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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ガラスの森美術館

2021-12-25 | 旅行記

この画像は、調べたら2013年の秋だった。

年末のイルミネーションが話題になっていたころだと思う。

豆電球の熱と明かりが樹木に悪影響を与え、LEDに替わり、その後は青いLEDも安価になり、

音と光の演出は冬の大イベントに発展し、マスコミが宣伝し集客力を競って拡大し続けました。

ここガラスの森は、LEDなどの発光体ではなく、素材を、ライトアップしていますので、落ち着くのです。

・・・千石原のススキの原を右に見て、街に入ると右から強羅からの県道と合流し、左カーブその先右折

小道を下って行くと道なりで、国道に突き当たる。

この右側一帯がガラスの森美術館、国道から右側の駐車場に車を入れる。(有料300円)

駐車場はガラスの森美術館の両サイドにあり、では敷地内に

入場券はこの階段の先、建屋内に設けられています。

ゲートを通り内部に入ると、少し高い通路から敷地内が見渡せます。

左側がヴェネチアン・ガラスの美術館、現代ガラス美術館などの建物です。

下の画像は、少し角度が違います。

 

正面に見える「光の回廊」2008年制作:高さ9m、全長10m、クリスタルガラスのアーチがほぼ正面に見えます。

ここは、左のヴェネチアン・グラス美術館の2回からの眺望です。

手前の毛むくじゃらの様な白い物体は?

作家によるシャンデリア、1997年2点制作され、ここと、ヴェネチアのムラーノ美術館に 

では、入口から続く通路は正面の池を右側から回り込んで小道を進みます。

右側のカフェ・レストランの前を通り、クリスタルツリーが・・・2本?立っていた。

少し小さいタイプが5年ほど前に設置されたようです。(館員の話)

中央の奥、山合に見えるのが、大涌谷・・・向こうからもこのキラキラが見えるでしょうか?

時間を早回しにして、夕日に照らされる時間になると、温かい雰囲気になります。

向こうの煙突が気になります?

少し拡大してみましょう

スパイダーマンでは無く、煙突に縄梯子、サンタさんが登っています。

ここは、ナッツやジャムなどを販売しているショップです。

もう少し池の淵を進むと

手前の大きいツリーは、高さは約10m、約8万5千粒のクリスタル・ガラスのツリーです。

こちらが池の一番奥、右の小さなツリーは、高さ約8m、約6万5千粒のクリスタル・ガラスが用いられています。

大きなツリーは、「ロミオ」、小さなツリーは「ジュリエット」だそうです。

ツリーの先端が星ですね。

12月26日以降は、星がハートに変わるようです。

この裏から階段状の小道が、斜面に造られています。

斜面は川に沿って、アジサイなどの植栽があり、季節を選んで来館されると楽しめます。

この美術館の有名な作品、1895年バロヴィエールの作

これらの作品は3部品を別々に作り、溶かして付け完成させましたが、半数以上は自立できなかったそうです。

これらは、入口の建屋の並びにある美術館に展示されています

この美術館のホールでは、海外からアーチストを招きコンサートなどをされておりましたが、コロナ禍で来日ができず、開かれていませんでした。

隣の現代ガラス美術館も多くの作品が展示されています

この様な展示となっています

これは、アメリカ人デイル・チフーリの作品、ベネツィアのムラノ島に留学

1981年から80年代の作品、内と外でガラスの色が違う、ベースは色ガラス棒

3層のガラス面からなり、間の層に白ガラスを挟んで混色を避け、鮮やかな作品を造り上げている

さて、日も暮れて、ライトアップ中心のツリーを見てみましょう

LEDと違い、気品がありますね、間接照明が雰囲気を出しています

クリスマスまでの特別展示のようです

ではこの「光の回廊」を通って、美術館を後にし、強羅に帰ることにしましょう。

回廊内部から、大小のツリーを・・・、

箱根の森に、このような無数のクリスタル・ガラスが輝いていました。

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箱根-九頭龍-神社 

2021-12-18 | 日記

12月の声を聴くと、アレコレ雑用が多くなり、日が暮れるのも早くなって、何故か疲れる季節。

温泉で癒されてこよう、・・・昨今は湯河原も熱海も散歩に出かけると商店街は元気がなかった。

箱根は、そうだ 3~4か所くらい巡ってみよう。

あの美術館は訪問してから数年経っているので、多少変わったでしょう。

出かける前に、ベランダの植栽に水やりをして、収穫した初物を頂いてみる

左から赤かぶ2本、その隣の濃い紅色がサラダビーツ、右端がサラダ春菊

サラダビーツは、初めて食するがレバーのように中身も真紅、滴り出る液体も真紅でビックリ!

さて、朝の首都高は結構交通量が多い、東名高速の厚木から小田原、・・・箱根新道で芦ノ湖の関所跡へ到着。

最初に向かった先が、芦ノ湖の湖畔を左に向かって、箱根神社

湖畔の駐車場には止めないで、神社の参道の先、斜めに坂を上って境内の駐車場に駐車する。

参拝は、一旦参道を湖畔に降りて、水中の鳥居に向かう。

平和の鳥居、湖面左側は箱根関所跡方向、・・・時間は11時前

ここから道路を2本渡って、先程の駐車場横に戻り、

杉木立の中、急な階段を登ると本殿に到着する

撮影の最中、スタイリストが付いてチェック・・・モデル?・・・新郎(役)?もカメラマン横に、親族は不在。

参拝客に遠慮しながらの撮影が続いている、右側に移動して、

この本堂の右横に、昨今人気の九頭龍神社があります。

九頭龍です、この右側に鳥居、

こちらは九頭龍神社の新宮とのこと。

では本宮に行くには、・・・グーグルの地図を拝借

ここから車で移動・・・駒ヶ岳ロープウェイ駅の先へ

ホテルで食事をしようと駐車場に入れて、プリンスホテルの山側の小道を進む。

正面に通行止めがあるようだ

箱根九頭龍の森 セラピーロードと書かれている。

芦ノ湖にせり出している尾根を削ったのでしょう、片側土手、もう一方は手すりの平坦な小道

やがて、登坂があり・・・その先は

前方に急な下り坂、

右カーブ、スピード落とせ!・・・歩行者に注意を?

自転車が通って行く、雨上がりで落ち葉が多いとスリップし易いので危ない。

電動のレンタサイクルを利用する人がいるようだった。

左側の湖水に、鳥居が見えてきた。

・・・前方で左に入口の案内板が出ている。

少し広場になっていて、自転車はここに駐車、目前の平屋建ては関所?

左側のガラス戸が入り口、営業中の立札が出ている

それでは、建物の中に入ってみよう。

室内の右側に自動販売機、・・・左上のチケットが大人入場料:600円、子供300円とある。

他にも 九頭竜饅頭:900円、絵馬:1,500円、白龍ネックレス:15,000円、握り石(パワーストーン):2,200円

入場料の券を購入して、係員に渡して向こう側の戸を開けて、・・・関所を通過しました。

目の前は公園、・・・振り返れば今通った関所が右側に見える

右側の湖水そばに白龍神社があるようです。

そして、目の前の芦ノ湖には桟橋が

九頭竜神社は、まだ湖畔に沿って進むようです。

案内板があります。

この先を曲がれば見えるでしょう。

そして、朱色の建物が木立の間から見えてきました

・・・一見、高床式の余り神秘的ではない雰囲気ですが・・・左側に案内板

手水舎はどこかと探すと、芦ノ湖に向かって下る階段がありました。

階段を下った先は、尾根の先が湖に突き出している。

右の鳥居は、その先に小さい桟橋があり、祭りに利用されるのでしょう。

水中鳥居、・・・かつては土手の横に舟をつけられたのでしょう。

水中から狭い石を積み上げた階段が先端の土手に残っていて歴史を感じられます。

こちらは、弁財天社、御祭神:市杵島姫命

この弁財天社を回り込み、九頭竜神社を正面に見ると、これは二の鳥居となるのでしょう

遊歩道から九頭竜神社の前に行き、正面階段を下ってきたのですが、

改めて振り返ると、これからまた上る階段下の右側にありました。

手水舎でしょう、屋根も無く、龍神様が静かに龍神水を

立札には、龍神水は新宮でお汲み下さいと記されていました。

さて、九頭竜神社の賽銭箱前にはこんな張り紙が

手作り感一杯の案内ですが、人気の観光スポットです、もう少し・・・。

内容は、左から

お供えは、カラスによって荒らされ御社殿が汚れてしまうので、お持ち帰り自身で食して下さい。

全国各地からたくさん参拝頂いております。

神社の正面の場が狭いので、どちらかの端で参拝し、譲り合って参拝をお願い致します。

右の長文は、箱根神社社務所から当神社の案内文書です。

 

こちらには龍が3匹?

立派な案内板もありました。

広場横には屋根付き休憩所もあります。

天候に恵まれた、箱根九頭龍の森でした。

昼食後、大涌谷に行く予定だったが、・・・明朝に変更して、ガラスの森美術館に向かいましょう。

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雪も走れる夏タイヤの季節がやってきた

2021-11-29 | 日記

晩秋になったら、コロナも沈静化しているだろう・・・旅行は可能だろうか?

この時期はドライバーにとっては悩ましい季節です。

・・・数年前のこの時期、夕刻に出雲大社の西1㎞、日本海に面した稲佐の浜で突然暗雲となりヒョウに見舞われた。

夜半はみぞれ・・・翌朝、安来の空に何と雪が舞っていた、・・・朝食時のニュースで鳥取の高速道路は9時から通行止!

急ぎ通勤ラッシュの国道から山陰道の高速に、

 

・・・米子から中国横断自動車道で瀬戸内海側へ脱出を試みたが・・・

スキー場のある大山の手前だったか・・・チェーン規制で交通止め、インターの出口から一般道に降ろされた。

ショック!・・・スタッドレスタイヤはもちろんまだ装着していなかった。

広場では左側でチェーンを巻き始める大型車・・・順番に許可、不許可と振り分けられる

・・・窓を開け、係員に雪道ドライブ経験豊富、タイヤは新品、AWS(4輪駆動)タイヤ見て!

係員、車を確認して、右側から坂道を上る通行の許可・・・高速道路に再度戻れて、ホッとしたのを思い出す。

・・・最近一部で話題のオールシーズンタイヤ、ミシュランのキャッチコピーは「雪も走れる夏タイヤ」

しかし、10/8 発売予定だが海外工場も物流もコロナ禍で・・・入荷明細が公表されない。

代理店は来店しての予約を勧め、入荷は未定だが優先されると・・・それはそうでしょう。

・・・自転車もこの時期2022年型が発表されるが、世界的に自転車ブームで入荷は未定のようだった。

最初に立ち寄った店舗で、2階の壁に飾ってある展示品に・・・足を掛けるとサイズOKだった。

C・SPORT(BIANCHI)女王の瞳の色は目立つので避けたかったが、何かの縁、妥協して衝動買い。

・・・タイヤは予約して装着したが溝のデザインがユニーク、ダンロップスポーツより走行音が静粛なのに驚いた。

ミシュランのPRでは、夏タイヤより静粛と宣伝しているが、F-1の小雨用タイヤのようなV溝が効果を上げているのでしょう。

さて、この先旅行は未定・・・胡蝶蘭のミニ温室を造ろうと11月始めから週末に少しづつ、

これは、イエロー系のレモニカ、2鉢とも葉数が20枚にもなったので、1鉢を胴切り処理をしたもの。

上半分を水苔で空中栽培中、・・・1か月で葉が2~3枚枯れ落ちたが元気、

今年の胡蝶蘭用温室は空気の流れと湿度を少し改良しようと、ファンとブロアを取付中。

45cm角で組んだガラス製の2段BOXの上部に、高さ90cmのパイプ式2段フレームを利用しよう。

給水する際、鉢を出し入れしたいので、上下2面はガラスの引き戸を正面に取付ける。

コの字型のアルミ押し出し材を上下に取付け、引き戸のレールにしよう、

上段のガラスも同様にアルミのレール内を滑らせる・・・何とかなりそう。

他の部分は、プラ段は断熱効果がありそうだが、透明度が低いので、PPのシートにて覆う。

左サイドのppシートを半円の70度くらいまで、右サイドが120度くらいと重ねた部分で隙間を設け換気口に、

PPの片面に鉄製のフラットバー、向かい側に磁石、ソレノイドにすれば隙間を制御できそうだが

取り合えず手持ちの磁石で、手動式のテスト完了・・・多分そのままかも。

ヒータはサーモスタットで温度コントロールができるが、加湿が問題、50%を目標にしよう

大きな加湿器から、小型のUSB加湿器に変え、・・・スパティフィラムの観葉植物を1鉢置く。

LED照明を、昨年は朝夕2回 補助光のように当てていたが、これは採光が無計画だったので再検討中。

作業中ベランダに置いた胡蝶蘭、ある日気が付くと茶色の毛虫が葉の周囲を半分噛み切っていた。

こんな可哀そうな胡蝶蘭がレモニカの3鉢、他にはオレンジ系のエクエストリスが1鉢

今咲いているのが、白とピンクのスイート・スマイルが1鉢、

純白にオレンジのワンポイント、ダイヤモンドスターが3鉢、過保護に育ててみよう。

・・・例年より気温が高かったせいか、ブルーベリーの紅葉は限られた種類の鉢だけ色づいてきた。

9月11日から時期をずらして6か所で・・・今年はサラダビーツを主体に育てている。

右側のプランターは、9/11に種を蒔いた、右列:本紅丸かぶ、左列:サラダビーツ

左側のプランターは、9/23に種を蒔いた、右列:サラダ春菊、左列:サラダビーツ

他には、サニーレタスが発育不良で他の物に替わったり

赤かぶだけのプランターもあります。

ところで月桂樹、花が咲いたのは雌株のようでの木の実は緑から紫、なすび色に変わり

収穫しようとしたが、嫌とでも言うように抵抗され簡単に捕れずまだそのままでした。

オリーブのように油分を利用するか、ピクルスもそれなりにとか Net に書かれているが

急ぐ必要もないので完熟まで待ってみよう。

もう1鉢は、雄株なのか花は咲かず体力を温存しているようです。

朝の最低気温が数度まで下がって来る時期になりました。

アマリリスは今年は鉢から抜いて休眠させましょう、また春先多忙になるが・・・。

何故かハイビスカスも2鉢になり、1鉢はベランダのビニール温室で我慢して頂き1鉢は室内へ。

屋外の温室はビニールの開閉が適当になり、適温が継続できない、結果、寒暖の差が激しすぎて・・・

中の植物は有難迷惑になるでしょう。

朝日を浴びながら、また夕方閉め忘れたことに気づき・・・既に数回反省しました。

 

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青山ショールームに

2021-10-04 | まち歩き

HONDA の青山ショールームに予約の10分前に到着、国道246号から本社ビル地下の駐車場へ

整理券入場なので1階の正面入り口に向かうと、行列ができていた。

ファッションブランドのアルファタウリにチーム名が今年から変わった、(旧トロロッソ)日本の角田さんとフランス人ガスリーが乗っている。

ショールーム内部に入ると、246号の国道側に HONDA 第二期 黄金時代を開いた1986年の車体が

チーム名は名門、ウイリアムズ・ホンダ

このカラーリングも目立ちました。Canonをスポンサーに・・・HONDAとは1987年まで数年間

オーナーはイギリスのウイリアム一族、この頃は名門チームとなりましたが、残念なことに昨今は振るわず

一族はウイリアムズを昨年アメリカの投資会社に売却、名前だけは残され・・・今年は下位で頑張っている。

この頃から日本ではバブル時代、フジTVの地上波放送もあリ、HONDAの連戦連勝でF-1ブーム・・・日本中が湧いていた。

1987年からF-1グランプリのテーマ曲に「TRUTH」が採用され、この曲が街中に流れ、世は上昇ムード一色でした。

この当時は、エンジンのパワーが優劣を左右し、さらにターボです。両サイドの空気取り込み口も巨大です。

反対側はステージに沿って、こちらは圧巻のMarboroカラー、印象に強く残っている(たばこメーカのロゴ)

1987年、ロータス・ホンダから30代の中島悟さんが日本人最初のドライバーとしてデビューされた

(ブラウンカラーの車体に、のんびりとCAMEL:ラクダが・・・ここもたばこメーカのロゴでした・・・雨の中島、納豆走行・・・応援していました。

このカラーリング 日の丸カラー、向こう側から年代順にみてみましょう。

1988年は、連戦連勝でつまらないくらい強かった。チーム名:マクラーレン・ホンダ

陽気な気さくな ブラジル人、アイルトン・セナの人気は凄かった。

フランス人、アラン・プロストは、(長嶋と野村のように)セナとは対照的に見られてしまいます。

この当時は、たばこは日本専売公社が1985年(日本電信電話公社と共に)民営化されJTになり、積極的に多角経営を目指します。

CABINブランドを国内レースで登場させ、1994年から2001年までMILD SEVENがベネトンチームの冠スポンサーとなっています。

手前から1988年、1989年、1990年、バブルがはじけた、1991年・・・どこが違う?

1988年は、1.5リッター  ターボエンジン。16戦で15勝! この車体は、Sennaの文字が見えます。

1989年から、3.5リッター・・・しかしターボエンジンが禁止されました。

2番の車体は、プロストですが、共に個性が強くセナとプロスト、両雄並び立たず犬猿の仲と言われました。

1990年の鈴鹿では、フェラーリに移籍したプロストとHONDAのセナが、日本グランプリ(鈴鹿)でも激しく争って、接触・・・共にリタイア。

この時代、3.5リッターを守ればガソリンを爆発させるシリンダー(筒)の気筒数は規制が無く、V10、V12、1000馬力の競争の時代でした。

モンスターエンジンです。

HONDAは1991年を最後にF-1から撤退しました。

そして、現在・・・中央に2021年絶好調の、レッドブル・ホンダのマシン

前輪の中央部から前に伸びているのが、フロントウィング、コの字型で軽量、破損しやすく、ワンタッチで交換できる。

来年からレースの規定が変更になるようですが、大昔はレース途中でピットに入ってガソリンを補給しましたが、危険なため中止。

昨今は、タイヤ(ピレリの1社提供)戦略(硬さの違う・・・ソフトからハードまで5種類ある)がポイントで

・・・各地のコースで、その中からソフト側3種類などと指定されたタイヤが提供され、最低2種類使用する。

65周の周回コースで、一番柔らかいソフトタイヤは20~25周で寿命などとピレリが発表している。

こちらは、前輪

こちらが駆動輪の後輪、車軸の部分は奥まっていて薄暗いので、見易いように修正して明るくしています。

各社のタイヤ交換の時間:車体を上げ、4本外し、新品を押し込みナットを機械で一瞬で絞め、車体を下ろし発進まで約2.5秒位でしょう。

昨年は、タイヤの摩耗限界がハッキリしないため、レース中にタイヤが突然バーストする危ない光景が数回発生しました。

後輪は幅広です。雨のレースには、スリックタイヤとレインタイヤの2種類が使用できます。

そして、秘密が一杯あるハンドルです。

ドライバーが乗り込んでからハンドルを差し込んで取付け、

・・・ハンドルを引き抜いて、・・・ハンドルと共にシートから脱出します。

一昨年、初めてHONDAが優勝した際、最終盤に2番手に浮上したマックス・フェルスタッペンに、

チームから無線が流れ、その音声がTVでも聞こえました。

「エンジンモード11」、「ポジション5」・・・何か特別な事が起きそうと期待して

・・・その通り猛追、アットいう間に追い抜き、・・・話題になった言葉です。

40分近く滞在していました。

正面から出て、ビルの外周を回り込み地下駐車場に向かいましょう。

今年は、HONDAのパワーユニットが使用できる最後の年となってしまう、残念なレッドブルグループが感謝の意を込めて、・・・

リア・ウイングにHONDAのロゴを掲示した。莫大なスポンサー料が手にできる場所だったが。

このリアウィングは、コースの特性に合わせ、角度を変化させダウンフォースを調整します。

またパタンと地面と平行に倒し、空気抵抗を最低限にして、ストレートで追い抜く、このリアウィングに観衆の目が集まります。

今週末は、日本グランプリ(鈴鹿)の予定が昨年に続き、政府から許可が降りず、中止となりました。

代替開催のトルコグランプリ、ここに特別な鈴鹿仕様の車体が登場するとのこと。

レッドブル、アルファタウリの計4台が、どんなカラーリングで登場するのか楽しみに待ちましょう、間もなく登場です。

追記

特別なカラーリング映像の告知と画像が発表されて、・・・すぐ削除されていましたが、10月7日公開されました。

静止画や動画も各種公開されています。

日本グランプリの中止により今週末のトルコでの代替開催前に、HONDA 及び日本のファンに感謝の意思表示、・・・RBはスケールが違いますね。

一部を Red Bull Rasing のPRとしてご覧ください。

ガレージ内

HONDAは、来シーズンF-1 撤退しても、今後もRed Bull Racimgに協力することが発表されましたので

重ねて、ありがとうなのでしょう。

 

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夏が過ぎ、秋のある日

2021-10-03 | 日記

6月から9月まで、ブログは休眠状態でした。

コロナ禍で繰り返された緊急事態宣言、・・・しかし公私ともにそれなりに多忙の日々が続き・・・、

・・・週末はベランダ園芸に力を入れたら、果実を求めて夜明けから来鳥の鳴き声、

網で覆った翌日、・・・何故か網の中で2羽が・・・ブルーベリーを摘まんでいた。

賢いなー、裏側も全て覆って、・・・水やりが大変になってしまった。

朝の太陽を浴びて・・・植物に変化が無いか、葉に害虫や病気が無いか・・・成長の観察

これが日課、頭蓋骨に紫外線を浴びて、季節を感じる。

・・・台風一過、スカッとした青空の元、胡蝶蘭を木陰に出して

この株は、少し前に購入したもの、Leaf-Sweet Smile スイートスマイル

購入後は、しばらくこんな感じだった

先日植え替えた鉢を風に当てる。

右端は葉数が20枚の レモニカ 今年も開花した

中央は、オレンジ系

左側の二鉢が、今後の成長を見守る レモニカの手前が上半分、左奥が下半分です。

今年開花したレモニカは、葉数が多すぎるがそのままの状態で春を迎えよう。

化粧鉢から素焼き鉢に植替えをしよう。

レモリカ、この胡蝶蘭は2鉢あるが、今春は1鉢しか開花しなかった。

数えてみると葉は両側合わせて約20枚、多すぎて、中段には成長の悪かった葉もあり・・・思案していた。

フト・・・ You tubeで胡蝶蘭を目にし、Natural orchid 蘭 さんの動画を立て続けに何本か拝見した。

多くの教科書の水苔の使い方は、きつく押し込み・・・根腐れを何度も起こしていた。

湿った水苔も・・・間違っていたようだった。胴切りの作業を学び、早速実践・・・

今年開花しなかった株を、ほぼ中断でカット。

その結果、下部は鉢に水苔で植え、上部は根が空中にすべて出ていたので、空中で栽培することに。

他に4種の種を蒔き、期待するのが初物アメリカ産 ビーツ

それから、月桂樹の2鉢の内、一鉢に実がなり成長中

実がなるのは珍しいとか、晩秋が楽しみです。

さて10月2日、台風一過30度を超えそうな天気、緊急事態宣言も解除され、青山に向かう。

HONDAの本社、駐車場から1階に上がるとロープで規制があり、正面入口へ

歴代のF-1カーの特別展示が行われている。

これは、カラーリングは今年のアルファタウリ、・・・エ! 整理券?

土日のみ、ユッタリ見れるように1時間交代の時間指定だった。

親切に3時間先で空きがあった整理券を頂き、・・・

もう一つの目的、MICHELI ミシュラン (グルメガイド本の)でランチではなく

オールシーズンタイヤを予約しに某店舗に向かう。

雪も走れる夏タイヤ・・・そんなキャッチフレーズのタイヤ CrossClimate2がまもなく発売の予定だった。

しかし、入荷日は初回10/5、商品の内容、サイズ、数量は全く不明のようだった、

タイ、中国などの生産地での生産の遅れ、物流での人材不足で、入荷の見通しは遅れていた。

ミシュランのスタッドレスは、まだ十分使用できるので入荷日成り行きで契約を済ませた。

思った通り車の交通量は多かった、では、青山に戻ろう。

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amante

2021-06-04 | 旅行記

コスタンツァ・ボナレッリの肖像 フィレンツエ:バルジェッロ国立美術館

当時社会的地位の高い男性は、30代後半に結婚する人々が多かったと言われる。

ベルニーニは39歳、まだ独身だった、・・・身近に20代前半の人妻(コスタンツァ)がいた、そしてモデルから・・・恋人に。

彼女はシエナの貴族、ピッコロミーニ家の一族だったようだが貧しかったようでローマに出てきて若き彫刻家と結婚した。

コスタンツァは18歳で、1632年2月結婚、・・・夫はベルニーニの弟子で当時28歳くらい。

・・・師匠のベルニーニは10代で、依頼主の肖像を見事に制作する彫刻家として名声を得ている。

ベルニーニは偉大な彫刻家ミケランジェロについて、彼は肖像は作らなかったろうと話している。

・・・ミケランジェロは、「メディチ礼拝堂のジュリアーノとロレンツォの像」を両人が亡くなった後で彫っている。

この恩人でもある両人の像が・・・本人に似ていないと指摘され・・・

・・・「1000年も経てば、彼らがどんな容貌だったか知る者など誰もいなくなる」と答えたと言われている。

彫像とは・・・改めて、このコスタンツァ像を見てみよう・・・女性の話しかけるようなポーズから親しそうな雰囲気が漂ってきます。

息子(ベルニーニの)の記録によると、彼女の絵画も描いていて、自宅に置いてあったそうです。

若き人妻にベルニーニが熱を上げていた・・・そして作品が残った。

・・・1638年8月末~9月初めころ、ベルニーニは自分の末弟(26歳)がコスタンツァと交際しているのを見つけ、弟をボコボコに、

騎士ベルニーニは剣を持ち・・・教会内を追いかけた、・・・ベルニーニに逆らうものは皆無だった・・・弟はローマから追放された。

コスタンツァにも、・・・召使いに指示して顔に傷を負わせたようです。(後に教皇がこの召使いを亡命させています)

両者に対し傷害事件を起こしたのが、ローマの有名人だった・・・大芸術家のスキャンダル事件が発生。

・・・教皇は、傷害事件を起こしたベルニーニに対し、特赦を与えた。

ベルニーニに対する教皇の人物評価は・・・

「神の高配によりローマの栄光のために生まれた類稀なる人物、この世紀に光りをもたらす至高の天才」だった。

・・・教皇はベルニーニに身を固めることを・・・熱心に勧めた。

ベルニーニはこの忠告を受け入れ・・・弁護士の娘と翌1639年5月15日に結婚します。

・・・以後33年の結婚生活で、11人の子供に恵まれている。

一方、気になるコスタンツァの夫はどうしたかというと、・・・事件以後もベルニーニの下で仕事を続けています。

ベルニーニが結婚するひと月前に、不祥事を起こした妻を厚生施設から引き取り、結婚生活をやり直したようです。

さて、芸術家は顧客を選べるか、ベルニーニと共通点が多いレオナルド・ダ・ヴィンチ、・・・肖像画の依頼は多かった。

制作意欲がわかないと権力者や大貴族の婦人から肖像画を依頼されても、ビジネスとして受注をすることは無かった。

ベルニーニも・・・あまりにリアルな、依頼主がウットリする工芸品的彫像を完成させるので、ヨーロッパ中に名声が届いていた。

しかし、パトロンのローマ・バチカンが彼を離さないので、他国の国王はあの手この手で自分の彫像制作を依頼していました。

この肖像は、英国からローマ教皇を通してベルニーニに使者として使わされた、トマス・ベーカーという役人です。

英国のチャールズ1世が、1635年に自分の肖像画(正面と横2面)を有名画家に描かせ、それをローマに届ける特命を受けた人物です。

この使者が、ベルニーニに面会できたので、別途、自分の彫像もお願いしますと・・・6000スクーディの報酬で懇願したそうです。

この金額は?・・・17世紀後半、流行画家のカルロは、全身肖像画で150スクーディ、NO.2の画家ジャンは100スクーディで受注しています。

ベルニーニのサン・ピエトロの主任建築家としての月俸は300スクーディとされるので、破格の6000スクーディで頼み込んだようです。

作品がほぼ完成した時、パトロンである教皇がこの話を耳にし、バルベリーニ枢機卿を使いに、・・・この使者の肖像完成にストップをかけた。

チャールズ1世は、教皇の許可を得て1635年にベルニーニに依頼をしていました、・・・この作品は1637年に完成しました。

・・・何故か、教皇がベルニーニの仕事に介入しているように見えますが・・・

ベルニーニの彫像は、一点物の特注品・顧客は名誉欲も満ち足り、分身が出来上がり、家宝と喜ぶ、・・・このような彫像の価値は非常に高い。

・・・教皇は、完成したチャールズ1世の彫像を、カトリックの信者だった女王に、教皇からの贈り物として・・・最大限に活用しました。

これには国王夫妻は大感激、女王はダイヤモンド(4000スクーディ相当らしい)をベルニーニ贈り、自分の彫像も依頼しています。

女王の彫像は、その後英国で政変があり・・・彫像は彫られていないようです。

・・・チャールズ1世の肖像は・・・火災で焼失?、・・・こちらの使者の肖像は、弟子が完成させて納品、残っていました。

ベルニーニのテクニックで、襟元のレース飾りが優雅に、・・・大金で依頼した本人が自慢したくなる見事な彫像です。

この時代の教皇は、・・・サン・ピエトロ大聖堂、中央右手の上部に掲示されていたと思うが、

ウルバヌス8世(在位1623~1644)(青線)教皇の時代でした。

歴代の教皇の一覧です、確か表記はラテン語でしたか? 

・・・近くの中央天蓋の左手前に・・・ラファエロの作品「キリストの変容」がありました。

このサン・ピエトロ大聖堂一帯は、湿地帯でしたので夏の湿気が高く、フラスコ画などは湿気が大敵でした。

そこで17世紀頃から、絵画は微細なモザイク画(色も豊富)に置き換えられていきました。

・・・ラファエロの本物は、バチカン美術館の絵画館の8室にあります。

さて、権力を手に入れたら由緒ある教会に礼拝堂を持ちたい、パウルス5世の例がありました。

ウルバヌス8世は、1628年からこの聖堂内の後塵の右側奥に礼拝堂を計画し、着手していました。

ベルニーニは教皇から死の直前、・・・3年以内に完成してと催促されていたようですが・・・。

結局教皇が亡くなって3年後、・・・着工から約20年、1647年2月に完成しました。

・・・20年間も大聖堂の一角が工事中で、その間教皇でしたから非難もされずに・・・あきらめず待つものです。

ところが、この作品でベルニーニは、棺を挟んで左に慈悲の像、右に正義の像を彫っています。

左の慈悲の像は1639年頃弟子が制作中だったようで、胸を出して子供に乳を与えるリアルな姿で・・・

(後に胸は覆われたしまった)・・・コスタンツァがモデル?と噂が

17世紀の伝記作家、バルディヌッチは、慈悲の像に「教皇の死を嘆いて泣き騒ぐ子供を

慈悲深く見つめながら自らの悲しみをかみしめている」と描写しているそうです。

この棺が目立ち過ぎたのか、この礼拝堂の画像は少なく、・・・また機会が有ったらじっくり鑑賞したい作品です。

バチカンガイドブックの画像を再掲

ところで、MS OS(WIN.10)の自動バージョンアップ後、富士通のパソコンが不具合となり半年、

MS(マイクロソフト)から、少し前のMS OS(WIN.10)を別のノートPCにダウンロードして、

記録したDVDを富士通PCに読み込み、OSの修復を実行・・・半日後、無事回復しました。

最初のMS相談窓口、多分若い女性の担当者でしたが・・・相当深度部までPC内部が破損していると推定できる。

解決策は富士通のPCを、メーカーの手順で購入時の状態に初期化して頂くことを勧められたのでした。

この件は納得できない、初期化したくないから、・・・MSのバージョンアップが要因で不具合になったのでした

・・・相談窓口のMS担当者の力量で対応が異なるのは致し方ない、後日、別の担当者と相談しますと電話を切って・・・。

そして、5月の連休にMSの男性担当とアレコレ話をし、OSの修復手段、USBは読み込まず失敗、DVDで回復したのでした。

経験値が少ない方、経験が多く安易な方法を勧める方、よりよい方法を一緒に考える人・・・こちらの説明の力量も必要ですが

新しいPCを購入しようと思いつつ、気楽にアレコレ試したら、回復したので、コロナ禍でラッキーな少し前の出来事でした。

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ベルニーニとバルダッキーノ

2021-05-12 | 旅行記

初夏です、蜜を求めて飛びまわっています。

この白い花は月桂樹です。花びらの形は色々あるようです、黄色の花も。

手前の若葉は、木の芽として蕎麦やサラダにのせて・・・山椒の木、

例年アゲハ蝶の幼虫が数匹登場すると、アットいう間に食べられてしまっていたが、今年は無事のようです。

さて、芸術の都ローマでは、シエナの名門ボルゲーゼ家出身の教皇パウルス5世が1621年1月、心臓発作を起こし

4日後の28日突然亡くなります。

ベルニーニは1622年1月、前教皇パウルス5世の1周忌に高さ20m、幅13m強のドーム式の霊廟の装飾を受け持ち、

美徳の寓意像16体、童子20体を漆喰で製作しています。

(以降、ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄著 ベルニーニ伝 を中心に)

製作期間40日、当時ローマではこのような教皇の葬式、即位式、聖人の式典、聖体の・・・、外国君主の入場などなど、

年中 祭事が行われ、舞台装置は建築家、彫刻家、画家と美術家の重要な仕事でした。

期間限定の祭事に、市民は熱狂し教会が建つほど巨額の費用が投じられたそうです。

・・・日本の祭りのように、祭事は市民生活のメリハリに必要なのです。

この時期ベルニーニは、1622年に「プロセルピナの略奪」を完成させ、

8月から「アポロンとダフネ」の製作に入り1年後中断、途中1623年夏からは「ダヴィデ」の製作に入り、

先こちらを1624年春に完成させています。

・・・新教皇グレゴリウス15世は、サン・ピエトロ大聖堂に主祭壇と天蓋を構築したいが構想はなかなか進展せず、

カトリック教の祭事は仮天蓋の下で行われていた。この仮天蓋に、ベルニーニは4体の天使像を漆喰で造っています。

その後、グレゴウリス15世教皇が2年半足らずで亡くなります。

・・・1623年8月6日、マッフェオ・バルベリーニ55歳が教皇に選ばれウルバヌス8世として即位し、直ぐにベルニーニを呼んだ。

聖ペトロの墓の上に主祭壇を置き、それをブロンズの巨大な天蓋(バルダッキーノ)で覆うことに決定した。

この難題をサン・ピエトロの主任建築家マデルノではなく、25歳のベルニーニに任せた。

若きベルニーニは多忙だった・・・天蓋の仕事は、1624年の夏から始めた。

この少し前、3月に小さな教会の修復中、ガラス壺から遺体が発見され、1000年以上前の聖女ビビアーナとされた。

教皇はこの教会サンタ・ビビアーナ全面改築することにし、ベルニーニにファサードと祭壇の建設を任せた。

・・・北方ヨーロッパでは、反カトリック教のプロテスタント勢力が拡大していた。

カトリック教が対抗するには、聖地ヴァチカン、サン・ピエトロの墓、新装中の大聖堂のPR、そして話題が欲しかった。

カトリック教信者の体験談・聖女伝説は、遺骨のある教会の出来栄え次第で大きな話題となります。

・・・聖女の彫像も含め、ベルニーニが適任だろうとこれも依頼されます。

ファサード、主祭壇の設計、主祭壇を飾る「聖女ビビアーナ」1624年から取り組んでいます・・・

現在、テルミニ駅の南東線路脇にある小さな教会です。

・・・さて重要なクライアントからの天蓋は、小型の模型を作成し教皇から承認を受け、原寸大の木製を製作中です、・・・

一方、制作中だった「アポロンとダフネ」が1625年完成し公開されると、・・・ローマ中から人々が押し寄せたようです。

そして「聖女ビビアーナ」も完成、・・・拝見出来なかったのでグーグル画像を拝借加工しています。

・・・バロック的と言われる芸術が花開きます。

さてこちらは、重要な仕事になった・・・大聖堂の中心部に設けられる教皇の祭壇、その大天蓋の制作です。

サン.ピエトロ大聖堂の天蓋(バルダッキーノ)の柱は、天井のドームに負けない巨大な構造物、何と高さ28.5mの柱、

原寸の木製柱(柱頭、台座、中間の柱を3分割し5部品に)ロウで装飾を付けて型を取り、ブロンズを注入する。

・・・このよじれた柱、台座のすぐ上の部分です、ウォームギアの様な斜めの溝はメカニカルなデザインです、

ローマ帝国時代の建築では、シリアのアパメア遺跡(内戦で残っているか不明ですが)の列柱道路には縦溝以外に斜め溝もありますが。

旧サン・ピエトロの内陣にも、ネジレ柱が使われていたようです。

材料のブロンズは、大聖堂のリブやパンテオンの玄関周りのブロンズのリブを木製にして、抜き出したり・・・それでも不足し、ヴェネツィアに特別注文。

分割した部品別に鋳造、2年をかけて製造とあります。

この間、大聖堂の建物自体は完成して、1626年献堂式が挙行された。

1627年夏ボロミーニとベルニーニの義兄が刻んだ大理石の台座の上に・・・ブロンズの柱が組み建てられた。

柱越しに向こうに見えるのが、ドームを支える巨大な柱(4本の内の1本)・・・この壁面は、この時点では無装飾の状態です。

さて内側の、バルダッキーノの4本の柱は、神殿の柱のようであったが、天蓋の蓋の部分が未契約だった。

1628年ベルニーニがこの件も契約し、完成は1633年、当初の案から木製にブロンズを貼ることで軽量化し、

バルダーキーノ全体の完成まで9年、費用は20万(ドゥカーティ)、ベルニーニの報酬は1万(ドゥカーティ)とあります。

渋い色彩のバルダッキーノは、周囲をブラマンテ設計の巨大な大理石の柱に映し出されて壮観です。

螺旋階段が造られ地下の聖ペテロの墓へ、

天井はドーム、その真下に天蓋・・・バルダッキーノは教皇の祭壇、・・・完成しました。

クライアントの教皇は、4本の柱の台座に3匹の蜂(教皇の紋章)、柱にも金の蜂がとまり、月桂樹が巻付き

柱頭にはバルベリーニ家を示す「輝く太陽」が刻まれている。(教皇の承認が必要で、依頼されたのでしょう)

続いて、ドームを支える4面の支壁の装飾が計画された。

バルダッキーノは下図のように、ドームの真下に置かれたが、このドームは4本(赤紫色の部分)の柱に支えられています。

この4本の大きな柱、バルダッキーノに面する側を装飾する・・・巨大すぎるので大変です。

柱と言っても、4面とも壁のように幅が広く、そして高さがあるので、デザインの統一性を保ちつつ、人材も資金も必要です。

1629年、マデルノが亡くなり、ベルニーニが後任として、「サン・ピエトロの建築家」になり、この仕事も任されます。

教皇は、従来からの聖遺物に新たに聖十字架の一部を加え、四つの聖遺物を治める祭壇を、この4つの柱(支壁)に造ることに決定します。

具体的には、祭壇には聖遺物にゆかりの聖人像と聖遺物を納める壁龕を造ることになった。

四体の聖人像の内、聖ロンギヌス像をベルニーニが担当し、他の三体は他の彫刻家が担当した。

キリストの脇腹を刺したローマの兵士長、ロンギヌスが十字架を見上げて「確かに彼は神の子だった」と叫ぶ瞬間

聖遺物は、磔のキリストを刺した槍の穂先

彫像の高さ、4.4m、全体を4つの部分に分けて彫刻(右肩、右側のマント、左後方のマントに継ぎ目がある)

制作は、モデル作成に4年、弟子がモデルに従って大理石の彫刻に従事し3年、最後にベルニーニが多少手直し・・・計7年。

この台座の下は、地下洞窟(グロッタ)への入口になっている。

次は、聖ヘレナの像

聖遺物は、聖ヘレナが発見した聖十字架の断片

次は、聖ヴェロニカの像

聖遺物は、聖ヴェロニカがゴルゴだの丘の上に向かうイエスの顔の汗を亜麻布で拭いたとされる布。

各彫像の高さは、4.5~5m、

次は、聖アンデスの像

聖遺物が聖アンデスの頭部

これらの支壁の彫像は、約10年かけて完成しました。

ベルニーニは、他にもサン・ピエトロのためにマルティダの墓(1637年)、教会入り口上部の浮き濠

「わたしの子羊を飼いなさい」(1647年)などを制作していますが、多忙で弟子が中心に制作しているようです。

教皇のお相手から、肖像彫刻、祭事の企画、自らコメディを上演したり、活動は多岐にわたり人生を楽しんでいたようです。

ベテランの域に達すると、掛け持ちが多くなり作品が年代別に仕分けするのが困難になって来たようです。

さて、上のプレートは、この文様の間から地下のペトロの墓が見えるとのことでした。

 

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ナヴォーナ広場

2021-04-24 | 旅行記

・・・野沢温泉にもスキーにも行っていないのに、いつものように季節が移っていき、スタッドレスタイヤを外した。

大きなグランドに、人文字?・・・、

富山県の砺波(トナミ)が有名ですが、

ベルベット地のような、

ドラゴンフルーツのような

変わり種、新種?・・・色々あるんですね

東京では4月上旬~中旬

週末にはカメラマンも

八重桜と共演、春の風物詩チューリップ畑でした。

亀戸天神の藤棚・・・根津神社のつつじ、・・・そしてアヤメ、花菖蒲・・・江戸名所がたくさんなのですが

しかし、コロナ対策で初夏の都立公園や庭園が休園になってしまったのが、残念

・・・ベランダでは薄紫のライラックが上旬に咲き終わり、君子欄の季節、一部の胡蝶蘭が咲き続け

ハイビスカスやアマリリスは植え替えてくれ・・・と、多忙な週末が続きました。

・・・ウーン、何故かモチベーションが上がらず・・・パソコンは修理をせず半年も放置、古いVAIOを使い続けている。

昨年、日本人ドライバーが Fー2で3人も頑張っているのでDAZNで応援していたら、新人20歳の角田君が3度優勝した。

HONDAの育成ドライバーでありRedBullのジュニアチームに所属、Fー2の最終戦で優勝して、F-1のシートを獲得した。

今シーズンは3月末から始まり、初戦で9位入賞と大物の片りんを見せています、3戦目の今週末は、好結果の予感!

・・・自宅で巣籠しながら、大谷翔平選手や角田裕毅君ら海外で活躍するヒーローがリアルタイムで視聴できる喜びと・・・、

香港、ロシア、ミャンマー・・・監視社会の弾圧下、為政者に情報操作され、それでもデモに参加する人々の映像が流れる、辛い状況に心が痛む。

・・・ベルニーニにも辛い時期がありました。ローマ再発見の旅の続き・・・

新教皇からの依頼は3年強 無く、ベルニーニに替わって彼の下で働いていた建築家のボロミーニが多くを依頼されていました。

公職の仕事が無くなったこの時期に、ヴェネツィアの新依頼主を喜ばした作品が、コロナール家の人々まで登場する礼拝堂で、聖女テレサの法悦の瞬間でした。

この作品と前後して、先年亡くなったウルバヌス8世の墓を1647年3月1日、サン・ピエトロ大聖堂内に完成し、除幕されます。(別途)

さて話題は変わって、「天使と悪魔」では、「火」の次は「水」・・・古代ローマ時代の競技場跡に造られたナボーナ広場の噴水に向かった。

上図の赤線の軌跡は、最初に向かったのが、中央下の部分のパンテオン(ラファエロの墓がある)、

しかし「土」は中央上部のサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の「キジ礼拝堂」サンティの土の墓だった

そして、次の「空気」はサン・ピエトロ大聖堂の広場、「ウエスト・ポネンテ:西風」

・・・次の「火は」画面右端の「サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア」コロナール家の礼拝堂、「聖テレサの法悦」

そして、パンテオンの隣、幅50m、長手方向は260mのナボーナ広場の「水」だった。

ここは広場の南の端、ローマ帝国時代に騎馬戦車レースが行われた場所という、こちらがスタート、奥でUターンのようです。

手前の噴水はムーア人の噴水と呼ばれる。(ムーア人:北アフリカのベルベル人)

この噴水と北側にある噴水(ネプチューンの噴水)は、ベルニーニが生まれる少し前にポルタが水盤を整備していました。

そこにベルニーニのムーア人のスケッチを元に彫像が作られ、1654年頃完成しています。

広場の中央に進むと、高さ17mのオベリスクが噴水の岩山と一体になっている、地上からは30m以上はあるでしょう。

現代では鉄骨で枠組み、プラスチック(FRPなどで)の岩山を簡単に造れるが、当時は自然石です、内部をくり抜いて・・・。

オベリスクは他の場所で6分割になり転がっていたのを、この場所で組み上げた・・・そして頂きには、十字架?ではないようです。

鳩がオリーブの小枝を口にしている、この鳩は、教皇イノケンティウス10世(パンフィーリ家出身)の家の紋章であった。

・・・この広場に面してパンフィーリ家の宮殿があったので、新教皇イノケンティウス10世は、その改築とそこに自家の教会を建てようとします。

広場中央の噴水製作に至る経過は、・・・別の場所で倒れているオベリスクを組込んだ噴水ができないかと・・・デザインコンペが開かれた。

ベルニーニは、教皇から声も掛けられなくて、コンペはボロミーニの案が選ばれた。

パンフィーリ家の娘婿にあたるベルニーニの友人ルドヴィーンが、オベリスクを組込んだ噴水の模型をベルニーニに創るように勧めます。

出来上がった銀製の模型を、・・・さり気なく教皇の目に触れるところに置いたら、・・・これは?・・・

教皇は・・・長い間うっとりと眺めて、ベルニーニの作品だろう、先般のウルバヌス8世の墓の除幕式でも感動していたのだった・・・。

直ぐにベルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の製作を命じたそうです。

・・・ベルニーニは、ようやく第一線に復帰します、そしてこの後、教皇は自分の肖像まで・・・お願いすることになります。

ドーリア・パンフィーリ画廊蔵、大理石のあごにひび割れが・・・作り直したので同じものが2点残っているとのこと。

「四つの河の泉」内部を空洞に加工した岩山、この四隅に四大河の寓意像をミケランジェロに対抗するかのように肉体で表現しています。

ヨーロッパ(ドナウ)、アジア(ガンジス)、アフリカ(ナイル)、南アメリカ(ラプラタ)・・・17世紀当時のイタリアから見た四大陸です。

ここは南側からですが、角の寓意像が解り難いので、少し左に回り込むと

手前の寓意像はオベリスクを見上げている・・・ヨーロッパの河川、ドナウ川のようです

 

西側まで回り込むと、右がドナウ川の寓意像でした。

ヨーロッパの動物の代表として、岩山の間から馬が見えます。

左は・・・何故か後ろにのけぞって、良く分からないが・・・南米の河川ラプラタ川のようです。

南米はキリスト教の布教先です、かたわらにコインを散らしてその金銀の豊かさを示しているそうです。

これが北側・・・、右側の寓意像、ラプラタの左手は危険を察して何か防ごうとしているようにも見えます

そして東側に回ると、水の豊かさを表すオールを持っている左側の寓意像は、ガンジス川とされます。(アジア)

オールの下側に蛇がいて、これを従えさせているそうです。

岩山の間には、ライオンが、・・・上部にはヤシの木・・・右側はナイル川(アフリカ大陸)のようですが目隠し状態です。

エジプトからナイル川を遡っても上流の水源が隠れて見つからない・・・そのような状況の寓意像です。

馬とライオンとヤシの木はベルニーニ本人の作で、他は弟子が3年くらいで完成させ、1651年6月14日に除幕されました。

たちまちローマの名所となり、1年の間にこの噴水を称賛する書物が8冊も出版されたそうです。

ローマ、ナボーナ広場 2021年4月27日 屋外のテラス席だけ営業が再開され、テーブル席は3人までと・・・また笑顔が戻ってきたようです。

かつても、この噴水の両側で多くのテーブルが並び、ローマっ子はこれらの彫刻をネタに話題が尽きなかったことでしょう。

上は霧雨の2019年、下は晴天の2011年

噴水の横に建つサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(上の左側)が倒れてきそうで見ていられないと、ナイル像が頭から布をかぶっているのだ。

「今にも教会が倒れそうだ」と、ラプラタ像が教会が崩れ落ちてくるのを手を挙げて防いでいる・・・

上記の2画面は、動画から切り出したものです。

教会が崩れてくる・・・あわててのけぞるハゲ親父 なども、改めて見てみると、そうとも受け取れます。

教会の改修は、途中から優秀な建築家のボロミーニがファサードなどをデザインしていますが、蹴落とそうとしたベルニーニにまたも敗北した。

危ないと左手を挙げているのは、まだ完成していなかった教会側が西に当たり、西日をが眩しい南米のイメージとする説もあります。

さて、教皇家の紋章、鳩の向いている方に秘密集会所・・・向いている先は・・・サンタンジェロ城があり、イルミナティの秘密集会所でした。

この噴水の完成までに、色々あったのを多少知っておくだけでこの場所に2~3時間はウロウロできそうですが、当時の市民は・・・

教皇からこの後、増税されて、小麦の価格は日に日に上がり、芸術よりもパンをくれー、悲鳴が上がるようになりローマ経済は悪化していく。

教皇は、ベルニーニを毎週のように招いて数時間歓談するのを常としたようです。

ベルニーニは、趣味も多彩、知識も豊富、社交的で招きに応ずることが、スポンサーに対する接待でしょうから、付き合いも大変です。

社交的でマルチの才能の持ち主ベルニーニ と 孤独で頑固な職人ボロミーニの関係は・・・、

レオナルドとミケランジェロの関係と似ていますが、ボロミニーニはミケランジェロほど強くなく、人生を終えています。

ベルニーニは、晩年ここを通り過ぎるときに、馬車のとばりを閉め、「こんな貧困な仕事をして何と恥ずべきことか」と漏らしたと伝えられる。

ダイナミックな作品ではあるが、偶像に魂は吹き込めなかったのでしょうか、弟子の力量に対する不満ではないでしょうが。

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激務から離れ、傑作を

2021-03-17 | 旅行記

ベルニーニは、劇作家兼主演として晩年まで上演していますが、劇中劇などの凝った仕掛けが好きだったようです。

自分の作品を見て驚く人々、その光景を見て喜ぶ人々、どこまでが現実でしょう

・・・劇中劇がストップモーションとして表現、理解するのは基礎知識が必要?

「天使と悪魔」で「火」と関連付けられたベルニーニの作品に合えたのは、2011年でした。

ローマのテルミ二駅近くのホテルから、ボルゲーゼ公園の方に歩いて10分くらいの所に目的の教会はあります。

ハサードの壁が大きい印象がありました・・・ヒョットして閉鎖中、あの工事中の建物では・・・

近づくと、特段の表示もなく・・・、親切に名称が表示されていました。人気があるのです。

訪問したのは多分、朝の9時半ころ・・・入れそうです。

帽子を外し、静かに入ります。

教会内には先客がいました、何と10代の生徒が数人だったでしょうか、引率の先生が正面祭壇左の場所で説明していました。

・・・前年にイタリア各地を旅行した後、印象的なイタリアのニュースを目にしていました。

イタリア政府観光局が、地元の芸術資産に国民があまりに関心を持たないので、切り取って持っていくぞ!と警鐘を鳴らしたのです。

多くの観光資源が、日本のTV局を始め海外から資金援助を受けて、何とか修復が可能な厳しい状況にあったようです。

芸術の国です、この取り外す発想が気に入り、何故かこのキャンペーンが非常に印象に残っていました。

・・・さぞやこんな風に「最後の晩餐」を切り取りたかったでしょう。

芸術後進国だったフランス国王、評判だった「最後の晩餐」を見に行き、何とか持って帰れないか? と配下の者に・・・、

侵攻してミラノを支配下にしたルイ12世、完成直後の「最後の晩餐」は、壁に描かれていたので持ち帰れなかった。

・・・さて教会内部は、天井の白大理石が。輝いています

外観からは想像できないくらい、華美な装飾に驚く。

勝利を讃えています、

キリスト教を信心して勝利した、そんな由来のようです。

見たい所が混んでいるので、反対側を見ると・・・nnn!

コピーのようで、・・・何か違う、全く違う、・・・何故? 天使と老人?賢人?

ベルニーニの作品と雰囲気を合わせて、弟子の作品? いや、ベルニーニの工房が許可していないでしょう、

後年、ここの礼拝堂の所有者が・・・似たような雰囲気でと彫刻家に頼んだのでしょうか?

こちらも題材が不明ですが、・・・子供がたくさん登場しています

他にも色々装飾物があって、

頭が疲れたころ・・・目指す礼拝堂の前が空きました、移動しましょう

・・・そうです、こちらが、ベルニーニの有名な作品です

もう少し正面に移動しましょう

(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄著では、この作品全体構成について記されています)

ヴェネツィアの元大司教で名家のフェデリーコ・コルナーロが好意を寄せていたアヴィラの聖女テレサが創設したのが、跣足カルメル会の教会です。

このサンタ・マリア・デッラ、ヴィットーリア教会も跣足カルメル会のようです。

ローマに住み始めていたコロナーロは、1647年にこの教会の左翼廊部の権利を取得します。

ここに自分の墓を、立派な礼拝堂飾るには、・・・あの人は受けてくれるでしょうか。

新教皇イノケンティウス10世が即位して、旧教皇派の人脈は公的仕事を外されていました。

ベルニーニは、亡くなったウルバヌス8世の墓碑の仕上げが残っていましたが、この礼拝堂を快く引き受けます。

そんな事情でベルニーニ工房の請負仕事ではなく、ベルニーニ本人に余裕が出来たので制作に携わった作品としてあまりにも有名です。

ここでは主祭壇の聖女テレサの作品以外に、周囲まで、良く分からないとエッそんな所あったとなる全体像を見て戴きたいので、資料を・・・。

このワイドな画像は撮影できなかったので、Wikipedia より拝借、・・・加工しています

この礼拝堂は特殊で、十字の奥に後塵、左右に翼廊・・・この翼廊の奥行きが無くて、礼拝堂にしては左右が広い。

中央の作品に目が行くので・・・両サイド、画像では鏡のように見える両端部までグルっと見渡す余裕もなく、中央部に引き込まれます。

天井から降り注ぐ光線の効果もあり、天使の矢 と 雲に浮いたような 聖女テレサ の表情に目が釘付けになってしまうのです。

この聖女テレサは、16世紀のスペインで実在した方で、神秘体験、幻視と法悦を「自叙伝」に記しています。

法悦、エクスタシー・・・神秘体験を見事に表現していますが、一部の教会関係者からは、相応しくないと批判も出たようです。

そこで、どのような体験なのか・・・(東京女子カルメル会訳 第29章13の一部抜粋)

私は金の長い矢を手にした天使を見ました。

その矢の先に少し火がついていたように思われます。

彼は、時々それを私の心臓を通して臓腑まで刺し込みました。

そして、矢を抜く時、一緒に私の臓腑も持ち去ったかのようで、私を神の大いなる愛にすっかり燃え上がらせて行きました。

痛みは激しく、先に申しましたあのうめき声を私に発しさせました。

しかし、この苦しみのもたらす快さはあまりにも強度なので、霊魂は、もうこの苦しみが終わることも欲まなければ、神以下のもので満足することも欲しません。

これは肉体的な苦しみではありません。

霊的のものです。

とはいえ、肉体もいくぶん、時には相当多くさえ、これにあずかります。

これは神と霊魂との間のきわめて快い愛の交換で、私は、私の言葉に信をおかぬ人々に、このお恵みを味わわせてくださるよう、主の御憐れみを切願しております。

・・・16世紀はキリスト教の半分がプロテスタントに移る時代で、これを阻止するにはこのような信者の体験談は有用で、彼女は聖女となります。

ベルニーニは、作品の除幕式で顧客と観衆の感嘆の声が湧き上がる・・・この一瞬が仕事冥利につきることでしょう。

20代から歴代の教皇や、ローマ市民を楽しませて来ました。

肖像彫刻は特にベルニーニの人気が高く、他国の国王でさえ依頼するのに四苦八苦、

・・・今回は縁あったヴェネツィアの顧客、名門一族に作品に登場して頂こうとリップサービスしたのでしょうか。

この礼拝堂の主祭壇は、奥の壁を壁龕(ヘキガン)のように削り、奥行きを出しているようです。

天井には空と雲、天使、隠し窓から得意の外光を取り込み・・・天空に昇天する仕掛け

そして・・・左右の壁が劇場の桟敷席になっています。

この人々は、コロナーロ家の人々で、依頼主の父は元ヴェネツィア総督、他に一族から枢機卿が6人、依頼主と合わせて8人が左右に。

左の画像が無い・・・。

この画像は、魅惑のローマ グラフィック社 1991年から拝借、

ここまで、周囲を鑑賞できると良いのですが、少し高い位置にあるので予備知識がないと・・・劇場の桟敷席まで礼拝堂なのです。

この教会には、聖女テレサのコーナーがありました。

ベルニーニは、コロナーロ家の礼拝堂の除幕式以降、この教会では、神様の扱いでしょうね

・・・そうでした、「天使と悪魔」でこの礼拝堂が「火」でしたが、聖女テレサの「天使の矢に火が・・・」とありました。

「火」の次は、「水」のようです。

新教皇は、鐘楼にひびが入った責任がベルニーニにあると追及したボッロミーニに、ナヴォナ広場の噴水を依頼していた。

この広場の噴水が、ベルーニーニの「四大河の噴水」案に突如方針変更となります。

さすがベルニーニと新教皇が一転して彼の才能を再認識、・・・今後とも何卒よろしく、・・・そこには、友人の援助がありました。

・・・急に気温が上がり、3分咲でしたが、この広場の大木は

青空をバックに、一斉にほころんで、咲き誇り始めました。

コロナ菌は天空に吹き飛ばし、まだふっくらと柔らかそうな花弁、雌しべと取り囲む雄しべ

子孫を残す、この自然界の法則に・・・何故か逆ら必要性が求められた一部の上級聖職者、

その結果、聖職者の異常な不祥事となって噴き出すことが度々あるようです。

お口直しに、華美な教会で思い出しました

ドイツ南部、ロマンチック街道、フッセンの近くに・・・ビース教会 世界遺産です。

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サン・ピエトロ広場の完成図

2021-02-28 | 旅行記

オッ!・・・何だこれ

上図はファルダの版画より (ベルニーニの完成図を描いたものと思われます)

現在は遠目からクーポラが見え、やがて正面に聖堂が見えてきて、ヴァチカン市国に入る手前で広場と左右の柱廊が目に入る状況です。

ベルニーニが意図したこととは、現状の開放的な広場とは全く違うようです。

閉ざされていて、つまり広場があるか否か、内部がどのようになっているか・・・緊張して入り、驚くのは・・・中に入ってからのお楽しみ。

そうです、はるばる遠路、何か月も仕事を休んで、生死をかけて巡礼者がローマのカトリック教総本家にやって来るのです。

まだ免罪符を求めて来られる方も多かったでしょう。

旅の感動がお土産です、おもてなしは、より大きな感動を味わって戴きたい。

ベルニーニはオペラの自主上演も大好きで、自分と工房の素人役者が登場し・・・市民に人気がありました。

舞台装置のアイディアも催事の演出も・・・人々を感動させるのに重要です、・・・広場は劇場に、教皇登場の演出も考えていたのでしょう。

・・・アレクサンデル7世教皇は、この広場の完成前にフランスからベルニーニが招待されました・・・今度は断り切れなかった。

フランスからルーブル宮の設計コンペでイタリア人の4名にも声がかかり、ベルニーニも提案していました。

フランス建築責任者も国王ルイ14世も、66歳の偉大な芸術家ベルニーニに詳細設計をして頂くために、教皇の許可を取り大使級の待遇で招きました。

1665年4月25日、ローマを発ち、・・・6月3日パリに到着、この後フランス側の通訳による滞在日記がベルニーニの人物伝を記録しています。

ルーブル宮の建設予算200万フランと聞いて、教皇の大使はサン・ピエトロ広場の柱廊に500万、でもこれは単なる装飾ですと言ったとされる。

宮殿の詳細になると豪華さよりも住居としての実用・機能性を担当者から求められ、フランス人建築家の反発もあり・・・進捗せず。

ルイ14世はそれよりも、かねてからの肖像をお願いすること、こちらが重要でした。

ベルニーニは肖像に40日かけて、10月5日、・・・王の肖像が完成しました。

後の太陽王ルイ14世は、この時26歳、ルーブル宮建設の熱意は冷め・・・後に郊外に、豪華なベルサイユ宮殿を建てます。

この太陽王の胸像は、現在はベルサイユ宮殿に置かれ、このように目立ちます。

10月17日、ルイ14世も立ち合いの上、ルーブル宮の起工式、・・・式典がすんだのでベルニーニは、10月20日パリを離れ12月3日ローマに到着。

さて、サン・ピエトロ広場の進捗は、東西の柱廊の外観が出来上がりつつあったが、まだ未完成の段階でした。

・・・1667年5月22日、教皇アレクサンデル7世が世を去りました。

ローマ市民の暮らし向きも厳しく、豪華な聖堂は必要ない、パンをくれ~・・・、多くの芸術家は仕事がほとんど無かった。

次の教皇クレメンス9世から広場の工事の継続と、このヴァチカンに入るテベレ川に架かるサン・タンジェロ橋の整備・装飾を依頼されます。

当時はテベレ川を渡る橋はここだけで、橋の装飾は130年ほど前に聖パウロと聖ペトロが飾られただけだった。

教皇は、巡礼者の導入部として、この橋を「受難の道」としよう

聖天使の橋(サン・タンジェロ橋)だから、その天使にキリストの受難の持ち物を10種持たせよう。

サン・タンジェロ城の屋根の上、天使ミカエル像です。

橋が架かるこの場所に、135年にローマ帝国のハドリアヌス帝が壮大な建物を築きあげた、それは皇帝の霊廟だった。

各地によくある話ですが、6世紀ローマにペストが流行して、・・・終結にあたって、天使ミカエルが現れたとされる。

・・・そこで天使ミカエルの像が建物の屋根に取付けられて・・・聖天使城と呼ばれた。

新教皇クレメンス9世と教皇側から発注されたのは、橋の修復と天使像を10体、製作の統括は68歳のベルニーニです。

そこで、8体はローマで活躍中の8人の彫刻家に委託し、残る2体をベルニーニが自分で担当しています。

教皇は作品が気になり歴代の教皇と同様、枢機卿を伴いベルニーニの工房を訪れ、「こんな傑作を風雨にさらすのは忍び難い」となりました。

現在この2体(INRIの銘を持つ天使、いばらの王冠を持つ天使)はサン・タンドレア・デレ・フラッテ教会の身廊奥、台座上に置かれています。

橋の途中です、手前から2列目から奥の5列目まで見えます、この左側2列目が「いばらの王冠を持つ天使」です。

ここには弟子による複製が当初より据えられています。

左の4列目(奥から2列目)が「INRIの銘を持つ天使」で、この複製にはベルニーニ本人の手が入っているので完成度が高いと言われます。

こちらが、教会の「INRIの銘を持つ天使」ベルニーニ晩年、69歳ころの作品です。

夜の聖天使城・・・映画「天使と悪魔」では、枢機卿を誘拐しこの城の一角に閉じ込め、事件を次々に起こしていたのでした。

教皇は15世紀にバチカン宮殿からの避難路として、この霊廟を要塞化して回廊で結んでいます。(一部は城壁の上部を利用します)

1527年、ローマが神聖ローマ帝国の軍隊に包囲され、バチカンに危機が迫り・・・教皇は宮殿からこの回廊で要塞に逃げ込みました。

映画「天使と悪魔」でも夜間に、この聖天使城から城壁の回廊を走るシーンが印象的でした。

橋を渡り、サン・タンジェロ城の横をテヴェレ川に沿って進むと・・・大聖堂が見えてきました。

そして、大通りの先が、・・・

1935~1936年のムッソリーニ時代に・・・主に北ヨーロッパからの巡礼たちが住んでいたボルゴ街区をつぶし・・・一直線の大通りに。

17世紀の光景は、・・・巡礼者はテベレ川を渡り・・・サン・タンジェロ城から小さい建屋が並ぶボルゴ街区に入ります。

建物の間から、・・・遠くに見えるクーポラの頭を目指して歩み始めます。

そして、突然目の前が開けると、 神殿風の柱廊が立ち並び、唖然として柱頭の上を見上げる、無数の大理石像が迎えてくれます。

非日常の空間に戸惑い、立ちすくんでいると周りから促され、内部に入る・・・オベリスクに噴水、周囲は神殿の壁・・・強く瞼に焼き付くでしょう。

教皇は降誕祭と復活祭の大きなイベントの際、この劇場だと数万人の信者が祝福を受けられそう、・・・このプランで大喜びですよね。

柱廊は、高さ13mの円柱が240本・角柱が44本(素材を切り出し加工です)、柱廊の幅が17m、卵型の長軸が240m、内側の広場は最大幅196m。

柱廊は南北が完成するまでに何と・・・11年、他に聖人像は・・・140体もあります、ベルニーニの噴水も新設して対になるように。

・・・教皇クレメンス9世は、短い治世で、・・・2年半後、1669年12月9日亡くなります。

教皇庁の財政も厳しい時代、新教皇は4か月も決まらず、やっと長老の81歳、ローマの枢機卿が選ばれました。

次の新教皇クレメンス10世の時代は・・・ゆとりは無く、芸術の火は消えました。

しかし、新教皇の親族アルベルトーニ枢機卿が、当然のごとく、・・・まずは自家の礼拝堂の装飾をベルニーニに依頼しています。

1671年1月に自家が生んだルドヴィーカ・アルベルトーニ(1533年没)が未亡人となった後、貧者に対する献身で新教皇から福者と認められました。

アルベルトーニ枢機卿の礼拝堂は、トラステヴェレ地区にあるサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会で、目立たない所にあります。

今回は、この教会で作品が見たかったので、時間を確認して訪問します。

現在地は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会、ここからテヴェレ川を下流に・・・小雨の中遊歩道を小走りにジョキングです。

向こうに見える橋を渡り、対岸に行きます。

モダンな連結したトラムが走っていました。

橋から教会は、この先路地2本くらい先を右折して少し先の右側、400mくらいでしょうか。

さて、目的の教会外観の静止画が見つからない、・・・多分、この付近はSonyのビデオ動画だったが・・・どこかに?

この先、

Googleから借用します。小さな、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会です

内部は、誰も 見学者も参列者も見当たらなかった。

平日の昼前です、主祭壇の左側が明るい・・・そこが目指す礼拝堂です。

ロープが張られ、祭壇までは結構距離があった。

礼拝堂は15世紀の建築のようで、クーポラに祭壇画、そして両サイドにも絵画がある立派なたものです。

写真で見た通りの、ベッドに横たわる福者が・・・、その部分だけ輝いて見えます。

1671年~1674年頃、ベルニーニ 70代中頃の作品です。

ベルニーニは、暗い奥まった祭壇の両脇に、窓を開けて光を取り入れています。

ベッドの下はコーラルレッドのような素敵な色大理石です、ヴァチカンの礼拝堂でも見かけました、

この上の白い大理石が・・・採光を受け、輝いて見えるのです、福者ルドヴィーカが主役です

ルドヴィーカは1473年生まれ、20歳で結婚、3人の子に恵まれるが33歳で夫が亡くなり・・・3人の子を育て上げ

宗教活動に入り、貧者に対する献身で福者とされ、1533年、60歳で亡くなった実在の方のようです。

ベルニーニ、72歳~75歳の作品、本人も死と向き合いながら、福者を・・・安らかに旅立つ姿か、神との法悦と表現するか

いずれにしても、ミケランジェロを超えた・・・感性の鋭さ、表現力に驚かされます。

・・・後ろで、オルガンの演奏が始まりました。信者の方も見えています。静かに退室します。

教会を出て、テヴェレ川の1本上流の橋を渡り・・・「真実の口」で有名な先ほどの教会に戻ります。

この教会の前に噴水があります。トリトン(トリトーネ)の噴水です。

1642~3年頃、ウルバヌス8世の実家の前に当たるこの場所に、教皇がベルニーニに造らせていました。

ローマの復興時期、道路の整備と共にローマ帝国時代の水道を整備したので、ベルニーニはローマ市内に噴水の名所を数多く

創り出しました。

正面の鐘楼(12世紀前半建立)のある教会の道路に面した回廊の左端に、「真実の口」があります。

それでは、ベルニーニの晩年のその後は・・・、

1676年7月22日、予想外の6年に渡り治世された教皇が亡くなり、・・・次の教皇は9月11日、イノケンティウス11世が即位する。

イノケンティウス11世が新教皇に就任すると、サン・ピエトロ広場は舗装工事が終了していたので、このままで十分と最後の東側の施工は中止となってしまいます。

「天使と悪魔」では、風のシンボルを探していました。

このオベリスクの周囲を探してみましょう。周囲にこのような装飾があります。

この風は、

これも違いました?

西風でした。

さて続きのローマ観光は、ベルニーニの作品を追って「天使と悪魔」の次の場所へと行ってみましょう。

テルミ二駅から徒歩でも行ける所になります。

サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会に行きましょう。

画像は2011年の訪問時ですが、外壁は修理中でした。

ベルニーニが一時期、新教皇からの仕事が激減した期間に、元ヴェネツィアの大司教から依頼を受けた礼拝堂の作品です。

土、風、火でした。・・・1652年、ベルニーニ53歳ころの作品となります。

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ベルニーニ、広場は未完成のまま今日に

2021-02-27 | 旅行記

ローマは見飽きることがない、2、3度訪れたくらいで、多くの教会までは開館時間の制約もありなかなか拝見できそうにない。

はるか昔、ギリシャ文明では既に彫刻・建築の完成度が高く、ローマ帝国時代では壁画に遠近法も取り入れられていた。

これらの遺産がローマの地中から出土する・・・この異教の芸術作品を競って枢機卿や教皇が購入し、17世紀は芸術活動に投資が続いた。

16~17世紀の教皇や枢機卿は最初に何をしたかったのでしょう?

・・・自分や一族の墓所を由緒ある教会に持つこと、そして一流の芸術家に礼拝堂を豪華に飾って欲しかったのです。

彼らに富が集中し、その富は礼拝堂と芸術コレクションの収集に流れ、世は階級社会のまま繁栄したようです。

1605年、ベルニーニの一家がローマの(現テルミ二駅近く)サンタ・マリア・マッジョーレ教会横にナポリから引っ越してきました。

(googleの画像を拝借)サンタ・マリア・マッジョーレ教会の後陣が見えます。

この通りが、リベリアーナ通りで、右側の手前の角の一帯でしょう、ここに住まいを定めていたようです。

住所は24番地とあります。(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

教会の両側に、大きな丸屋根クーポラが見えます。

左に少し見えるのが、シクストゥス5世(この教会から放射状に道路を拡張するなど公共事業に邁進された教皇)のシスティナ礼拝堂、1585年完成。

右がボルゲーゼ家出身のパウルス5世が建てたパオリーナ礼拝堂、1606年完成

このパオリーナ礼拝堂の装飾が、ベルニーニの父ピエトロの仕事でした。

・・・ローマ帝国によってキリスト教が公認されたのが313年、その後、皇帝により次々に教会が建てられますが、この教会は特別でした。

(googleの画像を拝借)サンタ・マリア・マッジョーレ教会、こちらが正面(ファサード)です。

この教会には逸話があり、356年夏、当時の教皇が「数日のうちに雪が降る地に聖堂を建てよ」という聖マリアのお告げを夢の中で聞いた。

そして8月に雪が降ったという地に建つ教会で、建造は5世紀、イエスの母を聖母として祀る最初の教会だったでしょう。

その後修復と増築が繰り返され、豪華なファサードは18世紀に改築されています。

歴史のあるローマの四大聖堂の一つです。

パウルス5世は、枢機卿時代からこの由緒ある教会に礼拝堂を持ちたかったので、元教皇と後陣の左右に建てられて大願成就です。

1623年、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「アポロとダフネ」の大理石像がローマ中に賞賛の嵐を巻き起こす中で新教皇が誕生します。

バルベリーニ家の枢機卿が55歳の若さで選ばれ、ウルバヌス8世誕生となりました。

ウルバヌス8世の肖像、左は教皇晩年の作、右は何か話しかけてきそうです。 (ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

これだけ味のある肖像を彫り上げるので、歴代教皇から当然のごとく肖像の依頼があります。

あまりに肖像は人気がありすぎて、フランス国王もイギリス国王も何とか頼めないかと・・・肖像画を送り、あの手この手で・・・、

さて、新教皇は、即位後すぐにベルニーニを呼んで、・・・以下の話も有名です。

「騎士ベルニーニよ、枢機卿マッフェオ・バルベリーニが教皇に選ばれたのは、お前にとって大きな幸運だ。

だがそれよりも大きな幸運は、騎士ベルニーニが我々の治世に生きているということだ」と言ったと伝えられる。

ダヴィデ像の製作中に・・・手鏡を持ってやることしかできなかった枢機卿が、シピオーネに遠慮せずベルニーニと仕事ができる。

・・・心底嬉しかったのでしょう。

教皇はベルニーニに、建築と絵画を学ぶように命じた。

ベルニーニは、古代建築の研究や絵画制作を2年間行っていたようですが自画像など残っているのは少ないようです。

シピオーネ枢機卿のデッサン(右)と即興の風刺画?カリカチュアと呼ばれた。

彼は8歳で教皇が驚いたデッサン力がありました、さらに左のように尊敬したカラッチの描き始めたカリカチュアで当事者を喜ばせています。

ベルニーニは2年半と短命だった前教皇(グレゴリウス15世)の時代、サン・ピエトロ大聖堂主祭壇の装飾で4体の天使像を作っています。

しかし、これらは仮設の祭壇の装飾であり、何度か作られ、式典が終われば取り壊されていました。

・・・聖ペテロの墓の上に主祭壇を置き、それをブロンズ(高さ28.5m)で囲い、天蓋を乗せる案が正式決定され、実現させる事になります。

バルダッキーノと呼ばれるこの巨大構造物は、大聖堂の主任建築家のマデルノにではなく、若干26歳のベルニーニの才能に任せられます。

以降、歴代の教皇や枢機卿らの依頼でローマの各所に建築、彫像、噴水を造り、オペラや豪華な催事まで万能な彼は、ローマを造った人と言われます。

サン・ピエトロ大聖堂内部は、ベルニーニが大半の装飾を請け負い、多岐に渡るので、別途大聖堂関連として再度整理したい。

・・・1655年、新教皇アレクサンデル7世が誕生すると、早速自家のポポロ教会のキジ礼拝堂を完成させてと依頼としていますが(前回分)

この時期には、サン・ピエトロ大聖堂は内部もほぼ完成していました。

残る問題は、教皇が聖堂や宮殿から、集まってくれるできるだけ多くの信者を前に、祝福できる場所が必要だった。

教皇は1656年、聖堂前の変形の広場を拡張し、少し斜めの宮殿などを壊さず、大聖堂のファサードを引き立てる広場の案を求めた。

当然のように事務方は、・・・ベルニーニにプランの提出を命じた。

下図のように、横長の変形の広場で聖堂ファサードは東向き、北側に少し斜めに宮殿などの重要な建物が並ぶ。(身廊部は未完成時の様子です)

下図は、もう少し後の様子です。

・・・聖堂の身廊部が長くなり、ファサードと鐘楼が建造中、広場にはオベリスクとマデルノの噴水が1基みえます。

1646年頃でしょう、鐘楼が取り壊されていませんので、当時の版画(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

この鐘楼は、途中で放置された物をベルニーニが引き継ぎ完成させますが、基礎工事が不十分でひび割れ発生した事件がありました。

ライバル建築家などから非難を浴び、ライバルも含む多くの改善案は教皇が採用せず、結局取り壊されて鐘楼を持たない教会となります。

思ったより雑然としている感じ、クーポラも建物も先に完成していたフィレンツェの花の大聖堂の方が綺麗と言われそう。

ベルニーニの最初の案は、台形の広場だったようですが、・・・すぐに下図の案で構想を説明し、対になるように噴水を追加します。

ファサードからセリ出る台形の部分と柱廊が両手を広げて信者や異教徒まで母のように受容する広場を一段低くしています。

少し低くなった広場に入ってくると・・・聖堂を少し見上げる感じでしょうか、宮殿からの祝福も広場から見えるようになります。

美を追求するベルニーニは、美とは目に最も快く、それ自体完全で、(独立した円柱の・・・柱廊の上部は上から見ると)円形を指す。

まずは広場の正面端から右を見てみましょう

中央にオベリスクが建ち、聖堂のクーポラも見えます。

次に左

少し内側に進むと・・・こんな感じ

4列の柱頭が並び、ギリシャ神殿のように、・・・伏見神社の千本鳥居の雰囲気も

広場中央のオベリスクから右の噴水に向かって進むと、地面にマークがあります。その地点からの眺めが

円弧上に4列の柱頭があるのですが、同心円ですべて重なり、中央に噴水左右に綺麗な美が作られています。

バチカン美術館の模型で見てみましょう。

実に綺麗な卵型です。

クーポラからの実際の眺めが

素晴らしいサン・ピエトロ広場ですが、ベルニーニは完成に向かって、最後の資材の調達が必要でした。

まだ未完だったのです。

近年までこの状態でした。

広場は現在と変わらないですが、・・・。

彼の完成予想図を・・・どこかに・・・あるので、早急に追記します。

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ローマを芸術の都に!

2021-01-27 | 旅行記

21世紀初頭、新種ウイルスが世界中に・・・黒歴史の真只中で新年を迎え・・・沈んだ気持ちで喪に服して、1か月

・・・この間、関心事はリーダーの資質、トランプ前大統領は、凄かった。

信者たちを囲い込み、この人達が最大の関心事、ライバルを罵倒し・・・商売人に見られるハッタリパターンのようです。

敬虔なるキリスト教徒の素振りで、全米人口の25%ともいわれる福音派(聖書中心の主にプロテスタント保守派の総称)の支援を受け当選

福音派の喜ぶ政策を次々に・・・、三大宗教の聖地・エルサレムに、争いの火種、イスラエルの首都移転を承認、アメリカ大使館も移転しました。

福音派代表ペンス氏を副大統領に据え、彼を唯一解雇せず側近として重宝してきましたが、今般、大統領選挙の敗北を潔く認めたことに激怒。

ペンス氏が上院議長として新大統領を決議するホワイトハウスに信者をけしかけ、煽られた子羊は、裏切り者ペンスを探せ、吊るせ・・・、

・・・今日は最後の花道とその場に家族を招いたペンス氏は、何と・・・ホワイトハウスが流血の争乱状態、死者も出る惨事に・・・なんて日だ!、

よく映画に登場する秘密の地下道?でしょうか、危機一髪、ペンス家族・・・脱出成功。

・・・判断を他人に任せて進軍した子羊は、尊師の言われるままに猪突猛進、信者の集団行動は恐ろしい

これは教団を持たない、ツイッターによる新たな洗脳、教団職員など維持費に苦労しない21世紀の新教団スタイルでは。

教団の権力者と統治に関心があるので、世界を動かしている人々と宗教を学ぶ必要を感じている毎日、

トランプ氏は刺激的なメッセージを発信し続け、信者を維持していますが・・・、権力が低下した今後に注目です。

・・・さて、ボルゲーゼ美術館、ベルニーニの活躍するチョット前に、ローマで話題になった人の作品も多数展示されています。

カラヴァッジォです。イタリア北部から復興中のローマにやってきて、絵画の才能が花開くのですが

ボルゲーゼ美術館【 第8室、「果物籠を持つ少年」1594年23歳頃の作品 】

生物の少し傷んだ部分をそのまま表現しています・・・生き物は朽ちる、発想の新鮮さ、正確な描写力、

当初は画家の下働きで、ジプシーのような環境で描いた作品が、モンテ枢機卿の目に留まり道が開けた

シピオーネ枢機卿も若きカラヴァッジォの才能を認め、絵画を発注しています。

カラヴァッジォはやがて、金に不自由なくなると街に繰り出し、・・・なぜか素行が悪かったようです。

傷害事件や剣の不法所持の記録が残っています。伝わるところでは絵の制作は1週間、街で楽しむのが3週間、

1606年、35歳ころ決闘で相手を死亡させ・・・なんと死刑判決が出て、・・・逃避行、

最初はローマ南東の貴族の館に逃げ、作品を描きながら

 

【 第8室 「ゴリアテ(カラヴァッジォ自画像)の首を持つダヴィデ」1609-1610頃の作品 】

逃避行は南へ続き、ナポリ、マルタからシチリア島へ

・・・絵筆を持ち、作品を残しながらローマに恩赦を願い出ていました・・・

恩赦を願っていた先が、教皇の甥、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿、彼は大きな権限を与えられていました。

カラヴァッジォの作品は、この美術館に22歳ころの自画像や、聖ヒエロニムスなど数点展示されています。

ところで収集家のボルゲーゼ卿は、権力を利用して強引に作品を持ち帰ることも・・・貪欲な面もあったようです。

下のラファエロの作品も、

【 第9室 ラファエロ 1507年 「キリスト降架」1507年 】

この作品には、周辺部があったようです

1507年、ペルージアのサン・フランチェスコ教会の大祭壇画として描かれ、教会に掲げられていました。

・・・101年後(1608年?)夜間・・・密かに祭壇画が外され、・・・不法に持ち出されてしまいます。

ローマ教皇パウルス5世のもとに送られ、さらに甥のボルゲーゼ枢機卿に届き・・・この館で飾られます。

その後教皇国は、1797年ナポレオンに敗北、・・・多くの絵画など芸術作品がパリに行き、

・・・1816年、ローマに還付され、この作品は中央部がボルゲーゼ美術館に戻された。

概略そのようにボルゲーゼ美術館のガイドブックに記載されています。

すごいですね、この時期の教皇は・・・プロテスタント勢力と対抗しながら、権力を最大活用、系列の教会は訴える先がなかったのです。

他にも、当美術館の財産目録では、レオナルドの空気遠近法の効果などを学んだ多くの画家の作品群があり・・・

その中に師匠、レオナルドの作品【 レダ 】が・・・1893年まで300年間、・・・真筆と信じられて展示されていました。

この絵の帰属に関しては未解決とあります、レオナルドが亡くなった時点で未完であり、弟子サライの加筆か模写か、多くの説があります。

さて、復興中のローマに芸術の風を吹かせたカラヴァッジォの他の作品を見たいので、2019年のローマに戻りましょう。

少し霧雨模様のローマ市街を取り囲む城壁、かつては北からの訪問客はこの門を目指しました・・・ポポロ門です。

こちらは城壁の内側、・・・広いポポロ広場中央にオベリスクが立っている所からの景観です。

門に沿って右に見えるのは・・・鐘楼があり、教会です。

では、ポポロ門に近づき、門の横から教会を

古そうですね、1099年、教皇がポポロことローマ市民のお金で建立した教会なので、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会。

この教会は必見ですよ、巨匠の作品が沢山あります。

では入口から・・・中央の主祭壇、その左側の礼拝堂にライトがついていて、混雑しています。

手前の混雑の先、主祭壇の横の礼拝堂です。

当時絶大な人気だったカラッチ「聖母被昇天」です、色彩が鮮やかです。

巨匠カラッチは、バチカンの宮殿で古代彫刻のデッサンをしていた幼きベルニーニを

「他のものが年をとってようやく達する域に、この子はかく幼くして到達してしまっている」と舌を巻いたと伝えられています。

・・・幼きベルニーニは、・・・父親の彫刻作品と美しきギリシャ彫刻に囲まれてデッサンが遊びだった、恵まれた環境で成長します。

さてこの礼拝堂は、チェラーシ礼拝堂です。

両サイドのリアルな絵画は当時は人気がなかったようですが、現在は人気の画家カラヴァッジォの作品です。

「聖ペテロの殉教」初代ローマ教皇、ペテロです。

ローマの人々をモデルにして制作、ストロボを発光させた瞬間のような強いコントラスト

地面の描写、足の裏まで観察眼は鋭いです、

しかし、当時は現場を見てきたような・・・描写があまりにも生々しく、賛否両論・・・あったようです。

右側には、「聖パウロの回宗」、パウロがイエスの声を聴いたと言う場面、その後キリスト教に回宗する有名な場面です。

逃避行中の画家カラヴァッジォは、その後・・・ナポリからトスカーナに向かう途中マラリアにかかって、39歳で波乱の人生を終えています。

この教会は、まだまだ人気スポットがあります。

入口からすぐ左の礼拝堂、ドームを見上げる人々がいます

ラファエロ、天井クーポラのモザイクをデザインしています・・・ここは、キジ礼拝堂です。

ラファエロの設計になる、親交のあった豪商キジ家の礼拝堂です。

造られたのは16世紀初頭、ラファエロから約100年後、曽孫のファビオ・キジ枢機卿が新教皇に選出されると

1655年4月7日、キジ枢機卿は、新教皇アレクサンデル7世となります。

ベルニーニは、・・・1655年には56歳、晩年でした。(20代のボルゲーゼ美術館の作品から、ここの作品は50代でのお仕事です)

22歳で、当時の教皇から騎士の名誉を授かり、更に同年にローマのサン・ルカ美術アカデミーの会員に迎えられたベルニーニです。

この時代、教皇や枢機卿の周囲で多くの芸術家が仕事を求め、有力なライバルもいましたが、ローマの美術界に君臨していたのはベルニーニでした。

新教皇が誕生するや・・・日が沈む前に呼びます、・・・ベルニーニは、新教皇からキジ礼拝堂の整備を依頼されます。

教皇はそれ以外にもサンタ・マリア・デル・ポポロ教会も改修しよう。ここのポポロ広場もと次々に、

教皇に吉報が届いた、12月のクリスマス前にスウェーデン女王クリスティーナが、ローマにやってくる、その旅費をバチカンは援助していた。

女王は周囲と同様プロテスタントだったが、改宗してカトリックになるという、バチカンはこれは大イベントになる・・・

この話にローマ中が大歓迎することとなり、・・・準備は急だった、装飾はすべてベルニーニが担当、馬車もアレもこれも

まず、ポポロ門の改修もベルニーニに、・・・新教皇と女王の紋章を取り入れて豪華に装飾、

門の上部に「星がありその下を重なった六つの山」(これがアレクサンデル7世の紋章)

その下に花飾りが横たわり、麦が女王の紋章とのことです。

この女王はベルニーニのファンになり、1657年5月からローマに永住し、バルディヌッチに「ベルニーニ伝」の執筆を依頼しています。

・・・多忙で、キジ礼拝堂は完成が少し遅れました。

ベルニーニは祭壇の左右にあるニッキア(壁龕・へきがん)が4か所あり半分未完成だったので、これをまず完成させさせないと。

ラファエロのデッサンで左右の奥2対は「ヨナ」と「エリア」の像が完成していた。

そこで空の左右手前のニッキアに、有名ではないダニエル外典「ベルと竜」から作品を完成させます。

【 ハバククと天使 】

右腕が伸びています天使のようです、そして反対の手で誰かの髪をつまんで

何をするんだ!この人物は、預言者ハバククでパンを近くに持って行く途中、天使に捕まり・・・

この像は、物語の最初で右奥に据えるのが良い・・・目線は天井を進み対角線に・・・左手前に落とすと考えたのでしょうか。

反対側の手前に、相手の像「ダニエル」を据えよう。

既設の右奥の像を右手前に移して、1661年11月には「ハバクク」を据えて完了します。

一方、こちらがパンが届けられる「ダニエル」

【 ダニエル 】バビロンでライオンの穴に投げ込まれたダニエルに、天使に導かれたハバククが食べ物を届ける。

そんな、紀元前606年頃、ユダヤ教の物語とのことです。(カトリックの礼拝堂、ギリシャ神話は異教で論外です)

こちらは、1657年6月までには完成したようです。

2009年公開された「ダ・ヴィンチ・コード」の続編、「天使と悪魔」ダン・ブラウン作の大ヒット作品、見ました?

1668年の出来事、「ラ・プルガ」、当時の科学者4人(イルミナティ)をバチカンが公開死刑をした事件。

これへの復讐として4人の枢機卿が誘拐され、1時間おきの殺人予告、キーワード、「土」、「空気」、「火」、「水」

・・・このキジ礼拝堂が「土」で・・・床下で枢機卿の死体が発見される。ポポロ教会はロケを許可しないでしょう。

映画では、ポポロ教会は全面的に修復中で、外壁はシートの覆い、内部もパイプの足場が組まれ、ビニールで養生され、作業現場風景

床下から死体発見後「ハバククと天使」のビニールを外すと、天使の右腕が次の殺人事件の手掛かりを示していたのです。

・・・戻って、あのマルティン・ルターも、はるか遠方のドイツから憧れのローマにやってきた際は、このポポロ門から城内に入ります。

1510年、田舎の司祭は免罪符をたくさん買って、自分と家族の罪を帳消しにとやってきて・・・ローマの宮殿や聖堂に感激したそうです。

宿屋は、右側のこの教会・・・それから10年も経たない内に、ローマに巡礼に行かなくても・・・免罪符を買うだけで救われる?

本当ですか?・・・(本来は)祈りでのみ 救われるのでしょう! 教皇庁に質問したが、ルターの正論は認められない。

教皇庁の金集めの手段とバックマージンのうまみが無くなる、

・・・教皇は伝家の宝刀を使った。しかし、彼には破門と異端審判の脅しは利かなくなっていた。

そして、当時の教皇がドイツとフランスの対立を利用しようと画策した結果・・・、

神聖ローマ帝国皇帝カール5世が激怒し、その軍団がローマへ進軍・・・悪夢の出来事がありました

そんな、歴史を見てきたポポロ門です。

この右側の教会に沿って進み、正面の階段からピンチョの丘の上に登ると展望台・・・夕日が絶景だが、この日は霧雨だった

さらに90度、ポポロ門から入ってくると、ルターの時代はなかったが100年後、驚かせようとこんな風景になりました。

鏡に映ったような・・・中央で、別れて、左右対称の双子の教会と3本の街路がありました。

教皇アレクサンデル7世が広場を整備させ、1656年頃双子の教会案をライナルディに依頼したが、進展は遅かった。

右側は円形ドームで1661年基礎工事開始、左は土地の角度が右より狭く、ドームの幅が狭くなるので翌年着工へ

後年ベルニーニは、基礎のままの双子教会の問題点を指摘し責任者となり、左の教会のクーポラ(ドーム)を卵型に変更した。

この視点から見て、右は円形、幅の狭い土地の左を卵型にして角度を捻れば、幅が同じようになる、錯覚を利用した。

そして、教会内部も円形と卵型ですが、外観は左右対称の双子教会の完成となりました。

細部まで気になるのがエンジニア、・・・細部にこだわる方も芸術家には多いようです。

「天使と悪魔」・・・このストーリに沿って、ローマの街を観光するツアーが人気の時期がありました。

最初に誘拐された枢機卿を探しに向かった先が、ラファエロの墓のあるパンテオンでした。

しかし、ラファエロの墓は、

案内板に、墓がここに移されたと記載があり、・・・間違いに気づき、ポポロ教会のキジ礼拝堂に向かったのでした。

次が、天使が差し示す方向に「風」を探す。

行先は、バチカン宮殿でした。

風は、ここにありました。

ここは、目印としておかれています。西風が吹くようです。

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ローマを創った男 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

2020-12-29 | 旅行記

1598年12月7日 ナポリで生れたジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、彼の作品を鑑賞する目的で再度ローマを訪れてから・・・画像の未整理が続いた。

ローマを創った男と言われるベルニーニ、17世紀のローマは彼のためにあった、その背景が重要なのだが、中々ブログが進まないまま年末に。

・・・PCが11月15日、OSの自動アップデート後不具合になり今度はネット接続などがダメージを受け、MSの窓口は本体の初期化を勧める始末

昨年8月の不具合で対応して戴いた履歴の確認を依頼したら、破棄されて無いとのこと、今般はMSの担当者が外れと判断し電話を切る

気を取り直して10年前のノートPC(VAIO)を探し出し、CPUはcorei7で当時のベスト仕様だった、・・・何とか使えそう。

若干動作が遅いが多数のアップデートを繰り返し、その後富士通のESPRIMOは、自分で調べる気力が高まらず放置してある。

ベルニーニの誕生日前に、16世紀のローマを整理したかったが・・・この時代は簡単にして、ベルニーニの作品を見てみよう。

16世紀のイタリアは1526年、サン・ピエトロ大聖堂がやっと着工した。

・・・翌年5月、フランスと組んだ教皇、・・・敵対する神聖ローマ帝国の軍勢が侵攻し、ローマ掠奪(ローマ劫掠ゴウリャク)、悲惨な状況が続いた。

結果、ローマの人口は、55000人とも言われるほどに撃滅してしまった。

危機の中、その後歴代のローマ教皇は、反カトリック、プロテスタント勢力に打ち勝つために、・・・異教徒の異端審問を厳しく行った。

並行して復興は、ヨーロッパ各地から聖ピエロの墓があるローマ、Go to trabel に期待するしかなかった。

・・・巡礼者が感激する仕掛けを作ろう、先ずは教会の建立(30以上建てられたでしょう)、道路と水道の整備も

・・・次に都には映えする魅力が必要、運よく地中から紀元前の異教徒文明の発掘が続き、芸術家が修復に活躍。

当時の様子を見てみよう、1593年の銅版画、テンペスタの地図です(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

広場にオベリスク?、・・・1587年に左下の競技場後から約100m運び、44基の巻き上げ機で据え付け直した大工事が行われた。

・・・ここまで復興して、ローマの人口はどん底から立ち直り・・・60数年経過し倍の10万人くらい

1604年、新教皇に若き53歳のパウルス5世(ボルゲーゼ家・元シエナの旧家)が就任、権力を握れば早速縁故関係者を優遇しました。

甥のシピオーネ・ボルゲーゼ、27歳が枢機卿となりますが、彼は美術品のコレクターで、後に少年ベルニーニとの出会いは・・・引き合う力がありました。

ベルニーニの父はかつてローマのサン・ルカ美術アカデミー院長を勤めたこともある有名なフィレンツェ出身の彫刻家。

1605年、新教皇から礼拝堂の装飾の依頼を受け、家族でナポリからローマの現テルミ二駅近くに引っ越してきます。

ベルニーニ少年はこの時7歳、蛙の子は蛙、遊ぶのはヴァチカンの古代彫刻を朝から晩鐘までデッサンして過ごしていたと伝えています。

・・・神童の逸話は、誇張があれスーパースター誕生はスカッとする話題です。

では墓に彫られた、執事 「サントーニの肖像」は、ベルニーニが何歳くらいで完成させた大理石彫刻作品に思えるでしょうか?

技能の精緻・優劣よりも、顔の表情、見つめる眼差しが石造とは思えない、魂が入っているかのようで只者ではないですね

この作品と同時期に他にも彫像を受注していましたが、本人や伝記作家の話はオーバーで粉飾だろう、16~17歳頃の作成とされてきました。

近年1967年になり発見された当時の領収書などから、本人や伝記作家の言う通りの10歳から11歳の作品、1610年頃の制作とされます。

・・・ボルゲーゼ枢機卿が幼いベルニーニを教皇の前に連れて行った際、聖パウロの頭部を描くよう求められて見事に描き上げ非常な称賛を得た話もあります。

居合わせた枢機卿の前で「この子供が、彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言って12個の金メダルを褒美にとらせた。

この伝記作家(逸話)が疑問視され、信ぴょう性について後年ベルニーニがフランスで話した事が残っています。

それによると枢機卿と一緒に教皇に会った際、彼が描いた聖ヨハネの頭部のデッサンが幼い子の絵とは信じられず、・・・

それで教皇は、目の前で聖パウロの絵を描くよう求めたという、・・・これは本人が8歳の時の出来事だと語ったという。

・・・神童ベルニーニがその後10代で次々に作品を発表しますが、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が彼をほぼ独占し、他の枢機卿は、只近くで見守るだけだったようです。

今日、その名のついたボルゲーゼ美術館で彼の作品に出合えますが、予約制で時間指定となります。

2011年にベルニーニの作品を鑑賞しに行った際の資料・・・写真・ビデオ類の撮影は禁止でした、ガイドブックだけが残っています。

当時、イタリア関係に関しては、Yahoo blogの方にUPしていたが、Yahooはブログ運営から撤退したので現在Web上には残っていないと思う。

こんな感じだった。

ここは違いますね、真実の口です。

嘘つきガ・・・噛みつかれる❓ 懐かしい、口元が汚れていますが・・・今では手袋の手を差し入れるのでしょうか?

蛇行した下図の七つの丘近く(赤丸の教会)から、午後の予約で、間に合うかな? タクシーで地図上のボルゲーゼ公園へ

ボルゲーゼ美術館は、ヴァチカン宮殿から直線で4㎞位、ポポロ広場から階段を上がり公園内を進んでも行けます

ここは、タクシーを降りた公園横の入り口です。

公園ですからゲートから園内には自由に入場できます、右側に案内板があります。

この案内板には、上部に建築:F.Ponzio(1559/60-1613)、G.Vasanzio(1550-1621),G.Rainaldi(1570-1655)、A.Asprucci(1723-1808)・・・とあります。

16,17,18世紀と3世紀ボルゲーゼ家の屋敷で、1613年には完成したようです、何度か改修があり、現在はイタリア国の所有です。

この絵と類似の絵が、1636年バウル作として、ボルゲーゼ美術館 最新ガイド(2010年版)に掲載されていました。

1600年代の様子と変わらず一部修復され、現在は素敵な美術館です。

ここの公園内は、かつて馬車が走り、屋敷にはカジノもあり・・・昔の周辺の説明は割愛、今でもこんな風景が似合います。

予約の際指定された番号で、入場券を購入することになります、・・・建物の半地下へ降り、右側に並んで、カウンターのチケット購入窓口で購入します。

館内は手ぶらで・・・カメラ、バッグ類は預けることになります。

右側で荷物を預けます、正面は会議室など、左側に書店、奥に喫茶室、

入れ替え制で、・・・時間になりワクワクしながら、外階段で2階に上がり、入って右、右・・・気が付けばダヴィデの間でした。

画像は、ガイドブックから

1623夏~1624年春に完成させた25歳の作ですが、最初に目にするのがこの「ダヴィデ」です。

ミケランジェロのダヴィデは、筋肉美の裸体で石を持ち、これから衣服をまとうのか、このまま走るのか・・・いずれにしても市民に衝撃は与えた

これに対し、鎧は足元に置き「サムエル記」の記述のように、投石袋の中から石を取り、石投げ器でペリシテ人にそれを放つ

この物語性、そして決定的シャッターチャンス、集中して一点を見つめるダヴィデ・・・目線の向こうにペリシテ人がいる、

後に教皇となるマッフェオ・バルベリーニ枢機卿は、ベルニーニに作品を依頼したいが、ボルゲーゼ枢機卿が離さない、

制作中のベルニーニは自分の顔を鏡に映して、ダヴィデのモデルにしていたので、バルベリーニ枢機卿が鏡を持って手伝ってくれたと、

・・・この話もベルニーニがフランスに招かれ(只一度だけローマを離れた際、招いたフランス側に記録が残る)本人が語っています。

25歳でベルニーニは既に多くの作品を完成させ、ローマ中から人々がこの館に押し寄せ、スーパースターでした。

この「ダヴィデ」は、アポロとダフネ(ギリシャ神話)の制作途中で取り掛かり、僅か7か月で完成させた。

20代の集中力、体力、スピード、技能、絶頂期でしょう。

・・・これらの大型作品の前に、ベルニーニは10代で肖像彫刻家として才能を開花しています。

ベルニーニ が8歳で最初に会った・・・あのパウルス教皇から肖像を依頼され、19歳くらいの時に温和な感じに仕上げてあります。

そして、教皇の甥の シピオーネ・ボルゲーゼ 枢機卿の肖像も依頼され、当美術館に置かれています。

顔の表情が豊かで、衣服の表現も印象に残ります。

初めて大きな作品を依頼されたのも、シピオーネ枢機卿からで、絵画などで有名な「アエネアス」でした。

「ベルニーニ バロック美術の巨星」 石鍋真澄 によれば、1619年10月付けでこの作品の支払い記録があるそうです。

ガイドブックによれば、制作年代は1618-1620年、19歳から21歳頃

この作品は順路の後半、正面から見て左奥の部屋に置かれています。

題材は、紀元前のローマ帝国誕生時代に登場した作家が、神話の物語「アイネアス」を書き上げた。

ローマの建国は、双子のロムルスとレムスが戦いBC750年、ロムルスが弟を殺して誕生した。

神話とはいえ・・・この双子の親は、祖先は?疑問に思います・・・そこで作家が、トロイ戦争の登場人物から拝借しようと思いついたのでしょう

・・・トロイの戦火から主人公が脱出する場面です、アエネアスが老父アンキセスを背負い、息子アスカニウスを連れて、登場人物は3人。

作品は、登場人物を・・・無事に仕上げました。(物語は・・・後から奥さん達も続いたと思いましたが)

続いて、1621-1622年にシピオーネ枢機卿から依頼され、オヴィダウスのローマ・ギリシャ神話を題材に制作しています。

ここでは「アイネアス」のように場面が限定されずに、彼は構成をドラマチックな場面に設定。

どうした、エッ 違う写真?

そう、あまりにも注目された部分の拡大です

・・・大理石とは思えないと大評判になります。「プロセルピナの略奪」

ガイドブックからでは、迫力がないですね、

キューピットから「愛の矢」を射られたプルトが、プロセルピナを有無を言わせず抱き上げ誘拐する・・・

これは、お金を使って実物を鑑賞する価値はあります。

少し横に動くと、360度カメラの作品です。犬は三つ頭の冥府の守りとされる。

ちょっと分かりにくいのですが、母に助けを求め・・・彼女の頬に涙が一つ、二つ流れていたように思いました

多くの絶賛した評論がありますので ここでは割愛

この作品は完成した1622年に、シピオーネ枢機卿からルドヴィシ枢機卿に贈られています。

最高傑作は他で輝いていたのですが、・・・この館に約300年間後に戻ってきたのです。

1908年、その館がイタリア国家に買い上げられ、ボルゲーゼ・コレクションに戻されたとガイドブックにあります。

20世紀にボルゲーゼ美術館に戻ってきたので、第4室 皇帝の間に置かれているのでしょうか。

最初の「ダヴィデ像」の隣、第3室が「アポロンとダフネの間」です。

1622年8月にこのアポロンとダフネの制作を始め、途中まで進んだ所で「ダヴィデ」の制作を始め7か月で完成させ、この作品に戻ったそうです。

この作品も、ローマ・ギリシャ神話「変身物語」から、黄金の矢と鉛の矢を受けた二人が登場します。

恋心が高まる VS 恋が嫌い キューピットを道具に2000年前の詩人は、視点がユニークですね。

こちらのシーンでは、ダフネは父に助けを求め、皆の心を惑わしすぎるこの美しい姿を変えて・・・すると、激しい硬直が手足を襲い

ダフネの足は・・・根に、髪の毛は・・・木の葉に、腕は・・・小枝に、変身・・・みるみる月桂樹に・・・ストップ

オヴィディウスの物語を、全くの素人にもクライマックスを一目で理解できるように、この立体像は、本当に石なの・・・

この作品は、1625年に完成させます。

この作品が完成するやいなや、「奇跡が起こったかのようにローマ中の人がそれを見に行った」と伝記作家が伝えています。

後年、ベルニーニはパリでこの作品について、ダフネの髪に「軽さ」が表現されていると自慢しているが、以前は更に軽い印象だといわれます。

近年になり、岩が補強されているそうです。

この美術館には、他にもベルニーニの作品やカルバッチョの作品も数多く展示されています。

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書きかけのまま、木枯らし1号が

2020-11-02 | ブログ

書きかけのまま、中断が何度か続き・・・時間が過ぎ去った。

コロナの影響ではなかったが、微熱が続きデーサービスを休んでいた母が突然亡くなった。

長寿の祖母に追いつくかと思われたが、2週間くらい自宅で静養していた。

同居していなかったが、東京ではこの時期、微熱で日曜日に救急車を呼ぶのは気が引けたようです。

東京オリンピックの開催地域に住んでいた、デズニーランドの花火が楽しみだった。

・・・新型コロナウイルス、世界に拡散、その真っただ中で・・・我々は漂っているが、相手がウイルスだけに・・・

感染症の脅威だけが脳裏にまとわりつき、これは悪夢か、幻か、・・・現実が良く直視できないジレンマが続きます。

・・・そう、少し前・・・アメリカ23日:約8万4千人感染確認、東京24日:203人感染発表、・・・春までジッとしよう。

鬱になりそうな季節を、前向きに生きるには、・・・朝の青白い太陽を・・・ベランダで頭骸骨に浴びます、一日はここからです。

ローマを創った男、ベルニーニの作品にたどり着く前に、気になっていたのが、二つ残っていた

・・・キツツキの舌を描写せよ!

これが、なぜか気になっていた?・・・、キツツキの舌の違いを知っても・・・何の役にも立たないが、

レオナルド・ダ・ヴィンチの することリスト に書かれていた言葉だった。

想像してみたが、・・・熱心に口ばしで木の幹を叩いている・・・

1秒間に10数回から20回も打ち付けたら、頭、めまいがするだろう・・・大丈夫? 

小さな口ばしで、引っ掻く形状ならともかく、打ち付けるとは・・・首、脳、負担が大きいだろうに、

口ばし以外に、なぜ爪でも進化させなかったのでしょう、舌は良くわからないが?

作業中の音をたてながら、幹に穴をあけて舌を入れ、虫を捕る、巣穴を作り卵を産む、・・・頭脳労働のようですが

・・・飽くなき好奇心から、観察して、他と比較、何故 頭なんだ、疑問を持ったら解決しなければ・・・

レオナルドの素描に、この件の回答は見つからず、他を調べてみました。

何と・・・キツツキの舌はくちばしの3倍以上に伸びるようです。

頭蓋の内部で、・・・この伸びる舌が小さな脳を保護するという・・・驚きの構造でした。

下図はNHKの番組から拝借 黄色の部分が・・・長い舌

なる程、穴掘り中は、舌が脳を保護して、・・・穴の中を探るには、巻き込んだ舌を送り出すのか~、

キツツキの動作を見ていて、他の鳥と違う・・・舌が違うはず・・・捕まえて、調べてみようとは、普通思わないですよね。

・・・レオナルドは再度ミラノを訪れ、岩窟の聖母は完成させたが、報酬が目当てでは無いので、この地で自由を満喫

3ヶ月で帰る約束でしたがフィレンツエに戻らず、新たな友人たちと解剖学や自然科学の分野で心理の追求、発見は喜びです。

医学の分野で出版を目指したようですが・・・大学病院の共同研究者が亡くなり未完に終わっています。

レオナルドだから成し得た、真理の追求力、解剖技術、観察眼・描写力・・・精緻な描写の資料は今日でも宝の山です。

これらの資料、作品を前に、レオナルドが何を考えていたのか・・・夢中になって解き明かしたくなるのですが、・・・

ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学博物館内には展示室もあり、フィレンツェにも博物館があります。

こちらはフィレンツェ・博物館、他にレオナルドの考案した作品の模型を展示している所もあります。

素描の機構学は比較的解り易いが、医学、自然科学は奥行きがあり別の機会に調べてみたい。

レオナルドがミラノに、そしてミケランジェロはローマへと・・・

ルネサンスが花開いたフィレンツェには、未完の作品が二つ残りました。

しかし、この未完の作品であれ、一目見ようと、・・・そして各地から画家が訪れ模写を残しています。

ルーベンスが訪れた時には壁画の「アンギアーリの戦い」は既になかった。

しかしルーベンスは模写を探して、その模写を再模写した作品を残し、今に伝えています。

・・・ミケランジェロは、バチカン宮殿の礼拝堂に天井画を描けと、・・・教皇より強引に押しつけられた経過は・・・

2019年7月21日、(涼を求めて)、続イタリア:ローマ ① 霧雨のヴァチカンに、映画なども参考にメモしてあります。

・・・ヨーロッパ各地からローマに巡礼に来られた信者には、完成した天井画は観光名所になりました。

もう一つの関心事は、16-~7世紀、スペインの世界進出とイエズス会の世界侵略。

地中海沿岸を風任せで航海していたのに・・・コロンブスが帆船の船団を組み・大航海時代に時を動かした。

半島内で王家同士の争いだったのに、行動範囲が地球規模に広がると・・・富も大きく動き・・・やがて世界の銀が大移動、

カトリック両王が統一した不毛の地スペインは、孫の時代になると「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。

・・・血を流して獲得した我が領土を・・・必死に一族で継承するには、周辺を強固な同盟国で固めたい。

イベリア半島では、レコンキスタ終了後も異教徒の反乱は続いていた。

・・・北のピレネー山脈の向こうには、大国フランスが領土拡大を狙っている。

スペインの対抗策は、周辺国との政略結婚でフランス包囲網を築く、・・・カトリック両王の子供が財産だった。

・・・何度か彼らの婚姻関係を調べてみたが、祖父や祖母の名前を子供に頻繁に使うので、混乱してしまう

イサベル女王は長女に、イサベルと命名しているのです。

そこで映像の力を借りよう・・・「波乱のスペイン女王 イサベル」スぺインTVの登場人物の画像を借用させて頂こう。

まずはヨーロッパの状況から・・・フランス王国(ライオン)の北西は、羊毛産業で発展途上のイングランド、

フランスから地続きの北に、毛織物工業や海運で商工業が発達した豊かな土地がブルゴーニュ公国

さらに東には、ハンガリーやイスラム諸国と紛争が続く神聖ローマ帝国

地元のイベリア半島は、南西の端にポルトガル王国、中央部のカスティーリャ国はイザベル女王の統治

半島東の地中海側にはアラゴン王国、夫のフェルナンド王が支配していた。

イタリア半島の南部はナポリ王国、この王国が継承者の正当性でナポリ・アラゴン・フランスが争っていた。

ヨーロッパの権力闘争には、キリスト教会のローマ教皇も介入し、混乱の大きな要因となっています。

スペインは獲得した領土が一族で継承できるように行動を開始、・・・エサベル女王は、夫の政略結婚策に渋々同意。

スペイン国は、対外的には夫婦で2国を統治しているので連合国だが、公位継承権は独自に定められていた。

まずは隣国、ポルトガル王国は海運国でアフリカ大陸を回り込むインド航路を確立しつつあった。

ポルトガルは航海王の国、世界侵略においてはライバルです、・・・港も重要で、ゆくゆくは併合したい。

ここには1490年、長女イサベルが20歳で皇太子に嫁いでいたが、・・・

1495年謎の事故?で夫が亡くなり、失意のままカスティーリャ国に戻っていた。

その後ポルトガル王も突然死(毒殺?)、王の弟が即位してマヌエル新国王となり・・・

失意の長女イサベルに求婚していた。

(ポルトガルの貴族達は独立志向だが、国王は隣国カスティーリャ国と強固な同盟をベースに独裁を狙っていた)

カスティーリャ国は、北のブルゴーニュ公国とは二重の(クロス)結婚を成立させていた。

まずフィリップ公(18歳)には、次女(フアナ)を嫁がせた。

1496年、フアナ(17歳弱)は、嫁ぐ際に敵国フランスを経由しない、海路のルートを選択したが、

悪天候に襲われ、・・・持参の豪華な品々を大半流失し、多くの従者と共にやっとの思いでたどり着いた。

プレーボーイの夫(フィリップ公)だったが、純粋なフアナは一目惚れしてしまう。

・・・夫の妹(マルガレーテ)は、母の愛を知らずフランスで育てられた女性です。(上の画面、左端)

ブルゴーニュ公国君主のマリーがこの兄弟の母で、長男フィリップが4歳弱、マルガレーテ2歳の1482年3月に悲劇が、

夫婦で狩りの最中落馬で大怪我、その影響で25歳の若さで亡くなりました。

父は、神聖ローマ皇帝の当時皇太子マクシミリアン、彼が君主の母を助け、この地をフランスから守っていました。

君主マリーの遺言で、マクシミリアンが息子フィリップ(君主)の後見人となったが・・・ブルゴーニュ公国は妻の国だった。

早速、隣国フランス王の扇動で、ブルゴーニュ公国では反乱が起こる。

1482年12月、幼いマルガレーテは、フランス王の王太子シャルル8世の婚約者として連れていかれた。

翌年の夏、フランス国王が亡くなり、幼いシャルル8世が新国王になるが、姉が摂政として実権を握る。

時が流れ、ブルターニュ女公のアンヌが、反フランスのマクシミリアン(マルガレーテの父)と代理結婚していた。

ブルターニュ公国はイギリス海峡に面し、海岸添いに北東にはブルゴーニュ公国があり、英仏両国で重要な地域であった。

・・・フランス王シャルル8世は考えた・・・マクシミリアンにはブルターニュ公国は渡せない

マクシミリアンは、自分の婚約相手の父であったが、神聖ローマ帝国の皇太子でもあった。

・・・この君主アンヌとマクシミリアンとの結婚を、フランス国との過去の約束を理由に無効にさせた

シャルル8世は、アンヌに自分との結婚を迫り承諾させるには、まだ障害が残っていた・・・

・・・1491年12月、マルガレーテとの婚約を破棄して、新たな結婚を教皇に認めさせようとした。

教皇の特別許可は簡単ではなかった、・・・やっと許可が認められたが、マルガレーテはフランスに止め置かれた。

1493年5月、マクシミリアンはブルゴーニュの内戦を治め、フランスと交渉し、マルガレーテは自国に戻れた。

話は戻って・・・ブルゴーニュ公のフィリップとカトリック両王の次女フアナが無事結婚した翌年

1497年、フランスから戻ってきていたマルガレーテが、カトリック両王の皇太子ファン(長男)に嫁ぎます。

ファン皇太子は、スペイン(カスティーリアとアラゴン両国)の後継者です。

・・・スペイン国の継承者として期待のファン皇太子です。

マルガレーテとの盛大な結婚式が行われた。

皇太子・長男ファン(19歳)、・・・心配なことは病弱だった。

病弱なファンは素適な妃に、有頂天の毎日が続きます

そしてマルガレーテ(ドイツ語ではマルガレーテですが、マルグリット(英)と使用されることが多い)は懐妊した。

・・・これでスペイン国は更に安泰です。

一方、ポルトガルの国王からの求婚を長女イサベルが固辞していたが、両親に説得され再婚に同意しました

両親(カトリック両王)と長女イサベルは、ポルトガル国での結婚式に旅立ちます。

1497年10月4日、旅の途中だったカトリック両王に・・・悲報が届く。

遅れて、姉の結婚式に旅立った皇太子ファンが・・・何と途中で病死したと・・・。

さらに、スペイン国には悲劇が続きます。

懐妊していた皇太子妃マルガレーテは、出産時に母体は大丈夫だったが、継承者を死産した。

・・・本流だった自国の継承者から一転、カスティーリャ王国継承権は、長女イサベルに、

・・・ポルトガル王国は大喜び。

継承式がカスティーリャ国で執り行われた。

1498年4月7日・・・フランス王、シャルル8世がアンボワーズ城で・・・

ウッカリ、破損した石の角に頭を打ち、間もなく亡くなった。

28歳まで生きて来たのに、あっけなく・・・

1494年末にはヴァチカン宮殿で教皇を脅し、・・・絶頂の時だった

教皇の息子(チェーザレ)たちを人質にし、翌2月にはナポリ王国を大軍で占領したが、

・・・周辺国によるフランス包囲網がしかれ、・・・惨敗して自国に逃げ帰っていたのだった。

フランス国の継承者は男性であり、王位継承者のルイ12世が即位した。

・・・このルイ12世も、国王になるとブルターニュ女公アンヌ(シャルル8世の王妃)は重要な人物だった。

新国王もカトリック、時の教皇アレクサンデル6世に・・・妃のジャンヌとの結婚を無効に・・・

(どこかの大統領と同様、簡単に離婚、再婚、・・・目先の利害関係、損得が判断基準です)

ローマ教皇は、上の画面中央の息子(チェザーレ・ボルジア)をフランス王が援助する裏取引で、結婚を無効にし、アンヌとの再婚を認めた。

・・・1498年8月、ポルトガルの王妃イサベル(長女)が、息子を産むと今度は、王妃が亡くなってしまった。

生まれた息子は、ポルトガル国とカスティーリャ国の継承者です。

息子の叔母となるイサベル女王が、カステーリャ王国に連れて帰り、大事に育てていたが、

1500年7月、グラナダの宮殿で亡くなってしまった。

この約半年前に、次女のフアナは長女に続いて、長男カルロスをブルゴーニュ公国で出産していた。

フアナは夫のフィリップ公と言い争いが絶えず、精神状態は不安定だった。

・・・カトリック両王のスペイン国・政略結婚は、・・・目まぐるしい悲運続きの4年間だった。

長男フアン、長女イサベルとその子らが亡くなり、次女フアナが女王の後継者となった。

・・・3女のマリア(18歳)が、ポルトガルのマヌエル王から王妃として求婚され、嫁いでいく。

この三女は、34歳で病死するまでに、妃として10人の子供を産んでいます。

一方、フェルナンド王(アラゴン国)は、イタリア半島南部のナポリ王国の継承について・・・、

11月、フランス王国が有利な条件で、アラゴン国と分割統治しようと・・・グラナダに呼んで条約を締結した。

・・・次女フアナは、カスティーリャ国の王位継承に向かう際、夫がフランス国王に挨拶したのが不満だった。

1501年11月、トレド大聖堂でカステーリァ国の王位継承式が執り行われた。

今日でもこの大聖堂は、圧巻です。

カトリック両王と、右側に継承者のフアナ、その隣が夫フィリップ公

フィリップ公は、スペインでは重用されず、臨月の妻フアナを残し、帰国したのでフアナは狂乱する。

同じ頃、11月14日、海を渡った4女のキャサリン(カタリーナ)は13歳、イギリスの王太子に嫁いだが・・・

翌1502年4月、王太子が病死した。英国に持参した持参金を返せ、返さないなら弟と婚約を・・・と迫った。

1503年6月末、イングランドのヘンリー王子(14歳)と4女キャサリン婚約。

カステーリァ国に戻って、臨月だった次女フアナは、無事出産した。

次男の誕生、父親と同じフェルナンドと命名され、病弱な母イサベル女王に変わり父フェルナンドが自国で育てた。

フアナは、夫の居るネーデルランドに戻ったが、精神が不安定で義理の姉マルガレーテが子供を養育した。

重要な子供について、まとめて以下に記す(注、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)による)

長女:レオノールは、ポルトガル王マヌエルの妃3女マリアナ亡くなった後に、嫁ぎ、後にフランス王フランソワ1世妃となる。

長男:カルロス、後の神聖ローマ皇帝カール5世、スペイン王カルロス1世

次女:イサベル、デンマーク王クリスチャン2世妃

次男:フェルナンド、後の神聖ローマ皇帝フェルナンド1世となる。

3女:マリア、ハンガリー王・ボヘミア王ラヨシュ2世妃

4女:カタリナ、ポルトガル王ジョアン3世妃

カスティーリャ国の女王でアラゴン国の王妃、イザベラが病床にある頃・・・

夫のアラゴン国王、策士フェルナンド王は、ナポリ分割協定を破りフランス軍と交戦、1503年4月、勝利しナポリを占領した。

1504年11月26日、イザベラ女王が病死すると、フアナが継承しますが、遺言で着任するまでフェルナンドが摂政します。

1505年、フェルナンド王 53歳は、新たな継承者を期待しようと・・・再婚しました,、祖母をナバラ女王に持つジェルメール17歳と。

新婦の叔父は、何と敵対したフランス王、ルイ12世です、・・・関係が多少修復できればと・・・。

1506年春、フィリップ公は、イサベル女王の遺言が納得できず、フアナとの共同統治を主張して着任し、

カスティーリャ王を名乗る。

・・・アラゴン国王フェルナンド2世とは対立

フィリップ公は、乗り込んできたスペインで人気は無かった。

( 旧首都、現在のトレド市街 )

1506年9月25日、ブルゴス(トレドの北方約300㎞)で運動の後、生水を飲んで・・・急死した、

・・・28歳の若きフィリップ公が・・・突然亡くなった。

フェルナンド王は、長期のナポリ滞在で不在だったが、・・・もちろん毒殺説はささやかれた。

夫を亡くしたフアナは精神状態が悪化、・・・いろいろな奇行があったようです。

1508年、・・・父フェルナンド王はフアナを城館に幽閉し、フアナ女王の承諾を得て、再度摂政として統治する。

1509年6月11日、イングランド王ヘンリー8世と4女のキャサリン結婚、6月戴冠式

さて、フェルナンド王は、1509年に待望の息子が誕生したが、すぐに亡くなり以後子供は誕生していない。

1513年、再婚相手の王位継承権に基づき、イベリア半島の北部ピレーネ山脈の西、ナバラ王国を攻撃、1515年占領した。

このナバラ王国側で孤軍奮闘、・・・戦死した者がいた、波乱の人生・・・チェザーレ・ボルジアだった。

1515年1月1日、フランス王ルイ12世死亡、53歳

1516年6月23日、この政略結婚の立案者フェルナンド王も64歳で亡くなります。

スペイン国と神聖ローマ帝国の後継者、孫のカルロスが・・・大国へのレールを走り始めました。

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気の向くままに レオナルド

2020-08-13 | アート・文化

猛暑が続く日本列島、緊張感を持ちながら過ごす夏休み、墓参りも中止しF1中継鑑賞が唯一の気晴らしです。

・・・さて、この方はもうすぐ48歳を迎えようとしていた。

1500年3月末、レオナルドはミラノを離れてから3ヶ月後、弟子たちとフィレンツェに帰ってきました。

ウォルター・アイザックソン著のレオナルド・ダ・ヴィンチによると、レオナルドの人物像が豊かに浮かび上がってきます。

まずは自身の衣装リストがあります、・・・普通の中年芸術家やボサボサ髪の科学者でもなさそうです。

ファッションにも感性豊たか、社交性もあり、まずは衣装のチェックなのでしょう。

驚くことに自分のリストに、当時24歳のサライ(弟子)の分だけが混じっていたそうです。

チェーザレ・ボルジアから贈られたフランス風のケープ、現在はサライの物という項目があり、

他にもフランス風の縁飾りのついたチェニック、フランドル風のグレーのチェニック、豪華な衣装が記されています。

イラストで雰囲気を味わいたい。

アンドレア・リッチャルディ画 レオナルド・ダ・ヴィンチ より)

チェニックは、フランチェスコ(後にミラノで弟子となり、遺産相続人となった)やラファエロのような衣装でしょうか。

弟子のサライもピンクやバラ色のチェニックを好んで着て、レオナルドと連れ立ってフィレンツェの街中を闊歩していた・・・伊達男以上です。

知識欲を知るには書籍リスト、1504年作成の蔵書目録、116冊とあります。

プトレマイオスの「天地学」、ユークリッド翻訳本3巻、アルキメデス?「円の正方形化に関するもの」、外科、内科、建築、イソップ童話、詩集などと範囲が広い。

生計は、・・・工房を開き、弟子たちの作品にも需要が出始めたようです。レオナルドの父親も教会の仕事を斡旋していたようです。

しかし本人は、数学や解剖学など絵画以外の関心が高く、チョークのデッサンのままにしてあるイザベラ・デステから完成させてと催促が・・・。

反応が無いと知り・・・無理なら何か描いて、何度も切望しますが・・・この当時26歳、財力のあるエステ家の一員で教養も政治力もありました。

報酬はいくらでも出すと言っても・・・描いてくれず、1506年にはフィレンツェに出向いたが、会えず、その後もレオナルドが描くことは無かつた。

ところがこの時期、ある女性の肖像画を描き始めます、レオナルドはモデルに何か刺激を受け想像力が膨れ上がると絵筆を執ったようです。

他にも「聖アンナと聖母子」「レダと白鳥」も描き始めました。

・・・3か月前に脱出した隣国のミラノ公国は、・・・ルドヴィーコはどうなったか気になります。

概略は、逃亡したミラノ公(ルドヴィーコ)はアルプスの北で傭兵を集め、援軍を期待していた。

神聖ローマ帝国のマクシミリアン王は、援軍を出せなかった(この頃、領主連合から傭兵に頼る時代になり、軍資金は承認が必要だった)

ハプスブルク家は、戦いもしたが「戦いは他のものに任せるがよい。汝、結婚せよ」政略結婚で領土拡大に成功します

・・・ルドヴィーコは1500年2月、ミラノ北方コモに到着、・・・周辺都市もフランス軍に抗戦していた。

ローディ、パヴィア、アレッサンドリアなどでフランス軍を退却させた。

2月5日、スフォルツァ城には、フランス兵約300名が占領中だが、市中ほぼ平定、ミラノ大聖堂に向かって歓声の中行進できたようです。

2月24日、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンの息子(フィリップ)とアルゴン国のフェルナンド王とカスティリア国のイザベル女王の娘(フアナ)に男子誕生。

この男子は神聖ローマ帝国の後継者だが、スペイン国(アルゴン国+カスティリア国)の皇太子が亡くなり、次女フアナが浮上、その息子が突然金の卵になった。

・・・3月21日、ミラノ西方50㎞くらいにあるノヴァーラの都市・城も、ルドヴィーコのミラノ軍に降伏、

フランス軍VSミラノ軍、戦っている主力は共に傭兵、スイスから出稼ぎの軍人が、敵味方に分かれて金のために戦っていた。

4月5日、フランス軍とノヴァーラで激突、・・・ミラノ軍は敗れた。

4月10日、ルドビーコはノヴァーラ城からスイス傭兵の姿で脱出中、雇った傭兵の裏切りでフランス軍に捕らえられてしまった。

・・・ミラノ公国は、フランス軍に反撃して2か月間くらい抵抗したが、頼みの傭兵が引き揚げフランスに占領され続けることになる。

連行されたルドヴィーコは、この後フランス各地を転々とし、城に幽閉され8年度の1508年5月27日亡くなる。

・・・フランス軍が何故ミラノに軍隊を?

前任者が突然亡くなり、予期せぬフランス国王に就任したら・・・、権力者は大軍を動かしたくなり、矛先がミラノでした。

そして、ミラノは征服した、・・・後継者の血筋とを理屈をつけて占領する所は、ナポリが残っていた。

前回のシャルル8世はナポリ占領後、イタリア各国の包囲網にあわてて逃亡した、・・・これを教訓にライバル国との事前交渉を行う。

1500年11月11日 ルイ12世がイベリア半島のグラナダでまで出かけ、アラゴン国王(スペイン)フェルナンド2世と、ナポリ分割の秘密協定を結びます。

(グラナダ、アルハンブラ宮殿)

1501年6月、いよいよフランス軍がナポリ占領に動き出した、・・・アルプスを越え、大軍が再度イタリアに侵攻する。

その後、教皇(アレクサンデル6世)はルイ12世とフェルナンド2世のグラナダ協定を承認します。(勝手に作成した、ナポリ王国の分割案です)

 教皇は教皇軍を組織しており、その最高司令官に枢機卿を返上したチェザーレ・ボルジアが就任していた。

教皇軍の司令長官は、前任者が弟のホアンだっが・・・突然、謎の死を遂げていた。

(闇夜にテベレ川にズタ袋が投げ込まれ、ホアンの殺害された死体が発見された・・・刺客を差し向けたのが兄のチェザーレとの噂が飛びかった。)

この辺の状況は、チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷 塩野七生女史 が詳細に描いております。

異端の男チェーザレは教皇軍を率い、ルイ12世の援助も受けフィレンツェの東からアドリア海沿岸まで、ロマーニャ地方の攻略の真っ最中だった。

5月、教皇軍はいよいよフィレンツェの攻略に動き始めた。

・・・ルイ12世はイタリア半島内とはいえ、チェーザレ軍がフィレンツェ、ミラノに進軍するのは黙認できなかった。

軍を持たないフィレンツェ共和国は白旗を上げ、献上金36000フロリン/年と自由通行権を与え、占領は免れた。

6月29日、イタリア半島に侵攻していたフランス軍は、ローマからナポリへ向かいます。

8月1日、フランス軍に、・・・ナポリ王国降伏。

教皇軍のチェザーレは一年後の1502年6月に、フィレンツェ共和国に新たな要求を行うので代表者を派遣するよう指示した。

共和国からソデリーニとマキャベリが派遣され(先のイラスト下部に登場する)・・・新たな合意が結ばれフィレンツェは攻撃されなかった。

・・・その後レオナルドがフィレンツェ政府に要請されたかは不明だが、チェーザレの軍事顧問として旅立ちます。

ノートの荷造り物品リストには、ハイキングかと思えるような、

コンパス二つ、剣帯、軽い帽子、スケッチ冊子、革のベスト、水泳用帯(考案した革のコートが浮袋仕様になる)など。

・・・イタリア半島西海岸で教皇軍が占領した地の要塞の検査をし、

アベニン山脈を越え、半島東側の教皇軍の支配地で地図を作成し、1502年盛夏チェーザレ軍本拠地のウルビーノに到着。

(レオナルドが描いた、その当時のチェザーレ・ボルジア)イタリアで一番ハンサムな男の面影は無いと著者は記しています。

チェザーレは、ルイ12世が裏切りフィレンツェ共和国の保護を約束しているのでは・・・と疑念が渦巻いていた。

フランス宮廷やヴァチカンには、ボルジア家に復讐する機会をうかがっている者が大勢いるのは周知の事実です。

1週間後、チェザーレは、レオナルドに「パスポート」をしたため、ルイ12世に会いに旅立つ。

1502年8月18日付「パスポートの内容・抜粋」

「本状を提示されたすべての将校、城主、傭兵、兵士、臣民に告ぐ。

本状の持ち主である、ボルジア一族の最も高名かつ愛すべき友人、建築および技術責任者レオナルド・ヴィンチの命に従うこと。

ヴィンチは我が領内すべての防衛拠点と要塞を検査し、必要に応じて補修を行う任務を付与されている・・・以下略

私の激しい怒りを招きたくない者は、決してこの命令に背かないこと」とありました。

・・・友人の数学者ルカ・パチョーリの書き残したこの当時の逸話があります。

「チェザーレ・ボルジア軍が橋のない川にさしかかった。

川幅は24歩幅ほどで、使える材料は16歩幅に切られた材木だけだった。

鉄やロープも無くても自立式の橋、軍隊が通れる強靭な橋を造って見せた」、と書かれている。

(このような自立式の橋が、レオナルドの素描に残されています)

1502年秋、チェーザレはイーモラに宮廷を移し、この都市を難攻不落な軍事拠点にする計画だった。

ここにマキャベリがフィレンツエ共和国の使者として送られてきた。

それから冬の3ヵ月間、チェーザレ、レオナルド、マキャベリと有名人3人が立場が違えど顔を突き合わせていた。

現在のイタリア、ボローニャ県、イモーラ市(グーグルより)

青い濠の内側が、チェーザレ時代の要塞でしょう。

中央下部の川沿いにあるイモ-ラ・サーキットが有名で、コロナの影響で今年のF1、開催が危ぶまれたが

・・・EU内の人の移動制限が解除され(F1チームの移動が可)、無観客で今秋開催される予定です。(日時は未定)

(上図がレオナルドの描いたイモーラの地図、当時は画期的な鳥観図です、500年前はこんな感じでした。)

磁気コンパス、長い距離の測定に走行距離計も開発し、また濠の深さ12m、壁の厚み4.5mとありますので確かに要塞です。

12月、クリスマスの翌日、目にしたある事件をマキャベリは後に君主論でこう書いています。

「チェザーレ・ボルジアは領民を委縮させるためにラミロ(側近)の絶大な権限を維持する必要はなくなったと判断した。

そして、領民の支持を獲得するため、ラミロの冷酷な統治は独断によるものであり、チェザーレの意志ではなかったことを示そうとした。

ある朝、チェゼーナの中央広場で、真っ二つになったラミロの遺体が発見された。

傍らには木片と血糊の付いたナイフが置かれていた。

この残酷な仕業を見たロマーニャの領民は、留飲を下げると同時に仰天した。」

・・・この事件をマキャベリは、冷酷さに感銘し、「他の人々も研究し、見習うべき事例」と称賛した。(君主論)

(側近のラミロに指揮権を与え、従順でない領民に暴政、虐殺などで恐怖を植え付け、・・・役目が終ったらチェーザレに使い捨てにされた。)

暗黙の騎士道ルールでゲームのような戦争に明け暮れたイタリア弱小各国の中に育ったマキャベリは、冷酷な戦略家、行動のリーダを求めていた。

・・・国民を委縮させ不満を抑える・・・今日でもロシアなど高度なテクニックを使用しているのでしょう、民主化の看板の裏で、暗殺も有りです。

中国の露骨な香港言論弾圧は、世界を敵にしても自国と一路一帯関係国だけで発展できる・・・共産党体制の維持は権力の維持と・・・恐ろしい。

世界各国の目は・・・国連の人権委員会の役目?・・・第44回国連人権理事会が6月30日開催され、香港国家安全維持法の賛否が問われた。

中国、北朝鮮、独裁国やアフリカの国々が53票の賛成票で、反対票は英国、EU各国、オーストラリア、日本など17か国、米国は脱退している。

人権を審議するのに、中国やロシア、キューバ、ジンバブエ、サウジアラビア、パキスタンなどが賛成することは無く、形骸化が指摘されている。

・・・その後チェーザレ軍は、イモーラから南東に150km、指導者たちが反旗を翻していた海添いの街セニガッリアに進軍した。

成立した和解交渉を反故にし、アルキメデスの本を貸してくれた友人達がチェ―ザレに絞首刑にされ、街は見せしめに略奪された。

数週間後、レオナルドはチェザーレ軍のシエナ攻略に同行したが、教会の鐘のスケッチと、不和や戦闘などごめんだと書き残している。

これほど野蛮な狂気の沙汰はない、8か月に渡ってチェーザレの軍事顧問を務めていた、・・・軍事力で平定するのに貢献してきたが・・・。

1503年3月、レオナルドはチェザーレのもとを去り、フィレンツに落ち着き銀行口座から預金を引き出しているようです。

1503年4月、一方、ナポリ国を分割支配していたアラゴン軍は、フランス軍と度々紛争を起こしていたが、グラナダ協定を無視して、4月28日勝利する。

1504年1月1日、フランス軍撤退し、ナポリはアラゴン国(スペイン国)の占領下になった。

・・・レオナルドに戻ると軍事顧問に出かける前に、聖アンナと聖母子の実物大の下絵を描いただけのようです。(スケッチは残っていない)

住まいを5部屋提供して頂いた教会の祭壇画を引き受けましたが、(父の顧客でもあった)制作には取り掛からず依頼主を待たせた。

やっと、聖母子と聖アンナの原寸大の下絵が完成しました。これを披露すると、レオナルドは故郷で既に有名人、

大評判の作品をひと目見ようと、二日間にわたり展示部屋はさながら祭りのようだった、とヴァザーリは記録している。

これは、バーリントン・ハウス版と呼ばれる現存する下絵です。

この絵には聖ヨハネは描かれているが、披露した下絵にはヨハネに変わって羊がいたそうです。

こちらは、完成版の聖アンナと聖母子、そしてイエスと子羊・・・2012年にルーブル美術館で修復が終了。

最初に下絵を公開しましたが、その後変更され、色々なバージョンが存在するようです。

一方、ルイ12世の秘書官からの依頼で糸車の聖母を描いていますが、工房チームの作品が40点ほどあるようです。

1507年にフランス宮廷に届いた作品はもちろん大評判になり、従来の退屈な聖母子像と違い、多くの模写が制作された。

糸車の聖母(ランズダウン版)と呼ばれる。

参考にしているウォルター・アイザックソン著に、気になる記述を見つけました。

・・・マキャベリの秘書官で、レオナルドの友人のメモが2005年に見つかった。

古代ローマの哲学者キケロの本で「画家アベレスはヴィーナスの頭部と上半身を精緻に描いたが、体の他の部分は未完成のままにしていた。」

その横に、「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品も全て同じだ。

例えばリザ・デル・ジョコンドの頭部や、聖母マリアの母である聖アンナの絵のように」とあった。

このメモは、1503年10月のものだった。

・・・「モナ・リザ」と「聖アンナ」はこの時点で、途中まで描かれていたのだった。

1503年にイザベラ・デステの依頼を無視して、絹商人で商売繁盛していたジョコンドの後妻リザの肖像画を描き始めたようです。

フェレンツェ地主の貴族の娘リザは15歳で嫁ぎ、二人の子供が誕生していて、24歳になっていた。

ジョコンドはレオナルドの父親の顧客であり、リザは1479年生まれジュリアーノ・デ・メディチと同じ年

メディチ家のジュリアーノからリザの肖像画を依頼されたという説もあるが・・・、

フィレンツェの幼友達同士、ジュリアーノがフェレンツェを追われた時は、リザも未婚で共に15歳に達していなかった。

「モナ・リザ」・・・とは、マドンナ・リザを縮めたもの、あるいはサライの遺産目録では「ラ・ジョコンダ」と記されている。

ポプラ材の画板に油性絵具、素人の説明は必要ないでしょうが・・・ウォルター・アイザックソン著内で、

ヴァザーリが、・・・まつげはこの上なく細やかに表現されている。・・・

口はうっすらと開かれ、その端で唇の赤と顔の肌色が合わさり、絵の具ではなく本物の皮膚でできているようだ。

喉のくぼみをじっと見ていると、脈打つのがわかるような気がする。・・・

この作品は、ジョコンドに納めることもなく、銀行の記録では対価も受け取っていない。

顧客の注文に応えうるための作品ではなく、永遠に残すために着手から16年後に亡くなるまで、完璧を求め見直しを続けていた。

1503年10月、にフィレンツェ共和国政府から、シニューリア宮殿大会議室に壮大な戦争画の依頼を受けた。

下絵通りに仕上がっていれば、「アンギアーリの戦い」は物語絵画の傑作となっていたのでしょうが、・・・未完に終わる。

レオナルドの下絵は残っておらず、ルーベンスが他の模写を1603年に再模写した中央部分が雰囲気を伝えてくれる。

レオナルドの素描には、人物の考察が残っています。

(アンギアーリの戦い 戦士のデッサン ウォルター・アイザックソン著作より)

ラファエロ、フィレンツェに移りレオナルドの作品に深く影響される。

1504年、ミケランジェロ、花の大聖堂に置かれる予定だった「ダビデ像」が完成、28歳だった。

遅れて、ミケランジェロも同じ大会議室の反対側の壁に巨大な壁画の注文を受けた。

ミケランジェロは、他の芸術家には敵愾心を燃やし、親しい友人や弟子は少ない禁欲的なクリスチャンだった。

レオナルドは美男子で、洗練されていて雄弁、ダンディーな装い、無宗教に近く、ミケランジェロは嫉妬し、険悪していた。

ミケランジェロの与えられたテーマは、「カッシーナの戦い」

・・・しかし描いたのは、兵士が川で水浴び中、敵襲を受けて慌てて岸に上がる裸体の兵士たちだった。(裸体、筋肉を描きたい?)

この下絵を見て、他の画家の批判をめったにしないレオナルドが、裸体を優雅さのかけらもない材木のように描いている。

人間の筋肉ではなく束になった大根、体の全ての筋肉をはっきり描きすぎるのは考えものだ。

デイテールにこだわるレオナルドは、素人目に受ける筋肉描写は、人間ではなく「クルミの大袋」と繰り返し表現している。

1505年、ミケランジェロは壁画に取り掛かる前に、ローマ法王ユリウス2世から霊廟制作の命を受けローマに向かった。

レオナルドは、下図のような昇降式の作業台で描き始めましたが、画材の塗料が壁にうまくつかず苦労していました。

1506年4月、ミラノの裁判所に、2枚目の「岩窟の聖母」の報酬未払いを訴えていた件の判断が下された。

この作品はレオナルドの手が十分に加えられてなく不完全であり、ミラノに来て仕上げなければ報酬は支払われない。

5月末、ミラノへの出立をフィレンツェ政府が3か月の約束で渋々認め、壁画は未完のまま残された。

しかし、3ヶ月後戻らず・・・フィレンツエ政府が罰金を課すと要求したが、ルイ12世らの圧力で反故にし、戻ることは無かった。

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