在の面積です。

右側の②から中庭に入ってきました。

・・・第一段階は、平面図の黄色の部分に西ゴート王国の教会を壊して、モスクを建て始めます。

建築時のレイアウトは、左右(東西)73mくらいです。⑥が正面中央の入り口、入り口の先には礼拝の間が必要となります。

入り口の手前にサフと呼ばれる、みそぎのための中庭(785年当初は、黄色い部分の半分くらいの面積で、下側の緑の部分に存在した)が用意され

中庭の端にアルミナール(ミナレット)(尖塔)が建ちます。

この「尖塔」、「中庭」、「礼拝の間」の3点を東洋風の角張ったギザギザ模様を上部に付けた壁で囲み、要塞の印象を与えています。

・・・ところで、ここのメスキータ(現在のコルドバ大聖堂)内部に入るには、入場料10ユーロが必要となります。

中庭の ⑥免罪符の門から内部に入ってみましょう。(免罪日の門の中にチケット売り場があります)

思ったより明るい室内です。ただ柱が多く自然と天井まで目線が上がると、平天井なのでガード下のような違和感があります。

この柱の上部にアーチを乗せた円柱が無数に並んでいる様が、メスキータ構造上の特徴といわれています。

ガイドブックによれば、第一段階の礼拝堂(黄色い部分)では、台石、柱、柱頭にはさまざまな色がみられ、

素材も大理石、花崗岩・・・いろいろな石が使用され・・・博物館のようとあります。

これは建築当時存在したローマ帝国時代の遺跡や、西ゴート時代の教会を取り壊した建造物の柱を利用しているのが理由とか。

床の上に台石が固定されその上に柱が建っている所が最初の礼拝堂、(上の写真)

石材をあちこちから集めてきて再利用する・・・織田信長が安土城の普請で墓石まで使用していましたが・・・

この地ではフランカと呼ばれる化石を含む酸化カルシウムからなる石が近郊で大量に採掘されるのですが・・・

再利用を優先したのには、体制を安定させるには宗教の一本化・・・それには早普請をしてモスクの完成を急ぐ必要があったのでしょう。

再生品は長さの異なる柱も多く、全体の高さを揃えて天井を支える必要があります。

柱を台石に乗せ、柱の上には柱頭の部材を繋ぐ、これらの部材で全体の高さ調整をするという知恵でこのような景観になりました。

竹馬の様に上部が長い柱も見られます。

白い部分が石灰石、赤い部分は赤レンガ、交互にアーチを架けていきます。

「二重アーチの上部のがっしりした半円アーチが事実上建物を支えている。

下部の馬蹄形のアーチは支柱、高さ調整の役目をしていて、同時に天井を高くする解決法だった。」と書かれています。

柱だけでは横方向の強度が弱く、斜め方向に筋交いが必要です。これを古代ローマ水道橋のアーチ構造を参考にして補強しています。

最初の礼拝堂では、11身廊が設けられ、(身廊は中央部で柱の間隔がやや広く、両端がやや狭い)各身廊は12列からなっています。

結果、最初の(黄色の部分)礼拝堂の建築に、柱が152本も必要になりました。

後年の増築の際もこの柱方式で統一されたので・・・・、最終的には1012本、残念なことに13世紀に一部が破壊されて現在は856本とか・・・。

・・ モスクの特徴・・・ムスリムと呼ばれるイスラム教徒は、日に5回の礼拝はどこに向かって行うのでしょうか、祭壇でしょうか?

・・・アラビア半島、メッカのカーバ神殿に向かって礼拝をします。当初はエルサレムだったそうですが・・・

全世界のムスリムが旅先で方位磁石を使ってメッカの方向を探したり、世界各地のモスクではメッカの方向に置かれた聖なる壁に向かって礼拝をするそうです。

しかし、5回の礼拝だけでも大変なのに、・・・はるかかなたの方向を探すことまで・・・地面は水平と思っていた時代はそれでもよかったでしょうが・・・

・・・やがて球体と知り、正確に測るのにはどうするのと、目的があれば技術も発展するでしょう・・・儀式の継続は、文化となりて

ガイドブックによれば、このカーバ神殿の方向をキブラと言うそうです。

そこで最初に作るのが最重要となるキブラ、・・・このキブラの壁(神聖な場所)から建築が始まったとあります。

・・・最初のモスクでは、礼拝堂(黄色)の中心軸がキブラを目指し、入り口から南西の反対側の壁に向かって伸びます。

入口から入ると、正面最深部の壁がキブラとなりこちらの方向に向かって礼拝をします。

増築にあたって南西に延長したので、増築の度にキブラの壁は奥に奥にと移動しました。

人口が増えて礼拝堂が狭くなり4度目の拡張時には、南西側に延長すると川に向かって傾斜する土地だったのでやむを得ず東側に増築することになります。

結果、全体の中心軸が拡張した東に移動してしまいましたが、当初のままで今日に至っています。(何とメッカの方向がズレていた・・・後述)

 ・・・少し奥に進むと、偶像の彫刻類と幾何学文様が交差しています。

これはモスクの中央部にカトリック教の内陣を増築したことにより、出現した珍しい光景です。

・・・歴史を知らないと気にならないくらい、接合部はなじんでいます。現場合わせに苦労されたであろうと・・・また、設計者の優秀さにも関心します。

 古風な、上品な礼拝堂が目に飛び込んできました。ここは第三次増築部分に位置する所ですが

㉑のカピリャ・デ・ビリャビシィオサでしょう。

レコンキスタ後(13世紀)モスクに最初のキリスト教礼拝堂として改造された部分のようです。

13世紀当時は、多分キリスト教徒達の文化と、ギリシャ、ローマ文明を引き継いだイスラム文化では遥かにイスラム文化が全てにおいて優れていたようです。

キリスト教徒の天下になってもイスラム教徒達でこの地に残った人々も多く、彼らの文化をキリスト教の偶像崇拝文化に融合させたこのような落ち着いた独特の祭壇が出来上がりました。

アーチ状の天井はキリスト教時代のヴォールトです。 

こちらは、少し装飾が繊細になっています。 

天上界から見下ろしているのは、威厳のある聖職者の雰囲気です。 

少し離れて見てみると、左手に大きな鍵を持っています。

キリスト教で天国の鍵を持つ・・・バチカン初代法皇 聖パウロ・・・です。

神、救世主、聖母、天使、預言者、そして聖人とカトリック教は布教にイメージ戦略が有効と登場人物が多く賑やかです。

これは、モスク時代の古いアーチに挟まれて、肖像画と磔刑のキリストを前にこの人は? 

・・・最深部にやって来ました。

ここがキブラ、最初に建てられたモスクの正面入り口から真っ直ぐ南東に進んだ最深部です。

ムスリムは、メッカのカーバ神殿に向かって日に5回礼拝をします。

モスクで一番重要なキブラについて・・・

「カーバ神殿は、コルドバから南東45度に位置するにもかかわらず、最初のキブラは南東28度で建てられており、

現在のところ、この17度の差に異論のない説明がつかないでいる。」・・・とガイドブックに記されていました。

・・・そして、下の大きなアーチは聖なる窪みと言われる、⑫ミヒラーブへの入り口になります。 

 ミヒラーブとは「メスキータの中で預言者モハメッドの存在する空間を表わしている」

柵で仕切られ立入禁止となっていました。では天井を見てみましょう。

ここはドーム形状になっています。マクスラ中央ドームです。

素晴らしい・・・これがモスクの特徴でしょう、天使も聖母も、救世主も描かれていない落ち着いた空間でした。

東洋伝来の植物文様、アーチ上辺の壁面には、コーランのスーラ(章)が上下2列に並んでクファ体で刻まれています。

・・・イスラム教のモスクは、正直そんなに関心は高くなかった。

東京、代々木上原に東京ジャーミイと呼ばれる綺麗なトルコ系モスクがあり、内部を映像で拝見したことがありました。

イスラム教の教えの通り、礼拝堂内の内装は偶像崇拝の禁止を守り、デザイン文字や幾何学模様の装飾で構成され、

ステンドガラスの色彩も明るく採光も十分あり、近代的な建築物との好印象が残っています。

・・・イスラムの国と言えば男尊女卑が時々問題となり、石油王国サウジアラビアやイラン、イラクなどでは宗教と教育、女性の社会進出、

男尊女卑の改善、政治体制に反発も起きているようです。

コーランの学術的テキストとされる1841年発行フリューゲル版の日本語翻訳版(井筒俊彦訳)コーランを以前少し読んでみたが・・・

まず、第何章第何節・・・これがどの個所を差すのか明瞭でない場合が非常に多いと最初に書かれてはいますが

・・・アラビア文字は点を上に打つか、下に打つか、一つか二つかで意味が異なり・・・写す段階で間違いが結構あるようです。

・・・第4章 慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・

1.人間どもよ、汝らの主を畏(オソ)れまつれ。汝らをただ一人の者から創り出し、その一部から配偶者を創り出し(旧約聖書:アダムの肋骨からイヴを創った)、

この両人から無数の男と女とをまき散らした給うたお方にましますぞ。

アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼み事するときに、いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。

また(汝らを宿してくれた)母の胎(タイ)をも(尊重せよ)。アッラーは汝らを絶えず厳重に監視給う。


女性の章はこんな風に旧約聖書の一文をそっくり引用したようなところから始まります。

神から預言者への啓示の形で庶民に事細かくありがたい説教を・・・神は汝らを絶えず監視しているぞ!、・・・最後の審判・地獄に堕ちる・・・脅しも登場します。

・・・遺産相続も具体的で、男の子には女の子の二人分を・・・

38 (34)節 アッラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、

この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから、貞淑な女は(男に対して)ひたすら従順に、

またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘め事を他人に知られぬようそっと守ることが肝要。(いろんな解釈がある)

反抗的になりそうな心配のある女はよく諭(サト)し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ)、

(それも効かない場合は)罰を与えなさい。だがそれで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。

アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。・・・

 コーランは奴隷を認めていますが、紀元前からこれらの土地では奴隷は売買されていましたし、戦場で戦うのは男性で、敗戦は死か奴隷になるかでしかありません。

エルサレムの土地の支配を巡って領土紛争に明け暮れた人々、その様な時代に生まれた男尊女卑、一夫多妻、・・・イスラムの国では今日も存在しています。

妻は4人まで、奴隷はさすがに認められることはなくなっていますが

ローマ帝国軍の領土拡大に奴隷は重要な労働力であったのも事実で、奴隷の補充ができなくなると生産性が上がらず国力は急激に衰えたようです。

・・・コーランには、神からの言葉として広範囲な事柄について具体的な記述が書かれていますが・・、

幼少の年代から繰り返し耳にして抵抗なく受け入れると思われるムスリムの人々と違い、多様な価値観を身に付けた多神教を認める人には・・・、

頭も固く読み続けることすら困難なような気がした、断片的に拾い読みし、・・・本を閉じることになってしまった。

・・・イスラム教(コーラン)について・・・全く理解できていない状態で・・・特徴的な幾何学文様に出会うと

カレイドスコープ(万華鏡)のようだが・・・、あくまで説法の場、その空間デザインとしての役割に徹して・・過剰演出が無く爽やかだった。

・・・すぐ隣では、ここにもイメージ作戦が一番と、この礼拝堂も ショールームのようです。

この様な偶像も掲げられ

・・・中央部に戻って来ました。

「1236年6月29日 コルドバ再征服が完了し、メスキータ全域がキリスト教の寺院として聖別され、

1239年にはサンタ・マリアマドレデ・ディオス(神の母なる聖マリア)の大聖堂として生まれ変わった」とあります。 

現在の主祭壇は、⑯ 中央礼拝堂です。

完成までに長い、長い年月が・・・ゴシックから・・・バロック様式まで。

1528年(ルネッサンス後期)マンリケ司教の改造計画(巨大な身廊のために大々的に取り壊す)が司教座聖堂僧会の承認なしに司教の独断で工事が開始された。

僧会は大司教に抵抗できずにいたが、市僧会が王の許可が必要と決議するが・・・無視された。

そこで王の許可なしにメスキータを取り壊したものには死罪ならびに財産と所領の没収を求めることを布告した。

通告はその日のうちに行われたが、司教は布告した王室代理官を破門した。

ついにこの争議が王に持ち込まれ、王は司教座聖堂僧会の言い分を認め、工事の続行を命じた。

・・・王は、セビリアの帰りにコルドバに立ち寄り、メスキータを見てこう語ったと言われる。

「余は、このようなものだとは知らなかった。知っていれば元の建築の取り壊しを許しはしなかっただろう。

そなたたちの造っているのはどこにでも造れるもの、そなたたちが壊してしまったのは、世界に二つとないものである。」

 建設には250年の歳月が必要となり、1766年に完成しました

どこに行っても見られるものを造ってしまった・・・と言われると・・・ガイドブックの主祭壇の説明は・・・若干にしましょう。

中央部を拡大してみましょう

左右にはこの様な彫刻も

祭壇には紅大理石が使われ、バロックの絵画(パロミーロ作)が飾られています。

・・・主祭壇の前の女性は、何を見ているのか?

そちらの方が気になりますか

主祭壇を背にして、反対側は・・・

高窓を通して正面からの西日が強くて・・・逆光にシルエットが浮かぶのは巨大な木彫りの彫刻、中央に司教席

聖歌隊や長椅子もあり一般の人が座って周囲を鑑賞することができます。

両サイド上部には大型のパイプオルガン。

周囲の聖職者用の椅子はマホガニー、豪華な彫刻が施されています。

・・・思い出しました、最初に見たモスクの紅白石積みアーチは・・・増築する際に、塗料で紅白に塗り分けて全体のイメージと調和するように経費の削減をしていたそうです。

イスラムとカトリックが混在する大聖堂を後にしましょう。

中庭に出ました。

夕日に輝く、・・・尖塔改めキリスト教の鐘楼です。

16個の鐘と、コルドバの守護聖人サン・ラファエルの像を取り付けた高さ54mの塔です。

鐘楼に登るには、入場料2ユーロとなります。

・・・では、もう一つの観光スポットとされるユダヤ人の街並みに・・・。

メスキータから北に歩くと・・・商店街でしょうか

イスラムの支配時代、756年から、後ウマイヤ朝の支配者はユダヤ教徒、キリスト教徒を「敬典の民」として容認していたので、地租と人頭税を納めれば、信仰と固有の法を認められていたといわれています。

ユダヤ人は紀元前から迫害の歴史を背負いながら、神に選ばれた民族との強い意志で逆境に強く、財産はいつ没収されるか頼りにならない、

生き残る道は学問、知識であり知恵であり・・・子供には教育熱心な民族のようです。

優秀と言われるユダヤ人の人文学者、官吏、商人などはイスラム国家が潤滑に機能するために無くてはならない存在だったと言われています。

 13世紀から15世紀のユダヤ人居住区、世界遺産に指定されています。

キリスト教徒の中にはイスラムの支配に抵抗する者もあったが、多くは平和に共存し、後ウマイヤ朝の都コルドバは文化の中心としても栄えていました。

レコンキスタ終了後、1492年ユダヤ人追放令 布告後・・・この街は 寂しくなっていきます。

メスキータの鐘楼が見えるこの小路・・・この後ろ側は行き止まりの小さい広場

白壁の家並み・・・花の小鉢・・・有名な Calleja de Flores 花の小道 です。

行き止まりの広場にも、お土産屋さんが・・・商売繁盛と笑顔の接客です。

城壁近くの西側にはシナゴガSinagoga かつてのユダヤ教会なども残っているそんなコルドバでした。

・・・セビーリャ、145km 約2時間南下します。

 

 

 

 

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フラメンコのアンダルシア地方へ

2017-04-02 | 旅行記

ラ・マンチャからさらに南へ・・・約285km ・・・アンダルシア地方に向かいます。

東京からに浜名湖の先、三ケ日のミカン山を抜けて三河の岡崎の手前くらいでしょうか。

地図を見てみましょう。南スペイン・・・アフリカに近い・・・赤く塗った一帯です・・・フラメンコの本場です

コルドバに向かいます。グーグル借用 航空写真では

ジブラルタル海峡は最も狭い所は、・・・14km・・・ジョキングで1時間半くらい?

・・・昼前の高速道路です・・・高原の赤茶色風景から一転、見渡す限りのオリーブ畑です。

丘陵地帯が続き・・・集落も市街地も見かけないまま山岳地帯にさしかかり・・・

3時間も走ったころ・・・やっと人工の設備が見えてきました。

変電所?、送電線・・・

青色の人工的な輝きは・・・整然と並んでいる様は、太陽光パネルでしょう。

アンダルシア地方、・・・今日の特産品は、・・・太陽エネルギー・・・年間を通して太陽光の恵みを受けて・・近代的なスペイン南部です。

すると古風な石積みの鉄橋が見えます、電車を見かけないが・・・走っていると思います。

遠く山並みがあり、緑の樹木があり、川が流れている。・・・肥えた土壌もあるようです。この一帯は穀物地帯だったと思ったが・・・

スペイン縦断、・・・移動が優先で昼飯はこれからだった。

高速を降りて、市内に入ってきました。PM2:15頃

2時から4時頃が当地では昼食時間、まさに車窓からレストランで食事?風景が・・・

オット・・・ウエートレスのファッション、・・・ビビットで素敵なオレンジ 、活動的な印象です。

しかし太陽光を吸収する全身黒は、・・・暑さが倍増するのではと・・・気になりますが・・・

陽気なラテン気質です、闘牛とフラメンコ・・・気合のファッションでしょうか

何やら遠くに旧市街の趣が・・・

ロータリーをグルーリと回って・・・この歴史を感じる橋は、これが有名なローマ橋でしょう

川幅が広いですね。・・・ガイドブックによれば、グアダルキビール川は、ここから南部の州都セビーリャを経由して大西洋に流れ出ます。

橋の右側が上流、左側に向かって流れています。

 ・・・ここは川幅がありますが、氾濫時の水量にも流されない巨大な橋を架けようとするアイディアがすごいですね、土木工学のすぐれた大昔のローマ帝国時代です。

日本では、大井川などの河川は橋を架けないで、自然の境界を利用して治安管理するか、橋を架けて物流効果を上げ国土の発展に役立てるか・・・将軍家の安泰が優先されたようです。

・・・戦になれば・・・橋の全長331m、南から攻められたら守備側は橋を破壊し、この河川で分断をはかります。

紛争が起こるたびに橋が破壊され、・・・その後、修復・・・戦争・・破壊・修復の繰り返しで・・・最近は化粧直しを兼ねて2008年に修復が完了しています。

・・・橋は平時は重要ですから、できたら守りたい・・・要塞を造ります、見張りと守備の役目を兼ねて。

12世紀末イスラム勢力が築いた、カラオーラの塔 Torre de la Calahorra と呼ばれます。(現在では博物館)

・・・この川岸に街路樹が並んでいます、オレンジがいっぱい・・・熟しているようです。

・・・では、レストランで遅い昼食です。

・・・なぜそんなに争いが多かったのか・・・この土地の東は温暖で内海のような地中海です。

2000年以上も前から沿岸を伝って地中海貿易は盛んに行われ、人、物の移動がありました。

日本国・外務省はアンダルシア地方の歴史を、概略このようにまとめています。

 地中海の東で生まれたユダヤ教、・・・ユダヤ教から生まれ、ローマ帝国で国教になり、ヨーロッパ中に拡散したしたキリスト教、

・・・キリスト教から遅れること約600年、モーセ(ユダヤ教)、イエス(キリスト教)を予言者と認めて・・・最後の預言者ムハンマド(マホメット)と呼ばれる人物が、

地中海のさらに東、砂漠のアラビア半島で610年から632年にかけて神の啓示を聖典にまとめ、布教を始めます。

急激に武力と共に支配地を中央アジア、地中海南部沿岸地帯に拡大し、布教も拡大することになります。

この土地は、紀元前からローマ帝国のもとで繁栄し、西ゴート(民族大移動・・・北から侵入)の支配下に、そしてイスラム(南から侵入)と支配者が変わります。

他のヨーロッパ地域が、これから暗黒の中世時代といわれるのに対して、アンダルシアは南国の太陽を浴びて、・・・明るく繁栄します。

・・・ロ-マ橋を渡って、旧市街へ

旧市街地はかつて城壁に囲まれていました・・・そして橋の門があったそうで・・・。

これがコルドバ王国時代の城壁の一部でプエンテ(橋)の門(Puerta del Puente)、ルネッサンス後期に凱旋門に改修されたそうです。

門の上部にレリーフが・・・これは戦士の像、コルドバ王朝時代のものと思われます。

目指すは、メスキータ Mezquita、アラビア語 Masjid が語源とか、・・・スペイン語でモスク、あまり聞きなれない言葉です。

モスクとは、ムスリム(イスラム教徒)の礼拝堂として呼ばれています。

複雑な歴史です・・・目指すのがスペインに現存する唯一のモスクですが、キリスト教徒が奪還して増築・改造して今日に至ります。

イスラム教のモスクがカトリック教の礼拝堂になり・・・今日の「コルドバの聖マリア大聖堂」は、「メスキータ」と名詞で呼ばれます。

再度 グーグルの航空写真を参照

右下から中洲のように張出している市内に入り、中央下部の川岸のレストランで食事を終え

徒歩でローマ橋を渡り、中央部に黄色の四角で囲んだメスキータに向かいます。

左斜め上(銀色の部分がホームの屋根でしょう)、鉄道の駅があり、駅からは市街地を通ってメスキータに入ります。

・・・アプローチとしては、ローマ橋からがお勧めです。

旧市街に入り、左に曲がると、記念の塔があります。

トリウンフォ・デ・サン・ラファエルの塔と呼ばれます。

塔の上部に大天使、ラファエル像、ここコルドバの守護聖人

これは、14世紀ヨーロッパ各地でペストが大流行し人口が激減した悲惨な時代がありました。

このペストの終息を記念して各地で、モニュメントが建てられています。

ここコルドバでも、1765年~1781年と何と16年もの歳月をかけて完成に至っています。

ローマのナボナ広場の噴水(ベルニーニ作)は最高だ、参考にしようとか・・・

・・・この先で、旧市街の観光にと観光馬車が迎えてくれました。

 

この先右側はメスキータの城壁が続きます。トリホス通りを進みましょう、所々入口がありますがメスキータには入場できません。

前方で人混みが、・・・左に土産物屋があります。その向かいの城壁の開口部から中庭に入れます。

 鐘楼を見上げます。カトリック教では鐘楼、しかしモスク当時は鐘も無く、アルミナールの塔(ミナレットとも呼ばれます)として、・・・

 

イスラムの教義では、コルドバの信者に向かって日に5回、アザーンという呼びかけの言葉が唱えられていました。

・・・TVで見たことがありますが、・・・USAのある都市の話・・・モスクができると拡声器から呼びかけの声が市中に流れます。

抑揚に特徴のあるゆっくりしたアザーン(礼拝の呼びかけ)に静かな雰囲気が壊れると反対する陳情が出され、役所では調整に大変な様子が流れていました。

川向うからの景観、このように鐘楼がシンボルで、そして左手前に守護聖人の像が立ち並ぶ旧市街、世界遺産

メスキータの内部を・・・整理中です。

 

 

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ラ・マンチャ

2017-03-26 | 旅行記

早春の朝、この地は日の出が遅い。朝8時ホテル前、やっと明るくなりそうです。

ホテルから南に約140km・・・(昨日のトレドから更に南南東約60km先に向かいましょう)

バスはマドリード市街から抜けると、高速道路は単調な風景が連続します。

太陽の光に照らされて、このような風景が・・・しかし、なぜかまだ薄暗い。

やがて、昨日見慣れた赤茶色の・・・

・・・9時半過ぎ、トラクターで畝を作りブドウ苗木を植えているのか、・・・緑の樹木はオレンジかあるいはオリーブの木でしょうか。

オリーブ栽培の北限は、ここスペインではトレドといわれています。

・・・見渡す限り赤茶色、標高約600mの高原(北部マドリッドは平均標高500m、この先の向かう南部は平均標高700m)。

グーグルの航空写真を見てみましょう。

ここはイベリア半島中央部、ラ・マンチャと呼ばれる乾燥地帯・・・夜間-15℃に達することもある冬季と、

一方長く暑い夏季には日中45℃に達することもあるといわれる・・・

所々に尾根のような小山が見えてきます。

麓の植栽が・・・低木の木々はあるのでしょうか。降水量が少ないようですから地下水や水源は期待できないでしょう。

やがて出発から2時間になろうとする頃、目的地かな・・・と思われる表示が見えてきました。

 CONSUEGRA、この街外れには風車があります。(ラ・マンチャ一帯には、たくさん現存しています)

ここで一般道に出ると思う・・・ゲートが無いのでカーブで減速すると、いつの間にか一般道です。

市街地の外側を走るっていると予想外のビニールハウスが見えてきました。

トマトの栽培でしょうか・・・乾燥地帯です・・・、温暖の差の影響を受けないように・・・。

・・・10分ほど走ると、・・・朝の10時過ぎ、人通りのない街外れにさしかかりました。

振り返るとこの様な街並み、白壁、長屋構造です。右奥から来ましたが、この十字路を右側に曲がります。

すると前方の小高い山に、車窓からこんな風景が見えてきました。

風車です。

左の崖上の建物は・・・大昔からある要塞のようです。

間もなく手前の風車で一時停止、案内所とあります。案内所で入場の許可?駐車の許可?聞くのを忘れました。

グーグルの航空写真を拝借しましょう。上側は南方向になります。

中央下部①の風車が案内所です。風車が5基、手前の小山にあります。

 右側の丘の上にある風車を横目に・・・進むと、大型クレーンが要塞を修復しているようです。

振り返って要塞を見てみましょう。

 これはいつの時代の建造物でしょう。相当古い感じです、ローマ時代の末期でしょうか

ナポレオン軍との攻防で要塞は破壊され、近年修復をされているようですので、近いうちに観光資源に追加されるでしょう。

・・・奥の駐車スペースに到着。

奥の⑥の位置から要塞方向に5基、風車が並ぶ光景は・・・複雑ですね。

16世紀、ロバでこの山頂まで穀物を荷揚げし、製粉作業を終えると出来上がった袋を乗せて山道を下る

・・・昼飯持参で大勢で賑やかにやってきたのでしょうか、

あるいは専用で従事する人々が、周辺に仮設の山小屋でも建てて作業にあたっていたのでしょうか。

水辺の風車とは違い、・・・下界と標高差100mくらいの山頂です、労働環境が厳しいでしょう・・・そんな風車のある風景です。

斜めの長く太い棒は、風車を風向きに合わせて回転さてたのでしょうか、回転式風車はあるようですので・・・

風車からの眺望です。これは西側になります。

日が当たっている東側の眺望が

内部が公開されている⑤の風車に入ってみましょう。

入り口、この様な青銅製の騎士がこの地方ではよく見かけます。

1階は売店もありました。

ラセン階段を上ると2階でビデオが放映中、英語、日本語、中国語です。

風車翼が(多分木軸骨組みに、布を張っていたと思いますが)

水平方向のシャフトに

丸太製の歯車(ギア)を取付けた円盤を組み込み、

垂直軸に取付けた円筒型歯車に回転軸を直交させ変換し、垂直軸下側に取付けた石臼を回します。

2~3枚重ねで下側は固定、上側を回転しましょう。

上下の石臼接触面には放射状の溝が加工されて、・・・上側の石臼には中央周辺部に孔をあけてあります。

中央付近から投入された素材は、すり潰され、砕かれた材料が傾斜もあり周辺部に押し出される・・・

多分記憶では、日本のポータブルな石臼にそんな構造があったように思います。

・・・しかし、ロシナンテに乗った、ドン・キホーテ・・・この様な風車に体当たりをする作者の発想は?

遠目から見れば有でしょうか。

・・・危ない!急な崖から転落の危険があります。

とすると、・・・物語で風車の場所は特定をしていません、しかし、登場人物で姫のモデルとなった人物が住んでいた村

El Toboso エル トボソはこの場所から、東北東約60kmに現在もあります。

周囲に風車で有名な街は、・・・トボソの南・・・約20km、Campo de Criptana カンポ デ クリプタナ が本命とされています。

ここ Consuegra コンスエグラ から、東南東に約45km、特徴は街の直ぐ近くの丘・・・写真をグーグルからまた拝借しましょう。

この様に街から標高差が少ない場所に風車があれば、作者は旅の印象に強く残っていることでしょう。

・・・スペインが無敵艦隊時代の1587年、作者セルバンテスは40歳になっています。良い仕事が見つからず

このラ・マンチャやアンダルシアの広大な荒野を歩き回り、嫌われ者の仕事と呼ばれる、税の取り立て役や海軍の食料の取り立て・・・

そんな仕事を55歳頃まで続けて2度も投獄されたと言われます。・・・波乱の人生、旅を続けた人生を送っています。

・・・各地を旅して、宿屋が作中に色々登場します、この街 カンポ デ クリプタナ にも泊まったことでしょう。

ドン・キホーテ(もうすぐ50歳の主人公)騎士道物語に夢中になり過ぎて、仕事も忘れ、自らが騎士道のあるべき姿を実践するべく旅に出て

・・・そして、風車の部分は・・・短い内容です・・・

・・・サンチョ・パンサに・・・あそこに30かそこらのふらちな巨人どもが姿を現した、我は彼らと一戦を交え、

皆殺しにして、分捕ったものでお前と裕福になろう。逃げるでないぞ!・・・向かっていくと、一陣の風が吹き風車の翼が動き出す・・・

ドン・キホーテは「おぬしらが、かの巨人ブリアレーオより多くの腕を動かしたとて、わしが目にもの見せずにおくものか」

盾を構え、槍を小脇に・・・ロシナンテを全速力で駆けさせ、一番手前にあった風車に突撃した。

槍を突き立てた瞬間、激しい風・・・風車が回り・・・槍はへし折れ、馬もろとも反対側に飛ばされて、野原を転がる始末だった。

・・・「やれやれ、なんてこった!」とサンチョが言う。「あれはただの風車で巨人なんかじゃねえと」・・・

こんな調子の旅物語、・・・食事のメニュー、羊肉より牛肉の煮込みが多く、日曜日には小鳩の一皿・・・

そんな会話も登場し、読み手には疑似体験ができたのでしょうか・・・

・・・街の宿屋・・・歩き疲れて・・・一杯飲みながら夕暮れの風車を見ていたら、魔物に見えてきた、

気が大きくなり、槍を持って突進していたセルバンテス。・・・そうだ・・・旅を続ける騎士の物語を書こうと・・・。

この先、これからスペインらしい南部に向かいます。長距離移動となります。

 

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トレド 世界遺産

2017-03-18 | 旅行記

トレドは、・・・約30年前 トレド大聖堂など旧市街全域が古都トレドとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

かつて都であり、1479年からは宮廷があった・・・マドリードに遷都するまでは、

・・・遷都、いつのことかと思ったら、1560年・・・日本では桶狭間の戦い・・・そんな大昔のことでした。

そうでした、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍していた時代までは都だった。

古代ローマ時代、(ローマ帝国東西に分裂)、西ゴート王国、後ウマイヤ朝、スペイン黄金時代・・・これらの痕跡を残し「16世紀で歩みを止めた街」ともいわれます。

・・・古都・トレド観光・半日間のオプショナルコースに参加して、観光バスで向かっています。

マドリードから約70km、無料の高速道をひたすら走る・・・風景は・赤茶色の大地に緑の筋・・・ブドウ畑や苗木の畝が続く・・・1時間が過ぎたころ、気が付くと景観が急に変わった・・・

タホ Tajo(切り傷・切断)と呼ばれる深くえぐられた川が見えてきた。

タホ川沿い進むと、写真で見た13世紀建造の古い橋、アルカンダラ橋が近づいてくる、橋の向こう側がトレド旧市街です

さらに川沿いを進むと、高台の旧市街を囲む城壁も見えてきた、遠目にはすっきりした城壁に見える。

・・・崖下のタホ川は、水量が結構多いように感じる。

スペイン、ここは標高600mの高地、乾燥地帯と聞いているが・・・最近天候が悪かったのだろう、濁流だった。


花崗岩の高台にある大地は、北側の一画を残し三方をこのタホ川に囲まれている、

山城よりも好立地でしょう、天然の要塞として発展して来たと書かれています。

・・・旧市街の対岸、急峻な崖の上の道路を進むと・・・この旧市街の全体が見えてきました。

南側から見た旧市街、もうすぐこの様子が鳥瞰図のようにわかると言う一等地に着きます。

すぐ近くのここが展望台、そしてこれは合成写真、パノラマ写真では・・・、

あまり変わらないですか。右側でひときわ高く目立つ建物がアルカサルと呼ばれるかつての要塞。

要塞と言うよりは宮殿の雰囲気です、この場所がこの高台で最も標高の高い地点と言われています。

ですからここに古代ローマ人が築城し、その後ムーアや西ゴートが利用して11世紀に新たな要塞が完成するが、

1227年解体してまた新たに築城・・1493年完成、16世紀にかけて改築され、近年に改装・・・やっと終了したようです。

現在は軍事博物館で、中世の武器、近代の兵器など展示されています。日本の鎧、兜、剣、なども展示されています。

・・・そうでした江戸時代、伊達政宗が家康の許可を得て1613年10月28日、スペインに遣欧使節を送っていました。

太平洋を渡り、メキシコ(スペイン領)経由で1年後、1614年10月5日スペイン南部に到着、セビリア、コルドバ、そして12月3日トレドにも立ち寄っています。

12月30日首都マドリードに到着。その時の宿舎が王宮の南500m、サン・フランシスコ修道院

もう少し離れると、天井部の立派なドームが見えてくるのですが。

多少、ドームが見えてます。しかしこの建物は1761年から建て替えられています。

1784年完成ですから、支倉(ハセクラ)一行は建て替え前の古い建物に宿泊されたようです。

一か月後の1615年1月30日、マドリードにて当時世界最強・・・(少し斜陽の国)、スペイン国王フェリペ3世に謁見しています。

(もちろん刀剣を含め、お土産をたくさん持参していました。その後、ローマでパウルス5世にも謁見しています)

支倉一行は驚きの連続だったことでしょう、赤茶色の砂漠のような荒野を延々と進むと、突然現れる城壁と石畳の道路、石造りの強固な高層建物。

・・・座礁したスペイン船から乗組員を救助してくれた恩のある極東の大切な日本からの使節団です。

先々で歓迎されたようですが、石の文化と木・紙の文化は違いすぎます・・・畳の上で横になりたい・・・障子が少し開いていて、縁側からやわらかい風が・・・と思ったかどうか。

今回のトレドの見学コースは不明ですが、主役はカテドラル(大聖堂、スペインカトリックの総本山)でしょうか、・・・正面右側にその鐘楼が見えています。

この場所がMirador del Valle(谷の展望台)、ここからの眺望です。眼下のタホ川はこんな感じです。

さて、観光バスは、タホ川に沿って旧市街を半周して、北側の駐車場へ向かいました。

上の画像は上が南側の先程の展望台になります、半周して下側(北)にやってきました。

下の緑色部が駐車場です。ここで下車して、現地ガイドさんと合流、徒歩で旧市街に入ります。

では、ガイドの後に続いて、迷路で迷子にならないように

・・・ここから右側(上の画像の赤い線)に沿って2~3分で

城壁の下に、トンネルか地下道か?見えてきました。

地下道の先に・・・エスカレーター。

このエスカレーターを3本くらい乗り継いで

下りも利用できるようです。これは便利です。

エスカレーター上部からの眺望、トレドの郊外です。

サア、高台の上に来ました。旧市街地の北端にいます。真っ直ぐ(南に)進みます。

大聖堂の次に観光地としての人気は、エル・グレコの作品がある教会でしょうか。いっぱいある・・・そうでした。

歴史地区ですから建物を勝手に増築、改造はできません。しかし狭い路地が多いです。

雨が少ないから歩けるのでしょうが、大雨が降ったら小川でしょうね。

・・・路地ですから日陰になっているようです?・・・高い建物、日影ができる・・・日陰の場所が多ければ・・・

・・・日中40度近くになっても・・・直射日光が当たらず、木陰と一緒、すごし易いのだそうですよ。

それで高い建物に、狭い路地、日影ができれば多少快適に過ごせる・・・この土地の工夫だそうですよ。

このような教会は数多くあります。ここは立派な紋章が付いている貴族の館です。

Residencia Universitaria Nuestra Señora de los Remedios、現在はキリスト教の女子学生寮

この街の建物は、通りに面する部分からは内部は見えない。大きな扉で塞がれています、しかし内部には中庭があり廻廊もある広い邸宅が多い。

この地でも何度となく争いがあり・・・戦争状態に入ると長期戦には食料と水が欠かせない。

中庭は樹木も茂り噴水もあったりと・・・そう、ローマ時代から・・・同じ光景が・・・ナポリ、火山灰に埋もれたポンペイの遺跡にも中庭様式がありました。

アラブ風でしょうか?、中庭は生活のオアシスであり、重要な水瓶の役目もあったようです。

この先を左に曲がり、コレヒオ・ドンセージャス通りと言う所に入ると目の前に、

 

・・・道路の目の前が、・・・左右の住居の屋根を繋いで、更にその上に建て増しをしたような構造です。

木製の梁や窓枠が・・・風雨にさらされて・・・歴史を感じます。これも日陰効果を求めて?

ここを通り抜けて右に曲がり、・・・路地を進み、商店街?などを抜けて、旧市街の西側、フデリア通りに入った・・・

すると角の建物にこのようなシンボルが・・・1492年 BARRIO DE LA JUDERIA ユダヤ人街 ・・・何か訳ありでしょう。

1492年とは、コロンブスが大西洋を横断し新大陸発見しています。・・・ユダヤとの関係? 

1492年南部のグラナダがようやく陥落し、キリスト教徒がスペイン全土を奪還し、3月31日「ユダヤ教徒追放令」が発せられています。

全てのユダヤ人(一説では、ユダヤ教徒)は、キリスト教に改宗するか4か月以内に国外退去をせよ!

ユダヤ人は金融・医学・錬金術などに才能を発揮し・・・社会でも重要な地位に就くようになってくるとキリスト教社会から反発も生まれます。

・・・これ以前にもイスラム教徒、ユダヤ教徒に異端審判もありました・・・隠れユダヤ教徒の告発が目的とされたが、

実態は、改宗したユダヤ人が裕福になり、ねたまれて・・・財産を徴収することが狙いだったとの説もあります・・・

・・・追放令後約15~20万人が国外に去ったとの説がありましたが、脱出してくると近隣国も迷惑で受入れに抵抗もあり、最近では10万人以下との説が注目されてます。

トレドでは多くのユダヤ人が改宗して残り、彼らの集まりシナゴーグ(集会所・教会)は追放令以後も利用が認められました。

ユダヤ人街 1492 伝いたいメッセージは? ユダヤ人への迫害の歴史、それとも神に選ばれた民族の復興・・・? ユダヤ人も住んでいるユダヤ人街です。

・・・ここから左に折れ、間もなくサント・トメ通り、商店街を進むと時々見えた鐘楼が目の前に近づいてきました。

この煉瓦積み、モザイク模様で洒落ているでしょう。・・・素材が・・・タホ川の河原の石も陶器も利用しているそうです。

手前の路地を右に曲がり横の入口から・・・チケットが必要です。

この教会は?・・・期待して・・・では、帽子をとって、・・・写真撮影はできないようです。

ガイドに続いて、・・・一直線に・・・この作品の前に、

・・・サント・トメ教会の再建に尽くしたオルガス伯爵が1323年に亡くなる、この埋葬の際に天国から殉教者と聖人が降臨し参列者の目前で埋葬したという逸話が題材。

 

エル・グレコが1586年から1588年にかけて、この教会の聖母マリア礼拝堂に描いた作品で、今日でも鮮やかな色彩です、

祭壇画ですから天井まで届く、460cm×360cmと大作です。人物は特徴のある10頭身以上とも思えるプロポーション。

参列者は首回りのひだ襟(ラフ)を身に着けていますが、これは16世紀中頃から17世紀前半の流行といわれます。

題材の主人公オルガス伯爵の時代(14世紀当時)にはこの様なファッションは無く、ここに描かれている参列者は・・・

・・・エル・グレコが生活していた当時、トレドに実在した著名人を参列者として描きこんでいるとされています。

登場人物の一例 解釈としては左下は内縁の妻の子供、左から7番目はグレコ自身・・・といわれています。

・・・ところで、エル・グレコの名声を高めたジャンルは肖像画である。(プラド美術館ガイドブックより)

そして、パンフッレットの表紙にも

・・・この肖像画「胸に手を置く騎士」、モデルはトレドの上級公証人ファン・デ・シルバの可能性が指摘されています。

この肖像画は、「オルガス伯爵の埋葬」の参列者達と同じようなファッションです。

この方参列者の中に・・・左から8番目、顔をか少し傾けた人がこの肖像画の方でしょう。

肖像画は、スペインの騎士スタイルで描かれ、中指と薬指を合わせています・・・この手の形がスマートだそうでエル・グレコの特徴です。

不明とされていたモデルを今日でも熱心に調査されている方達が存在していることに・・・感心します。

 

「オルガス伯爵の埋葬」を鑑賞し、正面から出てくると、教会はこのような建物でした・・・近くて全景が映らない。

右隣が PALACIO DE FUENSALIDA  フェンサリダ宮殿、手前にEU(ユーロ)の旗も見えます。

これから・・・トレドの名物、刃物工業、象嵌・彫金の店に入ります。これらのコースも定番のようです。

スペインは大航海時代にボリビアやメキシコの銀山から大量の銀を手に入れ突然裕福になりました。

銀製品もその後、有力な商品となります、今日では、お土産の鎧、剣、短剣、ナイフ、民生品、アクセサリー、Etc.

このショップから少し離れた所に、このような工芸品のショップもありました。よく見るとショーウインドウ内は、

 レトロな日本、ジャポニズム・・・輸出用の陶器でしょうか。

日本語で店の人に話しかけられたが、時間が無く、商品の説明が聞けなかった。

この店の前の道路を渡り、路地の先に目指す別の高い鐘楼が見えます。上部に三輪のような・・・特徴的です。

この路地を下っていくと、視界が開け・・・広場に出ました。

ここがトレド大聖堂でしょう。

正面に奥行きのある3つの門があります、左に先程の鐘楼、広場がそれほど広くないので下から見上げることになります。

ファサード(正面)中央に大きな門、左右に小さな門の3廊式、ここまではフランスに多くあるノートルダム寺院(大聖堂)と同じですが

何故か左隣の鐘楼の幅が広くて上層部まで重厚感があり、塔の存在感が大きい・・・アンバランス。

・・・この大聖堂はスペインカトリック教会の総本山、トレド大司教座が置かれているといいます。(司教座:カテドラ、司教座教会:カテドラル)

 ここにも車が入ってきた・・・トレド警察!、・・・隣は、小さいセニョリータ 学校帰り?

 広場の反対側は市庁舎、これも古い・・・この市庁舎はエル・グレコの息子が設計したそうです。

・・・では大聖堂内部へ、右側の路地を進むとチケット売り場と入口があります。

入場券(一般の教会は入場料は無いのですが、ここも有料10€です)が必要となります。

ここが入口です。建築時は資材の搬入口といわれます。

 いざ内部へ、・・・教会内は予想以上に暗い、目が慣れればという感じ、天井は高いが・・・採光が弱いか?

先ずは、身廊(シンロウ)の全景を眺めながら、左前方の一角に案内された、

・・・左奥の部屋は宝物室、数々のお宝の中で、中央の台上の物が遠くから光り輝いている・・・

いきなり黄金と思われるお宝に遭遇、これは高さ3m、総重量200㎏、金、銀、宝石の置物が・・・

金の一部はコロンブスがアメリカから持ち帰ったものが使われていると説明されている。

16世紀の作品、これが聖体顕示台、祭りで市中に登場するお宝といえば、日本のお神輿と似ているでしょうか

 正面入り口近くに戻って、天井を見上げる。

採光を兼ねたステンドグラス、通称「バラ窓」と呼ばれる。ステンドグラスは、材料が進化するので作成された年代が新しいほど明るく鮮やか。

バラ窓も、多分この時代頃から作られたと思いますが。

 中央部の身廊、天井を見上げると、

 この天井のリブ構造はよく見かけます。天井を高くできるようになったゴシック建築の特徴です。

左右にステンドグラスがたくさんありますが、位置が高く壁面に占める面積が少なく、採光の効果や鑑賞をするには残念な結果になっていますが、

当時トレドの人々はこの教会に入ると、・・・天上界から彩色されたまばゆい光が差し込んで、

・・・多少薄暗い参列席に座ると、ここは異次元の世界だったことでしょう。演出効果は十分発揮されています。

身廊を東に進むと、中央部が仕切られていました。

一般の教会参列者はここまで、通路の左右の席に着席(我々は見学者で別)仕切りの向こうは聖歌隊席となり前後左右、四面ともに囲まれています。

聖歌隊席への入口は東側、回り込んで・・・

仕切られた鉄柵の内部は結構広い、西の正面側天井に先程のバラ窓が見えています。

そして、一般住民との中央仕切り部の上にも大きな彫刻があります、左右にも・・・

入口の扉から中に入ると、少し高い壇上中央に

マリア像、トレドの守護神が立っていました。

 そして聖歌隊席の側面に設置されているのが・・・

 パイプオルガン、音が出ていなくても重厚で威厳のある装飾物

反対側にもこのように豪華な

これらは歴史的に重要なパイプオルガンのようです。他にも周囲には、彫刻類がたくさんあります。

椅子などにもストーリのある彫刻が彫られています。

・・・そして、教会内部で一番重要な場所は・・・

ここで振り返ると、その先は内陣と呼ばれる場所となります。そしてそこに置かれた祭壇が見えます。

 この位置から見る内陣の荘厳さは、創造以上であり、トレドにこんな凄い教会があったんだと驚きました。

 よく見ると、この位置からは、背景の構造物が焦点をセンターラインに集め、縦方向のポイントで奥行き感が演出され、

色彩効果と合わさり、祭壇部の磔刑像が悲劇のヒーローとして視線が集まります。

ここの聖歌隊席から結構離れています・・・近づいて・・・黒いシルエットの柵は、エッ!ここにも頑丈な鉄柵?施錠されている。

・・・この間のスペース(聖歌隊席と祭壇の間)は、貴族や来賓などの特別席として使用されたと思います。

我々見学者は鉄柵に遮断されて内陣には入れません。

柵の幅が15Cm位だったので、何とかカメラのレンズを柵の間に入れて撮影しましょう。(もちろんストロボは禁止)

これが主催壇、凝ってますね。

鉄柵で下側が見えなかったが、磔刑のシンボルは天井に近いところにあります。

あえて失礼な表現をするならば、オッ! 時計仕掛けのカラクリ人形が次々に動き回るかな?と思ってしまう。

人物が彩色されて目立つ存在なのですが、各コーナーのバルコニー状の台座が気になる。

少しアップしてみましょう。

 凹凸のゴールドが眩しく、豪華な材料は気が散って、人物像・そして場面展開のストーリー?・・・集中できそうに無い。

新約聖書の20場面とのことですが・・・

講談社 世界美術大系 第17巻 スペイン美術 によれば、当時トレドに在中していた内外の彫刻家を総動員して、1504年に完成させたとあります。

・・・主祭壇の裏側にも、凝った彫刻が施された祭壇衝立があります、後期スペイン・バロック様式の最高傑作、1732年完成、トランスパレンテと呼ばれる。

後陣の一部を打ち抜き天上の窓からの光を大理石とブロンズの祭壇上部に降り注ぐような演出で劇的な空間を実現しています。

この写真、露光不足で作品の豪華さが表現できていないのをお詫びします。

隣の礼拝堂など・・・割愛。

・・・もう一か所重要な場所が、礼拝堂の横にあります。・・・聖具室に進みます。

左右にも著名人の作品がたくさんあるのですが、正面の存在感が大きすぎます。

赤い衣装の聖母ではなく、男性です・・・、・・・主人公の衣装が目立ちすぎます、ヴェネチア時代の師テッツィアーノ「聖母被昇天」の影響もあると思われます。

 この作品「聖衣剥奪」、エル・グレコ 有名な作品ですが、絵の構成、技法ではなくて・・・様々な解説があります。

 作品の制作年代:1577~1579年 サイズ:285×173cm

エル・グレコ 宮廷画家を目指したが・・・なれなかった。37歳の作品

題材は、ナザレのイエスが朝9時頃、ゴルゴダの丘の上、磔刑になる直前、衣類(聖衣)をはぎ取られる(剥奪)そんなシーンです。

左下に女性が1.2.3人・・・誰を描いたのでしょうか? 小ヤコブの母、聖母、マクダラのマリア、・・・だったのでしょう、

しかし、教会側は認められない人が含まれている・・・すると、マリアはOKなので、マリアがなぜ3人か?と作者に不満から文句が出てくる。

さらに、キリストの頭上に人々がいるのは、冒涜だろうとお怒りになり、教会からの支払いは1/3位に減額と言われた。

グレコは金額のトラブルは過去によくあり、訴えたが・・・敗訴、そこで作品を渡さず、・・・教会側は、異端審問にかけると脅したとか?

結局どうなったか? 多少金額が上乗せされたとの説がありますが出典元は不明で関心のある方は調べて頂けますように。

・・・

天井画の説明も受けたが・・・「聖イルデフォンソの昇天」も有名です。

他の作品を見ていて、確か・・・奥から手前に鑑賞者が移動すると・・・

天井画で、龍の目がどこに行っても睨んでいる作品がありますが・・・似たような話だったか?

天井画で同じような印象として残っているのが、2013.11.17 アップの南ドイツ ヴィース教会です。

天井には

何もない田舎に観光客がどっとやって来るドイツの教会です。

・・・他、割愛、他にも寄りたい所があったが時間のようです。 

追記です、グーグルの衛星画像から大聖堂配置をご参照ください。

では、街中に・・・ 

 商店街の散策もできず・・・休憩用の椅子?

 違いますね、車輛進入禁止、車止めです。エリア内の住民は、リモコンで上下させ通行可能です。

中心部から下り坂を進んできました。こちらの教会は相当古いようです。

この先、狭い路地を下れば、数百メートルでエスカレータ乗り場でしょう。

・・・

 駐車場から北に500m、古い円形の競技場、Plaza de toros de Toledo トレド闘牛場がありました。

ゴヤが闘牛場の石版画を描いていました。

様式化される前の荒々しい格闘スタイル、溢れた観客が場内の片隅で歓声を上げている・・・

 歓声が聞こえたような・・・トレドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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プラド美術館 GOYAの時代

2017-03-09 | 旅行記

・・・ゴヤ(1746-1828)は、ルネサンスの主人公レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生から約300年も時代が進んだ頃に登場し、歴史に名を残した人物です。

プラド美術館のガイドブックによれば、「1819年のプラド美術館創立当初、存命中のゴヤの作品は3点が展示されたのみであった」と記されています。

それ以降、王室コレクションはじめ、各方面から収集し、約150点の絵画、500作の素描・版画シリーズなどを収蔵し、量・質ともに世界最大のゴヤ・コレクションを誇っています。

ベラスケス(1599-1660)とレンブラント(1606-1669)を師と仰ぎ、自然を愛した方のようです。

ゴヤの作品の前に、・・・プラド美術館にもルネサンス三大スターの作品がありました。

「枢機卿」(1510-1511頃)  ヴァチカンの枢機卿ですがモデルの名前は不明のようです。

この人物の表情、朱色と白で織りなす見事な衣裳の質感、立体感、濃淡・ハイライトの描画テクニック、美に対する繊細な感性が感じられます。

作者はラファエロ・サンティ(1483-1520)、宮廷画家であった父の血筋でしょう、天才肌です。

肖像画も多く描いています。彼をフィレンツエからローマに呼び寄せたのがユリウス2世。

教皇がスポンサーとなり「ローマ教皇ユリウス2世の肖像」を作成しています。人気者ですから、次の教皇レオ10世からも

「ローマ教皇レオ10世の肖像」

次々に依頼されています。ローマ時代には大きな工房を持ち大活躍します、スタッフを抱え、プロデューサーの才能も有り、社交的で若くして大成功した人物です。

優しく優美な聖母子像は、ラファエロ人気の作品で独特の雰囲気があります。

母を8歳で亡くし、年少から仕事を手伝っていた宮廷画家の父も11歳で亡くしています。母を想い理想の聖母を描いていたのでしょうか。

プラドにあるのは「聖家族」1518年(35歳)頃の作、・・・残念ながらこの後若くしてここローマで亡くなります。

・・・これらはローマ時代の作品です。彼は25歳の頃ローマに来ます。

その前の17歳頃~25歳までの頃、憧れのフィレンツエに何度か行くうちに、フィレンツェに数年間落ち着きます。

この頃フィレンツェで巨匠と新鋭の彫刻家、将来有望の少年とルネッサンス三大スターが顔を合わせる事になったのです。

・・・1498年、巨匠はミラノで46歳「最後の晩餐」を完成させ、争いが静まったフィレンツェに1500年ころ戻ってきました。ここで「モナ・リザ」や「レダと白鳥」などの制作に入ります。

一方フィレンツエで学んでいたが才能を見込まれ、若い彫刻家は1496年ローマに招待され、1498年から制作を始め2年後、25歳で2作目の作品として「ピエタ」を完成させ人々に衝撃を与えます。ミケランジェロです。

今日、「ピエタ」はサン・ピエトロ大聖堂1階右側防護ガラスの中に置かれています。

1500年頃フィレンツェに戻って「ダビデ像」の制作を依頼され、1504年完成させます。

「ダビデ像を」市庁舎広場のどこに据付けるか、依頼主や市、巨匠とカンカンガクガク・・・。今日では、当初の位置にレプリカが置かれています。

ここに、この時代、少年ラファエロが、熱気溢れるフィレンツェにやってきました。最先端の芸術に触れられたのです。

もちろん憧れのレオナルド・ダ・ヴィンチの工房に行き、制作中の「モナ・リザ」(1503~1506年頃)、や「レダと白鳥」などを夢中で模写しているようです。これらの模写作品も有名になっています。

 こちらもルーブル美術館で、防護ガラスに囲まれた特別展示室に展示されています。

巨匠はフィレンツェ政庁舎の大会議室壁画の製作依頼を受け、「アンギリアーリの戦い」に着手、

向かいに「カッシーナの戦い」を競作として描くことになり青年彫刻家に依頼されました。

・・・ところで、フィレンツェでは、有名なメディチ家が1494年に追放され、メディチ銀行は破綻、財産没収されましたが、

約20年後ローマにおいて、メディチ家当主のジョバンニ枢機卿が1513年「ローマ教皇」に選出されます。

ラファエロの先程の作品「レオ10世」がその方です。

・・・さてフィレンツエでは、巨匠のレオナルド・ダ・ヴィンチも気鋭の彫刻家ミケランジェロも、新作絵具の失敗や多忙なこともあり、

1505年頃には大会議室の壁画は共に製作途中で放棄された状態になったようです。

遠く南のローマ、カトリックの総本山では、1505年教皇ユリウス2世がサン・ピエトロ大聖堂の大改築を始めます。

ラファエロはローマ教皇ユリウス2世の招きで1508年からローマに移り、多くの大作を残しています。

・・・ミケランジェロは、ユリウス2世から1505年ローマに呼び戻され自分の(ユリウス2世)霊廟を造るように命じられています。

ラファエロは翌年には、教皇の宮殿の壁面にこの有名な大作を含む作品を一部完成させています。

今日、ヴァチカン宮殿のラファエロの間に、この「アテナイの学堂」(1509-1510)などがあります。

・・・彫刻家ミケランジェロはユリウス2世から、霊廟と並行して礼拝堂の天井画を描くように命じられます。題材は12使徒。

気乗りがしない・・・彫刻が一番・・・題材を勝手に12使徒から旧約聖書の「創世記」に変えて、着手します。

この礼拝堂は、ラファエロが「アテナイの学堂」等を制作していました宮殿とサン・ピエトロ大聖堂の間にありました。

1511年ミケランジェロが制作中で未完成の「礼拝堂天井画」を天井の足場を一部外し、大聖堂改築責任者のブラマンテが密かに見せたという話も有名です。

・・・ミケランジェロはラファエロを嫌っていたそうで、ラファイロの死後も彼の作品は盗作だと非難していたようです。

話が脱線・・・この時代に関心があるのでつい・・・

 ・・・・・

フランシスコ・デ・ゴヤ、Francisco Goya y Lucientes(1746年~1828年)

生誕の地はバルセロナの東、首都マドリードとの中間位にあるサラゴサという街の近くで、父親は金メッキ職人といわれる。

14歳から地元サラゴサで絵画の修行、・・・、24歳でイタリア、ローマに留学、翌年サラゴサに帰ると地元の教会などから次々と仕事が舞い込む。

やはり、この時代になってもイタリア帰りの看板は効果があったようです。やがて27歳で結婚し、マドリードで王立タペストリー工場で40歳頃まで下絵描きをしています。

タペストリーは、下絵を基にして織り込まれ織物が完成します。

この下絵が重要で装飾絵画の一分野とされ、彼の一連の作品は評判を呼び、178943歳、カルロス4世の即位と共に宮廷画家(国王の専属画家)となります。

人気肖像画家として貴族、政治家とも交際が広がり、社会的地位も得ていきます。

しかし、二つの不幸が襲います。179347歳の時、病気から聴覚を失います。

次の不幸は戦争の現実、ガイドブックなどによると、

・・・1807年フランス・ナポレオン軍がスペインに侵攻し支配下に置かれる。1808年、ナポレオンの兄がホセ1世としスペイン王国の王位に就く。

市民からはスペイン独立戦争が始まる、・・・複雑でしょう。

ゴヤは当時62歳、絶対王政スペイン政府が倒されて、・・・宮廷画家ではあるが知識人たちとも交流があり、宗教的権威に反対する啓蒙主義のホセ1世(ジョセフ・ボナパルト)政権を支持した。

時代遅れの王政から自由で理性的な新しい政治に期待して・・・。

しかし、現実の戦争は・・・残虐で不条理なものでしかなかった。圧倒的な失望感に襲われた。

・・・やがてフランス軍がスペインから駆逐され、フェルナンド7世(1813-1833)が復帰、・・・ゴヤは宮廷画家の粛清から免れたが、友人は新仏派、自由主義者の罪名で投獄される。

・・・181973歳晩年マドリード郊外に買った家の壁に謎の多い「黒い絵シリーズ」と呼ばれる絵を描いています。

1828年、亡命先のフランス・ボルドーで波乱の人生、82年間の幕を降ろします。

・・・どのような時代にどのような環境で生活されていたのか、作品と作品の背景に興味がわいてきます。

1800年 カルロス4世の家族 280×336㎝ ゴヤのコーナで人混みになる人気作品です。

詳細な解釈・説明が多方面でされています。

中央右の王子(末子)の描画には、・・・子供には優しさあふれる視線が感じられる。

宮廷直々の注文の王室一家の肖像画ですが、じっくり見て下さい。王子の右隣は国王です、理性と威厳が?・・・政治に無能な王様だったようです。

左側の端から二番目の青年は、皇太子、その後ろが弟の王子・・・その後・・・尊敬するベラスケスと同じように影の中からこちらを見ているのがゴヤ本人です。

右端は、パルマ公爵の妻(王女)腕には国王夫妻の孫、その左長身の男性が夫、さらにその左隣で国王との間の夫婦が王の弟とその妻(当時すでに故人)、

さて国王の王妃は、右手で娘(王女)を抱えて笑顔で素敵に?・・・顎を突き出して不満そうです。(こんな話も・・・王妃マリア・ルイサと愛人が実権を握っていた)

王妃からゴヤにクレームが当然出ました・・・が、ゴヤは毅然とありのままにと言ったかはわかりませんが、修正はしません。

皇太子と王妃の間に、左から4番目は王の妹(内親王)顔に黒い小片がありますが・・・膏薬(コウヤク)だそうです。(普通は描きませんが・・・)

その右側は、・・・肖像画ですから横向きは無いでしょう・・・皇太子が嫌いだったようで、まだ決まらないどこかの王女のようです。

ガイドブックによれば、ゴヤの王室に対する批判との解釈がされた時期があったが、フランスとの関係が険悪であった当時において、

スペイン・ブルボン家の正当性(フランス・ブルボン朝は当時すでに革命により断絶している)と、その重要性を主張したと見るのが妥当である

と書かれていました。(ご参考まで)

・・・ 

「裸のマヤ」制作年代が1800年以前とあります。98×191㎝ 

個人宅の壁面に飾っていたのでしょう。

依頼主も不明、もちろんカトリックの国です、裸体画は異端(カトリックの教えに反する)審問の対象になります。

当然有力な権力者からのポルノの依頼でしょう。リスク覚悟で描いていますが、1815年、国王に告発者があったのでしょう、ゴヤが異端審問所に召喚されたとする説があります。

異端審問、実はフランス統治下の1808年廃止されたが、1814年にフランスから独立すると復活します。

裸体の表現は、厳格なスペインではタブーで、・・・結果は?・・・警告くらいだったのでしょう。

125000人くらいの裁判があり、1~2%が死刑、大半は警告か、無罪だったようです。

「着衣のマハ」 1800~1808年 95×190㎝

「裸のマヤ」と「着衣のマヤ」は並んで展示されています。両作品とも有名ですから、ここも人混みとなっています。

この作品は、1808年のゴドイの資産リストにその記録があるそうです・・・1808年の作成?・・・この年は?・・・、

ナポレオンの侵攻で慌てて資産リストを作成したのでしょう、裸のマヤは記載されていませんが・・・。

・・・次が連作となっていますが、ゴヤの葛藤でしょうか 。祖国の一大事、1808年です。

「1808年5月3日の銃殺」 1814年~  268×347㎝  (ゴヤは、・・・無名の市民を英雄として描いた)

5月2日 市民が隆起する、・・・マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場で、素手やナイフで仏騎兵に立ち向かったが捕えられ・・・

その日午後から夜にかけて、フランス軍はマドリードの各所で反乱に加担した者を命令により銃殺で処刑した。

直視できず、フランス兵は目を伏せて撃っていたのでしょうか?

中央から右に処刑を待つ人々の列が・・・

フランス軍の外燈の光が照らし出す・・・この場所は、マドリードの外周門プエルタ・デ・ラ・ベガ付近と思われ、

背景の塔は、サンタ・マリア・レアル教会かサン・ニコラス教会と思われるとあります。

この絵の細かい説明が色々ありますが、割愛。

・・・(それから6年間抗仏戦争の後、1814年にフランス軍を追い出す。)

このような社会性のある絵が、その後ピカソらに影響を与えました。

・・・

他にもあるプラド美術館、人気画家の作品を3点ほど

この画家も波乱の人生、モデルを使用して考えた、構図、光と影、ドラマチックな作品の数々

「ゴリアテを負かしたダヴィデ」1600年頃の作品 110.4×91.3

カラヴァッジオ 1571年生まれ

「ゴリアテの首を持つダビデ」:ローマ「ボルゲーゼ美術館」も有名です。

 ・・・

「三美神」 1630~1635年頃の作品 220.5×182

ルーべンス 1577年生まれ 

このような(現実的な)肉感あふれる女性美は・・・ご覧になるのは?始めてでしょう。

肉屋のルーベンス、血の通った生身の身体の美しさが好き、(太った女性が好き)のようです。

 ・・・

「ユディト、ホロフェルネスの晩餐会の席にて」 1634年頃の作品 142×154

4

レンブラント 1606年生まれ

オランダ絵画の巨匠、この作品も従来の1887頃の写真では左奥に袋を持った老女やカーテンがあることで解釈が変わって来て・・・

題名も、・・・晩餐会の席にてと変わってきています。

また、有名な「夜警」1642年作・・・も背景の黒は経年変化で茶色く変色していたためで、市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)の行進を命令する

との記述がある素描が見つかり、昼の情景を描いていることに解釈も変わりそうです。

 ・・・

そう!、最後にガイドさんの重要な一言が・・・

ここに展示されている「モナ・リザの複製」は1666年からスペイン王室のコレクションとなっていました。

・・・18世紀に背後に広がる景観が黒く塗りつぶされていたが、最近(2011)無傷の状態で洗浄が済むと、上塗りで隠された変更点、訂正箇所が発見された。

これらはオリジナルのルーブル美術館と大部分で共通しているので、ダ・ヴィンチの工房の作者不明「モナ・リザの複製」は、オリジナルと並行して同時に描かれた作品である。

但し、スフマート技法とはかけ離れたイラスト的作風で弟子の作品と思われるが、高価な顔料が使われ保存状態も良く単なる複製ではないことがわかる貴重な作品とのことです。

(背景の描写・色彩が分かり易いですね、この作品から背景について新しい解釈が生まれてきそうです。)

何度でも見たくなる、そんな作品がたくさん増えると楽しいですね。では、

 

 

 

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プラド美術館

2017-03-02 | 旅行記

何故、欧米の大半でカトリック教がベースにあるのか? ・・・ローマ帝国の歴史を学ぶと多少理解できたつもりが、今日、何故それらの関係者が一神教を捨てないのか、なかなか理解できないでいます。

・・・ユダヤ教からキリスト教が枝分かれし、さらにイスラム教が遅れて地中から芽を出し、同じ神のみを唯一信じる集団がお互いを憎しみ合っている構図があります。

しかし現実に地球上には、彼らが敬う神以外に無数の神を信じる人々が存在する多神教の世界であり、神から選ばれたと主張するユダヤ人は自己中だが、彼らが金のみが力と・・・世界を動かしていることも現実であるようです。

多神教だったギリシャ・ローマ帝国初期、・・・キリスト教が治世のために国教となり・・・結果、停滞した中世(ビザンティン・ロマネスク・ゴシック)・・・そして再び人間は元々自由だ・・・とギリシャ・ローマ文明を見直す時がきた・・・ルネッサンス・・・

この時代から少しづつ自由を勝ち取っていく軌跡が見えてきます。この時代の生き証人の作品に触れられるのが一番の楽しみです。

・・・かつて、15分間と時間制限のある静寂の空間で・・・この作品に息をのみ

教会・食堂に描かれた レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に感動し、

また、より高く、より高く、天に近づくようにと・・・このような所まで描かれた力作を手が届く位置で鑑賞し

各地のドゥオーモ(大聖堂)に登り、当時の建築技術に驚き(上記はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂内部)、

偶像崇拝が禁止された宗教ではあるが、教会壁面にPR絵画を描くことで作品が人々に感動を与えることができた。

旧約聖書や新約聖書を題材にしながらも、過去の様式にこだわらず依頼主と渡り合い、自由な発想で構成し芸術の域に仕上げた人々の作品に出合える

バチカン宮殿 システーナ礼拝堂のミケランジェロの大作も旧約聖書が題材です。

隣接するサン・ピエトロ大聖堂(カトリック教の大本山)は堕落したと指摘され、プロテスタントに流れる信者を引き留めるには

市民を圧倒させる作品により非日常的な空間が必要だった。

後にルネッサンスと呼ばれる16世紀に、これらの人々は教会に出入りする絵描き職人から、職業画家や彫刻家として名声を得られる時代となりました。

そして日本で家康が権力を握るころ、イタリアでは「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛されたジャン・ロレンツオ・ベルニーニが活躍します。

ローマには多くの作品がありますが、ボルゲーゼ美術館(要予約)にも、素晴らしい作品がありました。

その中の1点、「プロセルピナの略奪」1622年、ベルニーニ23歳ころの大理石の彫刻作品です。 

芸術の都はイタリアでしたが、このような時代に、ここスペインでも著名な画家が登場しました。

・・・ スペイン・マドリード

緑の並木道と広大な公園の一角にプラド美術館があります。

道路から階段を降りて、振り向くとGOYAの銅像がありました。ここがゴヤ門。

美術館正面から左に回り込んで

左の高台に教会が見えます。その階段の下が一般の人の入り口です。

冬の季節は、美術館めぐりには好都合です。混雑していることが少ないからですが、時々課外授業で生徒が大勢で来館している場合もありますが・・・どうでしょうか。

館内は写真・ビデオ撮影禁止です。プラド美術館ガイドブックなどから雰囲気と作品を転用します。

・・・こちらは、スペインのお宝の一つです。

実物に接すると、その作品が依頼された状況や掲げられた空間を考えると、多少なりとも作品の理解に役立つ気がします。

 美術館の展示品は、一般的に収蔵されている作品のごく一部が展示されているにすぎません。

お宝の作品は常設でいつでも鑑賞できますが、人気の作品は貸し出し中の場合もあります。

このプラド美術館は世界3大美術館のひとつ、3万点の所蔵品を有し、自慢は略奪品が無いことだそうです。

この中から約3000点が展示され、絵画だけでも約1000点を超え、中世から18世紀のスペイン絵画が半数を占めるとのこと。

スペイン三大画家と呼ばれる人々の中で最も早い時期に活躍した方が、エル・グレコ(El Greco)。

本名は別にあるのです:ドメニコス・テオトコプーロス、1541年ギリシャ アテネの南の大きな島クレタ島生まれ、クレタ島時代の作品(20代中頃の作品)は中世の宗教絵画風、

ヴェネツィアへと旅立ち、テッツィアーノに師事し色彩を学んだのでしょう、しかしこの地は競争が激しい。

ローマに移り工房を開き、頑張っていると顧客ができ、多少自信がついて、・・・憧れのミケランジェロ(亡くなって6年後にローマに来た)の「最後の審判」を時代に合わせ描き直しましょうと言ったといわれる。

--

ミケランジェロ作 システィーナ礼拝堂の祭壇画 「最後の審判」(1535着手-1541完成)

ミケランジェロを超える自信があるとまで・・・この作品はローマ市民のお宝であり、サンピエトロ大聖堂も彼の功績が大です、イタリアの英雄です。

・・・当然でしょう、若者はローマ市民の反発を受け、仕事は減り・・・ローマを離れる・・・、どうするか。

この事件の少し前に、イタリア南東のレバント沖で海戦(1571年)があり、無敵艦隊のスペインが、長く地中海の制海権を握っていたオスマン・トルコ海軍を破って制海権を取り戻しています。

この話題は各地に届いていたでしょう。(先のセルバンテスさん:ドンキホーテの作者、この海戦で左手を負傷)

・・・34歳で、決心したのはクレタ島へ・・・戻らず、世界最強の国スペインに渡ることでした。

・・・新しい都マドリード(1561年にフェリペ2世が王宮を移す)にも行ったでしょうが、歴史のある旧首都トレドで、1577年36歳で工房を開きます。

人気のイタリアからやってきたギリシャ人、・・・彼は地元の人に、あだ名で El Greco エル・グレコ(ギリシャ人)と呼ばれるようになります。

早速新築の教会から祭壇画を依頼され、8枚の作品を描きあげます。

今日その中で有名な「聖三位一体」が、ここプラド美術館に展示されていました。(画像 略)

エル・グレコは、ティントレットからも影響を受けたと言われ、構図や、動き、色彩など個性のある作品です。

この作品は、エル・グレコ晩年の作で、自分が永眠する教会の祭壇装飾の一部で、

誕生したイエスの覆いを聖母マリアが取り去ると光が聖ヨセフ、羊飼い、そして天界まで照らしているとされます。

エル・グレコの作品は、トレドに数多く残っています。(別途)

ベラスケス (ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス:1599-1660)

ガイドブックによると、このプラド美術館には、ボス、ティツィアーノ、ルーベンス、ゴヤなど巨匠と呼ばれる作品が数多く所蔵されているが、

看板として挙げるならベラスケスをおいて他にはない。彼の作品約120点のうち、50点を所蔵しているとされます。

その作品は1899年以来、施設内の最も地位の高い場所に展示さてれきました。

 ベラスケスとはどんな人物で、どのような経歴なのでしょう。

作品の背景が気になって調べてみました。年代は、1599年セビリア生まれ、1660年没、同年代にイタリア、ナポリ生まれのベルニーニがいます。(1598年~1680年 20年長生きしていますが)

最高傑作とされる晩年の作品です。

この展示場所は2階(現地は1F表示)中央。彼のコーナーの中で最高傑作とされるのが「女官たち」「ラス・メニーナス」1656、318×276㎝

・・・登場人物は、中央に王女:マルガリータ、その左右に白い洋服の女官(マリア・・・・)、(イサベル・・・・)、右下の犬を踏んでいる女の子が道化(ニコラシート・・・)、

その左で結構目立つ顔の人物は、軟骨無形成症(小人)(マリバールボラ)、その後ろ、ぼやけている人物の名前は不明、隣が(マルセラ・・・)、

左端の絵筆の人物が、当人のベラスケス、奥の階段からこちらを見ているのが配室長・王妃の侍従(ホセ・ニエト)、

登場人物は総勢9人と犬1匹、4人の視線の先にベラスケスのモデルが立っている。

モデルは国王夫妻、その姿が王女の右後ろ、鏡の中に描かれています。鏡の中の夫妻は実像が移っているのか、ベラスケスの描いているキャンバスの作品が映っているのか、鏡の角度からして実像でしょうか。

モデルの立ち位置から見た構図です。

ベラスケスはある日の一場面を忠実に描写する・・・王女以外の登場人物も丁寧に描写しています。

遠近法などの技法を巧みに使い立体感のある作品です。

作品も大きいですが、作品に描かれているキャンバスも大きく、また王室内部も天井が高く、数多くの作品が掛けられています。

この作品は、どこの場所に置かれたのでしょうか?国王の書斎という説がありますが。

マドリードのフェリペ4世の王城で火災に会い損傷し左右のサイズが小さくなり、王女の顔も修復されたそうです。

その場所に現在の王宮が建てられているようです。・・・10m以上離れても存在感のある作品でした。

・・・ベラスケスも若くして画力があります。1619年20歳「東方三博士の礼拝」(画像 略)などすぐれた作品が展示されています。

フェリペ4世即位後1623年にマドリードに移り、間もなく宮廷画家として召し抱えられる。

フェリペ4世の時代、まだ絵画は工芸で芸術とは見なされなかった。

ベラスケスは肖像画中心に描いていたが歴史画も描け1628年から宮廷内の役職を任命され、徐々に高い地位に上って行きます。

1629年8月から国王の許可を得てイタリアに2年間留学。(後にもう一度イタリアに行って皇帝の肖像画も描いています)

宗教画の依頼よりも肖像画の依頼が多く、その中で1632年(33歳)修道院の依頼で「十字架上のキリスト」248×169㎝ を完成。 

4本釘の様式で、従来の慣習と異なり背景が無く、傑作と言われスペインで最も多く模写された作品という。

・・・肖像画は時の国王より権力者だったこの人物「オリバーレス公伯爵 ガスパール・デ・グスマーン騎馬像」 1636年頃 313×239㎝

伯爵の肖像画は、威厳のある作品に仕上がっています。

実力があり国王よりも伯爵を尊敬していたとか。

こちらは、新しい宮殿にと描かれた将軍の装束の国王の肖像画です。

前年1635年頃の作品 「フィリペ4世騎馬像」303×317㎝

振り返ってこちらを見下ろす伯爵のポーズに対して、国王は・・・。

・・・1640年代から宮廷画家とフェリペ4世のコレクション収集の兼任担当となり、収集品の責任者です。

1651年2、侍従長に任命されました。このポストを得てから、地位と収入が得られるようになります。

この頃から鑑定家としての活動も始め、プラド美術館の大半のコレクションはベラスケスの指示で収集しています。

そして彼は宮殿内の描いていた部屋を、宮殿美術館・アトリエとして使用することを許さるようになります。

この部屋に度々国王一家が訪れ、「ラス・メニーナス」もここで描かれたようです。

その後ベラスケスは、サンティアゴ騎士修道会の称号を得るために労力を費やし、国王の口添えや教皇の支援を受け1658年に何とか獲得し、貴族集団に名を連ねます。

・・・フェリペ4世の娘、マリア・テレサ王女と従妹にあたるルイ14世との婚礼が、フランスとの国境近くのフェザン島で執り行われ、ベラスケスは宮廷配室長として列席しています。

調べてみると上昇志向が強く、公務が多忙なようですね。まもなく病で、61歳の生涯を閉じます。

・・・城中(書斎?)に掲げられていた「ラス・メニーナス」のベラスケスの胸に、念願だった騎士団の赤い十字架を、書き加えるように・・・・・誰が? フェリペ4世が自分で書き加えたという伝説が残っています。

・・・三大画家の最後は、少し遅れて登場し波乱の時代を生き抜いた「ゴヤ」です。

 

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マドリード市内へ

2017-02-27 | 旅行記

スーツケースを部屋に運び入れ、早速ショッピングモールに出かけよう。

グーグルでホテルの周辺を検索して来たが、どうも目の前の高速道路を反対側に渡るのが不便のようだ。

タクシーで反対側に行くのも分かり難い。ホテルのフロントで聞いてみよう。

・・・すると丁寧にこのような地図で説明して頂いた。

不思議な案内図でしょう・・・オレンジが高速道路、青色のホテルから赤色のショッピングモール行くのに・・・ホテルの周辺部を迂回して

高速道路に架かる横断橋を渡るコース、直線に対して4~5倍の距離となる。・・・歩いて20分位か

ここが目指すショッピングモール3階建て

・・・3階の飲食フロアーは賑わっていた、軽く食べて現地時間 PM9時、

1階のスーパーに行こう、スペインで有名なMERCADONAは10時閉店です。

入口を入ったところにマンダリンオレンジが50㎝もある大きなネットに入って、エッ 2~3ユーロ(約1kg 1ユーロ)安い・・・だが多すぎる。

有名な生ハムのコーナで・・・ハムのパックを探す・・・肉類は日本には持ち帰れないのが残念

左右に各200g、計400g これで500円強・・・右側 開封部分は?・・・すぐに頂いてしまいました。

地元で人気の商品と物価を下調べ・・・アーモンドのローストが見つからない・・・豊富なワインの棚の中から赤ワインと、

エキストラバージンオリーブオイルなどを購入し、閉店時間があっと言う間にやってきた。

・・・最初の一日はこの位で、明日に備えよう。

翌朝、レストランで関係者に、”ブエノス ディアス” 覚えたての挨拶をする。

”ブエノス ディアス”と返事を返され、笑顔で・・×〇×△×◇×・・・こちらに近づきながら早口で尋ねられた。

”アイドンノー・ソーリー”勢いよく自然に両手が肩まで上がった。

お互い笑顔、会話が続けばいいのに”ヤーパン”・・・そしてテーブルに案内して頂いた。

各種のハム、そしてサラダ、エスプレッソ・・・スペイン最初の朝は満ち足りた時間だった。

これからの予定は、午前中にプラド美術館、昼食、午後はトレド、そしてこのホテルにもう1拍することになる。

・・・ヨーロッパのこの季節、日の出は日本より1時間半ほど遅い、日の出はAM8時過ぎ、日の入はPM8時近くとなる。

薄暗い感が残る朝8時過ぎホテルを出発。

「ロシナンテ」・・・何故かこの言葉が頭の片隅に残っていた。スペインで有名なドン・キホーテの物語。

スペイン広場の中央に、中世の雰囲気が漂うモニュメントがあった・・・存在感がありますね。

左端に若干写っているのがマドリード・タワー(Torre de Madrid)高さ142m、1957年建造。

正面はスペイン・ビル(Edificio España)高さ117m、マドリードのランドマークタワーとされます。

1953年の建造で老朽化してますが最近明るい話題があったようです。

中国No.1富豪の大連万達グループが10年以上前にこのビルを購入し、解体し建て替えると発表したら市から計画を棚上げされ、

・・・3年前から市民の反対運動が続き・・・昨年市が計画を認可しないことに決定したそうです。

近寄ってみましょう、これが物語の主人公、ドン・キホーテ(本名:アロンソ・キハーノ)とその名馬?、痩せたロシナンテにまたがり、世が鉄砲の時代に

時代遅れの騎士に変身し、鎧を身に着け、剣、槍を持ち、百姓の太っちょサンチョ・パンサを従えた。我こそは正義の騎士と世直しに・・・我が道を行く物語

この方が、作者ミゲール・デ・セルバンテス(1547~1616年)さん、首飾りがこの時代を現しています。波乱の人生だったようです。

大航海時代に世界に君臨したスペインは、農業国の北部ヨーロッパなどは後進国で眼中になく、世界を相手に無敵艦隊の時代です。

しかし作者は、24歳ころ地中海の海戦で負傷し、27歳で退役する際にトルコの海賊に捕まり5年間奴隷生活を体験したり

・・・1580年釈放されて帰国するが無職、1600年頃までラ・マンチャやアンダルシア地方で苦しい旅の生活をしています。

活版印刷が発明されて約100年、聖書に続いて多くの印刷物が出版されるようになり、各地の情報が入手できるようになると旅行もブームになったようです。

そして、なんと58歳で「郷士(ドン)・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の物語(前編)を出版します。

売れたそうです・・・10年後、68歳(当時としては非常に長命です)後編を出版、間もなく亡くなりますが、晩年いや後期高齢者になって花開いた方です。

・・・聖書に次いで出版された書物と言われています。

登場人物には、こんな方達も

現在も実在するエル・トボソ村に住んでいた娘を憧れの姫に見立てるなど・多少混乱してしまうストーリーです。

塔の上部のモニュメント。

1915年公開された広場、スペインビル側からの塔です。

 さて、この女性はどんな仕事をされている方でしょう

女優だったか?

近くの王宮に移動する。

150m四方のこの建物には、何と2700もの部屋がある。公式行事が無い場合、内部が公開されている。

この宮殿、パリのベルサイユ宮殿育ちの国王フェリペ5世が、イタリアの建築家に設計を依頼する。

そしてイタリアやフランスの宮殿スタイルにこだわって建てさせた。約30年の歳月で1764年完成。

王宮前の広場(アルメリア広場)で毎月第一水曜の12時から1時間衛兵交代・・・鼓笛隊の音が聞こえたような・・・

今日は、特別に何かあるのだろうか

・・・エッ、月一の衛兵交代式?、これから始まる?・・・走り寄ってみる。

やはり足が長いと見栄えがする。

小規模な歩兵隊?が正門の中へと消えた。

ところで、右側の屈強な警護の人のスタイルはやはり現代風ですね。頭部がNew。

騎馬隊も登場して行われる衛兵交代式とはちょっと違ったようです。

・・・ところがしばらくして、騎馬隊?・・・いや騎馬が。

これは見事な・・・、やさしい笑顔と、メガネ。

ロシナンテとは違いますね。

・・・先程の女性、ドン・キホーテの慕う姫?   そうなんです、現代版ですが。

行動的で、知性が感じられるでしょう。元ジャーナリスト、離婚歴あり。

王室が公開されてる肖像です。

2014年6月に皇太子がスペイン新国王に即位され、この方 レティシア皇太子妃も王妃となられたのです。

民間出身で、プライベートにはZARAも着こなすファッションセンスと大人気、

しかし結婚は当時の国王ファン・カルロス1世に反対され「彼女と結婚できないのなら、王冠を捨ててもいい」皇太子の言葉が話題になりました。

国民は大喝采!・・・過去の王室、ハプスブルグ家スペインは血族結婚が続き、結果断絶し、フランス王の一族ブルボン家から王様が来ることになり、前ファン・カルロス1世もブルボン家とされます。

お子さんにも恵まれ幸せなスペイン王室ファミリーとのことです。

では、プラド美術館へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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早春のスペイン マドリッドへ

2017-02-27 | 旅行記

小さなニュースが昨春流れた。・・・秋に運行を再開、イベリア航空が成田に18年ぶりに復活就航する・・・。

イベリア航空?・・・イベリア半島・・・確かスペイン・ポルトガル・・・気になって最近調べたら週3便 成田-マドリード(スペインの首都)10/18から直行便が飛んでいた。

・・・今年は暖冬なのか、例年成人式の日は東京も雪が降るのだが、今年はほとんど降らなかった。しかし日本海側、鳥取や関西には大雪が降っていた。

この時期のスキー場は天候が変わりやすく、週末の天気を気にしていると、娘から2月に1週間の休みが決まった・・・モンサンミッシェルに泊まりたいと言う。

歴史上注目を浴びた100年戦争やフランス革命の頃、このモンサンミッシェルの修道院は荒らされてしまった。

・・・今日世界遺産ではあるが、モンサンミッシェルは既に全島散策したし、再訪は気乗りがしない・・・、関心は地中海文明

ギリシャはぜひ訪れたい、・・・がイスタンブール経由はトルコの治安に不安がある、他ルートはスケジュールが組みにくい。

エジプトも関心があるが、アラブの春以降政情が不安定で・・・

レバノン杉を商材に地中海沿岸航路を開拓したレバノンやアレキサンドリア、そして3大宗教の聖地、イルサレムも関心はあるが、

・・・イベリア航空は、月、水、土、AM11:20出発、到着は、火、金、日、AM9:35 すると8日間の工程が必要になる。

湯島天神では梅が咲きだしている・・・ところでアーモンドの花は桜のようだという。ぜひ見たいものです。

吉野の千本桜のように感動ものでしょうか、

アーモンドは、2月が満開のようです。マドリードにはプラド美術館があるしバルセロナにはサクラダファミリアがある。

地中海文明とキリスト教、そしてイスラム教、複雑な歴史をたどったスペインはぜひ訪問したい国だった。何とかしたい。

・・・・・

1ヶ月後、2月15日 成田国際空港 第二ターミナル3F

水曜日 AM11:20 マドリード行

中央一番端に、イベリア航空のA330-200の機体が荷物を積み込んでいる。

・・・直行便とはいえ、北回りで何と所要時間14時間10分と予定されている。

2時頃機内で昼食、そして・・・・・夕食がおにぎりで、仮眠した後・・・

時速770kmで、高度11581mシベリアの上空を飛んでいた。

ミラノやローマだともう少し南に下がってアルプスに向かうのだが、西南西に向きを変えて

北欧フィンランドの上空を通過してヒースロー空港やパリに向かうコース

成田を飛び立って既に10時間、まだ目的地には3230km、4時間25分、

成田-香港間のフライトだ・・・スペインは遠かった。

パリを通過した、もうすぐスペインの国境、空港まで474km

474km? ・・・東京から名古屋の先、そう多分 なばなの里 くらいだろう。

方向は南南西、高度を下げ始めた、30分位で体が揺れなくなるだろう。

ところで、入国カードは必要ないようで、・・・マドリード バラハス空港到着。

現地時間、同日の2/15夕方5時半頃、まだ日が沈んでいない。

ここからトレインで第4ターミナルに向かう、エッ!撮影禁止 シ!(Yes)

さて第4は、地下鉄が乗り入れている第1.第2ターミナルとは相当離れている。

入国審査、荷物を引き取り宿泊先の空港横、ヒルトン・マドリッドエアポートに到着。薄暗くなってきた。

歩いて10分弱の地下鉄の駅から市内に散歩に行くか、歩いて20分のショッピングセンター(タクシは遠回り)に行くか。

ショッピングセンターで軽食をとり、スペインで有名なスーパーに行くことにしよう。

 

 

 

 

 

 

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士林夜市へ

2016-08-05 | 旅行記

霧雨の九份を後にして、窓越しの夜景を眺める。

・・・2.28事件ってなんでしょう、・・・台湾に戒厳令が引かれるきっかけとなった事件ですが・・・・、40年後、日本がバブルに踊っていた1987年戒厳令が解除されます。

しかしそれでもまだ、言論の自由は”国家安全法”によって制限されていたようです。”国家安全法”何気ない名称ですが、国民よりも大切なのが国家ということです?

国家の安全が維持できない場合の判断基準が詳細にあったとしても、危険な状態と判断するのは崇高な国家でしょうか、判断するのは時の権力(一部の人間)ですから・・・

危険排除の予防処置との名の元に判断基準がブレまくる可能性が高い危ない法律です。

・・・1989年 ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞 受賞 「非情城市」・・・台湾の近代史の一部を・・・この2時間の台湾映画が世界に告知しました。

 ここ台湾は、その後まもなく・・・1992年台湾人の李登輝総統によって刑法が改正され、言論の自由が保証されるまで、台湾人にとっては辛い年月だったようです。

・・・明治28年、日清戦争で勝利した日本は、現在の大連がある遼東半島、ここ台湾、台湾の西の島々・澎湖諸島(ホウコショトウ)を日清講和条約により、主権などを永遠に割与されていました。

「非情城市」・・・冒頭・・・昭和天皇の玉音放送が流れています。

51年間日本の領土に組み込まれ、日本人として戦争に参戦していた台湾の人々にも無条件降伏がラジオから流れていたのでした。

・・・歴史教育で台湾を日本が支配していたことを習ったとはいえ、戦後生まれの者として、このシーンは驚きました。想像することが出来なかったからです。

終戦を境に、一夜にして価値観が変わった・・・現実をどう受け入れたらいいのか、・・・台湾の人々は、更に国籍はどうなるのか・・・

映画の中で、ロケ地となった、ここ九份でも・・・灯火管制が終わり、電灯の覆いを外しながら・・・出産シーンが続き・・・「非情城市」のタイトルが流れます・・・

映画は、田寮港の船問屋林家の家族、長男文雄の妾宅で男子を出産するシーンから始まります、次男は日本軍で軍医、三男は上海で通訳、四男は会話ができない障害を持ちながら写真館を営んでいる。

これからどうなるのか・・・周囲の日本人には、本国(日本本土)へ帰国命令が出ます・・・林家の人々は、各々異なる再スタート地点から人生が動き出します、・・・混乱の中を。

・・・「非情城市」は、日本が連合国に敗戦した1945年8月15日から・・・1949年12月、中國本土で中華人民共和国に敗れた蒋介石・国民政府は連合国側として、200万人ともいわれる人々とこの台湾に亡命してくるまでの物語です。

正確には、敗戦の後処理で日本軍が武装解除をする1945年に、蒋介石・国民党の政府官僚・軍人の一部が連合国側として既に台湾に渡って来ていました。

台湾にいるのは元日本人の台湾人達でした、蒋介石たち国民党の主力部隊は本土で国共内戦・主導権争いの最中です。

渡ってきた広東語、北京語を話す国民党政府の役人、軍人たちは、当初台湾人に歓迎されたものの、旧日本軍の資産の横領や強盗・強姦・殺人とやりたい放題、日本人となっていた台湾人を見下していたようです。

戦時中以上の激動の戦後4年間が・・・・・長く語られなかった台湾の4年間が描かれています。

林家の人々は1947年2月28日、2.28事件にも関係しこの家族も波乱の人生となります。

・・・戦後本土からやってきて台湾を支配した中国人(外省人)に対して、日本人だった台湾の人々(本省人あるいは内省人)が怒りの抗議行動を起こし、結果、デモに参加した人々が多数射殺された・・・2.28事件・・・闇に埋もれていた事件です。

「非情城市」は語るのがタブーだった2.28事件以外に、ロケ地九份の古き良き時代の建物、石畳、坂道、階段、自然豊かな情景に触れ、多くの台湾人が魅了されたのでした。

・・・九份一帯の金鉱山産出量は、戦前の1930年代がピークで終戦後日本が撤退して採掘中止、後に再稼働されるがまもなく閉山、戦前の賑わいは戻らずに寒村状態でした。

九份は「非情城市」公開後人気が高まり、お土産屋さん、茶房、飲食店が増え続け、日本からの観光客も増え今日では人気の観光地となっています。

 

さて士林市場に到着しました、時間はPM10時前、霧雨が少し気になるのでアーケードに行きます。

左右の通りは日本のアメ横の雰囲気です。アメ横は、一部密集した地域があって、通路が狭く迷路のような所もありますが、ここはどうでしょう。、

・・・では有名な大鶏排の店「豪大大鶏排」の店は、この左側、・・・お腹が空いてない?

食欲は後回しになり・・・1階の通路を奥まで散策です、衣料品やゲームコーナー、占いやら、土産品と並んでいます。

ここ士林とは、こちらになります。

士林夜市は、台北市の北側、赤い線の終端です、右に故宮博物館があります。台北市内からは地下鉄でも来られます。

ここの夜市も真夜中まで営業しています。

帰りは西門までタクシーで帰ります、(青色ライン)タクシー代は日本より大幅に安価で、¥1,000-以内と思います。

・・・店頭に並ぶ雑貨類、衣料品、お茶などは多分安いのでしょうが・・・

エスカレータで、地下BIに行ってみましょう。

ここがTVなどで良く紹介される飲食店街です。

オッ、右に臭豆腐、香りが・・・なじめない。

海鮮をアレコレ探してみたが・・・、

フルーツは、西瓜もマンゴーも最高でした。

地上に戻ることにしましょう。

道路横を少し歩いて、別のアーケードに、

薬局に入ってみましょう、

ここでこちらの商品を若干購入し、NIKEなどの店舗も並ぶアーケードをひと回り、

外れの一角では屋台が立ち並んでいました。

目当ての商品を探している訳でもなくブラブラ夜市の雰囲気を楽しみ

 

 サァ、ホテルに帰ることにしましょう。

 

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夕暮れの九份へ

2016-07-22 | 旅行記

鼎泰豊(ディンタイフォン)この店は台北で創業、世界でも有名で東京の日本橋高島屋(B2)にも出店しています。

ここの小籠包は独自のレシピがあり形状、重量、細かく規定されているようです。行列は当たり前のようでした。

さて・・・食後の散歩にこちらの広場に行ってみましょう。

ここは、政権の交代で名前が変わった所です。

「自由広場」の看板が掲げられています・・・この「自由」の前は?・・・「不自由?」・・・そうだったかも知れません、ここ台湾は長い間戒厳令が引かれていたのです。

国民党独裁政権を率いた蒋介石の座右の銘「大中至正」の看板が掲げられていました。

政権交代があり、2007年12月7日「大中至正」の看板は撤去されました。そうです、大昔の話ではないのです。

大中至正とは、中庸こそ正道の意味とのこと、別に拘束するでも不自由とも関係ないのですが・・・蒋介石は好んでこの言葉を使ったそうです。

蒋介石(ショウカイセキ)、介石とは日本留学時代のペンネームだそうで日本ではこのように呼ばれています。

「蒋中正」(チャン・チュンチェン)蒋が姓、中正が名、介石は自分で追加した字、現地では「蒋中正」(チャン・チュンチェン)と呼ばれるのが一般的。

・・・「中正国際空港」などと台湾各地に「中正〇〇」と、蒋中正を讃える名称が多くありましたが、

この自由広場と同様、政権交代後「中正国際空港」は、現在の台湾桃園国際空港に改名されました。

広場の先にこの様な建物がありました。一部修理中のようです。何やら額があります。中正紀念堂・・・中正とは、そうです蒋介石(蒋中正)の功績を讃えて・・・。

1975年、蒋介石死去5年後の1980年に、このような中正紀念本堂が落成します。海外の多くの華僑・華人が参加して盛大に落成式が行われたそうです。

この中正紀念堂も「台湾民主記念館」に名前が変わったのですが、国民党(馬英九)が政権を取り返すと、この建物は中正紀念堂に戻しています。

ご承知の様に今年、また体制が変わりました。5月20日祝賀式があり、台湾初の女性総統、民進党の蔡英文(ツァイ・インウェン)が檜舞台に登場しました。

ここでは、台湾の歴史劇が披露されました。

「台湾の光」と題された歴史劇は、大航海時代以降・・・台湾にポルトガル船が・・・、オランダ人、スペイン人とやってきて、清王朝の軍隊もやってきて「植民地」とされた。

日本統治時代は、国民党前政権が”植民統治”としていた表現を、新政権は「高圧的統治」と変更されたようです。

・・・平和な台湾の島に住んでいた人々(本省人)は武力で侵略されると抵抗しても、弾圧されてしまった歴史があります。

日本敗戦後、大陸から軍艦でやってきた国民党政府が上から目線で起こした2.28事件、戒厳令の時代の悲劇を乗り越えると、

今度は国民党前政権 馬英九(外省人)は、中国は一つと主張する大陸の中国共産党にすり寄って行くのを苦々しく思っていたことでしょう。

治安が良くて、人々が親切で、親しみの持てる台湾!自主独立を期待しています。

・・・広場で、振り返ってみましょう。

左側に庭園があります。

中国風の様式です。

これは何でしょう、

大きなモニュメント? 2号機台 コインセレクターが付いていて、下側に受け皿が・・・池の鯉に餌をあげる、自販機でしょう

昼過ぎ・・今が一番暑い時間帯・・・確か38度の予報でした

子供はこれが一番!

右手の国家音楽庁を一周し広場に戻ると、どうしたの・・

黒の制服、角帽に・・・地べたに座って自撮り棒、目いっぱい太陽光を浴びて、暑さなんて気にしてたら何もできない・・・これが青春?・・・思い立ったら行動です。

さあ移動しよう・・・アレコレしているうちに、南国特有のスコールがありました。

ここはお寺、屋根の上には龍がいます。

龍は水の神様、自在に雷雨や竜巻を呼べて、火事になると雨を降らせ火を消してくれる、・・・蒸し暑かったのが龍のおかげで涼しくなりました。

ところで屋根の龍の爪は何本?・・・4本です。ガイドさんが説明されます。

爪の本数は所有者によって決められているのです。皇帝は、龍の爪は5本。貴族・寺院は、4本、その他平民は3本と。

龍が描かれている骨董品を見つけたら、5本の爪があればお宝だそうです。・・・贋作が簡単にできる?・・・そうです、贋作で無くても、今日では規制が無いのでお土産品にも5本爪が沢山あるそうです。

行天宮(シンティエンコン)、三国志で有名な武勇の関羽が祀られています。関羽が、何故商売の神様に?

そろばんの発明者で、初めて用いた人物だそうです。

商売の神様、この場所、関帝はオフィイス街にあり商売繁盛を願う参拝客で人気があります。

東京では、神田明神でしょうか、・・・仕事始めの1月4日は、商売繁盛祈願で和服の女性とサラリーマンのコート姿で参道まで行列になります。会社関係者が多いのです。

こんなお参りの作法が案内されていました。

もちろん独特のおみくじもあります。

さて、これから人気の九分(ジォウフェン)(きゅうふんでも十分通じますが)に移動します。

台北から北北東、台湾の北部太平洋に近く山間の斜面に向かいます。40数キロ、渋滞が無ければ1時間はかからないでしょう。

天候がすぐれないようです。

・・・台北が晴れていても九分は雨が多いようで、台北が小雨だから・・・?、傘はホテルに置いてきてしまったが運を天に任せて・・・。

到着するころには夕暮れ時、・・・川の上流です、山並みが迫ってきました。

 ここまで電車でも来られます。新北市瑞芳区です、瑞芳駅から九份までタクシーで20分位でしょう。

小雨は降り続いています。

やっと山の斜面から港が見えてきました。

山の坂道が続きます。

夕方6時、もうすぐ到着の雰囲気です。

夕食処の坂の上の道路で、降りましょう。

上の地図では、102 汽車路を左から右にバスは九份の斜面の登り、高台で停車、そこで下車し、階段を下り、軽便路を五分ほど右上から歩いて来ました。

九戸茶語へ向かう途中に、九份軽便駅が

この様な赤提灯が並ぶ・・・戦前の日本はこんな感じ?・・・懐かしいような、親近感のあるお店の横を・・・

九份の夕暮れが近い、癒されそう・・・

食事処の横から、ここ九份は海(太平洋)に近く雨が多いので有名なようです。しかし、運良く、雨は霧雨になって来たようです。

夕食を頂きましょう、九戸茶語二館、お勧め台湾料理です。

 

 近年オープンしたこのお店のテラスから、絶景が眺められます。

この様な風景は・・・熱海、伊東・・・世界各地の観光地に共通して、・・・見事に斜面が利用されていますね。

 食後の散策に行きましょう。ここは食事処の前・・・、平日の夕方ですが、それなりに観光客で混雑しています。

この九份の中央にメインストリートの階段があります。すぐ近く、右に進みましょう。

ここです。豎崎路(シューチールウ)、階段の両側に古い建物を利用したお店が並んでいます。

・・・・週末になると身動きが取れない時間帯もあるそうですよ。

階段の脇に、こんなお店や・・・

オット・・・立ち止り、撮影会があちこちで始まっています

中程の左側に細いトンネルが・・・渋滞を迂回できるでしょうか、入ってみましょう

このトンネルは、何の後でしょうか?・・・

この一帯は、かつては山間部で9世帯程の人々が生活をされていたそうです。

これらの山並みから流れる渓流が基隆河となり・・・鉄橋工事の際に、何と砂金が発見された・・・1893年のこと。

金鉱が発見され、1895年から日本が統治します・・・この一帯はゴールドラッシュとなり、日本家屋のような家が立ち並び神社も参道もこの石段も、不夜城となったそうです。

・・・このトンネルも・・・金の採掘抗でしょうか・・・出口の先は静かな雰囲気です。

・・・引き返して元の階段を登りましょう。

十字路に到着、左へ続くアーケードがメインストリート、階段を上に進だ先に小学校が・・・、タロイモを蒸して潰し、白玉粉と混ぜた団子のデザートは美味しかった。ここ九份名物です。

戻って左のアーケイド基山街へ

この風景は日本的ではないですね、香港という感じです。

この人混みの中を後ろから、警笛を鳴らして何かが近づいてきます。

お店の中に避難すると、通り過ぎていきました。

・・・ここは道路なのです。そして清掃車でしょうか、通過しました。

右側の樽には堆肥と書かれています。残飯でしょうか?

スタイルの良い方ですね、女性公務員でしょうね。

 

この道路、・・・気がつくと石畳、金鉱も石の採掘です、・・・石畳の原石も豊富にあったのでしょう。

傾斜地は溝の加工があり滑り止めです、日本統治時代の良き遺産と思われます。

さて、元のメインストリート階段に戻って来ました。

この階段・・・下ります。「天国から地獄へ」・・・と呼ばれた時代があったそうです。

この付近は飲み屋が多く、・・・酔ってどんどん階段を下るとこの先には、派出所があり、金を盗んだ連中の収容所、そして病院などがあって、天国から地獄の階段と呼んだ連中がいたそうです。

・・・どんどん、階段を下っています。地獄の手前に

階段の左にあるウインドウが呼んでいます。

日本の稲作文化で五穀豊穣を祈願して、ミツマタ(和紙の原料)の木に食紅でカラフルな色を付けた団子や繭玉、菱形を取り付け、正月や小正月に横坐、神棚の下に飾られたものにそっくりでした。

もうすぐ地獄?・・・道路に出ました、横切り、狭い階段の先には大駐車場がありました。

時刻は夜の8時近く、これから台北に戻り、故宮近くの夜市 士林夜市(シーリンイエシ-)に行きます。

 

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故宮からアレコレ・・・九分目指して

2016-07-08 | 旅行記

エアコンでぐっすり眠れた。今日も天気がよさそうだ、AM7:30、1階のレストランで朝食、中国はお粥が美味しいのだが、ここは具材が少ないしコックさんの調理もなさそうで、洋食にしよう。

・・・台北の北部の丘陵地帯に向かってバスが走る。

今日は金曜日、台湾はバイクの普及率が高く、バイク通勤が多い、もちろん女性も、・・・50ccでも二人乗りはOKとのこと、

そして赤信号になると後方のバイクが車両の間をすり抜け車線の先頭に並ぶ、・・・するとこのように暴走族かと思うような一団になる。

土曜、日曜になると、子供をハンドルとの間に立たせ、3人乗り、背中に一人背負うと4人乗り・・・全て違反だが取り締まりは甘いそうです。

東南アジアでは、後ろの荷台上に車軸と平行に板を敷き、板の中央に一人が立ち、両サイドに人がまたがると後輪の上に3人、ハンドルの前後に一人づつ、計6人の動画を見たことがあります。

交差点付近ですり抜ける際に人や車との接触事故が多いそうで、通行人も気をつける必要があります。

そうこうする内にトンネルを抜けると丘陵地帯が目に飛び込んできました、もうすぐです。

・・・間もなく 故宮博物院 正面へ・・・ここからバスは右側の曲がった坂道を登り、チケット売り場のある地下1階正面入口に着きます。

帰りは、・・・この広場のこの位置の横にある駐車場まで歩くことになります。

帰り際に撮影した画像を逆にご紹介しましょう・・・この場所から正面の建物に歩いて行くとこの様になります。まずは右側に案内図があります、見てみましょう。

では進みましょう、緩やかな階段を登ると三層のアーチがあります。

天下為公・・・”天下は為政者のものではなく、国民のもの” 孫文が好んだ言葉と言われています。

庭園のような・・・また案内図があります。

この左の高台には、三つの建物があり、別料金で特別展などが行われる。 右側が 至善園 約7000坪の庭園です。

正面の第一展覧エリアに向かって進みます。

・・・国立 故宮博物院 世界4大博物館のひとつに数えられています。

紀元前2000年から19世紀の清まで、総点数69万点、一度に展示されるのは1%に満たないといわれ、3000~5000点を数か月に一度入れ替えし展示される。

無休、料金は250元(約800円)、69万点の中華文物コレクションの大半が清国の時代の物といわれます。

最後の階段が左右にあります。

そして階段を登り、地下1階正面入り口が見えてきました。

これが中国の宮殿様式ですが、中央のポールに掲げられているのは・・・台湾の国旗でしょうか

紅色の地、その左上に青地に白いひまわりのような太陽のマーク(青天白日旗)が描かれています。

これは青天白日満地紅旗と呼ばれ、当初は中華民国の海軍旗・・・現状は台湾(中華民国)の国旗とされていますが、台湾の国民感情は複雑なようです。

中国本土の歴代皇帝がコレクションした文化遺産が何故、海を渡った台湾にあるのでしょう。

近代史を勉強してこなかったので調べてみましょう。

・・・1895年、日清戦争で中国大陸の清国が敗戦しました。清国は、日本に台湾・遼東半島などの割譲、賠償金を支払うことになります。(後に遼東半島は返還される。)

その後、清朝は衰退の一途となり、体制内から改革の動きはあるも効果が無く、1911年四川で暴動、(湖北省)武昌で蜂起、清朝からの独立宣言が・・・各地に飛び火し「辛亥革命」が起こります。

革命派は1912年南京で「中華民国」の成立を宣言し1月、孫文が臨時大総統になる。

・・・清朝は軍人の袁世凱(エンセイガイ)に革命派と交渉させるが・・・・袁世凱は、何と・・・自らを臨時大総統に就任させるなら・・・と清朝の宣統帝溥儀(セントウテイフギ)の退位を認めてしまった。

そして、溥儀は中国最後の皇帝として有名になります。・・・・映画「ラストエンペラー」です。

1912年2月、あっと言う間に・・・ここに清朝は滅亡し、秦の始皇帝からの皇帝による長い王朝支配体制が終わることになります。

・・・この年、日本では7月に明治時代が終わり、大正元年となります。

最後の皇帝・溥儀ら皇族は臨時政府から「優待条件」を受け紫禁城で暮らすことが暫く認められます。

・・・その12年後、退去命令で紫禁城を追われ、この城の一角が故宮と名前を変えて公開され、故宮博物院の誕生となりました。

 故宮博物院のパンフレットから、各階のレイアウトをご案内します。

地下1階から入場し、エスカレーターで1階へ・・・・・残念ながらパンフレットの院内注意事項に撮影禁止!とあります。

このフロアーの工芸品、106の区画に置かれた象牙透彫雲龍文套球が有名です。・・・撮影禁止ですので・・・・・・ガイドブックから公開されている画像を

多層球と呼ばれ象牙を球状に加工しその内部にも球状の殻をくり抜いています・・・これが19層とか21層とか諸説ありますが・・・中の細工が施された殻が各々回転します。

製法が判らずでしたが、近年になってやっと謎の製法が解明されたと報道がありました。・・・球を8面体に置き換えた場合、各面から球の中心に一定の深さまで穴を掘ります。

その穴に特殊な小刀を挿入し内側の球を加工し、順次薄皮のような殻になおかつ透かし彫りを入れる・・・最新医療でマジックハンドを使った手術よりも困難な作業と思われます。

昔の人は視力が良かったのでしょう、気の遠くなるような根気のいる作業から作り出された工芸品です。

そして3階に上がると、ここには更に有名な細工物があります。

302室のようですが、

・・・しかし、大きな写真が貼られていました。この博物院が誇る作品です。パンフレットも302室は違う作品です。

台湾南部に昨年末 国立 故宮博物院 南部院区 がプレオープンしたそうです。今後台北と南部院区の2ヵ所でコレクションを公開することになり、只今この作品は台湾南部に出張中でした。

・・・実は、この作品は2年前、日本でも公開されたのです。2014年6月 東京国立博物館で、・・・ご覧になった方も多いでしょう。

作品名、翠玉白菜(スイギョクハクサイ)、清代の作品です。

全長19㎝、翡翠の原石から造られています。

拡大写真は・・・・

上の画像は台北市内の免税売店内に置かれた白一色で50~60cmはある大きなコピー白菜です。

この足が何の昆虫か判りますか?エッ、イナゴ、これはキリギルスと言われています。

こちらのキリギリスより小さい(半分以下のサイズ)昆虫が白菜の葉の反対側にとまっています。これがイナゴのようです。

本物の翠玉白菜(スイギョクハクサイ)では緑色の葉先部分にイナゴとキリギリスがとまっています。

子孫繁栄を意味するようです。

売店ではこの翠玉白菜(スイギョクハクサイ)をマスコットにした小物が数多く並んでいました。

白に緑のグラデーションが見事な翡翠の原石を見て、・・・白菜を創ろうと発想されたのでしょうが発想も技も見事です。

尚、翡翠の緑の葉は一部彩色が施されているとのことです。

・・・野菜に対して、もう一品有名なものがあります。

肉型石、これは大きな画像ではイメージが涌き難いのですが・・・肉です。豚肉の角煮の一種(中国料理では「東坡肉(トンポーロ)」のようです。

こちらの作品は、L=53mm、W=66mm,H=57mm 手のひらサイズです。

層状になった岩石の表面の変化を皮に見立て、この部分に針で穴を開け各種の染料を流し込み、脂身、赤身とリアルに彩色されています。

階段を下り、2階は器物、陶磁器コーナー、また書画エリアは中国の芸術として特筆されるところです。

これらに関し、精緻な造りと、バランスの見事さに感心しながら・・・知識が無いので省略。

公開されているのは、ほんの一部、これらのコレクションは、かつて北京の広大(70万㎡)な紫禁城内にありました。

清朝が滅亡しても時の中華民国臨時政府(孫文)の「優待条件」として、溥儀や親族は城内で生活をしていました。しかし、1924年10月北京政変の際に、約12年間優待を受けたが溥儀らは紫禁城を退去させられます。

そして1925年北京の紫禁城で古い都、「故宮」の名がつく博物院の形態で公開されますが、日中戦争の戦火から逃れるために1931年中華民国(蒋介石)政府は膨大なコレクション(木箱約13,000~20,000箱)を北京から上海経由南京(当時の中華民国の首都)に移します。大量の数です、数回に分け、2年くらいかかったようです。

1937年日中戦争が始まると南京も危なくなり、内陸(四川省など)の洞窟など分散して移されます。

そして1945年、日本が敗戦して、中国大陸の故宮コレクショウンは?、・・・一旦関係者により南京に集められます。

ところが・・・中国大陸では、毛沢東・周恩来らの共産党勢力と、共産党を弾圧していた蒋介石の国民党の対立が激しくなり、1946年から1949年まで内戦状態になります。

内戦の結果、国民党軍が敗れ、日本が撤退した台湾に逃れることになります。

南京から4000箱のコレクションが1948年頃から軍艦で台湾に密かに運び込まれ、山中で15年間隠され続けます。

・・・内戦に勝利した共産党が中華人民共和国を1949年10月1日建国し、南京に残ったコレクションは、管理する北京の紫禁城(博物院)に大半が戻った。

一部は、1933年に開設した「中央博物院」現在の「南京博物院」に・・・、これに対し「北京の故宮博物院」が返還要求を続けているが変換に応じていないようです。

近年、南京分院で2,000箱が発見され話題になりました。

・・・そして1960年代、台湾山中からコレクションが新装なった台北の博物院に持ち込まれます。

北京の紫禁城に故宮博物院がありますが、ここ台湾(中華民国と呼ばれていた)でも国立 故宮博物院として公開されます。(東京オリンピックの翌年、1965年でした)

そろそろ国立 故宮博物院を後にして、市内に戻りましょう。

・・・・・11時を少し回ったころ、チョットした儀式が

5人の衛兵が行進しています。衛兵交代儀式です。第一印象が若い!・・・右隣をSPの様に同行するのは指導員でしょうか。

広場を直進します。

行く手に紫禁城を模して1969年に建てられた大殿が・・・ 

ここは、中国本土の辛亥革命で亡くなった・・・(台湾に逃れてきた人々は・・・蒋介石の国民党です)人々、その後の戦争で亡くなった人々の霊を主に祀っています。

さて、1時間お勤めお疲れ様でした。2名が交代し、再度大門へ戻ります。

この方は?身なりを正して・・・、笑顔が見えます・・・衛兵二人をフォローする黒子でしょうか、

広場を直進して大門に戻って来ました。

行進は合わせやすいが、スローな動作はどうも・・・、白服は海軍の若きエリート、職業軍人です。・・・日体大の学生パフォーマンスには負けられないですよね。

ここは中烈祠とありました。

・・・平日の昼近く、行列が出来ています。

台北で人気のお店、

小籠包、台湾の料理ではなかったですね。

気がつきました、通りの先に101 台北が世界に誇る高層ビルが見えます。

ここは、明日地下鉄で行ってみましょう。

昼食後2~3か所巡って、夕日が見えるころ九分に・・・天候が心配ですが。

 

 

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たくさん並んでいた

2016-06-27 | 旅行記

6月16日木曜日、夜9時40分

3本の線香を持ち、手順がわからず順路をあれこれ思案していると、おじさんが身振り手振りで、・・・あそこと向こう・・・3か所の香炉にということらしい

実は最初に入ってきたのが南側の右端から、左に回り込んで南側に沿って進むと、数人が独特の動作をしていました。

長椅子に膝を着き、2個の朱色の木片(カラスミかオレンジの中身のような)を下に落として、どの面が出るか占っていました。

これはこの地のおみくじ、面白そう・・・しかし、まずは焼香と売店を探す・・・

先程の入り口近くで10元と有料の売店があるようでしたが、無料で1人3本長い線香を頂きました。ボランティアの方達のようです。

そこで先程の長椅子が並ぶおみくじ占いの所で思案していると・・・順路を教えて頂いたのでした。

・・・教えて頂いた中庭の金色の香炉に進んで・・・エッ!今までいた南側(画像は手前が南側)に向かって参拝することになりました。

こちらが三川殿(前殿)になるとのこと。

次が反対側(北側)に一目瞭然の本殿があります。一旦、三川殿まで下がって本殿の全景を見てみましょう

時間が遅いので、参拝客も少なくゆっくり参拝できます。

香炉の蓋を持ち上げているキャラクターは猿? シルクハットでユニークな姿・・・・これは、台湾が日本の領土になる前にオランダに占領されていた、その時代を忘れぬようにとオランダ人のようです。

複雑ですね、中庭に降りて前に進むと

本殿の前に銀色?これもライトの関係か、金色かな?・・・の香炉がありました。・・・、ここで2本目の線香を、両手に持って三度頭を下げましょう。

頂いたパンフレットから境内の配置図を見てみましょう。

本殿の中央の神様が有名です。熱心な人々が夜遅くまでお願いことです、左側から中庭と本殿の風景です。

 向かって左が普賢菩薩(フゲンボサツ)、中央に観世音菩薩、右側が文殊菩薩(モンジュボサツ)、ライトアップされて眩しい仏像です。

本尊、良く見えない、別のカメラで

光背に炎でしょうか、唐草でしょうか、この本尊、聖観世音菩薩は戦火の中を・・・伝説があります。

この龍山寺(ロンサンスー、リュウサンジ)は1740年落成、1919年に大改修、1924年に色鮮やかな東洋一の寺院に修復されたようですが、1945年第二次大戦で米軍の空襲により本殿は焼夷弾の直撃を受け、石柱まで全壊する惨状になってしまいました。

その様な中で、ここの木造の本尊「観音菩薩像」は無傷でご安泰、・・・すると空襲の度に観音さまの膝下は絶対安全だと多数の人々が避難してきます。

激しい空襲の中、不思議なことに避難者には全く死傷者が無く、そのあらたかな霊感は今日でも人々の間で語り伝えられご加護を讃えております。(龍山寺パンフレットより)

向かって左が普賢菩薩

 「普賢」とは、全てにわたって賢い者」あらゆるところに現れ、命あるものを救う行動力のある菩薩、優しい表情です。 

次に、右隣には、文殊菩薩が

「三人寄れば文殊の知恵」知恵の神様、

日本の仏像もこのような金色に輝いていたのでしょう・・・仏像の前で長年護摩を焚いた結果真っ黒なススだらけの仏像が大半です。

では右側から本堂の裏側(後殿)に進みましょう。

後殿には主に道教の神様が祀られています。

文昌帝君、大魁星君、紫陽夫子、馬爺、天上聖母、太陽星君、太陰星君、註生娘娘、池頭夫人、十二婆者、水仙尊王、城隍爺、龍爺、福德正神、關聖帝君、三官大帝、華陀仙師、地藏王菩薩、月老神君。

右側が学問、左は商売、さらに子宝、恋愛などそれぞれの分野によって分かれています。

この中央の香炉で3本目を焼香しました。この後殿には香炉が4か所あります。そこで、7本線香を購入する人もいるようです。

中央は天上聖母殿という神の名称、他に天后などとも、中央の媽祖娘娘がやはり人気で媽祖(マーズー、マソ・日本語読み)は俗称のようです。

媽祖の信仰は、10世紀頃 中国南部(福建省)から広まり、航海、漁業の神様として華僑・華人によって海を渡り、台湾や東南アジアに広まります。沖縄、長崎などにも・・・


向かって左、順風耳、右は千里眼とこれらも航海には重要な役目です。

さて、後殿の左端横にユニークな神様が人気です。名前が「月老神君」

 

縁結びの神様として人気のようです。赤い糸も用意されています。おみくじをして頂けるのか確認するのが必要とか、

女性に人気の神様でした。
 
 
 商売の神様 関羽もありましたが・・・神様がこれだけ多いのに入場料も無く、地元の人々の信仰とボランティアの方達が支えている、不思議な観光地です。
前殿に戻って、長椅子に膝を付け、床に1組の朱色の木片を落とす・・・ 残念同じ面でした。3回まで挑戦できるそうで2回目・・・表裏となり、おみくじが引けます。
おみくじ棒の入った筒から1本引き出し、下部の番号を覚える。(本来はこの番号でよいか、また占いで確認するようですが
隣のおみくじ棚に進み、番号が書かれた引き出しの中からおみくじを頂きます。
このおみくじも無料です。
但し、最初に神様に住所、氏名、年齢と自己紹介が必要とのこと、声に出さなくてもいいようです。
おみくじの内容は?・・・ここは、台北でした。中国語で理解できない。
そんな時、おみくじの内容を、ボランティアの方が(日本語や英語のできる方も)説明して頂けるコーナーもあります。
しかしもう10時閉門です、明日来てくださいと言われて
 
 
 
龍山寺を後にしました。
右前方が賑やかだ。50m先交差点の向こうは、夜市が開かれているようです。
成田の出発が到着便の遅れで30分遅れ、
 
桃園国際空港到着がラッシュ時になり税関大渋滞、
 
そんなことで空港に夕方到着したのに
ホテルまで2時間半
遅い機内食だったが気がつけば空腹感に・・・
しかし、ローカルなこの夜市は、地元の人が多い、豚足やタン、魚介類もあるが氷が解けている、適当な焼き物を探していると
変わった匂いが流れてきた、香辛料でもなさそうで、・・・息を止めて急ぎ足でその場を離れる。
発生源は分からない・・・臭豆腐?かどうかも分らない、5分後別の場所でまた息を止めることになる。
何でもOKのはずだったが、タクシーに飛び乗り、西門駅まで
うな丼と鶏肉と地元のビールで一安心、まだまだ台北の人は元気です。深夜1時近くホテに到着することになりました。
 
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このお城は

2016-06-13 | 旅行記

このような風景はTVなどの情報番組であまり放映されません。

この社は、・・・

賽銭箱があり、結界が設けられ、・・・何やら周囲の雰囲気が、・・・社の後方が明るいですね。

しめ縄の上方に、年代物の額があります。文字が彫られているようです。

暗くて判別できないので、明るくしてみましょう。

 

刑部大神と読めます。

少し下がってもう少し周囲をご覧いただきましょう。

明るい室内の中央に祀られています。調べてみましょう。

刑部大神・・・この城が建てられる前からこの土地に、刑部神社(長壁オサカベ神社)が祀ってあったそうです。

この地では夏祭りで有名で、神社は市内に3か所あり、内一つが明治12年にこの場所に祀られるようになったようです。

・・・明るい窓辺に進みます。

 

シャチホコが見えます、金のシャチホコでは無いようです。

眼下の様子は?・・・、連なった山々が見えます。手前を見ると、太い竹竿かロールケーキのような・・・

少し移動して、こちらにもシャチホコが

ここからは区画整理された都市が見渡せます。その手前には外堀があり、大きな広場、城壁の内側に更に2段広場があります

特徴的な白漆喰が、屋根瓦をかまぼこの様に厚く塗りあげられています。

・・・では、この下の長椅子がある所から見上げてみましょう。

昨春、大改修が終わって公開された江戸時代初期のお城です。

この様な時代だったようです。

戻って、お堀の内側に世界遺産とありました

・・・修復後、2015年3月末公開するや、余りの人気に城内大渋滞、・・・入場料が¥600-では安すぎる・・・値上げしようと8月には一気に¥1000-にしました。

入場者を押さえられる効果も期待して・・・しかし白鷺城は、今でも人気が衰えない観光資産です。

季節が変わってしまったが、時間を見つけて整理中です。

 

 

 

 

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残波岬から那覇へ

2016-04-18 | 旅行記

書きかけのブログが中断してしまった。

大きなランドセルが左右に揺れている・・・大丈夫かと目で追うと・・・時々帽子が見え隠れした、そんな桜の季節が過ぎ

・・・春の楽しい気分の最中に・・・まだ忘れもしないうちに、またも大地震が起こり、この世とは何だろう・・・自然の力を思い知らされます。

春から秋にかけてこの季節は、日の出と共に毎朝ベランダに出て朝の太陽を20~30分は浴びたいものです。

頭皮・頭骸骨を通して脳内まで光が届き、気分一新し体内時計がリセットされ、自然に一日がスタートします。

種から育てた葉物野菜も大きくなりサニーレタスやルッコラ、ラディッシュ、パセリと両手一杯に収穫しサラダで頂きます。週末にはブルーベリーの受粉と忙しく過ごす毎日。

・・・もう5月、・・・未投稿だったのをまとめておこう。

半島の西側、残波岬に来ています。駐車場に車を入れ遊歩道を歩いて灯台に向かいます。

大型の観光バスから団体さんも・・・騒々しい中国系の観光客と一緒になってしまった。

遊歩道の柵が切れている所から、岩肌を乗り越え岸壁の真上に行くこともできます。

東から見る灯台です。

 

磯釣りの道具もないので、灯台に向かいましょう。

 灯台の1階、左に窓口があり

  ¥200-、灯台展望台の入場料です・・・階段を登って展望台へ行ってみよう。

・・・教会のドームに描かれた天井画を鑑賞したり鐘楼には、階段をよく登った、この灯台はそんなに高くないから一気に登れるだろう。

階段は横幅が狭い・・・周囲に見る物も無いので一気に登る、・・・真上から光が注いでくる・・・もうすぐ最上階、

最後の急な階段を登ると、出口から廻廊へ・・・。

大海原を背にして、目の前は沖縄半島の中央から南の方角になります。

右上に観光バスが見えますが、多分小屋の販売業者の車でしょう。・・・その先小屋の向こうに無料駐車場があります。

沖縄残波岬ロイヤルホテルが中央の白い建物、その左裏には海岸に沿ってリンクスのゴルフコースがあり、反対側の右側はビーチがあります。

北に面した海岸線は、切り立った崖が続いています。水深が深いのでしょう、あるいは崩れやすいのでしょうか

灯台の真下を見てみよう。

遊歩道がスロープになり足元の灯台まで続いています。この遊歩道を歩いてきたのでした。

左に移動してみましょう。

磯釣りの人、発見!・・・風が無いので絶好の釣り日和です。

北の海、はるか彼方に見えるのは沖縄本島の

二つ山が見えるが、中央左に見える小高い山が八重岳でしょうか、その左に進めば海洋公園 その先には島があり・・・

・・・灯台をさらに左に回り込むと、正面は海原が続きやがて

海の色が違ってきました。岩礁地帯が続いています。

こちらは灯台から西の方角になります。

左端にコバルトブルーの海の色が見えてきました。

そうです・・・一周しました。・・・砂浜が見えます、小さな入り江で囲まれたビーチです。

ビーチの向こう側の海岸線は、緑の岩礁帯が続いているようです。

北東と南西に300mくらい離れただけで、中央に山があるわけでもなく海流の力で陰と陽、全く違った海岸線を見ることができます。

では、灯台を下りましょう

ビーチの先に見えた磯に行ってみよう。

車で5分、駐車場に車を入れ、磯に下りてみます。

この岩礁帯にも、見事なアオサが茂っていました。

綺麗な海岸線です。

廃油ボールやプラスチックの海洋ゴミは一切見られず、ひと安心・・・

しかし、そんなことが頭をよぎるようでは、・・・ダメですね!

EUのREACH規制に対する環境調査依頼が多く、無意識のうちに環境の文字が頭をよぎってしまうこの頃です。

 

しかし今日、ただで綺麗な環境が維持できることは不可能な時代です。

もったいない精神を一方で尊重するといいつつ、他方、消費拡大・成長戦略・インフレ・・・スクラップアンドビルドのゴミ生産社会ですから・・・。

・・・高速を飛ばして那覇へ向かいます

南には旅行会社が案内する観光スポットが数多くあります。

那覇市内に宿泊し、近郊を散策・・・

国際通りなどの観光は割愛

これから沖縄、離島の観光シーズンです。日中は木陰で、地元の人々のペースが一番のようです。

日本全国若葉の季節です、活力がみなぎりますように。

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