goo blog サービス終了のお知らせ 

気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ガレー船の時代までは、真珠だった

2019-03-12 | 旅行記

カモメが飛んでいる。

広場の北側、サンマルコ時計塔の下を通って、ブランド品が並ぶ狭い繁華街を直進すると、ここはイタリア

Ferrari、フェラーリ、跳ね馬のショールームが突き当りに、

・・・右折し、その先を左折しながら・・・気になっていた、ヴェネツィアの人は運転が下手らしい、・・・

それはそうと、ショールームだった?・・・車?・・・走れないだろう

・・・オット・・・迷子に・・・なった?

確か数回ジグザクに北を目指せば目的地・・・人の流れの多い道を選択して

・・・この広場で、・・・ラッキー、

左の先に・・・、階段がある

リアルト橋が見えてきた。

・・・海運王国だった時代、この付近は商業の中心地

確か昔は、木製の跳ね橋だったようです。ルネッサンス時代まで

・・・サン・マルコ広場から、ここまで10数分くらいか、・・・思ったより早かった。

残り数段、・・・青い洋服の女性が立つ位置が橋の最上部。

大理石が敷かれた石組みの橋は、1561年に完成している。

中央部で橋の両側に向けアーチが掛かり、十字路の角にもお店があり、橋の幅は22mもある。

では右側に折れ、橋の欄干から・・・

密集した14世紀~16世紀のビル街が並ぶ光景は、かつての繁栄ぶりが想像できます。

大商人は運河横にビルを建て、船を横付けにできた、・・・仕事場の上は住居で、この運河沿いは一等地

1527年、ローマの悲劇があり・・・ここから逃れた建築家は、このベネツィアでも活躍しています。

・・・島に逃げてきた民族がここまで大都市を造るとは・・・

裕福な時代の歴史的遺産ですが・・・住民の減少は続き、今後老朽化する建物を維持していくのは大変です。

橋の反対側の光景です

市街地をS字形に走るカナル・グランデ(大運河)、今日でも物流の大動脈です

橋の横から階段を下り、川面に目をやると、・・・飛んできた・・・脚 細いねー

街の主役は・・・ゴンドラです、昔からの黒がイイ。

橋の西側、さらに移動すると

フェリー乗場、Rialto、リアルトのチケット売場

この右側には電光掲示板で、行き先や発着の時刻表があります。

サン・マルコ広場へは、この先運河の左右に次々と乗り場があり、結構時間がかかりそう。

・・・これも、ホテルに飾られていた絵画ですが、

建物のデザインがアッサリとしていて、14世紀頃?・・・いや、風景画は、15世紀以降の題材でしょうか。

しかし、すごいですね。船で物を運ぶのが商売の民族とはいえ、丸太を運び、石材を運び、ロープと滑車で建てたのでしょう。

・・・この14~17世紀ヴェネツィアの発展が気になります。

各種ガイドブックや歴史書には・・・10世紀頃から交易で繁栄し、11世紀にはアドリア海の東沿岸部も制圧し豊かな島になっていきます。

北ヨーロッパから人気の人材として奴隷や、木材などを、北アフリカ沿岸のイスラム教徒に売り、金・銀を手にして、・・・買付です。

シリア、トルコ、コンスタンティノーブルなどで東南アジア原産の香辛料などが、シバの女王やメッカで有名なアラビア半島を通り運ばれてきていた。

金銀の工芸品、宝石、香辛料などを買い付けて、ヴェネツィアに戻ると・・・文化の遅れたヨーロッパの王侯貴族に高値で売れたそうです。

・・・やがてお宝の輸送船は、海賊やライバルのジェノバ共和国に襲われる、・・・航路の安全確保には、海軍の増強が急務でしょう。

地中海東では1300年頃・・・遊牧民からトルコが誕生・拡大し、やがてビザンティン帝国を侵略し、100年後・・・首都コンスタンティノープルも包囲される状況。

イタリア半島では、教皇領、君主国、公国、共和国、自治都市・・・これらが乱立し領土争いが常態化。

・・・商売で生きるヴェネツィア共和国は、アドリア海はもちろん、北の大陸側も販路として重要でした。

隣国との争いには、金の力、外交以外に武力も必要になります。

商業都市フィレンツェやローマ教皇は自前の軍隊を持ちませんが、金で傭兵を雇いました。

ヴェネツィアも陸軍はありましたが、隊長を含め全て傭兵です。資金をつぎ込み軍事力を強化します。

・・・重宝されたのが、国内に仕事が少なく出稼ぎが多いスイス国民、・・・外貨獲得に外国で傭兵に。

ジェノバ、ピサ、ミラノ、ヴェローナ、バドヴァ、・・・これらの都市とヴェネツィアは、同盟を結んだり、裏で資金援助したり・・・

14世紀の勢力図がこちら、ヴェネツィアは、大陸側は海岸線から少しの範囲とアドリア海の東沿岸部の都市を半数程度制圧しています。

突然吉報が・・・1402年、トルコのスルタン(君主)自ら率いた大軍が、何とモンゴル軍との戦いで完敗します。

トルコのスルタンは捕虜になり・・・軍は四方八方へ・・・そして消滅。

一方1405年、イタリア半島北部ではヴェローナなどが、敵対していたミラノから圧力を受け、ミラノの支配下になるよりは、自由のあるヴェネツィアの属国を選びます。

属国となった土地は広大で農業が盛ん、これで食料も確保でき、・・・15万人の人口が・・・属国含めると約10倍の145万人の大国に。

運を味方に・・・15世紀前半、ヴェネツィアは最盛期を迎えます。

しかし、アルプスの北西にフランク王国、北に神聖ローマ帝国と強国が・・・面倒なのが宗教で脅す教皇と教皇領、

・・・一方、地中海の東方では、・・・滅亡から20年、トルコが復活し、徐々に勢力を拡大してきます。

1453年5月29日、トルコに攻撃され、首都コンスタンティノープル陥落、・・・900年続いた東ローマ帝国が滅亡。3日間略奪が続き・・・

異教徒の脅威! イタリア半島では5大国が緊急協議、ローマ教皇領、ナポリ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェが争いを中止。

翌年1454年に協定を結び、イタリア半島はこの後、40年間つかの間の平和、そして後に言われる ルネッサンス の時代です

・・・中世の時代は各国の王もキリスト教徒です、教徒よりも教皇の力が強く、破門されると、誰にも相手にされなくなって悲惨。

この権力者・教皇の選出(コンクラーベ)に投票権があるのが枢機卿。

枢機卿の推薦に教皇が関わるので、親族を枢機卿にし多数派工作、・・・何と10代の枢機卿も誕生と教皇のやり放題。

宗教を商売にする教皇と、交易で富を目指すヴェネツィア人民、懇願する相手に首は切らないと約束し、胴を切る乱暴者のスルタン

このような中で個性を発揮したのが、・・・何故?、人間は自由だろうと考えた・・・意志の強い人々

天才が次々に創作作品を発表する・・・この時代に興味を持ち始めると・・・宗教とは、教団とは、・・・考えてしまう。

・・・16世紀のヴェネツィア、豪華な宴会のシーンを想像できる絵画があります。

「カナの婚礼」 1562~63年頃の作、 縦6.77m、横:9.94m、作者:ヴェロネーゼ(正式名:パオロ・カリアーリ)

総勢130人、左端のテーブルに手前から新郎新婦が並び、横には当時の著名人、フランソワⅠ世、スレイマン1世、君主カール5世など

中央手前の楽団員には画家仲間が、左からヴェロネーゼ、パッサーノ、ティントレット、ティッツアーノ。

 

2013年5月 当ブログにて。・・・ルーブル美術館で鑑賞できる作品です。

・・・サン・マルコ広場に帰ろう・・・適当に近道だろうと進んで、いくつか橋を渡ったら、狭い四つ角で・・・迷子になった。

スマホのGPS位置情報が・・・反応が遅い、・・・急ぎ足の通行人に・・・広場は?・・・左? 

・・・広場に向かう途中のブランド街で、蛍光グリーンの女性が目立っていました

この都市でもカラフルなユニフォームの女性が仕事中、宅急便ではなく・・・ゴミの回収中でした。

Keep 〇〇〇 clean、隠れている文字が Venezia(ヴェネツィア) と思ったら、Venice?・・・EUの民間業者?

・・・ヴェネツィア 興味が持たれたら・・・塩野 七生(ななみ)女史の作品。「海の都の物語」をお勧めします。

30数年前に書かれた作品ですが、なぜかベクトルが合うので・・・(後半しか読んで無いのですが・・・)

このヴェネツィア共和国の歴史が、共和政体、信教の自由、言論の自由(出版)など、各種記録をベースに詳しく描かれています。

この中から、1480年ヴェネツィアにやってきたキリスト教徒の旅行記がありますので、ご紹介しましょう。

・・・何故生死をかけてまで、行くのか? 参考に地中海の地図を

実はこの時代、北ヨーロッパの庶民が・・・死後の世界を脅かされ・・・免罪を求めて、聖地巡礼に参加したのです。

ミラノの公務員、サント・ブラスカさん、35歳、独身、聖地巡礼パック旅行に申込み、半年間休業して・・・、

1480/4/29 ミラノを出発し、ヴェネツィア共和国にやってきました。

・・・なかなか巡礼船が決まらないが、紹介され毎日あちこち観光していました、・・・ヴェネツィアの観光政策によって。

教皇が12世紀の末に、ローマ以外ではこのヴェネツィアだけに与えた特権を営利事情に利用していました。

それが、・・・キリスト昇天祭に、ヴェネツィアの聖遺物に参拝すると「完全免罪」を得ることができるというものです。

1480年の昇天祭は、5月11日、・・・サント・ブラスカさん聖遺物に参拝し「完全免罪」と日記に書き残しました。

・・・ヴェネツィアは200年間「巡礼事業法」で、旅行の安全とサービスがセールスポイントです、徹底していました。

フランスなどに比べ1割くらい割高な旅行費用ですが、ヨーロッパ中に人気がありました。

3種の証明書、①「パスポート」:教区の司祭が発行する聖地巡礼専用の身分証明書・・・(これは本人が入手できました)

②「聖地巡礼認可証」:ローマ法王が発行します。

これが無いと、あちこちの聖跡に参拝して得られる「免罪」が無効になってしまうので巡礼には必要な書類。

③「ビザ」:現地王朝のイスラム教徒から通行許可証がでる。

この取得に面倒な②と③をヴェネツィア側で代行してくれたのです。

もし、巡礼者が旅の途中で死んだら、遺体の処置、遺物は遺族へ、残りの日数に応じて旅行費の返還も行われた。

やがて・・・6月1日のキリスト聖体祭が済むと、6日出港と決まった。

・・・6/6 早朝6時、ヴェネツィアの港からやっと船に乗り・・(略)・・・

途中赤丸印などの寄港地で風を待ち・・・右端の港ヤッファ(現在のテルアビブ)に到着、・・・風次第とはいえ・・・長かった。

しかし、ここでも手続きに日数が掛かり、7/27 ガイドが案内する聖地巡礼団体ツアー・・・ロバに乗りサァ出発。

途中アラブ人に通行許可証の提示を求められたり、ここの通過は難癖をつけられないように静かにとか・・・緊張、そして1泊、

翌日、エルサレムに入場する。アラブ人の信仰についてこんな感想を述べています。

・・・イエス誕生の洞窟の中に、イスラム教徒が靴を脱いで入り礼拝するのを見る。

イスラム教徒は、イエスを聖者にして立派な正義の人と言う。

だが、彼らにとってはイエスは予言者ではあっても、神の子ではない。

聖者の由来、十字架に付けられたゴルゴダの丘のことは、・・・笑って信じない。

予言者はそんな苦悩に満ちたことなどやるはずがないと言う。

・・・ところで、聖跡参拝は免罪が 、完全免罪 7年と40のどちらかになるという。

聖スティファノの門から、イエスが十字架を背負わされて引き立てられていったヴィア・クルチスを行く。

しばらくして、シモンがイエスに代わって十字架を背負った・・・ガイドが言う。

・・・ピラトの宮廷跡、白い大理石の上で、何も理由の無い死をイエスに言い渡したと言う。

聖母マリアが少女の頃、字を習いに行ったマリアの学校も聖跡(感心するくらいアチコチ行きますが・・・割愛)

・・・ピラトの屋敷跡も見る。連れてこられたイエスが鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ白い布を着せられたのだ。

免罪、7年と40、祈りを捧げる。

ユダヤ教の要所、ダヴィデが天使を見た場所も見学する。

・・・聖母の生まれた家、聖アンナの墓所参拝、聖母の母である製アンナの遺体は、

コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが、コンスタンティノープルヘもっていったので、今ここには無い。

しかし、免罪は、完全免罪

オリーブ山のふもとの、聖母マリアに捧げられた教会に参拝。ここも完全免罪

左手に下っていくと、聖母マリアの昇天の場に出る。7年と40日の免罪

・・・最期の晩餐の家・・・、完全免罪

・・・聖墳墓教会では、アラブ人の監視役から、家畜でもあるかのように一列に並ばされ、・・・参拝料を徴収され、

巡礼者が中に入ると外から鍵が閉められ、翌朝まで開けないことになっている。

異教徒もこの聖地の重要性を知っていて、参拝料も最も高い。

・・・さらにキリスト誕生のベツレヘムに行き、その後ヨルダン河へも・・・

アラブ人に襲撃されるかもしれない危険があり、48人の一行の内、参加者は半数以下になった。

エルサレムに帰って三度目の聖墳墓教会に行き、祈りで夜を明かす。

エルサレムでの12日間が過ぎ、明日の 8/8 夜明け前ここを出発する。

・・・ヤッファーに着いたのは、翌々日の夜だった。

8/11夕方、出港。風は順風、8/15キプロス島着、シロッコ(南西の逆風のこと)が止むまで停泊、・・・略・・・

10/14 レジーナの港に入る。アドリア海の半ばを残すだけになった。

10/17 パレンツォ到着、風がシロッコとなり、しばらく停泊が続きそう。

急ぐ巡礼者には、小舟(数人)で沿岸部を迂回する便もはかってくれたので乗り換える。

・・・波の上に見え始めたこの都がどれほど美しく見え・・・略(やっと戻れた)(亡くなる方もいました)

10/22、ヴェネツィア着、三日間死んだように眠り続けた。

ミラノに帰ったのは、115日だった。(彼はこの後、旅行記として出版しています)

・・・巡礼は、行きの船旅だけで45日、ヤッファから上陸、聖地を巡礼しヤッファに戻り、船で発つまで22日、

帰りの船旅が 72日間、これに故郷からヴェネツィアまでの往復日数とヴェネツィア滞在日数がありました。

・・・ドイツやフランスからの巡礼者は、さらに2か月は必要となり、人生をかけて申し込む聖地巡礼パック旅行でした。

これもホテルに飾られていた画像です。

今日の風景と比較しても、ドゥカーレ宮殿は変わっていません。

16世紀には、この街はほぼ完成形となり現在に・・・。

ヴェネツィア土産は、時代と共に変わって来たのでしょうか・・・。

変わってきたのは、戦争の仕方?

地上戦はオスマントルコが陸伝いに数万人規模の大軍を動かすので、圧倒的な勢力と対抗するには連合軍。

海戦は、(ヴェネツィアの海軍は、ガレー船という帆船に人力エンジンとして漕ぎ手を100人位は乗せていました。)

訓練されたヴェネツィアやギリシャの海軍は戦闘力が高く、船の性能も地中海一番で強国でした。

 

「海の都の物語」によれば、ヴェネツィア 絶頂期の記録があります。

・・・1423年、ガレー船:45隻と11,000人の船員、120トン級以上の大型帆船:300隻には8,000人の船員、

小型帆船:3000隻に17000人が船員として従事していた。

造船工は6,000人、絹や綿布の織物工は、帆布を織る者も含めて16,000人・・・経済大国だった。

・・・1499年はガレー船60隻・・・この年、2度目のオスマントルコ軍との戦いがありました。優勢な状態で和議

1538年はガレー船82隻・・・トルコと3度目の対戦、(ヴェネツィア単独では戦力不足で対抗できない)

連合を結び、法王庁が36隻の約束で27隻、スペインが82隻のところ49隻、結局200隻の約束が158隻のガレー船。

対するオスマントルコは約200隻、これでも乗組員の技能が高く戦力では勝てたでしょうが、

・・・スペインは北アフリカ対策が重要で参加が目的か・・・結果、敗戦・・・これ以降、地中海はオスマントルコが制圧。

1571年、レバントの戦い、ヴェネツィア:104隻のガレー船、更に大型のガレアッツァ6隻と110隻の軍船を用意

法王庁とその他連合国:98隻、何とか208隻の軍船が揃った、(ガレー船以外の帆船を合わせると大艦隊)・・・始めてトルコ軍に大勝した。

・・・以後スペインの海軍は戦う相手が無く無敵艦隊と呼ばれたが・・・後にイギリスと戦い完敗(英国の大砲:性能が格段に進化)

・・・トルコ軍は2~3年後復活したが、支配地はピークを過ぎていた。

ヴェネツィアは、陸軍は傭兵だったが、海軍は給料を支払う自由民でした、・・・船は増やせるが・・船員を無条件に増員ができない。

トルコのように漕ぎ手を奴隷や支配地から強制労働力として集めることができなかった。

フランス:1600万、スペイン:800万、ドイツ:1000万、イタリア(ヴェネツィア除く):1100万、

トルコ(エジプト、北アフリカ除く):1600万・・・・・総人口の数字です。

ベネツィアは属領を含んで:145万(本土は1/10)と圧倒的に資源不足で・・・継続は困難だった。

どこかの国と同じような話です。

勝負には、ルールがあるので・・・決着しなければならない、勝てる方法はあるでしょう

戦争は継続できなくなったら、終了です。

・・・たくましく、世界有数の観光都市に・・・商売人ですから。

・・・ヴェネツィア、日はまた昇る

ヴェネツィア島を後にして・・・向こうに見えるは、・・・本土から流れ込む河口があります。

旅人はこの河口まで船で下って、この付近に小屋でもたくさんあったでしょう。

ここから島へは・・・帆を上げて、風任せ・・・水路を気長に・・・  気長な旅をしてみたい。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア共和国 新しい守護聖人

2019-03-04 | 旅行記

サン・マルコ広場の一角に鐘楼が・・・、高さは、ガイドブックによれば96.8m、素晴らしいランドマークです。

エレベータで、60mまで一気に登ります、・・・展望台から・・・これは前回の動画からの画像です。

東側の眺望。奥に見えるのは・・・大陸と続いている細長い半島のような低地で、砂州の親分でしょうか。

この島の周囲にも多くの島が点在し、どこまでが潟でしょう、・・・右側の隣の隣?が外海です。

・・・眼下の寺院でした。

気になるサン・マルコ寺院は、

屋根の上に、ネギ坊主がモコモコトと。

・・・なぜ 聖マルコがこの地に? 寺院の正面に絵解きがありますので・・・後程。

この寺院の建立は11世紀、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(現イスタンブル)の聖堂がお手本といわれています。

ヴェネツィアは早くから東方と交易があるので、半球状のドーム(伊:クーポラ)を屋根に載せる工法も確立していたようです。

十字の中央部が一番高いドーム、手前の主身廊と奥の内陣にも各々ドームが載り、更に左右にと・・・何と五つも載せています。

だから内部で天井を見上げると窪みが連続して続き・・・側廊から進んで斜から見上げる結果、さらに複雑な凹凸に戸惑います。

ビザンチン様式に、西ヨーロッパの様式を16世紀頃まで次々と加飾して、完成に至ったようです。

ところで・・・西ヨーロッパ社会が1096年に第1回十字軍を送り、イスラム圏の進んだ文明に驚いたようですが、

ヴェネツィアは、長い間の取引先です・・・参加はしていません。

ローマ法王の熱弁が有名です・・・「ヨーロッパは貧しくみじめだが聖地エルサレムは乳と蜜が流れるところ」

「この地で不幸な者は、彼の地で幸せを得るだろう」

「聖地奪還は神の御業であり、神の御業に参加する者には、罪が許されて、贖(あがな)いは免除される」と

・・・得意の手法で信者を脅し、1000年も昔の聖地は他国の土地だが、

聖地エルサレムが異教徒に圧迫されている、殺人は免罪される奪還しようと。

・・・次男・三男や農業に従事する若者が・・・未来に希望が持てるなら正義の騎士として、異国の地へ戦いに。

11世紀、ヴェネツィアは、海軍を要しアドリア海を支配下におき、繁栄していました。

1202年イスラム教徒に取り返されていた聖地獲得に第4回十字軍を編成し、ヴェネツィアに輸送船を提供してと

ヴェネツィアは、遠征軍リーダーに・・・乗船料はこれくらいと、・・・エーッ、金の集まりが悪く・・・船賃が無い

・・・では、アドリア海の都市ザーラを奪い返してと条件を出し・・・遠征軍は奪還してくれました。

では、船と船員も提供し十字軍に参加しましょう・・・ヴェネツィアは法王の威厳、エルサレムの聖地奪還より

地中海交易でライバルの東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを占領し実益を得ようとします。

難攻不落の要塞が陥落し、首都を占領しました、参加国で占領地を分配し・・・ついでに財宝類を持ち帰りましょう。

1204年のことです。

・・・サン・マルコ寺院にはアレやこれも、沢山残っています。

・・・展望台で、もう少し南に向いてみると、・・・この光景が見たかった。

この港から外海に出て行く船道は、左前方に進みS字形に島の間を抜けていきます。

ヴェネツィアは、12世紀に巨大な国営造船所を建造し、大航海時代までヨーロッパで最強の海軍がありました。

本島の東端にありましたが、現在は立入禁止区域のようです。

素敵なコバルトブルー、いや若干エメラルドグリーンにも・・・濁流が流れ込むことが無く、海の色が綺麗です。

・・・更に少し右に・・・見えている部分は潟に点在する小島です。

球体の海面に光が反射し真珠のようです。平和な光景です。

海に突き出た所に建つ教会が デル・サルーテ教会です。

右側に柱があるので・・・移動します。

サンマルコ広場、寺院の真向かいです。

広場正面には、共和国時代この場所に教会が建ち繁栄を見守っていたそうです。

・・・オーストリア軍を追いヴェネツィアの領土、ヴェローナにやってきたフランス軍のナポレオン

中立宣言のヴェネツィアに味方に付くよう脅迫し、・・・物資の提供を受けながら戦う意志のない相手に宣戦布告、

そしてヴェネツィア共和国は1000年の歴史が終わってしまう屈辱の白旗・・・

フランス軍とオーストリア軍は1797年10月講和条約を結び、ヴェネツィアはオーストリア領に。

・・・ナポレオン様ご一行が来島されるので宿泊施設を、真向かいに左右の建物と調和させ建てたようです。

ナポレオンがこの地に立ち、「世界で最も美しい広場」といったのは、有名な話とのこと。

このような時代だったでしょうか、かつて宿泊したホテルに飾ってありました。

こちらは、北側、大陸と結ぶ鉄道・道路が走っています。

もう少し北東に向きを変えると、共和国時代の商業の中心地、リアルト橋があります。

・・・

ヴェネツィアは、5世紀に戦闘民族から逃げて、湿地帯にある無数の小島の一角(現在より東)に移住したとされます。

・・・ヴェローナで見かけた・・・ローマ帝国が建てたアリーナや公共施設が無いのは、・・・港にも使えないこの地は重要視されなかった。

ナポレオンがオーストリア軍を追ってきた時点で、下図は全てヴェネツィアの領土でしたが、陸路はパドバまで、

赤〇がヴェローナ、青〇はパドバという都市、本島へは・・・

ここから河川を舟で約35㎞くらい下り、渡ったようです。

川の両岸には別荘や住宅が建ち、農業が行われていました。

ヴェネツィアは、地理的に東西ローマ帝国の中間に位置し、戦闘民族では無いがアドリア海を利用して

交易で生きるには、まずは物流の安全には海軍の強化(造船能力と乗組員)、交易相手との友好には外交力

情報の収集には各国に大使館を置き諜報活動も優れていたようです。

国の統治は、かつてのローマ帝国のような共和制、元老院(貴族院)、元首の監視に二人の護民官を置き、

法の支配は貴族といえども厳格に、信教は自由と先進的でした。

しかし、21世紀、改めて問題になっているのが宗教、

今日の信者数:一説には、ユダヤ教:約1700万人、キリスト教:24億人、イスラム教:18億人、ヒンドウー教:約18億人、仏教:約5億人・・・)

これらの宗教の中で、一神教の与える恐るべきマインドコントロールパワーに驚くと共に、なぜこうも信者が多いのか

この疑問が少しでも解けるように、またイタリア各地でアレコレすることになったのです。

サン・マルコ広場(以前の画像・寺院の北側 修理中)

右側の建物の回廊

シャンデリアのような、光の滝が・・・

中央部右側に、・・・ガイドブックで必ず紹介されているお店です。

フローリアン、1720年創業、現存するカフェでは世界一古く、ゲーテなどの来店は有名

フローリアンの前の広場には、11時頃から椅子が並べられます。

広場の向かい側には、1775年創業のカフェ・クアードリがあり、こちら側にも椅子が並び始めます。

サン・マルコ寺院

一部では、サン・マルコ大聖堂とも呼ばれるが、共和国時代はカトリックの司教座は、島の端にある別の教会に置かれていた。

この地でも、若きナポレオンがミラノのドォーモと同様、教会のありように強引に介入してきたようです。

島の端の教会から、この広場の有名なサン・マルコ寺院をカトリック教の司教座に代えたので、

一部の関係者は大聖堂と呼んでいます。しかし信教の自由な土地ですから、昔からの寺院と呼ぶ人が多いとのこと。

さて、寺院の正面、ドームが半球ではなく縦長のプラネタリウムか天文台のように立派な造りです。

正面ファサードの頂上にシンボル、このヴェネツィアの2代目守護聖人です。

手に持つのは福音書でしょう。

キリスト教では4人の著者の福音書が採用されていますが、最も古い紀元50年頃に書かれたとされる著者です。

聖マルコの像が建つ、サン・マルコ寺院です。

少し目線を下げると、羽のあるライオン:マルコのシンボルでもあり、ヴェネツィアのシンボルがここにもあります。

日本語で、有翼の獅子と説明しているガイドブックも見かけます。

・・・中央入口の上部、半円形の部分に鮮やかな色彩で描かれているのが、・・・

あまり話題にならないが、キリスト教でも禁止していた偶像崇拝に逆らって、正面中央は無難にイエスと十字架。

この建立時期は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立し、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と争い、

その後、帝国と教皇を和解に導き、教皇から感謝され・・・共和国はキリスト教に重心が移っていったようです。

それから、何故かアーチの上に4頭の精巧な馬がいます。

これは、コンスタンティノープルからの略奪品(銅製のレプリカ)です。

中央の入口以外に、・・・左右に各々2場面、計4か所で描かれているのが、この寺院ができた由来です。

右端:ターバンの人々が何をしているのか・・・

ヴェネツィアの交易相手は、東ローマ帝国やイスラム国、アラブの国々と西ヨーロッパの国々です。

大昔、アレクサンドリアで布教していた聖マルコ が捕らえられ・・・その墓が発見されたとの情報が・・・

キリスト教会でブームになっていた聖遺物、ガラクタでもなんでも物語があれば高く売れた時代です。

ヴェネツィアでは守護聖人をギリシャ出身のテオドーロよりは、聖マルコの方が格が上、

その遺骨が手に入れば正真正銘の聖遺物、異教徒のエジプトの墓から盗み出す・・・作戦が練られ

828年、イスラム教徒が嫌う豚肉で覆って・・・そんなシーンらしいです。

隣りは、自国の船でヴェネツィアに何とか到着

左の3番目のシーンが

 結構、力を入れて描かれています。

ドージェ(元首・総統・軍団長)による遺体の引き取り場面です。

遺体を祀る寺院の建設が始まるのは・・・すぐです。

2年くらいで最初のサン・マルコ寺院が完成し、ヴェネツィア共和国は守護聖人を聖マルコに改めました。

一番左が、聖堂に聖遺物(聖マルコの遺体)を運ぶ行進の図です。

このモザイク画は13世紀の完成で、4つの中で一番古いようですから、この新しい寺院ができてから200年後です。

時代は、・・・ライバルだったジェノバ共和国と戦い・・・勝利して、

貿易・商業で他国が嫉妬する程するほど富を集め、地中海交易は前途洋々、そろそろ自国自慢が解禁されたようです。

・・・本堂に入ります。

金色がベースですが・・・ガイドブックはモザイクとありますが、モザイクとしては繊細、画素は・・・?。

画像からでは不明です

1000年もの長い間、蝋燭の煙や香炉で若干くすんだような、沈んだ感じになったのでしょう。

完成当時は、これ以上に豪華、光り輝き・・・。 

これは、採光もよく、雰囲気は出ているが

汗だくでこられた巡礼者も多かったでしょう。振り香炉も活躍しています。

こちらの画像では、中央と内陣のドームでしょうか

画像が傾き判り難いが・・・多分中央のドーム、ガイドブックでは12世紀後半の傑作

ルカによる福音書「昇天」聖母マリアと12人の使途がキリストを見上げ・・・以下略

こちらも画像がブレていて・・・そうでした、ここは撮影禁止のようでした

以前は今回と同じく11:30頃、照明が点いた時間帯に多分撮影が可能で

探し出した画像です。

このように主身廊から正面の祭壇を見ると、天井のドームの状態が多少理解できます。

モザイクの主要テーマは、キリストの生涯と受難、そして復活とあります。

制作時期が12世紀から14世紀中までとあり、有名な画家ティツィアーノの下絵をモザイクにした作品もあるとのこと。

こちらの内部も含め16世紀頃まで、コツコツと手を加えられていたようです。

・・・前回は、照明が暗い中、内陣の後ろに別料金で入れるコースがあり、但し宝物の撮影は禁止

「パラ・ドーロ」と呼ばれるサン・マルコ寺院の最大の宝物が据え付けられていました。

これはヴェネツィアの依頼で、コンスタンチノーブルで制作された「黄金の聖壇の飾り」

黄金と数々の大きな七宝が嵌め込まれた大きな衝立状の工芸品でした。

・・・今回は、別料金でテラスに上り広場を見ます。

右側の狭い急な階段を5mほどでしょうか、結構上ります。

そして右側にテラスがあります

 

何これ! 掠奪してきた4頭の馬、競馬場に置かれていたものらしいですが、素晴らしい作品です。

テラスからの北側広場です。

回廊と上部の窓のアーチが整然と並び重厚な建築物です。

鐘が鳴っていました、あちこちから・・・昼12時のようです。

天気が悪く、広場には両側のお店から4か所テーブルが並べられましたが、閑散としています。

では内部に戻り、テラス内側からの豪華な本堂の様子が鑑賞できます。

階段を降り出口に向かいますが・・・

下の画像の様子は、前々回・・・床上に海水が上がって・・・でもこの位は慣れたもので

このような仮設廊下が造られ、落ちないように進んでいるところです。

では、リアルト橋に行きます。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア共和国だった頃

2019-03-01 | 旅行記

Venezia(ヴェネツィア)、英護ではVenice(ベニス)、ローマと並んで観光資源に溢れた歴史の重みが感じられる街です。

「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」「水の都」

かつて始めてのこの街に宿泊し、夜半ホテルの部屋から街中を眺めていて、治安が良さそう・・・、

一人で地図も持たずにカメラ片手にサンマルコ広場に行ってみようと・・・無謀にも出かけた記憶が鮮明によみがえってきました。

ホテルは、サンタ・ルチーア駅から歩いて5分位

 上の画像の左手前側に、サンタ・ルチーア駅(鉄道)があります。

数段の階段を上がった上に駅舎があるのですが、この街にタクシーは走っていませんので駅前ロータリも無く、

上部に横長のひさしが通っただけの機能優先の建物だったと思う。

駅前は、フェリー乗り場です。(上の画像の右側)

駅舎の東横にサン・ジェレミア教会(11世紀の設立)があり、運河との間の道を進みます。

この先、ホテルは左に進むのですが、カナル・グランデ(大運河)に架かる数少ない橋が右にあります。

橋を渡って、反対側から振り返ると

11世紀の教会にしては、ギリシャ風モダンなデザインです。

そして、数か所フェリー乗り場が見えます。

・・・近くの通りに面した、ここが宿泊先の4つ星ホテル

そして、部屋から眼下の通りを眺めていたら

結構治安が良さそう、女性の一人歩きも見えます・・・

屋台のお店は片付けられているが、若干飲食店の灯りが見える。

・・・カメラ片手に出かけたのが、PM9:00だったようです。

方向感覚は良い方だが、・・・・見通しがすぐ悪くなる道に困りながら進むと、・・・狭い運河に架かった橋が現れた

確かヴェネツィアは100、いや120以上だったかの島が集まり、運河も100数拾以上、橋も数百はあるようでした。

運河に架かる橋が多いのは当たり前と、どんどん進む。

・・・橋の先は違う区域、区画整理いや、開拓された年代が違うのか・・・道幅が急に狭くなったり

四つ角の小さい広場に出てくると、さてどちらに進もうか・・・

街角で、覚えやすい目印が見つからず、通行人についていくと・・・狭い路地に入り・・・後に続く

路地の先は、・・・開けていた。

近道だったようだ・・・、この先密集した商店街で・・・この辺は?、多分リアルト橋

付近の商店街はシャッターが降りていて、先に進んで迷子になっても、店が閉まっていては聞くこともできない。

路地は迷路のようで、来た道は覚えられそうになく・・・引き返すことに 

15分位で・・・このような光景に戻れて、ホッとした。

ウインドウショッピングがしたかったのだが、ホテルの中にも多少ありました

ヴェネチアングラス、クリスタルか否か分からないが、今日では鉛の使用制限があり

かつてのような製品は製造できないでしょう。

そしてホテルからの翌朝、眼下に、旧市街らしい屋根と壁

通勤客で活気が出てきたようです

サンタ・ルチーア駅前のフェリー乗り場に出発です。

ショーウインドウに温かい光が点きました。ここは世界有数の観光地です。

・・・

今回は、この日も霧雨模様、・・・左がイタリア本土で、右がヴェネツィア本島。

ヴェネツィアの境界線は本土側にも土地はあって、例えば左の海岸に沿って数キロ北東にマルコ・ポーロ空港もあります。

今日では、河口から約10㎞くらいまでが行政区域でしょうか。

3850mのリベルタ橋によって鉄道と道路が走り、本島側と結れています。

鉄道はこの先、画面右に直進してサンタ・ルチーア駅が終着駅、途中で右に分岐して隣の島に進むと貨物駅

道路もこの先本島で右に曲がり、終点のTRONCHETTO(トロンケット)の駐車場に進みます。

近くにあるトロンケット島からの地名でしょうか。

黄色のラインで駐車場に到着。フェリー乗り場に進み・・・

青の航路でボートによりサン・マルコ広場の東側のフェリー乗り場から再上陸です。

右側のジュデッカ島との間を進むと、やがて鐘楼が目立つ、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が離れ島に

ルネッサンス後期に着工され、17世紀に完成し、チィントレット、カルバッチオ等の絵画で有名

この教会の対岸では、本島市街地をS字形にカナル・グランデが走り、この位置で合流します・・・こんな風景です。

サン・マルコ寺院の鐘楼が見えきて、ドゥカーレ宮殿が視界に入ったら、・・・

中世の船乗り達は、12世紀に建てられた二本の柱頭に感謝の祈りを捧げたのでしょう

聖テオドール(最初の守護聖人)が左側に、槍と盾を持ち・・・聖マルコでは無いようです。

有翼のライオン像、

これはヴェネツィア共和国の紋章です。

・・・そして、フェリー乗場から・・・歩いて・・・この2本の円柱が建つ小広場に到着

この2本の円柱の真下から、サン・マルコ広場を見てみましょう(これは昔の画像です)

さて、観光の目玉が サン・マルコ寺院やゴンドラでしょうか

下の写真も昔の画像ですが、・・・多少気になる所があるのですが・・・、船体の色が黒のみ?・・・習慣です。

この時は、潮位が90~110cmくらいだったのでしょうか?・・・海面が高いでしょう・・・

ヴェネツィアを悩ます、アクア(水)・アルタ(高い):満潮ということですが、通常は異常潮位現象を指します。

内海(潟)の海水面が満潮時(大潮)の大きさと、季節風(海風)の強さ、気圧などの条件により100~160cmにも達する現象。

通常 潮の満ち引きはピークが30分くらいですから、上の写真は満潮からどのくらい経過した状態かは不明です。

・・・昨年11月上旬は、150cmに達し大変だったようです。警報のサイレンが100cm以上で鳴るようですが・・・。

ゴンドラは、1隻6人乗り40分80€が相場との話、乗り場やコース、もちろん時間で異なるのは当然ですが・・・。

ホテル・バウアーの横の運河から乗船、・・・薄曇りになってきましたがゴンドラは30分位で十分、路地から・・・

自由の女神や交通信号もあり、・・・やがて大運河にでます。

ゴンドラの船団、いい風景です。

・・・この観光用客舟、左右非対称・・・右側面は直線で、こちら側にオールを入れる。

左側面は大きな曲線を採り、傾きを補正しているようです。

右前方にサンタ・マリア・テッラ・サルーテ教会のドームが見えてきました。

こちらの運河側が確か、ファサードのようでした。

ラテン十字ではなく、中央部にドーム、奥に内陣、その内陣にもドームが載り、鐘楼が建つ。

サン・マルコ小広場からの見た目を美しく、その様な設計で計画され

(これも昔の画像)正面からはドームが重なり、左右対称のデザインです。

この教会、1919年 今年のイタリア版カレンダーを購入した中に、採用されていました。

 この教会は、17世紀のヨーロッパを襲ったペストの終息を祝い、1631年着工、1687年完成。

教会の土台には、〇〇〇本の杭が打ち込まれているとか

このようなボーダシャツ、似合いますね (昔の画像でした)

市の免許と約100万円と言われる営業ライセンスが必要で、ゴンドリエーレ:船頭さんになるのは大変

・・・〇〇〇は?、10万でした。

さて、この建物をつなぐ渡り廊下のような構造物・・・下を小運河が、・・・ゴンドラも通るコースですが・・・

主役が・・・分かり難い、

この画像ですが、何とこの画像もカレンダーの2月に採用されていました。

なぜそんなに有名なのでしょう。

名称は、「ため息橋」、左の建物がドゥカーレ宮殿の裏側、右側の建物が牢獄

この橋を渡ると二度と生きては帰れず、囚人がため息をつきながら渡ったという「ため息の橋」

しかし、イタリアの建築物カレンダーに選ばれた理由については、デザインでしょうが・・・?。

サン・マルコ寺院もありました。

2019年4月のカレンダー

この寺院も、イタリア全土で良くみられるラテン十字ではなく、・・・いや十字形ではあるので、縦横同じのギリシャ十字か?

・・・漠然と内部に入るとあまりの凹凸の多さに目移りがして、全体像すら把握できない、更に前回は暗かった。

前回、鐘楼に登った時の動画から、パノラマを切り出して見ると、十字の中央部と四方にドームが載せられているのが良くわかる。

前々回の照明が点いた本堂内の画像を整理中。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェローナ

2019-02-15 | 旅行記

ミラノから東方のヴェネツィアに移動します。距離は約270km、東京から浜名湖くらいでしょうか。

この途中、東に160kmくらいの所で南北に走る(ローマとドイツを結ぶ)街道と交差する交通の要として、中世から栄えたヴェローナの街があります。

・・・紀元前1世紀にローマ帝国の支配地となり、得意の土建業でローマ同様、円型闘技場や水道施設などインフラが整備されました。

今日観光地として有名なのは、皇帝派と教皇派の紛争をベースに「ロミオとジュリエット」のロケ地?生誕地?

いや、シェイクスピアの作品の舞台となった地ですが・・・名所なのです。

今回は2000年に世界遺産となった旧市街地に、川を渡って古き遺跡から入ります。

アディジェ川が右側(上流)から左に流れ、川向うの旧市街をU字形に取り囲み、蛇行しながらヴェネツィアへと下っていきます。

橋の麓にはこの様な彫刻もありました。

剣を持っている天使、ミカエル?でしょうか、動作が良く理解できませんが・・・

橋を渡り道路が右に大きくカーブする所の左側に、このような遺跡がありました。

この門は始めて見ます。古代ローマ時代の門です。

資料によれば、ボルサーリ門、ベローナの正面入り口、(中世以前は、ユーピテル門と呼ばれていた)

門から中に進み商店街を少し直進し、やがて右折、そしてまた右折すると広場にでます。

円形闘技場、アレーナ・ディ・ヴェローナ 収容人員:2万2000人、長径:152m、短径:128m 高さ:30m

大きく破壊されていないので、この遺跡はイベントに使用されています。

マリア・カラスのここでの野外オペラ、イタリア初演は有名な話のようです。

他にも、U字形の最深部の川向うに半円状の野外劇場があります。

裏の丘の上に登り、旧市街を見たかったが・・・時間が無いようです。

足元に昔の旧市街の地図が埋められています。

着色と表示は作者が追記してますが、今日ではもう少し細分化され、広場も変わっているようです。。

左端のヴィットーリア橋を徒歩で渡り、ボルサーリ門から図では一ブロック上に進み右に1~2ブロック進み

下側のアリーナに出て来ました。

 

アリーナからまた地図上、上方に商店街をしばらく進み、

左に広場が見えてきた十字路を、右に曲がります。

・・・この通りをしばらく進むと、2ブロック先くらいの所にもこんな遺跡があります。

2000年前、ローマ帝国時代の土木工事が風化しないで残っています。(過去に撮影した画像)

古代ローマ時代の井戸跡、

旧市街、逆のコースで、こちら側から奥に塔が見える広場に向かって進むコースが、分りやすいでしょう。

このように遺跡を利用して景観を作っているのはさすが。

・・・では、元の位置に戻って、2~3軒先ではこのような景観ですが、これは雨の日で人通りが少なく特別です。

直ぐ先で、傘の女性が左を見ています。カッペロ通りのこの付近、通常はごった返しているようですが

この左のレンガのアーチ前は、

 

ジュリエッタの館、看板があります。

アーチの壁面は、メッセージが重ね合って貼られています。

中に入って、・・・撮影スポットがこちら、左奥の一角

ジュリエットの銅像です

後から市によって増設されたバルコニーもあります。

そして、このような風景が・・・人気を呼び・・・金ピカになっています。

シェークスピアのモデルとされている貴族のカプレティ家(13世紀とされる)、この館でも同様の悲劇があったのでしょうか。

館の向こう側上部に見えるV字あるいはM字のシンボルが目立ちます。

このベローナでは結構多いようで、神聖ローマ帝国皇帝派のマークで、ロミオの家は皇帝派。

ベローナは都市としては当初は皇帝派支持、やがて教皇派支持、その後また皇帝派が有利になったようです。

ジュリエットのモデルの家はローマ教皇派で、シンボルは上部の切り込みがなく平らの四角のようです。

この先斜め奥に、ロミオのモデルとされる館もありますが、入口に看板がある程度で内部には入れません。

都市や貴族を巻き込んだ神聖ローマ帝国の皇帝争いが続いた時代、・・・悲劇の物語のモデル地区が観光名所となっています。

通りに出て元の方向に戻り、十字路を直進するとエルベ広場にでます。

さらに進むと

広場中央、処刑もあったようです。中央の4本の柱は

歴史を感じさせる・・・水道がありました。

このベローナで一番高い建物が、広場横のランベルティの塔、

霧雨状態だが登ろうか・・・とにかく窓口へ・・・階段、エレベータ・・・8€ と言われて

確か自由時間は10から15分、視界が悪いので・・・コスパが悪すぎる、断念

ここでも画像が少ないので、以前の画像を

隣りの紳士たちの「シニョーリ広場」です。昔はアリーナの古地図にあったように今のエルベと続いていたようです。

1405年にヴェネツィアの支配下になり、教皇派と皇帝派の抗争も終止符が打たれたようですが・・・。

隣のフィレンツェでは、ダンテがジョットーが、宗教界ではアッシジの聖フランチェスコが聖書の解釈をめぐり

後に言われるルネッサンスの先駆け状況が生まれていました。

広場中央にはこの地を訪問したダンテの像、そしてパッラディアーナ聖堂、彫刻も色々あります。

羽根のある天使のようなライオン像はヴェネツィアの象徴です。(サンマルコの有翼の獅子像)

後年、ナポレオンのイタリア侵攻でヴェネツィア共和国が敗戦し、フランスの支配下になりますが

自由都市ヴェネツィアの近郊で、魔女狩りも少なかったのではと思います。 

このような

ゲートの投影画法や破断面などよく見ると、街中にはいろんな情報が掲示されています。

一方、こちらは元の広場をさらに進むと

噴水のある広場の向こう側に、壁面にフラスコ画?

モザイク画はヴェネツィアに多いのですが、教会には高価で贅沢と聖フランチェスコはフラスコ画を・・・

ルネッサンス以降の作品でしょう

色彩が淡く、画像処理をするとこのような見事な作品が見えてきましたが、この建築物には丁度良い雰囲気です。

濃い緑の格子が開き、シクラメンが窓辺に見えています。

落ち着いた、洒落たベローナ、エルベ広場から最初に入ってきた門に・・・何通りでしょう一直線、

前方に見えてきました。

裏側は、シンプルなデザインでした。ボルサーリ門の話です。

・・・アディジェ川に戻って来ました。

橋から上流にもこんな光景が、

こちらの橋の上、洒落たバスが走っていきますが、路面はローマと同じ四角錐の石を打ち込んでいる?

あちこち若干陥没状態も見られるが、・・・石は大変でしょう、用意するのも、修理も、

・・・浸透性のカラーアスファルトに何故しないのでしょうか・・・、

石の文化 先進国ですが・・・何故石畳か・・・雨の日は滑るし、騒音も多いし・・・。

歩けば・・・膝、腰に良くないし、霧雨のせいかスッキリしなかった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドォーモあれこれ、そして最後の晩餐

2019-02-07 | 旅行記

ドォーモ広場に戻って来て・・・自由時間となリ、やれやれ

以前再訪した時のガレリアからのドォーモ(動画から切り出し)の画像です

普通に広場に出てきても、・・・左を見上げると何度見てもドォーモの存在感はあります。

今回は、隣のデパート最上階でコーヒーでも、そして散策と思っていたら、

ガイドさんから集合時刻が・・・11時だったか?記憶にないくらい時間が少なかった、

そしてドォーモは入場券が・・・と聞こえたようだが・・・裏のチケット売り場に行く人を募っているようだった。

エーッ! 内部に入るのに有料になったの? 観光客用のコースでもできたのでしょうか

確か、最初に来たときは屋上への階段が修理中で断念、屋上に登っても何もないですよと言われた記憶が・・・、

・・・再訪した時は、屋上も目的だったのでエレベータで登ったが12€くらいだったか、階段は半分の6€位くらいと思った。

今般はあまり画像が無いので、・・・昔の画像を探していたが・・・何故が断片しか見つからない

当時HP にアップしていたが・・・残念!知人の会社のHPを独断で立ち上げ、話題創りに数年間ここにUPしていた。

そして、削除、・・・個人のブログに切り替えた・・・多少SDカードに動画が残っているので、静止画に切り出し中。

このドォーモは、基本情報として工事着工1386年からほぼ完成まで約500年、(完成時期は19世紀半ば/ブリタニカ)

ミラノを征服したナポレオンから、早く完成させろと催促され一番重要な正面ファサードが決定していなかった

当時人気のバロック調にせず当初のゴシックで決定し、取り合えず完成形にまとめたようです。(日本大百科全書によれば、1805~1809年完成説)

・・・その後も尖塔やステンドグラスなど細部の手直しと続き・・・東京オリンピックの頃までにやっと最終完成のようです。

一番身近な聖堂の扉・・・時間があればジックリ眺めたい美術品です。

扉にも数々の物語が描かれています。

中央の大扉、聖母マリアの生涯

結構立体感もある20世紀初頭の作品です。

よく見ると光っている部分があちこちに見られます。

 キリストの足やマリアの指先・・・信者が愛おしく擦って・・・いつしか光りだすと伝説が生まれここも観光スポットです。

大聖堂のサイズ:長さ158m、幅93m、ラテン十字形として当初のゴシック様式でファサードもまとめられた。

バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂、スペイン・セビリアのカテドラルに次いで世界3位の大きさ

同時に4万人にミサを授けることが可能とガイドブックにあります。

整然と並ぶ柱と高い天井、中央に身廊が幅広く取られ、

正面中央部の内陣に大祭壇があり・・・後陣のステンドグラスからの光が差し込む

中央の緑の地球儀のような物が、ティブリオと呼ばれるもののようです、丸天井です。

ここの祭壇の真上に地球儀のような物が、・・・この場所でイメージすると周囲を4本の柱で支えられた上部には・・・丸天井となります。

このように中央祭壇の上部は、特別な空間として考えられ、丸天井で表現する時代様式です・・・

ダ・ビンチが活躍したミラノ時代、多分半分くらいこの教会は出来上がっていたでしょう。

教会で識字率が低い信者にキリスト教の教えを説くには

絵画によるイメージ戦略が一番と、彫刻よりも絵画・・・その名残か、多くの絵画が掲示されています。

立派なパイプオルガンこれは手前の2台、15~16世紀の物、後方に20世紀の2台があるようです

そしてこのような空間にも、素晴らしい絵画があります。

 絵画は明るい日中、採光が無いと・・・弱点だったロマネスク様式からゴシック建築となりステンドグラスが主流に

東からの朝日が入る神聖なる後陣に、14世紀に着工され、19世紀に仕上げられたステンドグラス

左奥が旧約聖書、隣りが黙示録

そして、右奥が新約聖書がテーマと言われる。

物語は、下の段から上へと続く

人気の高い、新約聖書のアップですが動画の切り出しで解像度が低いが雰囲気だけでも・・・。

採光の関係でしょうか、右側(南に面している)のステンドグラスは初期(15~16世紀)に施工されたものが多い。

ステンドグラスは、このドォーモで全部で55枚とあります。

巨大なこの1面も1枚と計算するのでしょう。

完成までに年月と建設資金が必要になるのがわかりますが、世代に引き継がれて、関係者はこれが人生だったのでしょう。

・・・関係者の礼拝堂でしょうか、コントラストの強いステンドグラスが目立ちます。

まだまだ多くのステンドグラスが見られます。

彫刻もあるのですが

聖バルトトメオ、右側廊を進むと一番奥に・・・1562年に制作されていたのでダ・ビンチも見ているでしょう。

異様な筋肉と肩に掛けた・・・殉教者です、(興味のある方は調べて下さい。)

ステンドグラスは製作年代が幅広く、興味のある方にはたまらない教会でしょう。

では、確かドォーモの右後ろの建物にチケット売り場があり、エレベータで屋上に

エレベータは、ドォーモの外側左後に入口がある。

エレベータを降り、正面ファサードに向かい屋上の端を進み大理石の階段を登ると、・・・屋根の上に出る。

楽しそう?、

いや、はしゃいでいるのは・・・社会科見学の生徒?達かな

前方には、天高くここの象徴、黄金のマリア像、「聖母マリアの誕生に捧げる」とのドォーモ設立趣旨

そして、囲むように無数の尖塔が立ち並んでいます。全体で135本とか

黄金のマリアは、774年12月からこの位置にあるという。

この塔まで高さが109m、・・・脇目をしていると危ない

足元の屋根の上は、この様な状態・・・何と大理石、中央以外は勾配が付いている屋根だった

では、振り返りミラノ市街はもちろん、アベニン山脈、スイス国境のアルプスが見えることもあるとか

足元・・・ドォーモ広場の様子から

ミラノ市街は確かに・・・

屋上に登っても何も無い?・・・高い所には、このような眺望がありました。

・・・さて、場所が変わって、今回のドォーモ南側、少し高台からの画像です。

屋上の一部が修理中のようです。

エレベータで、職人が仕事に向かっています。

黄金のマリアは、下部が修理中のようです、ネットが張られています。

その下側も足場が組まれていたようです。

期的に修理をしていますので、観光の前に大規模修理が無いか、情報は入手したいものです。

ミラノといえば、「最後の晩餐」

こちらは、以前に修復が完了し、写真撮影禁止、私語禁止、観賞時間15分、予約制で公開しています。

参考にこちらも以前作成した物が・・・

まずは、教会の場所・・・先程の15世紀の君主の居城:スフォルツェスコ城から西に約1km、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

そして、教会の横にこのような建物があります。

こちらが最後の晩餐の入口で、内庭から回廊を通り修復された展示室へ進みます。

AM8:30より開館、完全予約制、1回15人、定員25人までの入れ替え制

定刻に入場すると・・・・中に進み控室で待機する。この部屋には、最後の晩餐の資料が展示されていた。

セピア色の写真パネルが、無残な光景を訴えていた。

第二次大戦で、敵国のイタリア・ミラノは連合軍の爆撃を受け、この教会も大破しました。

奇跡的に晩餐図が描かれた壁は直撃弾を受けずに、事前に土嚢で保護されていたため破壊はまぬかれた。

しかし、戦争状態は続き、その後数年間風雨にさらされ続け、晩餐図の描かれていた横の(右側)壁は破壊された。

資料を探していたら、当時会社のHPにアップしたのか?A3サイズにまとめた物がでてきたので、再掲します。

上図の中央上部のように、この控室から中庭にでて、回廊を左に進み二重になっている自動ドアから

展示室室内に入ります。

最後の晩餐は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作 1498年頃 大食堂の後方の壁一面です。

上図は、売店で購入したものですが、中央テーブルクロスから下側が不自然です。

絵具が剥がれたりカビが付着したりで劣化が進み、ダ・ビンチの死後1652年に何の絵か知られないまま・・・壊されました。

中央の下部、絵が描かれていた壁の下を壊して、・・・隣との出入口が造られた!高さ約2m・・・

ここには何が描かれていたのでしょうか?テーブルクロスの下側です。

一説では、中央のキリストの足が組んだ状態で描かれ・・・磔刑を暗示しているのでは?

絵の劣化が進み、年下のライバル、ミケランジェロも後年に修復を依頼され行っていますが・・・失敗、・・・

その後、長い年月が経過し、・・・・戦争の悲惨な状況からも必至で守った貴重な文化財です。

近年、ダ・ヴィンチ以後に原画に上塗りされた絵具を最新機器で分析し特定し、これら原画以外の成分を全て除去し、

修復不可能な部分は水彩絵具で修復する地道な修復作業が行われてきました。

21年間に渡り修復の結果、1997年完成・・・温湿度管理され、さらにエアークリーンされた環境で、保護しながら公開されています。

かつてNHKが1999年修正された画像を公開しましたが、その時の画像を前記作成した右下の部分に掲載しています。

・・・二重ドアから展示室に入った瞬間の感動は今も覚えています。

私語も禁止ですから、貴重な15分間と緊張して入室しました。

室内は映画館のように暗く、・・・入ると正面には行き止まりの壁面、左側にライトアップされた大きな絵画がこれは違う

右側に、少し遠いが確かに「最後の晩餐」がライトアップされていた。目標を見つけホッとしたのを覚えている。

最後の晩餐に近づくと、防波堤のような柵があり、さっと目を通して反対側の大きな「磔刑図」に近づきじっくり観賞する。

そして、関心のあったこの展示室の空間を測りたいと思っていたので歩測し始めた、幅と長さと・・・。

それから最後の晩餐を時間まで鑑賞し、促されて反対側の出口から退室した。

推定図がこちら

 当時、気になっていたのは・・・当初完成時は天井が星空模様に装飾されていたらしい。スゴイ!

改めて考えると、室内の壁面だからやむを得ないが、ライトアップ効果が強すぎて、感動はするも資料に触れあえた感には乏しい。

同じような感動はプロジェクターマッピングで再現できそうにも思える。

展示の在り方も、ただ見せるから・・・徐々に進化していくことでしょう。

最後の晩餐が、完成当時どのような空間に描かれていたのか、改めて調べてみたいと思っています。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミラノの天候は、霧雨

2019-02-05 | 旅行記

最近は異常気象の言葉にも驚きが無くなってしまった。

異常の言葉を頻繁に耳にするのは・・・既に異常では無くなっているからでしょう。

近年ヨーロッパでも何十年ぶりの大雪などと・・・災害の情報が時々流れてくる季節です。

成田発、イタリア・アリタリア航空、こちらは通常通りほぼ定刻の出発、

日本海を抜けると・・・北極圏を飛行するので眼下は大半がシベリア大陸

数時間もすると緊張感が無くなったか、まだまだ長い・・・長時間の移動を思うと苦痛を覚える。

ミラノ北西約46㎞にあるマルペンサ空港まで12~13時間、・・・多少は眠れるが、・・・いや、しかし便利になったと自分に言い聞かせる。

・・・大昔、最初のヨーロッパは、何故か北京空港に(給油だったでしょう)立ち寄り、イラン航空でテヘランへ、

乗り換えてパリへ・・・20何時間かかったか記憶にないが、当時北回りの飛行ルートは無かった。

コンコルドにはもちろん縁が無かったが、・・・近年は航空会社はスピードを競うことも無く、グループ化で利益の出る経営を目指している。

思ったより機内は空いていて、未利用の座席を使用しても良いことを聞き、ひじ掛けを上げて横になる。

長時間の独占は気が引ける、・・・1~2時間くらいで交代する

やがて、まどろんでいると機内アナウンスが聞こえてきた、軽い食事の後・・・まもなく到着だ

山を越えてイタリアへ

ミラノ・マルペンサ空港に到着。

無事にスーツケースも到着、バスでホテルへ向かう。

・・・

翌朝は・・・時々霧雨模様、イタリアで雨に降られたことはなかったのだが、憂鬱にならずに・・・この季節、霧のミラノは普通でしょう。

ミラノ観光は、ドォーモ(大聖堂)とガレリア(歴史のあるアーケード)他に最後の晩餐の描かれた教会、ショッピング・・・と数々あるが、

まずはシンボルであるドォーモにどのようなアプローチで感動的出会いを持てるかに興味津々。

・・・今回は、残念な結果となりました。

定番通り、ドォーモ広場から北西に位置するスフォルツェスコ城の正面手前でバスから下車、

周辺道路を正面に歩いていく。

城の正面から真っ直ぐ進むと約1㎞で、目指すドォーモ広場です。

ここは現在、博物館や美術館として一部公開されていて、ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品もありますが

ミケランジェロの晩年の未完成作ロンダニーニのピエタは機会があれば見たかった。

彫刻の製作途中(未完成)が見れることに関心があったのだが・・・

ミラノのトラム(路面電車)の線路を渡りガイドは、真っ直ぐ、左、どう進むのか・・・

イタリアでは資格のあるガイドの案内が必要条件。

・・・左折してスカラ座とダ・ヴィンチの像に出逢い、広場の横からガッレリアのコースが一番と思っているが・・・。

取り合えず1㎞の最短距離を進んで行く。ロータリーを渡り・・・

ドンドン直進する感じ・・・

エーッ!、見えてきてしまうよ・・・

正面にドォーモの先端がぼんやり霞んで見えてきた。

しょうがない、やがてドォーモ広場に到着、少しくすんだ感じのドォーモに再開するが・・・あまり感動は無かった。

広場につながる左側のガレリアも定番コース、

ガラスと鉄で建てられたのは、商店街が珍しい1865年から1877年にかけてとあります。

イタリア王国を統一した際の初代国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名前が付けられています。

ドォーモの外観を見たら、霧雨を避け、ガレリアへ

このような重厚な建物が両サイドに建ち並び、アーケードの上部にガラス張りの屋根が架けられている。

ここが十字路、東西にもアーケードが若干あるが、南北の通りがメイン

北のスカラ座があるスカラ広場から、南のドォーモ広場まで200m弱

ガレリアの北の端に到着、目の前はスカラ広場です

オペラ座は画面の左側に道路があり(トリムが走る)その先にある。

右側の宮殿はマリーノ宮、この空間がスカラ広場

肌寒く、直ぐにここからドーォモに引き返したので、ここの画像はほとんど無い。

・・・では、以前の旅行時の画像を探してみましょう。

このスカラ広場に最初に立ち寄り、これがスカラ座、日本の歌舞伎座か?などと・・・

そしてミラノにも多大の貢献をした、レオナルド・ダ・ヴィンチに挨拶し、ドォーモ広場に進むのが・・・お勧めのコースです。

こちらが有名なオペラ座

そして正面には・・・スカラ広場、その中央に、ダ・ヴィンチ

そしてこの広場は、ガレリアの北の入り口に続きます。

ダ・ヴィンチと弟子たちの像の裏側に回ると

向こうにオペラ座が、こんな広場です。

 

そして、この広場の左側に進むと・・・見えてきたのがガレリアの入り口

今回は、この入り口まで進んできましたが、ここで引き返しました

広場横にはガレリアの案内板があります。

 では、また戻りましょう。

1865年着工といえば・・・日本では2年後の1867年に大政奉還です、

西洋に追いつけ・・・当時の日本の侍、欧州視察団は鉄工業の重要性をあちこちで感じたことでしょう

この十字路には、地元民にも人気スポットが

この中央部の床にイタリア王国の紋章があり、その周囲には4都市の紋章があります

人気スポットはトリノの紋章(牡牛が描かれています)

牡牛の股間に踵をつけたまま一回転をすると幸運を招くとの伝説が・・・

人気が有り過ぎ、あっというまに窪みができ、修理してもすぐに削られ・・・

3回周るとウンヌン、細切れに何回も回る人がいたり・・・一気に1回転と遊ぶ地元民が多いようです。

この一等地で有名なのがプラダの本店(現在はメンズ店)北西の角

そして、通りの反対側(北東)にこれも有名なLV

ウインドウショッピングも楽しいものです

 

その横に、東に延びる短いアーケードがあり

その隣の角にも、プラダ、

エッ!対角線上にもプラダが進出していて驚きましたが(レディス)店

ここは、かつては

このような時期もありました

そして通りの反対側は、紳士服のアルマーニ

かつては銀製品のお店がありました、

そして西に延びるアーケード

 少し戻って、このアルマーニのある南西の一角と思ったが

 4階建ての最上部、何故か民間人の住居と、かつてガイドから聞いたような気がする

この通りのお店のメニューです。

日本語だけがあると何故かホッとする。静かな店内のイメージでしょうか。

・・・さて、このスカラ広場から初めてドォーモに近づいた場合、

ガレリアの金と黒のアクセントで、豪華な気分で尚且つ多少緊張感が高まったでしょう。

一番のお勧めはガレリアからドォーモ広場に近づいたら、顔を下にして出口に進みます。

そして、初めてドォーモに出会う瞬間が・・・顔を上げたら・・・こんな感じだったら

これは、スモッグで汚れたドォーモの化粧直しが終わった頃

桜エビのような・・・モザイク調のマーブル・・・淡いピンク色に感動した2001年の画像です

次にお勧めは、ドォーモ広場に地下鉄の階段から飛び出すと

広場中央のこの銅像横に・・・でてきます。

これも迫力がありますが・・・正面過ぎて全体像がつかめず、平面的なイメージでしょうか。

ガレリアからの登場は、多少ドォーモに近いのと、斜めから奥行きのある外観に圧倒されます。

残るは、ブランド通りを散策しドォーモの裏から

このような巨大な大聖堂の横を通り、正面ファサードはどんな感じだろうと(これは今回の画像)

そして真横に進み、真下から見上げながら・・・全体像を見るのに広場の端に下がります。

今回は、第4のアプローチで漠然と全体が見えて来て・・・。

気分を変えてドォーモの正面から、広場のパノラマ画像を

上の画面は、ファサード正面広場の西側です。

ガレリアは右側になります。

上の画像が広場の北側、ガレリアが中央に見えます。

左端に観光案内所があるのですが、情報誌を頂こうとしたが朝早くて開いていませんでした。

上の画像が広場の南側、王宮があります。

今回は時間が無くてドォーモ内部にも、屋根にも登らなかったのですが・・・

昔の画像を探してみましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア旅行 工程のスナップ ドラフト版

2019-01-27 | 旅行記

12月15日土曜日夜、ツアーにWebから申し込む。

出発日は2019年1月16日、ちょうど1か月前だった。

漠然とギリシャ、ローマを探していたが、適当なツアーが見つからない。

全て自由行動で航空便とホテルのみのツアーを探していたが、途中乗り継ぎが多く・・・疲れそう。

1か月前になり、残り物のツアーに急きょ申し込む。

・・・行き先は、またもイタリア・・・何故か木の文化に囲まれている者としては、石の文化にひかれる。

ピラミッドの迫力に負けじと、巨大な凱旋門を建て、尚且つ、巨大なオベリスクをエジプトから強奪して

あちこちに建て、石畳の街道と水道を引き、ローマの人口は一気に100万都市、・・・

しかしローマ帝国も衰退し、・・・ローマの人口は約3万人、

この地にはペトロの墓があった、小さなカトリックの総本山に信者が・・・やってきた。

中世の暗黒の時代から、十字軍の遠征で新しい世界を発見し、そしてかつてのギリシャ文明を再評価し・・・ルネッサンスへと・・・、

この時代聖職者の堕落は続き、やがてカトリックとプロテスタントの分離・・・、

この危機を救ったのが1600年代前半 天才ベルニーニは、歴代教皇から次々と依頼を受け、このローマを今日の劇場型空間に創った男と言われています。

ベルニーニの作品に出合えることを楽しみに・・・ローマに再々訪です。

今回は小雨や曇天続きでしたが、現地ガイドの演出が弱く、多少感動が薄かったような感じです。

しかし、縁あり同行の皆さまや添乗員のAさんとは楽しい思い出となり、感謝申し上げます。

 埼の国 の芭蕉さんと学者肌のご友人、お世話になりました。行動力には脱帽です。

金沢のお嬢さん、暇なときに当ブログの アルハンブラ宮殿 2017/8/30 「新たな宮殿 ヘネラリーヘ離宮」

にチョットした話をのせています。

もう一人の金沢のお嬢さん、風邪気味でしたが大丈夫? 元気になられました・・・。

 沖縄 読谷村の御夫婦にもお世話になりました。

思い出せなかったグスクの話は、・・・2016/3/6 「世界遺産 グスク?」の中の話でした。

 笑顔の素敵な母娘・・・お世話様でした、・・・子離れできるかな? 10年は無理ですよね。

函館のお嬢様、良いことも一杯あったでしょう・・・元気出してね!

東京の友人のように?・・・楽しい毎日を・・・。

そして添乗員のAさん、ワインありがとうございました。

あまり一生懸命過ぎないようにと心配してしまいます、ご家族のご多幸を・・・お世話様でした。

そして、千葉の三姉妹他多くの皆さま、お世話様でした、元気でどこかでお会いできましたら、声をかけて下さい。

ブログは、2~3日でアップするでしょう?

と芭蕉さんから気合を入れられたが、撮影した写真はまだ未整理で、・・・膨大過ぎて目を通すのに1か月かな

・・・何とかしなければ・・・撮影した動画を早送りして、特定のシーンを画質を落として静止画に加工しよう・・・

それらを取り合えず並べてみました。

Youtubeの貼り付け忘れたので、・・・スミマセン 修正しました。

 これは タイトル画像です。

荒い画像です、写真は時間をかけて整理します。悪しからず。

 


 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紅葉も街に

2018-12-12 | 旅行記

11月下旬の連休中に・・・念のためにスタッドレスタイヤに吐き替えて、

遠出・雪道対策はできたが、・・・何故か翌週末、首都高を走り・・・近郊の紅葉名所巡りへ。

まずは早朝、ここは鎌倉

スッキリして、庭師が手入れをしている庭園 そのものです。

ここは入園券を購入する場所ですが、道路に面した入口に戻ってみましょう。

開門時間がAM10:00、・・・開門したばかりです。

左側に郵便ポスト、住所表示は 鎌倉市浄明寺5-1-10 財団法人 一条恵観山荘  

立て掛けてある案内板には、開演時間:10:00~16:00、休園日:毎週月・火曜日

入り口横には、山荘の案内も提示してありました。

国指定重要文化財 「いちじょうえかん さんそう」一条恵観山荘、

1月から3月の催しの案内も置かれていました。

では、先程の入口で・・・入園料¥500-支払って内部に入ります。

庭園面積 800坪 中規模の庭園とされます。

趣のある入口です。

1~3月の案内チラシ に こんな記述がありました。

370年前、後陽成天皇の第九皇子であった一条恵観(イチジョウエカン)が築いた山荘。

一見すると田舎家のような茅葺屋根の佇まいでありながら、随所に江戸時代初期の公家の好みが見事に盛り込まれ、

雅な趣向とこだわりが配された茶屋は、鎌倉にありながら京都を体感することのできる数少ない空間です。

一般公開されたのが、比較的最近のようです。(2017年7月29日に一般公開)

入ってすぐ正面に日本庭園、

木々の樹齢もそれなりにあり、・・・紅葉が街に降りて来たようです。

この塀が、しっとりと古風で、高さは、基礎石も威圧感が無く、穏やかな雰囲気です。

ここの庭園は、隈笹(クマザサ)でしょう、笹は背丈が大きくなって厄介者でしょうが・・・

黒松の葉摘み、葉透かしと同じように、大きくならないように小まめに手入れをされているのでしょう。

盆栽の雰囲気です。毎日眺めて、・・・日々、違いに気が付く、感性が発達します。

では、廊下から右側に進むと・・・

軒下に、蹲踞(ツクバイ)と呼ばれる手水鉢が置かれていて、何やら・・・います。

人工の かに が置いてあります。

園内にもう1匹いるようで、・・・井戸の竹製の蓋の上らしい。

では、一条恵観の移築された山荘に向かいましょう。

右側に生垣がある石畳の小道にでます。

その先に・・・オット、茅葺き屋根、

気になるのは・・・この状態は、葺いてからどのくらい経過したでのでしょう。・・・2年くらいかなぁ?

茅は各地に自生しているので、入手は難しくないでしょうが、屋根葺き職人はどこにいるでしょう、

それなりの需要はあるでしょうが、・・・白川郷などでは、後継者が育っているのでしょうか、

あるいは神社仏閣に特化した建設業社が抱える職人が、対応するのでしょうか

・・・この門は、御幸門、「天皇をお迎えするための御門を再現」と庭園図に書かれていました。

ここ鎌倉で、・・・天皇をお迎え?・・・することがあり再現されたのでしょうか?

チラシや庭園図の説明以外に調べてみましょう。

この一条恵観山荘のHPでは、370年程前に京都に建てられた山荘は鎌倉に移築され、国指定重要文化財として保存・活用・継承しております」

との説明です。

更に調べてみると、京都西加茂に建てられた一条恵観の山荘が、・・・1959年に茶道の家元が購入して鎌倉に移築、庭石や枯山水も移され同じように配置された。

昭和の末とありますから、1990年頃、現在地へと再移築、庭園、数寄屋建築の施設とともに整備されたそうです。

左側の庭園です。庭園図の記載は、枯山水

向こうに見えるのが山荘です。

そして・・・これが、山荘。

通常日は立入禁止です。公開日に¥1000-で内部が見学できるようです。

来た道を蹲踞まで戻り右に進みます・・・左の建物の先は川が流れているようです。

直ぐ先の角で

飛び石が・・・滑りそうです、しかし良くできています。

 屋外に置かれた鉢に、山荘と植栽、3か所の楓も紅葉しそうです。

こんな寒椿も咲いていました。

 

庭園の端を進み、先程の山荘が右側にこのような光景となります。

山荘までの途中に、左側少し下ったところに小屋があり休憩所:庭園図では四阿(アズマヤ)と書かれていました。

中国の言葉でしょうか、4本の柱、4面の屋根があり従って軒も4か所、壁は無く単純な構造の東屋

そして、このさらに左に滑川(ナメリガワ)が流れています。

こちらにも休憩所があります。

さらに、この様な建物で喫茶室もあります。

かふぇ  やまもも亭の当て字が「楊梅亭」、どうしてこのような文字が・・・

鎌倉時代に仏教では多くの宗派が誕生し、ここ鎌倉は生死をかけた新しい職業武士階級に好まれた、禅宗が広まります。

座禅の曹洞宗、問答の臨済宗、死と向き合う武士には道元が開祖の曹洞宗が人気でした。

その道元禅師が「楊梅亭」をやまももの意で使っていたとの説があるようです。

この建物では茶席が開かれた際に、見れる光景があるそうです。

左側の軒下から

茶席「時雨」の円窓・・・・運よく見ることができました。

・・・

この施設では駐車場を有していないので、車の方は近隣の民間コインパーキングとなります。

昼食にはまだ早いので、移動します。

鎌倉の東から八幡宮前は渋滞しているので、海岸に向かい、手前を右折西へ一直線

駐車場に車を入れて

緩やかな階段の周囲は、紅葉していました。

向こう側から登ってきています、一段高い所から振り返った光景です。

本堂・そして黄金の観音様の立つ建物の右側でも、

・・・桜!

これは素晴らしい

目を左に移すと・・・紅葉の木々も

そして、小山に登り反対側に降りて来て、

経蔵を納める建物の裏側でも

楓が晩秋を知らせてくれています。

四天王を後にして

階段を下り、左に回り込みます。

今回はこちらにも参拝、弁天窟

天井が低くなった・・・、この付近はいつ頃造られたのでしょうか?

そして、書院の庭園を拝見

ここは樹木の剪定がユニークです。

直幹部分をバランスよく維持するのが大変でしょう。

プロの技が要求されます。

こんな所も、撮影スポットとして人混みになっています。

こんな彫刻でしたら偶像崇拝したくなります。

・・・長谷寺を後にし、小町通り近くで昼食、

夕方近くになって、閉門が PM4:15 急いで4時前に滑り込んだのがここ

亀の足が・・・

いや

案内図がこちら

そして、うさぎがこちら

目的は、明月院(メイゲツイン)本堂

順番で並ぶ・・・4時に撮影ストップ、まだ並びたい人を必死で制止している小坊主がいました。

少し引くと

縁側から丸窓越しの・・・

ここも禅宗です。

尖った武士には、丸窓と禅が人気でした。

...

日本の心、座禅・・・、西洋の、教会

為政者は宗教には敏感です。ローマ法王がカトリック教の再構築に中国と協議中のようです。

まもなく、冬のイベント週間・・・クリスマスです。

欧州は難民流入と失業拡大、貧富の差が広がり・・・治安の悪化が心配です。

何度も訪問したいイタリア、そしてローマは・・・新年に明るい未来への展望は・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

榛名神社 & サグラダ・ファミリア

2018-11-14 | 旅行記

伊香保温泉から山を上り、・・・榛名湖に向かって県道を下っていると、メロディラインの立て看板。

定速走行・・・50kmで窓を開けて走ると、・・・静かな湖畔のメロディ が演奏できました。

・・・間もなく右に榛名湖が見え、道なりに周回しているとレストハウス、その先

左にカーブした所で道路が分岐して、左斜め登り坂方面に榛名神社の案内板が立っていた、

・・・榛名湖のスケージュールは、同行者任せ・・・

榛名神社!・・左へ行って!・・・で、行くことになり、・・・湖畔にある神社だろうと思っていたが、

いきなり見えた案内板に小さく4㎞とあったような、・・・高度計の表示は榛名湖で1100m位だったでしょうか

・・・分岐した登り坂は500~600m?予想外に短い登りだった、到着するかと思えば小さな案内板が3.3㎞の表示

やはりそうか、結構あるなぁ、間もなく急な下り坂、・・・下って、下って、緩やかな斜面になりやっと建物が見えてきた。

ここは標高840m位だから・・・登ってから標高差300mも降りてきたようです。

集落になり・・・、T字路で案内板に、右が高崎、左が榛名神社、

・・・左、参道の坂道を登ります・・・結構ありそうです、一番奥、売店の無料駐車場に・・・坂道は200mくらい

参道の両側のお店は、皆さん良心的に無料で駐車場を提供されていました。

神社の案内図です。上方の榛名湖から左側の山道を下って来て、今は左下。

右側の渓流か沢か渓谷か・・・それらの左岸を上流に登るようです。

こちらの案内板は、見所でしょうか

渓流沿いに、550mのようです。

では、隋神門から境内に

これは、1847年の建立ですから・・・お寺の仁王門として建てられ

明治以降は隋神門と呼ばれることに・・・銅板葺きの屋根です。

入ってすぐに、榛名神社の由緒がありました。

社殿は、170余年前の改築、御祭神は後ろに立っている御姿岩の洞窟中に祀られている。

・・・後ろに立っている岩の中?

榛名神社のHPによれば、927年(平安時代)の記録に、ここの地には神社があったと記されている。

鎌倉時代の頃は発展していたようですが、戦国時代には座主職も置かれず衰退。

復興は、有名な天海僧正「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降寛永寺の支配を受けたとあります。

寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当、に任命され、後に両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺と呼ばれた時代も

(神社が機能停止したわけではなく、寺の管理下で神社の祭祀を仏式で神前読経などが行われていた。)

神仏分離令が1868年(慶応4年)3月に出され、神社か寺か、この寺でも話し合いが続きます。

(神仏分離令の通達と言っても維新政府は混乱続きで、出家した者が復飾できて神主になれることや

神社に権現、菩薩などの仏語は禁止とか、仏像・仏具などの除去、神社で仏式を行わないなど・・・

10数件もの法令を出している。)

そして、9月4日光明寺立ち合いのもと什物(物品)などの受け渡しが行われ・・・榛名神社になります。

(これら一連の法令が神仏分離令と総称されるが、一時、廃仏毀釈が激しくなり、神仏分離は廃仏毀釈ではないと仏教側に説明しています。

仏教が強大になったのは・・・国を治めるのに仏教を利用しようと・・・聖徳太子によって国教と認められて以来盛んになります、

さらに江戸時代は幕府より戸籍管理を任され、檀家制度が整備されることになります。

一方、神道以外に大陸から儒教、道教、占い、呪も伝わっていたので、悟りを求めて民間の山岳信仰は人気があったようです。

各地の霊峰に山伏姿で修行する・・・修行により悟り以上に霊感、超能力の獲得を目指す人々もあったでしょう。

仏教に押され、神社の管理は寺となると神主は祝詞をあげるだけで経済的にも成り立たない、神道が政治力を拡大し巻き返します。)

神仏分離令に続き・・・1872年(明治5年)に修験宗廃止例により、呪術、祈祷が禁止されます。(陰陽道も迷信として廃止させた)

 民間で人気の山岳信仰、・・・修行僧や山伏の怪しい力を排除することが目的のようです。

渓流があります、・・・みそぎ橋を渡り左岸へと移ります。

なだらかな道を歩いて行くと、こんな風景が

アーチ型の岩が、沢向こうの右岸に見えてきました。

昔は洞窟状だったのが奥が崩れ落ち、手前だけ残った・・・綺麗なアーチですごいですね。

奇岩「鞍掛岩」と呼ばれています。

休憩所を通りやがて崖の下で手水舎があり、急な階段を上ります。

登り終えて、・・・上からはこんな感じです。

立派な杉の木が、矢立杉、樹高55m、周囲9.4m、武田信玄が戦勝祈願として、矢を射たてる神事を行った杉とのこと。

この上り切った所に神門があります。

ここは狭く左は崖、この門に拝観時間が、AM7時~PM5時とありました。

内部には平らな境内があるようです。

榛名神社の建造物の説明がありました。

国指定の重要文化財の指定は平成17年の年末と・・・、最近のようです。

左の神門から入ると、お疲れさまと休憩にどうぞと、長椅子が置かれていました。

この崖の上が本殿のようです。左側の岩山もすごいですね。

最後の階段でしょうか、

門の名前は、双竜門:1855年の建立

門の先は、右に直角に曲がり、・・・さらに階段が続いています。

ここから参拝客の行列が出来ています。

階段の先、右側が・・・ここが崖の上で、開けた場所で

・・・正面に拝殿が見えました。

拝殿の裏側、切り立った崖がすごい

この崖の上部が、御姿岩?・・・この岩の洞窟内に御神体を祀っているそうですが・・・。

拝殿の右側まで移動して、振り返ると参拝客の列の向こうは、神楽殿

そして改修工事中の場所には、額殿、国祖社(国指定重要文化財)の写真が貼られています

ここから御姿岩を見上げてみます。

達磨のような、頭が乗ったような巨岩です、くびれの所に白い紙垂(カミシデ)のような物が見えます。

御神体の祀られるている洞窟の場所でしょう。

更に拝殿を回り込むと、・・・この様に建物が

岩山に接していました。

右側の岩に接しているのが本社とあります。

本社や拝殿は、1806年の再建です。

江戸時代、山岳信仰は人気がありました。

修行僧や修験者・山伏にはこの様な景観は一級品ですが、現代では建築基準法違反?

台風や地震の度に、事故にならないか、冷や冷やして・・・入場禁止の規制とはならない・・・のでしょうね、

隣の小山にも、

こんな厳しい環境で強風にも耐えてきた大木が、語りかけてきたような気がしました。

「盆栽の懸崖は、チヤホヤされるが不格好だ。この様に根が僅かでも、気力でシャキッと直立しなさい!」

さて、民間で人気のあった山伏・修験者は絶滅したのでしょうか。

・・・戦後、GHQの通称「神道指令」で国家神道は廃止され、宗教法人法が公布され

これらが新憲法で、信教の自由、政教分離、特定宗教に国有財産を使用させることの禁止などが規定された。

修験道は禁止され、多くの宗派は仏教教団(天台宗や真言宗)に属していたが、戦後宗教法人として独立します。

修験行事を復活するには、国有財産の山や森を境内の神聖な場所(霊場)として必要とした。

宗教界は国有地の譲渡を陳情し、1947年「社寺境内処分法」によって宗教活動に必要な土地を無償または時価の半額で譲渡されることになったようです。

神社には、神宿る全山を崇める、山頂や噴火口を崇める、山麓、山腹、平地の鎮守の森タイプがあります。

さて神社は、その地域社会の全ての住民が氏子で、行政が支えた時代は終わってしまいました。

営利事業をしなければ、霊山の山開き、神事の復活、慰霊祭、観光、文化活動、修験道も復活しました。

現在では、霊場は修験道者以外にも登山者や観光客にも身近になってきました。

熊野、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)、恐山などは有名です。

信仰は?、八ツ橋もこの地から生まれた聖護院や、醍醐寺、金峯寺などで行われているようです。

・・・高尾山、吉野の金峯山寺など修験道・山伏修行の体験ができるので良くTVに登場しています。

山を荒れさせない管理も大変でしょう、神社を維持することは、少子化を見通すと難しい時代になってきます。

・・・

違う宗教が、地球の反対側で観光客に大人気 年間約450万人 入場料は15€~29€ 

上は、サグラダ・ファミリアの西側身廊です。

こちらが東の身廊、体育館のようです。

中央で若者が関心を寄せているのは・・・何でしょう。

こんな物でした。

銅製の千手観音?・・・違うようです、頭の部分が祭壇、周囲が後陣・・・手前は栄光のファサードでこの教会の平面図です。

振り返ると、

これは何?

各国の文字がデザインされて、縦に中央で分離されています。

日本語もあります。われらの父 や 門 今 天 ・・・

少し離れて見ましょう・・・正面が栄光のファザード側です。

ブルーの明るいガラスで覆われていますが、一番下、1階部分に衝立が(ツイタテ)が張り出しているような感じ

この部分が、先程の青銅製で左右に開く入口の扉だったようです。

3階部分は聖楽隊が並ぶのでしょう。

では生誕のファサードから一旦外部に出て、地下の博物館に入ります。

いろんな展示品が並んでいます、内戦でガウディの資料は多くが消失しましたが復元された物もあります。

こちらの室内では、手前の机の上は側廊がどのように天井を支えるか、構造模型のようです。

左の棚の上、手前に鐘楼の先端部分があります。

ガウディは、鐘楼の先端は単なる避雷針や金属製の物になるのを好まなかったとガイドブックにはあります。

「建物の頂上部分が十字架や風見鶏と言った小さな金属製の物でできているということは、

頭の中央に毛が一本しか生えていない禿げ頭のような物だ」と語っていたそうです。

とすると棚の上の尖塔部の形は・・・丸型で輪郭があり・・・ひまわり、太陽?

・・・これらは、12使徒の後継者ともいえる司教達を表現しており、

塔の頂点に位置し指輪や杖、冠、十字架などの象徴が飾られているとのことです。

奇妙なものが見えてきました。

これは、コウモリ、蛾の幼虫、ミノムシ・・・実はこれが重要な荷重計算なのだそうです。

コンピュータが無い時代です。

巨大な石を積み上げて、柱を建てて、組んで、壁、梁で上部の荷重を受けて、更に上部に重量物を積み上げる。

地盤沈下は置いといて、構造物の実験を何と、天地を逆にして・・・積み上げる荷重を吊り下げて実験していたのです。

現在は違いますよ、設計も建築工法も・・・

最近、この建物は100年以上違法建築ですよ、市政府から・・・工事の許可を取って下さいと指導され・・・。

・・・ガウディは当初地元の町に建築申請し、建築許可をとっていました。

その後町がバルセロナ市に合併吸収され、更新が必要だったが・・・更新無きまま今日に至っているという。

教会側は、市に一切税金を払ってこなかった。

・・・2015年から協議の結果、3600万€(約47億円)を今後10年間で市に支払い、合法的に建築許可を得ることで合意したようです。

これらの金は、インフラ整備にあてられるとのこと。

一説では栄光のファサードには鉄筋も入るようですし・・・

とにかく曲面が好きなガウディの意思が尊重され、今日では3Dプリンターでドンドン模型が出来ていました。

ガウディ作品の定番コース・・・グエル公園に向かうのでサグラダ・ファミリアを後にしましょう。

西側の公園の端からの全景です。

鐘楼の先端は目立ちますね、手前の受難のファサードも迫力があります。

これが夜になると・・・生誕のファサード側からのライトアップです

左側が正面入り口となる栄光のファサードです、夜間の内部照明はどんな感じになるのでしょう。

そして、例の一等地からの光景が・・・この様に・・・漆黒の夜空に浮かびあがります。

画像を貼り間違えた?・・・イヤ、夜空では無いようです・・・下向きですから、虚像でしょう。

風が無く・・・鏡面のような池に出会えたら・・・ラッキーです。

このような画像です・・・サグラダ・ファミリアは・・・また別の機会がありましたら・・・。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紅葉狩り、サグラダ・ファミリア(聖堂内は

2018-11-03 | 旅行記

紅葉前線が・・・関東平野に降りてきました。

しかし、高尾山はまだ早い、そこで近くまで出かけて行きましょう。

11月4日、ここは伊香保・・・と言えば温泉地、階段の街。

・・・温泉旅館を中心とした街区が造られたのは400年以上も昔と言われます。

ゴミひとつないきれいな、・・・階段が追加され新しくなった街、紅葉が見頃でした。

この階段の上、左に案内板がありました。

左下の・・・ひな壇に並ぶ大勢の人々・・・昭和初期

群馬社の慰安会・・・当時、前橋の製紙工場で働く女工さんの慰労会で・・・記念撮影・・・これがポスターになったそうです。

・・・石段の街・・・小山の上の神社に向かいましょう。

少し登ると右側にハワイ公使別邸、振り返ってみるとこんな光景が

階段に戻ります

前方、徐々に幅が狭くなっていきます

甘味屋、お土産屋、射的・・・両側に並ぶ店や宿屋を眺めながら・・・階段を上がります

鳥居の手前、階段の右側に・・・

365段/365 の表示がありました。

 

伊香保神社:明治11年(1877年)春、伊香保大火により、本殿焼失してしまいます。

その後、仮宮として建立、・・・現在に至る、とあります。

焼失から・・・140年以上の時が流れています・・・

ここが、仮宮です。

右側の階段の下では、かつて騒々しいほど賑やかな時が流れ続けました・・・

ここ仮宮は、・・・忘れられたように静かに、仮のままの姿が続いていたようです。

山側に雨風が吹き込む姿で、このような形で鎮座していました。

伊香保神社のご案内です・・・

途中にこんな・・・明治44年発行の 上州伊香保温泉場全景 が掲示されてました。

昔の景観、・・・見難いので樹木を緑、階段を明るい緑、神社の鳥居を朱で着色してみました。

明治の終わりころ、伊香保神社は仮宮でしたが、温泉街には3~4階建ての旅館があちこちに見られ発展している様子です。

このような写真もありました。群馬社のその後?・・・ではないようです。

・・・時は流れ・・・製糸工場から・・・戦中・戦後・・・復興・・・高度経済成長時代、バブル・・・

いつ頃の写真でしょうか、綺麗所かと思ったが、・・・

社旗のような所属団体を識別できる物があります・・・伊香保温泉観光協会のポスターでしょうか

手前の約300人に続き、中段までは顔が分かるようですが、その奥上段にも多くの方が並んでいます。

並び順はどのように決まったのでしょう・・・。

私が前と前に出てくる人や、肖像権があるのでアップにしないで下さい・・・と言う人も。

しかし、平成の時代にも 浴衣姿で1000人階段 ・・・当旅館の女将さんたちの企画で・・・

宿泊客を募集し、1000名弱の参加で・・・観光ポスターになったと思いましたが?

・・・神社の裏から西側に坂道を下り、街道を上流に進みましょう。

500m位進むと・・・前方が朱色・・・高揚してきました。

そうです、楓、その中でモミジと呼ばれ、イロハモミジが特に人気、

アントシアニンは・・・紅葉を赤くする

・・・ここが目的地

人気の河鹿橋(カジカバシ)、京都にも負けず劣らず・・・でしょう。

ここの案内図がこちらです。

京都北西、高雄山、山が燃える・・・400段の石段の先・・・神護寺、素敵な所です、あちらも今が見頃でしょう

・・・身近な温泉地、ここ、河鹿橋でもこのように素晴らしい紅葉が見られました。

・・・では、駐車場に戻って、榛名湖へ

途中、榛名山の展望台から・・・赤城山が右手奥の山並み、手前に伊香保の街並みが見えます

午後は、榛名神社へ向かいます。

 ---・・・・

落慶法要・・・これは仏教でしたか、・・・カトリック教の場合は、献堂式と言うらしい。

確か少し昔、法皇がミサを行ったニュース映像が世界に流れました。

サグラダ・ファミリア地下の展示資料から画像を

・・・サグラダ・ファミリアの献堂式、バチカン放送局の資料から

2010/11/7、教皇ベネディクト16世のミサには、スペイン国王夫妻、ファン・カルロス1世国王隣席のもと、聖堂内外およそ30万人の市民が参加した。

教皇はこのミサで、祭壇の聖別をはじめとする教会献堂の荘厳な儀式をとり行われ、

サグラダ・ファミリア教会を「バシリカ」(重要な教会への称号)として宣言された。

サグラダ・ファミリア=聖家族に捧げられたこの教会の献堂にあたり、

教皇は誕生からその自然な死に至るまでの人間の生活の基礎にある「家庭」の大切さと、愛と祈りの学び舎であるその役割を強調。

今日の社会において家庭を支え、保護する必要を訴えられた。

さすがに世界12億人のリーダーです。

カトリック教信者ファースト、などと決して言われないでしょう。

世界平和に貢献される姿はカトリック教の人気を上げ、トランプ大統領が悪役に成り下がっているので、

ユダヤ教・プロテスタントには辛い日々でしょう。

-教皇の画像は展示物から借用して背景を加工してます-

では受難のファサードから内部に入ります。

多くの観光客がスマホを掲げ・・・こちらもカメラで同類でした。

入って中央から左側・・・こちらが後陣になり、手前に主祭壇、天蓋でしょう目立ちます。

そして振り返って全体を見渡すと・・・右側、オレンジの光り輝く側廊が気になります。

ステンドガラス越しの・・・赤く輝く空間は、一瞬血が騒ぎ高揚してくる。

そして、眩しい光から視線をずらし・・・

ステンドガラスの絵柄と周囲の構造物にピントがあって来る。

一瞬、ここはどこ? ・・・ そうだった、ここは教会内部、見上げれば

それらしい、何やら象徴的な多くのシンボルが存在を主張し、

・・・天上界からも何かが降り注いでいるようです・・・とにかく、・・・天井が高い

ステンドガラスには聖書の物語が描かれるのが普通ですが、ここでは見かけられない。

・・・色彩と透過光のイメージ優先でしょうか、明るい現代的な建築インテリアです。

ごった返している中央身廊を通り抜け、反対側の生誕のファサード近くで、立ち止り一息入れる。

この聖堂の平面図を見て頂きましょう。

右下から黄色のラインのように

 

 主祭壇や後陣の薄紫色は当方で着色しました、ロープが張られ立入禁止となっています。

下側が受難のファサード、⑧は洗礼堂、上が生誕のファサード、⑨は悔悛の礼拝堂

受難のファサードから内部に入り、右側の①が工事中の栄光のファサード(現在は出入りできません)

・・・この祭壇正面になる栄光のファサードから入場すると全体像が分かりやすい・・・5つの門が見えます、中央身廊と側廊です。

完成しても多分通常は中央の扉は閉じられ、両端の扉からの入場になるでしょう

室内から生誕のファサードを通り外には出られますが、柵で仕切られ教会の外部には出入りできません。

地下に礼拝堂や博物館があります。

では中央身廊に進んで、改めて主祭壇側を見てみます

とにかく天井が高い、ここに見える柱は色が違うようです・・・ガイドブックによると4種類

手前の赤く見えるのが赤斑岩、高さ22.2m(8階建て位の高さです)、直径2.1m、断面は12角形、

裏に見える褐色の柱は、玄武岩、高さが18.5m、直径1.75m、10角形・・・少し強度が下がります

奥の明るい柱が、花崗岩、高さ14.8m、直径1.4m、8角形のようです。

・・・石積み建築です、危なさそう、鉄筋入ってなく大丈夫、地震で横滑りは、モルタルで固定は?

確かなことは、上に乗る重量により素材、サイズを変えていることは解りました。

聖歌隊の席が、多分栄光のファサード側の上部になると思われるがその部分の柱が、モンジュイックの岩で高さ11.1m

直径が1.05m、6角形の断面となり強度は最も弱いとあります。

これが天蓋、聖家族・・・イエスの磔刑のデザインとしては・・・

動的ポーズに思えてしまう、この明るさも、・・・従来の慣習にとらわれない未来のカトリック教でしょう

内部からは感じられないが、この柱の上部の屋根の上・・・その上部には円筒の塔が工事中です。

この天井を支える最も高い赤い柱4本に、各々イラストが浮かんでいます。

これらは福音書を書いたマルコ(赤・獅子)左下、ルカ(緑・牛)右下、ヨハネ(青・鷲)右上、マタイ(黄・天使)左上、たちです。

そして、間もなく外部では・・・驚く光景が見られるはずです。

18本の塔が建ちますが、生誕のファサードは既に4本完成(外側2本が高さ94m、中央が107m)受難の4本も1977年に完成(高さは、生誕同様)、

栄光のファサードはもう少し高くなる、・・・これらは12使徒と言われています。

この場所の上部にイエス・キリストの塔:172.5m(日本の高層ビル、新宿西口の原点:京王プラザホテルと同じくらい)が積み上がってきます。

イエス・キリストを囲むように、四方にマルコ、ルカ、ヨハネ、マタイの4本の塔が建ち(約130m)

一番後陣に、聖母マリアの塔(約140m)が建つことになります。

模型がこちら

西日が当たる屋外に展示してあったので、ケースに映り込みが多く見難いですが、両サイドの色の濃い部分が完成済です。

手前が、正面になる栄光のファサードで、中央の一番高い塔がイエス・キリスト、聖母マリアは裏で見えません。

イエスの塔の両サイドが、マルコ・ルカたちの塔です。

・・・これらの塔の役割は鐘楼ですから、3種類の音、ミ・ソ・ドに調音されている鐘が基本となるようです。

日常は静かな澄んだ音が流れるのでしょう。

異色な発想がありまして、ガウディがパイプオルガンのように、パイプ状の金属の筒を各種用意し、

鍵盤を弾くと電気信号でソレノイド(電磁石)を動作させパイプの端を叩く、この様な楽器の実験を繰り返し行っていました。

塔に組み込むこの構想は、鐘の音が塔に開けられた無数の窓のひさしが斜め下に向けられ、音響をバルセロナの街全体に響かせたいとの願いのようです。

鍵盤楽器の構想はもちろん最重要課題で、後継者に受け継がれて繰り返し実験が続くようです。

この塔に組み込むのが、これからの工事の最大の事業となるでしょう。

完成後に、実験や調音を長い期間はできないでしょうから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋真っただ中、そしてサグラダ・ファミリア 2

2018-10-26 | 旅行記

秋 真っただ中、天気が良いとフラッと出かけたくなる・・・最寄りのこんな所・・・

北斎館・・・近くの民間駐車業は数が少なく、30分ウロウロ、入館を断念。

一方、こちらの場所は、展示施設の駐車場に入れて・・・

広重の浮世絵展が開かれていた。

歌川広重(1797-1858)は没後160年・・・東海道五十三次のヒット作や名所江戸百景が代表作

葛飾北斎(1760-1849)は北斎漫画にみられるように、感性、表現力、技能、・・・天才ですね。

北斎が72歳で構図やトリミングが抜群の「富嶽三十六景」を発表したのに触発され、

広重は2年後、37歳で「東海道五十三次」を発表しています。

・・・「東海道五十三次」は絵葉書的で受け入れやすかったのでしょうか、

「富嶽三十六景」以上にヒットしたようです。

大はしあたけの夕立:この浮世絵も、ゴッホの作品に取入れられているので有名です。

隅田川に架かる両国橋から一つ下流の新大橋の風景とあります。

・・・始めてみる作品もありました。

これも名所江戸百景です。 「浅草田圃酉の町詣」アサクサタンボノトリノマチモウデ 

浅草の酉の市といえば、11月にある酉の市・・・この発祥の地が、浅草 鷲大明神(鷲神社オトリサマ)

・・・昔、この近くに友人が住んでいて、高1の年に誘われて一の酉に始めて行ったが・・・深夜まで自宅待機が続き

やっと真夜中近くにかがり火が焚かれた神社に集まり、皆でワイワイガヤガヤ・・・何かを待っている。

・・・オー、いきなりどっと境内になだれ込む・・・一番太鼓の合図を待っていた・・と後でわかった。

小屋に並ぶ無数の熊手、裸電球と大歓声に手拍子・・・そんな記憶がよみがえった。

遊郭吉原の周りは田んぼのような風景です、右端が鷲大明神・・・猫の目線の先にはお酉さまへと行列の人々

・・・浮世絵の展示は退色しやすいので、ライティングに工夫されています、光量は控えめ、

大きい作品では無いのでガラスケース越しに間近で見られますが、やはり細部は見難いので残念。

・・・収蔵されているデータベースの画像を借用しましょう。

浅草寺からこの場所は(裏側)北側に1㎞くらいの所、当時はこんな風景だったとは驚きです。

江戸時代末期の例大祭、酉の市、水辺の参道を左から右に行列が・・・大盛況のようです。

・・・話は変わって、秋といえばキノコ狩り、知人に案内を頼んでいたが、・・・

目的地は素人は無理と断わられ、では、独自に新規開拓をと昼食後久し振りに息子と近くの尾根に登ったが

・・・1本の尾根をアップダウン、20本位の松周辺を捜索?・・・雰囲気は良いのだがマツタケは収穫無し

心地よい風に吹かれて、まだ紅葉には少し早い山並みを眺める。

無数の尾根と松の木・・・。山国、日本、キノコに出会うには、過去に収穫した場所とタイミング

釣りと一緒、長居はしない・・・1時間で尾根を下る。

夕方までに、何か収穫を・・・

 

こちらはクセが無く、炒めても味噌汁でも美味しいキノコ、杉林に発生する

短時間でスーパーの袋に1/3位収穫、夕方、息子がWebで保存方法を調べていると

驚きの情報が・・・、エー!・・・いつから、2004年までは食用キノコでした?

山から戻った知人に聞いてみる・・・知っていた、腎臓大丈夫?、だったら気にしないで地元の人は見な食べてるよ

・・・結局、東京に戻り収穫のごく一部、両手に山盛り2杯くらいを美味しくいただきました。

残りは?・・・事情説明の上、送って・・・という知人に処分を任せることになりました。

・・・翌日はドローンの操縦訓練を1時間くらい、無免許で操縦できるカメラ付きドローン、

購入して半年、東京では飛ばせるところが見つからず、室内で多少の練習だけでした

・・・15分位でバッテリーが無くなると、キリモミ状態で落下したり・・・、思わぬ上空の風に流されたり

予備バッテリー数台と、急速チャージャーを駆使して・・・そこそこ使用できる感触に満足して・・・終了。

・・・

イスタンブール、かつての東ローマ帝国の首都、カトリックの教会がイスラムのモスクへ変わり・・・

ヨーロッパとアジアの架け橋、昨今その都市のあるトルコの大統領が注目の的です

サウジアラビア人(ジャーナリスト)殺害、日本人(ジャーナリスト)解放の当事国でどんな情報が飛び出すのか。

・・・トルコでは少し前、現大統領が軍事クーデターを仕掛けられ、運よく逃がれることができ、その後関係者を弾圧しています。

宗教の教えは、人々の行動規範に影響しているでしょうが、・・・教えが類似でも、宗派が違うと・・・争いの火種が大きくなるようです。

サグラダ・ファミリア・・・この時代に、世界一の巨大な教会を完成させようとしています。

・・・東南の生誕のファサードが日陰になってきました、

4本の鐘楼には使徒12人の内、シモン、ユダなど4人の名と肖像が彫られている、

これらの彫刻は、マタマラによってとありました。

左隣の建物は・・・身廊であり、小さな塔の先端には果物が・・・これも日本人外尾氏の作品とあります。

丸窓や三角の窓・・・これらはステンドガラス、中央身廊に光が降り注ぐ・・・どんな天井が見えるのでしょうか

・・・工事中の正面を横切り、南の角からの全景です

しかし、日本の工事現場と何か違いますよね!、イタリーもよく見かけるクレーンがほぼこのタイプ、

操作が簡単そうですが、腕の先端になると耐荷重は減少し、振り回しもユックリでしょうし、効率が・・・

そうか!納期は目標であり、安価な設備で、安全第一、仕事中心の人生など考えられない・・・でした。

画面の右側に張りだした部分が栄光のファサードで、将来全て完成するとここが祭壇に向かって正面から入る入口になります。

・・・では、もう少し左に回り込むと受難のファサード、ここが現在では教会の出入り口になります。

ゲートから内部に入ります。

チケットを受け取り、古い建物の裏を通り、左側の受難のファサード正面に進みます。

ゲートの先にある古いレンガ造りの建物は、・・・屋根が湾曲してキノコの家のようです。

ガウディがこの現場で働く作業者の子供の幼稚園として、1909年に私財を投じて建設したとあります。

スペイン内戦で破壊され、後に修復されこの地に移され、今日では模型や型などの展示場。

目の前には足場が組まれた作業現場が・・・これらは建築というより彫刻作品ですね

1882・・・この教会の着工年ですね

 

ガウディは受難のファサードは、残酷さも表現したい・・・と計画しました。

しかし、受難の完成予想図に対して・・・人々の反応を考慮しこのファサードの建築を後回しにしています。

ガウディは「門を破壊し柱を切り倒し、この建築そのものを犠牲にして、犠牲がいかに残酷なものかを伝いたい」

と語っています。・・・しかし、建築前にこの世を去ってしまいました。

地下の展示室に、模型がありました、全体像が理解しやすいので見て頂こう

何やら左右各3本の斜めに張りだしたアーチ状の柱の形状が独特の形です、その上部には

不思議な・・・バルコニーの手摺のような、・・・イヤ!骨のように両端が関節に・・・あばら骨?

模型よりも、もっと骨のようなガウディのデッサンが残っています。

骨と思うと・・・かつては風葬で目に触れることもあったかもしれません、風化したような人体が・・・

しかし、この位置に立つと・・・ここからの写真は、近過ぎて全体像がつかめません。

彫刻を見ましょう。

日差しが強く・・・露出オーバーで残念、見難いですが

1988年彫刻家、スビラクス氏が受難のファサードの彫刻を担当することになりました。

個性的な彫刻作品です。イイデスね。

受難のシーンが、スパッと切り取られて、デザインに集中して観賞ができます。

右下の・・・蛇の悪魔にそそのかされた裏切り者ユダから偽りの接吻を受ける・・・イエス

16マスの魔法陣が何故かあります。

14が2個、10も2個あります・・・12と16が抜けています。キリストが無くなった年齢 33の暗号とか

・・・顔のないご婦人・・・、これは、ベロニカの聖顔布?

ベロニカ?福音書には登場しない、

辞書には、イエスが十字架を背負って刑場に向かう途中、顔をぬぐう布をささげたという伝説上の聖女、

イエスはその布に面影を写して返したと伝える。また、イエスの顔を写した布。

・・・入口の左に最後の晩餐があったようですが、撮影し忘れていました。

ガイドブックから借用します。上段は下書き、下段が作品

ついでに、悲しみに沈むイエスの像

この作品もいいですね。

下の彫刻も、ペーパークラフトのような・・・シャープなデザインです

・・・兵士ロンヒノス、十字架にかけられたイエスの脇腹に剣を突き立てたシーン、

受難のファサードは、入口左下の最後の晩餐から、・・・中央上部に磔刑を配してます。

十字架は水平に取り付けていますが、下から見上げるので・・・nnn やはり少し違いますが。

入口です、こちらのファサードにも中央に柱があります、

誰も気にしていませんが、柱の裏側から顔を隠した人物が両手を柱に縛り付けられています。

何とこんな入口に、イエスが円柱に縛り付けられています。

確かに受難のファサードでした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガウディ 凝りすぎ サクラダ・ファミリア

2018-10-03 | 旅行記

サクラダ・ファミリア 印象?・・・と聞かれたら、困ってしまう が,・・・凄いのを造っていました! でしょうか。

ガウディが、あれも これも と、当時のカトリック教で人気のあった教えを作品に詰め込み過ぎたので・・・

外観は、・・・巨大な円錐形の塔が立ち並ぶ様には圧倒される、しかし、お世辞にも綺麗とは言えない 加飾されたファサード外観

 ・・・これまでで一番綺麗!と印象に残っているのは、エマヌエーレ2世のアーケードを抜けて・・・ドーンと開けた広場に・・・ミラノのドォーモでしょうか

長い間スモッグで汚れた外観を、綺麗に化粧直しを完了した8-9年前の、サーモンピンクの桜エビがちりばめられた?ドォーモです。

・・・メトロから階段を上がってくると・・・大空にそびえ立つ・・・ドォーモです。こちらは、6-7年前 整然と・端正なゴシック フォルムです

・・・サクラダ・ファミリア・・・外壁に多くの登場人物やシンボルが見受けられるが、(ストーリーは時間軸で並んでいないようです)

アレモコレもと彫刻が、さらに壁面から芽生える様子が描かれたり、凹凸が多すぎるので、力作に消化不良となってしまう。

・・・素材の色や彩色も・・・年月による汚れもあるでしょう・・・上層部にはカラフルなタイルも多く使用されていますが・・・

・・・力作です・・・まず全体像を見直してみましょう。

ガウディは、基礎の地下と主たる部分・後塵を前任者から引き継ぎ、制約されたレイアウトの延長線上で構想を練っているのです。

その後独創性を発揮しようと、模型を作り、構造実験をして、ユニークな構造体に独創的な意匠を付加し、作品が主張し始めました。

・・・鳥瞰図は、上が北です。

右下から歩いてきて、交差点を右に進み公園の池の端から、

・・・生誕のファサード を正面に見ることができました。

夜になると、池の水面に水鏡のサクラダ・ファミリアが映るのです。

ここが今日では、一等地でしょう。

急ピッチに建設が進んでいるこの建物は、・・・貧民たちの大聖堂から、収益を上げる観光施設に変貌しています。

正反対の西南の方向にも公園があります。

こちらは 受難のファサード、ぐるっと回って、こちら側で入場券を購入し、内部に入り、こちら側に出て来ます。

では、未完成の部分とは?

・・・教会の後塵が北西にあり・・・その外側にガウディは被昇天の礼拝堂と扉という独創的なエリアを構想しています。

聖母マリアに奉げたい、・・・当時のガウディは、聖母マリアの人気が沸騰したようです・・・その中心にいた方でしょう

正面ファサードが本命でしょうが、未着工です。この正面には道路を挟んで建物が立ち並んでいます。

栄光のファサード・・・・・・完成したら、目前から見上げる状態になりますが、・・・完成模型は展示されています。

・・・ということは、外観は・・・まだ半分の表情しか見せていないことになります。

最終的には、独創的な円錐形の鐘楼が何本も立ち上がり、そこからこれまでにない各種の鐘の音が、・・・音楽が流れる・・・これが完成形。

 生誕のファサード

ガウディが50年の歳月をかけて・・・1925年11月30日、生誕のファサードの4本の塔の内、左端の塔が1本だけ完成しました。

ガウディは、このような塔がこれからどんどん立ち上がります、完成イメージを関係者に披露されたのでしょう、・・・半年後、

1926年6月7日、路面電車の線路を渡ろうとして、電車にはねられ三日後亡くなってしまいます。

・・・ファサードには、3つの重要な柱廊があります。

再度完成図を

この完成図では、わき役の塔が目立ち過ぎて、どこが柱廊?・・・大きな塔の下の部分1/5位です。

下側に三角屋根の洞窟のような入口が3本、これが 生誕のファサード

中央が一番大きく、上部にはクリスマスツリーのような物があります。

サクラダ・ファミリアのガイドブックから紹介しましょう。

一番大きい柱廊は、「愛徳」あるいは「キリストの愛」と呼ばれています。

ガウディは、「希望と喜びを表現しており、教会の入口の柱廊であると同時に、

洞窟の形をしたベツレヘムの馬小屋の入口をも象徴している」・・・そうです。

道路側から見てみましょう。

これは正面より少し左側からの画像です。

左の柱廊と中央の一番大きい柱廊は見えるが、右の柱廊は一部だけです。

左は、「望徳の柱廊」・・・下の画像

何やら入口の右上の彫刻は、争いごとが・・・(別途)・・・その横に、ねじり模様の円柱が立ち、隣の柱廊の境となっています。

そして、こちらが中央にある「愛徳の柱廊」・・・入口の真ん中に柱が立っています。

こちらの右下のシーンは、羊飼いたち

そして、左側下部には

東方の三賢人です。・・・そして星が流れて・・・

・・・柱廊の中央に1本の柱が立っていて、下から蛇がとぐろを巻き上に向かっている、

上からはアブラハム以降のイエスの先祖の名が刻まれたリボンが伸びている。

この柱の上には、聖家族の主人公・・・イエス生誕の場面が登場します。登場人物:ヨセフとマリア

そして、わき役が、牛とラバ

このさらに上部は、幼い天使のコーラス

ここからは、チケットを購入し聖堂内部に入って、この柱廊の真下から見上げた画像になります。

こちらの方が、真下に近いです

この天使たちは、ガウディが生前作成した模型がありましたが、戦争で破壊されてしまった。

残っていた資料の中にあるモデルの写真などを参考に日本人彫刻家、外尾悦郎氏が完成されています。

有名な日本人で、40年前からサクラダ・ファミリアで仕事をされ、熱心なガウディ崇拝者と言われています。

 6人の音楽を奏でる天使たち、左上部がファゴットの楽器、

左下段に、ヴァイオリンかビオラを奏でる天使の奏者、その右隣はツイターの楽器

右側の上部にハーブの奏者、下段にはドゥルサイナという楽器奏者、その右隣はタンバリンと言われています。

左下段の奏者です。

こちらは、右側の下段の奏者、ドゥルサイナとタンバリンの楽器。

これらの背面に月桂樹でもなく、ヌゥーと突き出しているような突起物、花も見られるが・・・

・・・気になるこれらの彫刻は何でしょう・・・

無機質な石から・・・生まれ出る・・生命力に満ちた・無数の動植物を表現しているとのこと

豊かな自然は救世主の生誕を告げ、新しく再生した世界の到来を祝福している・・・生命賛歌

・・・質感、彩色・・・ウーン、言われないと不気味な感じの彫刻で・・・画像処理でボカシを入れたいですが、

さてこのゾーンの一番上の部分に、このシーン

受胎告知、キリストの御托身の場面とあります。

ダヴィンチ受胎告知があまりにも有名です。

大天使ガブリエルから告知を受けるのは「ルカ福音書」がベースと思われます。

下側から見える部分は、ここが最上部ですが、まだまだ上はありそうです・・・離れて見ましょう。

この上部に三角形のアーチがあり、何かを授けているようです

ひざまずくのは女性、聖母マリアへの戴冠 とあります。

・・・戴冠?聖書には、ありませんよね、 誰が? いつ頃? ・・・これらは、関係者の願望でしょう・・・割愛しましょう

但し、朝日が当たる時間帯はこのような雰囲気ですが、・・・夕日が当たると後ろのステンドガラスが

幻想的な効果が現れます。

・・・これより上層部は、左右の柱廊も一体化して、尖塔とあります。

本来これが最上部で、周囲には高層物が無く、離れて鐘楼が建っているのが一般的で分かりやすいのですが。

もみの木は、糸杉のようです。糸杉の根元に白いものは・・・ペリカンです。

では一旦地上部に戻りましょう。

愛徳の柱廊の両サイドには、右に陸亀(山に近い、山に向いている)

この亀の柱から右の柱廊が信徳の柱廊、福音書の一節、カトリック教の教義などがテーマ

ということは、左に海亀 甲羅が平ら、海中では泳ぐのにスピードが一番、爪はヒレに進化していますが、

中国で人気の動物を取入れて、地下の礼拝堂に出入りする螺旋階段の場所の目印も兼ねているようです。

この左側が望徳の柱廊

争いの場面がありました・・・希望を持とう、逆境にある時こそ

ヘロデ王の幼児虐殺、

(執行官役のモデルは巨人で、足型をとると6本指であった、ガウディはそのまま生かしている)

マリアとイエスがロバに乗り、ヨセフが心配そうに見守る

ルカの福音書によるとの解釈・・・さらに上部には

聖ヨセフと幼いイエス、上部にロサリオ、右にイエスの母方の祖父ホアキン

さらに一段、上部には

聖母マリアと聖ヨセフの婚約 

などこれらの場面は、キリスト教関係者にとっては重要なイベントで、解釈も厳格に統一されていることでしょう。

トランペットを吹く天使が四方八方に召喚ラッパを吹いています。

真鍮製でしょうか緑青の緑がアクセントになっています。

 ・・・再度 尖塔部です。下側には6人の天使も・・・香をたき 我らを救いたまえ と歌う天使

ひときわ目を引くのが、白いペリカンと下の文字です。

JHSはイエスのシンボル、・・・シンボルは各種あるようです。

ペリカンも各種説があるようで、腹を裂いて2羽の子供に腹の中の魚を与える聖餠のシンボル、復活のシンボルなど

足元の金の卵もJHSの文字が・・・、AとΩなども色んな意味合いで取り込んであります。

これらのシンボルゾーンの上部に糸杉が登場します。

ガイドブックでは、生命の木 と表現しています。

糸杉・・・左右に根を広げないのでお墓でよく見かけます、決して腐らないものを意味しているようです。

先端に「T]の文字、ギリシャ語で神を表わす最初の文字、ヘブライ語の最初の文字

TとX(金色の帯)そして上には、両翼を広げた一羽の鳩・・・三位一帯 の表現です。

 下から見上げると・・・確かに鳩が一番上にもいました。

カトリック教の布教のために、アレモコレモ で・・・

聖書に詳しくない者には、ローマ帝国支配から逃げ出し、エジプトで労働し・・・

都度調べ直して

・・・パレスチナ人を武力で追い出し、イスラエル建国、核兵器を所有し

神に選ばれたユダヤ人は、学問が命、最新科学を駆使し、・・・

どうもユダヤ教とキリスト教が重複し、武力で布教したイスラム教も重なり

・・・まだまだ、これらの宗教の基本も理解できていないことに、気付く日々です。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑かった夏も過ぎ去ろうとしている

2018-09-19 | 旅行記

暑かった、バンコクと同じ38度の夏が・・・、過ぎ去ろうとしています。

ベランダのサンシェードを取り外しては、・・・台風の進路がズレ、暑い日差しの復活で翌日には取り付ける。

そんな繰り返しが3回も続き、今も外せないでいる。

広島の呉市に近い天応町の洪水による災害は、仕事を依頼していた企業が被災され、ずいぶん心配しましたが

先日展示会で元気な様子が拝見でき一安心しました。

北海道の災害もありました、全道大停電・・・、この様な状態に・・・関連事業者のプロ意識の欠如に驚くばかりです。

・・・我がベランダ菜園もミニトマトもオクラも収穫は少なく、山椒も葉が落ちてしまった。

ミニトマトは多分 ホワイトフライ(温室コナジラミ)が飛来して、黄化葉巻病に掛かってしまったようでした。

治療薬は無いと・・・先日NHKの番組で学び、3本処分したばかりです。

毎朝観察していたのですが・・・、土が乾いたら水やりですが、連日の暑さで、過保護の水やり?・・・根が蒸れて、

・・・朝夕に葉水や霧の散布は、・・・植物が温度変化についていけず・・・体調不良になったのでしょうか。

元気なのはブルーベリー、蘇鉄、パイナップル、金の成る木、オリズルランや君子欄などは丈夫でした。

山椒やクコの実は、これから新芽を吹き出し元気になる兆し・・・、天神様から頂いた菊も元気に育っているので一安心。

・・・ブログ、一月半も休んで、・・・災害のニュースが流れると、ポンペイの画像が手付かずで・・・ズーット気になっている。

目に飛び込んできた情景は、火山灰で埋まってしまった・・・本当に起こった2000年も昔の生活の断片が、21世紀の風を受けながら漂っていた。

・・・その前に、

この室内に注ぐ、輝く光線・・・、高い天井、多くの人々、

そうでした

この建物を、ぐるりと周回して・・・

この建物には・・・遠くから、日本から直行便で13時間、この地にやって来たのでした。

そして、日が沈むと、

不夜城のように、ライトアップされて、未完成の建物は、観光地となりました。

建設中のこの建物は、完成部分は使用されています。

一部を観光客に公開し、その入場料収入が潤沢に入り、建設作業は順調に進み、予想以上に完成が早まると・・・言われています。

・・・

この建物、・・・サグラダ・ファミリアの画像も一部公開した状態で、未整理が続いていました。

・・・実は、他にもいっぱい未整理があって、・・・

レオナルド・ダ・ヴィンチが未完成の作品が多いのは、好奇心が旺盛で・・・アレ・コレと、しかし、・・・人生好奇心が大事ですよネ!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桂島から仙台へ

2018-08-01 | 旅行記

桂島の朝マヅメ AM5時過ぎ・・・堤防に向かっていた。

奥に見える両側の山の谷間に造られた坂道を、向こう側の海水浴場側から越えて、こちらの北側の港に歩いてきた。

そして船着き場の右側の岸壁を回って、ここは湾の先端側の堤防の中央付近です。

ここでもう少し右に振り向くと、歩いてきた堤防と外海が見えます。

堤防の外側は、テトラポットではなく、コンクリートの二重堤防になっていました。

この二重の谷間に根魚が潜んでいそうだが、障害物がないと潮の流れが速くて住み難いかも・・・。

振り返って堤防の先端方向を見てみましょう。

左が外海、もう少し・・・100mくらい先が堤防先端になります。

ここで短い竿に疑似餌を付けて、堤防の隙間に置き竿をしておきましょう。

もう1本でルアーを外海に向かい遠投・・・、誘ってみるが追いかける魚影は見えない。

数投して移動、・・・ルアーを変えても全く反応が無い、波は全く無く・・・静かな海、干潮で潮どまりの時間帯となっている様子。

堤防の先端に移動して、サビキ仕掛けの上下に派手なルアーを繋ぎ、船道に遠投してみる。

誘って、誘って、大きく誘った時、・・・グググッ! 引き込まれた、この瞬間がたまらない。

数年ぶりの釣りで、竿の劣化も進んでいるでしょう、糸も交換していないし、・・・ユックリ竿を立て、リールを巻きあげる。

水面で落とさないように、堤防の上に抜きあげる。

あがったのは、縞模様が立派なサバのようです。急いでバケツに海水をくみ上げ、魚を泳がす。

・・・計3匹を釣りあげたら、その後全く反応が無くなった。

サバに失礼してナイフで内臓を取出し、身をぶつ切りに、・・・オッ、結構身がしまっている。

皮と皮に付いた赤身がしまっているので、立派な餌として役に立ちそう。

・・・短い竿の疑似餌を外し、サバ餌を付けて1,2度誘ってみるが・・・引きが無いので、置き竿にする。

その後ルアーは、・・・全く反応なし、魚たちは、沖合に食事に行ったのでしょう。

6時半になっていた、・・・潮風に当たり竿を振ることに意義があり・・・では、満足して宿に帰ろう。

・・・2011年3月11日、東日本大震災がありました。

雪の残るこの松島湾は、不幸中の幸い、あまり大きな被害は出ていなかったようです。

同じリアス式の海岸線の北の町々では、津波被害が大きく、平均10mの高波が打ち寄せ・・・

所によっては15mも、20mにも成長して、目を覆いたくなる被害を残しました。

・・・松島の遊覧船乗り場付近は、2m位の波が押し寄せ、海底の泥が巻き上がり床上浸水などの被害はあったようです。

しかし、津波被害が思ったより少なく済んだのは、湾内に点在する大小の島々が防波堤の役割をしてくれたとの説が有力のようです。

 

朝食後、南に面した桂島海水浴場となる砂浜で、ヒラメ類を探し求めて遠投をする。

2,3度目の遠投で釣れたのは、結構大きいフグ・・・拾ったバケツに入れて

水を時々交換してあげるといつまでも元気だよ、・・・元気なうちに海に返すと喜ぶよ、・・・子供にあげた。

この砂浜で・・・エサのサバの切り身は食い取られるが、当たりが分からない、イソメの方がやはり食わせやすいかな・・・。

沖合でのどかに釣り船が見える・・・アンカーを入れているようだった。

・・・3.11 雪の残るこの砂浜に、あの沖合から高波が打ち寄せ、北側の船着き場に向かい坂道を濁流が乗り越えていったそうです。

この桂島では、島内にある90件弱の住宅の大半が被害を受け、無傷は避難場所の旧浦戸二小など高台の10件ほどといわれています。

島外に出かけていた人々は、何日間か帰還困難者になり、もちろん携帯電話もつながらない。

島内に食料の備蓄はあるが、水道がストップ、塩釜との航路も運休、湾内には浮遊物が沢山流れ着き、当然船の操船は難しい状態で、数日間は大変だったそうです。

今でもあちこちに傷跡が見られますが、前に向かって進もうと、・・・復旧は進んでいるようです。

・・・時間は10時半、新装なった海の家、シャワー室・・・砂浜に家族連れが見られ始めました。

釣りは、もちろん終了、・・・昼飯は、塩釜にしよう。

・・・昼前の船に乗りましょう。

朝便が出ると、次は、・・・11時21分発になりますが、これに乗船します。

近くの漁場、ホタテ貝を合わせて吊り下げています。

これは、牡蠣の養殖でしょうか、

こちらは、・・・短い竿で・・・湾内でハゼが良く釣れるようです。

出港して直ぐに艦内アナウンスが流れました。

「本日は引き潮が大きいため、通常の航路が通れません。迂回航路を通りますので塩釜の到着時間が多少遅れます」

そんな内容のように記憶している。浅くて座礁する危険があるのでしょうか・・・、

そういえば、航路の両サイドにポールが浮かんでいたような・・・、

航路以外は浅いので、航路を外れないように?

湾内は砂泥の堆積により最大で水深4m、平均2~3mのようです。

・・・かつて半島が沈下してできたとされる松島湾では、海底には尾根などが残り起伏に富んでいるので座礁の心配があるのでしょう。

 このような小島の下に・・・尾根が続いていることになります。

砂状の海底に、ポツリポツリと岩山がと思いがちですが、南のサンゴの砂浜とは誕生した事情が違いました。

 やがて・・・結構沖合を航行しているようです。

船足の速いあの観光船は、大型のようです。

これが、第三仁王丸です。

定員400名(椅子席:313名、立席:87名)ここを航海しているので・・・湾内50分のコースのようです。

季節は夏、潮風が心地よく・・・デッキが人気のようです。

松島、・・・確かに大半が、・・・松が生えている島です。

街が見えてきました・・・昨日より化粧が濃くなったコンビが・・・おりました。。

派手な化粧で登場し、盛り上がるのは海の日、「塩釜みなと祭り」で雄姿がみたいが、・・・残念7/16、明日のようです。

 ・・・調べた結果、塩釜物産観光のHPから雄姿を借用しましょう。

 生マグロの水揚げが有名な塩釜漁港です。

もう1隻はこちら、船首の艤装が大きく違っています。

こちらは竜のようです。

 そして、海上ではこのような雄姿がみられるようです。

ここは、塩釜の岸壁です。

「みなとオアシス・マリンゲート塩釜」の建物は目の前です。

下船後、早速この館内のお店で昼食にします。

昨日は市場で海鮮丼、今日も魚でしょう、握りを頂きます。 

 食後、・・・日差しが厳しい、・・・釣りは諦めて、冷房の効いた所で1時間・・・車を走らせる

1時間弱で仙台駅前、散策後、杜の都にふさわしい場所に移動しましょう。

ケヤキ並木が続く、定禅寺通り 日本の道100選に選ばれています。

「せんだいメディアテーク」の喫茶コーナで休息、ジャズコンサートや美術・映像などの楽しい所です。

 

せんだいメディアテークの並びに、定禅寺ガーデンヒルズ迎賓館、素敵な洋館・・・結婚式業がメインのようです。

仙台在住だった親戚に誘われ、仙台七夕まつりを楽しんだのは、相当昔のことでした。

車で仙台、黒松に到着したのは深夜だった記憶がある。

何時に東京を出発したのか・・・何故か記憶がない。

仙台に始めて来たのが・・・いつ頃か?

特急電車で4時間、東北新幹線が工事中で・・・4時間は長いと何故か記憶に残っている。

 西日を浴びて、ほぼシルエット・・・何とか明るく調整して・・・伊達62万石 青葉山の仙台城跡に立つ伊達政宗の銅像です。

 

 

仙台の夜といえば、牛タン

麦飯とテールスープ、白菜、きゅうりなどの付け合わせ、牛タンは焼かれてこのような定食スタイルに行列です。

 

ヘルシーな牛タンですが、夏バテ対策には、豚肉でしょう。

疲労回復に効果のあるビタミンB1、他にもビタミンB2、ビタミンE、・・・部位はトントロ、焼肉?うまいですが・・・

トントロは造語でした、豚の脂肪は体に良い?。イヤー、ヘルシーな赤身のヒレでしょう。

手軽なDHCのビタミンB-MIXを愛用し、昼休み、心拍数を押さえるために4kmを3.5kmに短縮し走っていたら

ここ2週間、朝夕咳が結構出るのが気になった。

先日、TVでエアコン咳が流行っている・・・気をつけるようにと・・・

咳は気管支の炎症・・・エアコンのカビが要因、他にも冷房の冷たい空気を呼吸していて、

真夏日の高温の空気を呼吸すると、良くないそうだが、・・・

確かにこれを続けていた、喉がヒリヒリして、浅田飴のせきどめでは治らなかった。

気にして観察すると、冷房の効いた室内で咳をする人が今年は非常に多い、皆様もエアコン咳になりませんように。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桂島

2018-07-26 | 旅行記

宮城県塩釜市 ・・・日本三景 松島湾内に大小さまざまな島が点在します。浦戸諸島です。

ここ塩釜港から船で約30分、桂島があります。

その先に野々島、寒風沢、朴島があり、桂島を含めこの4島には集落があり人々が生活されている。

・・・そして宿泊設備もあり、観光地でもあります。

この建物の先、左折し裏側に入ると駐車場があります。

一時間百円の駐車場ですが島の宿泊客として、30時間1000円の割引チケットを宿で購入することになるようです。

では車を駐車場に入れて、このビル内に入ります。

食事処や売店、集会室など色々ありました。

この建物の名前が、みなとオアシス・マリン塩釜と長い。

乗船券を購入し、塩釜市営の船に乗ります。

・・・船の利用者は近年減少しているようです。

そのような中で今年の春、12年ぶりに小型船(19トン)が新造され就航しましたが、中型船1隻が退役しました。

現在は中型の「しおじ」定員260人が1隻、小型の「うらと」と新造船の「しおね」定員100人の3隻で運行されています。

一番近い桂島に、往復で千円と市民の足ですから廉価な料金設定です。

切符を購入し桟橋に向かいます。

埠頭が工事中で、船の全景が良く判らないが、この船は多分中型船でしょう。

乗船後、2階のデッキに出て松島湾内の景観を紹介しましょう。

波は穏やか・・・、午後のひととき、船上を吹き抜ける潮風が心地よい。

東京の猛暑を抜けて4~5時間のドライブで、・・・自然の涼風・・・松島湾の海上に・・・

この光景が松島、小島の数は・・・260余りとか、驚くのは、全ての島に名前が付いているとの事でした。

ところで松島観光は、松島海岸から遊覧船での観光が一番人気のようです。

遊覧船の案内を見てみましょう。

・・・50分で湾内一周 ¥1500コース、桂島を回って帰るのが湾内一周コースのようです。

近くの島をめぐるコースは、25分 ¥1000-があるようです。

島の向こうに遊覧船が見えてきました。

あのラインは、・・・大型遊覧船・仁王丸のデザインのようです。

仁王丸は湾内一周コースの遊覧船で、1Fは混雑しています。

2Fは空いていますが、グリーン席。 別途600円と案内にはありました。

椅子席:198名、立席:102名、定員300人・・・バスと同じ立席を含む定員です。

第三仁王丸という遊覧船も就航していて、こちらは椅子席:313名、立席87名、定員400名とさらに大型です。

まもなく、最初の停船地・・・桂島の案内が流れ、・・・堤防を回り込んで・・・湾内に入ります。

30分弱で目的の桂島桟橋に到着しました。

下船して、船主側から全景を見ると結構かわいい船体でした。

桟橋には、宿の主人が車で迎えに、・・・釣り道具を見て、「エサは持ってこられたでしょうね!」

・・・忘れた・・・、魚市場で昼食のメニュー選びに大半の神経が使われて、青物の小魚を探すのを・・・

餌に適する物が余り無かったし、釣りのボートを持ち込もうかと思ったが・・・

突然の二泊の小旅行なので、成り行きで取り合えず竿を数本持ってきたのだった。

・・・では、釣り道具を宿に置いて予備知識の少ない桂島の散策に出かけよう。

ここが島の南側、海水浴場・・・業者の方が休憩所やシャワー室などの組み立て中で、進入禁止のロープが張られていた。

白キスは釣れるかな?・・・聞いてみると・・・ここには住んで居ないそうでした。

・・・何か釣れます? ヒラメ、・・・沖合に釣り舟が見えた。

これがパンフレット

島の西側、遊歩道コース、夕日が見たいのだが・・・海岸からの道が工事中でロープが張られている。

では先程の船着き場と、湾を囲む西側の堤防先端まで散策に

堤防の先端・・・湾の内外の海中に、魚影は見えない。

漁港から海岸沿いを東に進もうとすると・・・道が無い、パンフを持って作業中の人に聞いてみる。

・・・この道を通って隣の集落に行きたいのですが・・・?

「そこから先は崖を登らないと道は無いよ!、今は誰も通らないから、藪になっていて崖も登れないよ

戻って、坂道の頂上で左に階段がある、その階段を上って行くと寺があり、この崖の上の遊歩道に行ける・・・。」

ありがとう!・・・

オッ! 小型船が入って来た。

「しおね」定員100人の新造船のようです。ほぼ満員。

では来た道を途中まで戻り、階段を上ると、その先に・・・このような立派な仏像が

そして寺の裏手に左から回り込むと、遊歩道がありました。

舗装された小道を進む、100mくらいで遊歩道からそれて、崖の端に進むと・・・左端に船着場が見えました。

 この右端の作業場で道が無くなり、崖を上ろうと一瞬考えたが断念してよかった。

ここから崖を見ると急斜面で、夏草がすごかった。

さらに進み、もう少し先で再び崖の上に出ると

広角で全体の景観です。左端に桟橋が見えます。

遊歩道を下ると舗装は終了、右と直進の分岐の選択・・・砂利道で木立が鬱蒼としている直進コースを選択。

多分東に向かっている・・・やがて山肌を右に回り込み・・・体育館裏手が見えた、ここが旧浦戸二小のようです。

舗装された小道、市営住宅の横を通り幹線道路に合流。

更に東側に進むと右側(南)の急斜面の下に小さな砂浜が見えます。

島民の手作り海水浴場のようで「鬼が浜」に下りる小道の案内がありました。

島内では畑作をされていますが、ごく少量のようです、開墾して耕地を増やしても、問題は水源、四国の様なため池でも造らないと・・・。

長い上り坂の途中で、右の半島方向に進む未舗装の道路が分岐しています。

直進すれば尾根の向こうに石浜集落があるのでしょう。

右のコースは、雨降り岩と看板があるので進んでみましょう。

こちらもすぐに上り坂、標高60.1mの津森山が浦戸諸島では一番の高さとありますので、ここがその山でしょう。

水源の管理棟?の横を通り、この先また上り坂があります。

さてここが山頂?・・・周囲に木立があり、全く見晴らしが悪い。

丸く柵で囲われているので、ここが目的地、向こうに石碑・雨降石が建っていた。

石はどこ?・・・斜面にあるのが

この石です。水に濡れると黒光りする石、あるいは紅色の石を勝手に想像していたので・・・残念。

尾根を下り海岸線に行きたいが、海沿いの道が無いようなので、またここに戻るのは面倒です。

散策を終了、

夕食後、散策するも・・・星空は・・・残念、雲も多く、静かな桂島でした。

朝マヅメに出かけよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする