鼎泰豊(ディンタイフォン)この店は台北で創業、世界でも有名で東京の日本橋高島屋(B2)にも出店しています。
ここの小籠包は独自のレシピがあり形状、重量、細かく規定されているようです。行列は当たり前のようでした。
さて・・・食後の散歩にこちらの広場に行ってみましょう。
ここは、政権の交代で名前が変わった所です。
「自由広場」の看板が掲げられています・・・この「自由」の前は?・・・「不自由?」・・・そうだったかも知れません、ここ台湾は長い間戒厳令が引かれていたのです。
国民党独裁政権を率いた蒋介石の座右の銘「大中至正」の看板が掲げられていました。
政権交代があり、2007年12月7日「大中至正」の看板は撤去されました。そうです、大昔の話ではないのです。
大中至正とは、中庸こそ正道の意味とのこと、別に拘束するでも不自由とも関係ないのですが・・・蒋介石は好んでこの言葉を使ったそうです。
蒋介石(ショウカイセキ)、介石とは日本留学時代のペンネームだそうで日本ではこのように呼ばれています。
「蒋中正」(チャン・チュンチェン)蒋が姓、中正が名、介石は自分で追加した字、現地では「蒋中正」(チャン・チュンチェン)と呼ばれるのが一般的。
・・・「中正国際空港」などと台湾各地に「中正〇〇」と、蒋中正を讃える名称が多くありましたが、
この自由広場と同様、政権交代後「中正国際空港」は、現在の台湾桃園国際空港に改名されました。
広場の先にこの様な建物がありました。一部修理中のようです。何やら額があります。中正紀念堂・・・中正とは、そうです蒋介石(蒋中正)の功績を讃えて・・・。
1975年、蒋介石死去5年後の1980年に、このような中正紀念本堂が落成します。海外の多くの華僑・華人が参加して盛大に落成式が行われたそうです。
この中正紀念堂も「台湾民主記念館」に名前が変わったのですが、国民党(馬英九)が政権を取り返すと、この建物は中正紀念堂に戻しています。
ご承知の様に今年、また体制が変わりました。5月20日祝賀式があり、台湾初の女性総統、民進党の蔡英文(ツァイ・インウェン)が檜舞台に登場しました。
ここでは、台湾の歴史劇が披露されました。
「台湾の光」と題された歴史劇は、大航海時代以降・・・台湾にポルトガル船が・・・、オランダ人、スペイン人とやってきて、清王朝の軍隊もやってきて「植民地」とされた。
日本統治時代は、国民党前政権が”植民統治”としていた表現を、新政権は「高圧的統治」と変更されたようです。
・・・平和な台湾の島に住んでいた人々(本省人)は武力で侵略されると抵抗しても、弾圧されてしまった歴史があります。
日本敗戦後、大陸から軍艦でやってきた国民党政府が上から目線で起こした2.28事件、戒厳令の時代の悲劇を乗り越えると、
今度は国民党前政権 馬英九(外省人)は、中国は一つと主張する大陸の中国共産党にすり寄って行くのを苦々しく思っていたことでしょう。
治安が良くて、人々が親切で、親しみの持てる台湾!自主独立を期待しています。
・・・広場で、振り返ってみましょう。
左側に庭園があります。
中国風の様式です。
これは何でしょう、
大きなモニュメント? 2号機台 コインセレクターが付いていて、下側に受け皿が・・・池の鯉に餌をあげる、自販機でしょう
昼過ぎ・・今が一番暑い時間帯・・・確か38度の予報でした
子供はこれが一番!
右手の国家音楽庁を一周し広場に戻ると、どうしたの・・
黒の制服、角帽に・・・地べたに座って自撮り棒、目いっぱい太陽光を浴びて、暑さなんて気にしてたら何もできない・・・これが青春?・・・思い立ったら行動です。
さあ移動しよう・・・アレコレしているうちに、南国特有のスコールがありました。
ここはお寺、屋根の上には龍がいます。
龍は水の神様、自在に雷雨や竜巻を呼べて、火事になると雨を降らせ火を消してくれる、・・・蒸し暑かったのが龍のおかげで涼しくなりました。
ところで屋根の龍の爪は何本?・・・4本です。ガイドさんが説明されます。
爪の本数は所有者によって決められているのです。皇帝は、龍の爪は5本。貴族・寺院は、4本、その他平民は3本と。
龍が描かれている骨董品を見つけたら、5本の爪があればお宝だそうです。・・・贋作が簡単にできる?・・・そうです、贋作で無くても、今日では規制が無いのでお土産品にも5本爪が沢山あるそうです。
行天宮(シンティエンコン)、三国志で有名な武勇の関羽が祀られています。関羽が、何故商売の神様に?
そろばんの発明者で、初めて用いた人物だそうです。
商売の神様、この場所、関帝はオフィイス街にあり商売繁盛を願う参拝客で人気があります。
東京では、神田明神でしょうか、・・・仕事始めの1月4日は、商売繁盛祈願で和服の女性とサラリーマンのコート姿で参道まで行列になります。会社関係者が多いのです。
こんなお参りの作法が案内されていました。
もちろん独特のおみくじもあります。
さて、これから人気の九分(ジォウフェン)(きゅうふんでも十分通じますが)に移動します。
台北から北北東、台湾の北部太平洋に近く山間の斜面に向かいます。40数キロ、渋滞が無ければ1時間はかからないでしょう。
天候がすぐれないようです。
・・・台北が晴れていても九分は雨が多いようで、台北が小雨だから・・・?、傘はホテルに置いてきてしまったが運を天に任せて・・・。
到着するころには夕暮れ時、・・・川の上流です、山並みが迫ってきました。
ここまで電車でも来られます。新北市瑞芳区です、瑞芳駅から九份までタクシーで20分位でしょう。
小雨は降り続いています。
やっと山の斜面から港が見えてきました。
山の坂道が続きます。
夕方6時、もうすぐ到着の雰囲気です。
夕食処の坂の上の道路で、降りましょう。
上の地図では、102 汽車路を左から右にバスは九份の斜面の登り、高台で停車、そこで下車し、階段を下り、軽便路を五分ほど右上から歩いて来ました。
九戸茶語へ向かう途中に、九份軽便駅が
この様な赤提灯が並ぶ・・・戦前の日本はこんな感じ?・・・懐かしいような、親近感のあるお店の横を・・・
九份の夕暮れが近い、癒されそう・・・
食事処の横から、ここ九份は海(太平洋)に近く雨が多いので有名なようです。しかし、運良く、雨は霧雨になって来たようです。
夕食を頂きましょう、九戸茶語二館、お勧め台湾料理です。
近年オープンしたこのお店のテラスから、絶景が眺められます。
この様な風景は・・・熱海、伊東・・・世界各地の観光地に共通して、・・・見事に斜面が利用されていますね。
食後の散策に行きましょう。ここは食事処の前・・・、平日の夕方ですが、それなりに観光客で混雑しています。
この九份の中央にメインストリートの階段があります。すぐ近く、右に進みましょう。
ここです。豎崎路(シューチールウ)、階段の両側に古い建物を利用したお店が並んでいます。
・・・・週末になると身動きが取れない時間帯もあるそうですよ。
階段の脇に、こんなお店や・・・
オット・・・立ち止り、撮影会があちこちで始まっています
中程の左側に細いトンネルが・・・渋滞を迂回できるでしょうか、入ってみましょう
このトンネルは、何の後でしょうか?・・・
この一帯は、かつては山間部で9世帯程の人々が生活をされていたそうです。
これらの山並みから流れる渓流が基隆河となり・・・鉄橋工事の際に、何と砂金が発見された・・・1893年のこと。
金鉱が発見され、1895年から日本が統治します・・・この一帯はゴールドラッシュとなり、日本家屋のような家が立ち並び神社も参道もこの石段も、不夜城となったそうです。
・・・このトンネルも・・・金の採掘抗でしょうか・・・出口の先は静かな雰囲気です。
・・・引き返して元の階段を登りましょう。
十字路に到着、左へ続くアーケードがメインストリート、階段を上に進だ先に小学校が・・・、タロイモを蒸して潰し、白玉粉と混ぜた団子のデザートは美味しかった。ここ九份名物です。
戻って左のアーケイド基山街へ
この風景は日本的ではないですね、香港という感じです。
この人混みの中を後ろから、警笛を鳴らして何かが近づいてきます。
お店の中に避難すると、通り過ぎていきました。
・・・ここは道路なのです。そして清掃車でしょうか、通過しました。
右側の樽には堆肥と書かれています。残飯でしょうか?
スタイルの良い方ですね、女性公務員でしょうね。
この道路、・・・気がつくと石畳、金鉱も石の採掘です、・・・石畳の原石も豊富にあったのでしょう。
傾斜地は溝の加工があり滑り止めです、日本統治時代の良き遺産と思われます。
さて、元のメインストリート階段に戻って来ました。
この階段・・・下ります。「天国から地獄へ」・・・と呼ばれた時代があったそうです。
この付近は飲み屋が多く、・・・酔ってどんどん階段を下るとこの先には、派出所があり、金を盗んだ連中の収容所、そして病院などがあって、天国から地獄の階段と呼んだ連中がいたそうです。
・・・どんどん、階段を下っています。地獄の手前に
階段の左にあるウインドウが呼んでいます。
日本の稲作文化で五穀豊穣を祈願して、ミツマタ(和紙の原料)の木に食紅でカラフルな色を付けた団子や繭玉、菱形を取り付け、正月や小正月に横坐、神棚の下に飾られたものにそっくりでした。
もうすぐ地獄?・・・道路に出ました、横切り、狭い階段の先には大駐車場がありました。
時刻は夜の8時近く、これから台北に戻り、故宮近くの夜市 士林夜市(シーリンイエシ-)に行きます。
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