何気無く大切な一日が、かけがえ無く今日も過ぎてゆく 高橋忠史・多系統萎縮症と生きる・唄い屋。

難病の多系統萎縮症に侵されても音楽を諦めない男のライヴ報告や日々の思い・命のメッセージ

521日目 24時間ライブ・勝坂

2005年08月29日 18時44分25秒 | Weblog
8月28日

 休憩モードに入ってしまい、客席に居座り、チョコチョコと唄いつつ、ほとんどおしゃべり状態になってしまった。てっちゃんが、ステージに上がって唄ってくれたりした事もあったが、深夜から早朝にかけては、のんびりおしゃべりタイムといった感じで時が過ぎていった。

 昨年は、24時間連続ライブと銘打って唄い続けたのだが、今回は、24時間ライブ。みんなで話す事もライブと位置づけして、お酒も飲んで、ゆっくり語り合った。つかれきって眠っている人たちも沢山いた。僕も明け方、一旦、勝坂砦に戻り、1時間ほど眠った。
 酒が残っている状態だったが、本ステージに戻った。その間、わやさんが唄ってつないでくれていたようだ。あまり気張らずに、今日の春野町4箇所移動ライブまでの時間唄った。

 4箇所のライブ場所を設定してくれたのは坂下さんだ。

 移動ライブ最初の場所は、川上地域の、夢プロジェクトの作っている販売店前でのライブで10時からだ。ねっとわーくはるのの酒井さんが協力してくれている。
 音響機材を、仙田さんの軽トラに積み込んで、坂下さんの車と2台で出発したのは9時半。てっちゃんと神谷さんがスタッフとして一緒に行動してくれる。移動スタッフは僕を含めて5人だ。
 勝坂の橋を渡るときに、唄うためにやってきてくれた浦山さんとすれ違った。急いでいたので、手で合図しただけで終わってしまった事を申し訳なく思う。

 国道362号線沿いにある、川上の夢プロジェクトの販売店に着いたのは10時5分。時間もなかったので、音響機材は使わず生演奏で唄う事にした。夢プロジェクトの人達と、酒井さんが呼びかけてくれた人達そしてお店に来た人達20名ほどが聞いてくれた。唄った曲数は4曲。募金も訴えて30分では沢山唄う事ができなかった。皆さんに、募金箱にお金を入れてもらったら、すぐに、次の会場へ移動しなければならなくなった。

 さて次は、熊切地区の清流荘、キャンプ場でもあり夜は飲み屋としても営業しているところだ。山道をくねくねと登り、ひと山越えて、熊切地域へ、目的の清流荘についたのは11時。川原に遊びに来ている人達がバーベキューをしていた。その前に、軽トラックを置いて、その軽トラックの上をステージにするために音響機材をセットして、早速、ライブ開始。バーベキューをしていた中の男性が、僕の事をテレビで見た事があると言って、突然のライブだったのに結構楽しんで聞いてくれていた。募金を募ると、子供達も小銭を入れてくれ、清流荘の人達もお札をいれてくれていた。人数は少なかったのだが、反応は良好。ここでも4曲を歌い。終わったら、すぐに機材を片付けて次に移動。

 今度は、秋葉オートキャンプ場。勝坂から川上、川上から熊切、に比べると、移動距離も少なく、道も広く緩やかで、運転する坂下さんの表情にも余裕が出てきた。秋葉オートキャンプ場は気田川の広い河川敷にある。キャンプ客達は、それぞれにバラけてテントを立てているので、歌う場所が難しかった。
 電源の事もあるので、受付の近くでやる事になったのだが、日陰はない。12時になって、日差しは強くなり、気温も相当上がってきていた。炎天下、立っているだけでクラクラする状態の中で、より多くの人達に訴える為に、広いキャンプ場の真ん中に、軽トラックステージを作って、ライブ開始。みんな遊びに来ているのだから、いくら募金を訴えても、大して効果はないだろうとあきらめていたのだが、5人が黄色いスタッフTシャツを着ていたので目だったのか。募金の訴えに、遠く離れたテントから、お金を持って、子供達や家族連れそして若者達も募金に協力してくれていた。キャンプ場の管理をしている人もお札を入れに来てくれていた。
 炎天下の中での30分、とんでもなく暑かったが、皆さんの協力姿勢のおかげでテンションが上がり、目いっぱいの声で歌った。そして、終了後すぐにみんなで後片付けをして、次の会場の、気田のコンビニエンスストアー、日置に向かった。

 僕ののどはカラカラ、いくら水分をとっても、のどの渇きがおさまらない。たった30分だったが、炎天下のライブで、身体もくたくたに疲れてきていた。

 移動ライブ、最終の、4箇所目の日置駐車場まではとっても近い。1時前に到着して、日置の店内に入って、飲料用の飲み物を購入して、1時まで、しばし休んだ。
 太陽光線は、その日差しをますます強くしていた。コンビニエンスストアーの駐車場は、アスファルトの照り変えしもあって、半端な暑さじゃない。この炎天下で唄うと倒れてしまいそうだった。お客さんも望めない状態だったので、店の前のベンチのある日陰で、生演奏する事にした。お客さんは、お店の人と、偶然立ち寄った少数のお客さんだけだった。ここでは、疲れきっていたので、元気な歌は避けて、やさしい歌ばかりを選んで4曲。募金の訴えにも力が入らなかったが、聞いてくれた人達は少なからず協力をしてくれた。みんなご飯を食べていないので、腹ごしらえのための食料を買い込んでから、勝坂に戻る事にした。
 みんなが、買い物をしているとき、知らん振りを装っているかの振りをしていた大型バイクに乗ってやってきて休んでいた若者の一人が、小銭を持ってきて、はした金ですがと言って、募金箱にお金を入れてくれた。はした金なんかじゃないと心で思い、彼らの心にも、何かしたいという思いがあることを見つけて事に僕は拍手喝さいを送りたかった。が、その場では、疲れきっていて、ありがとうと言うだけに終わってしまった事が残念だった。

 買い物も終わり、勝坂に。戻ったのは4時過ぎだった。やっぱり、わやさんが唄い続けていてくれた。浦山さんは12時には帰って行ったようなので、その後、残った芝さんだけを相手に唄い続けてくれていたんだと思うと、涙が出てくるほどうれしかった。
 でも、うれしかったのはそれだけではなかった。観客で来ていたはずの芝さんも、太鼓と笛の演奏をしてくれていたのだそうだ。

 この勝坂に集まった人達みんなで、僕の勝ってで始めた24時間ライブを続けるために、それぞれがそれぞれのやり方で協力してくれている。
 日本全国各地で「日本テレビ系列の愛は地球を救う24時間」に関連したイベントを企画して行っているだろうが、こんなに少人数で、小さな規模でやっているところは他にはないだろう。でも、集まった人達全員が、それぞれに楽しんでそれぞれのできる事をやりつくしている会場はないだろうと僕は、今回のスタッフそしてお客さんたちを誇りに思う事ができます。1000日連続ライブの中の2回目の24時間ライブ、普段から疲れきっているからだが、さらに疲労に見舞われる事はわかっていながらのイベントだが、残り後2時間と言うところだが、やってよかったという充実感で、身体はボロボロでも、心は錦です。

 わやさん、に変わって唄おうとしたら、疲れている僕の事を思って、一緒に4箇所ライブをスタッフとして回ってくれたてっちゃんが、もう少しやすんだらと言って、ステージに上がって15分ほど僕に休息の時間をくれた。残り1時間半、ステージに上がって唄いだしたら、旧・豊岡村のカーペンター、松井君がやってきてくれた。大工さんの彼は、明日が建前で、仕事は沢山あるらしいのだが、どうしても手伝いたくってと言ってやってきてくれた。ありがたい。

 30分唄って、残り1時間。少しの間、松井君に歌ってもらうう事にしてステージを降りた。やさしい彼の歌声が、疲れた身体にしみいって、思わず眠ってしまいそうになったが、がんばって意識を高めた。松井君の助っ人ライブが終わり、最終の4時まで、残り30分。

 今回の24時間ライブにかかわってくれた総ての人達に感謝の気持ちを込めて、最後の30分を唄った。話す声は枯れていたのだが、心を込めて心から感謝の気持ちを振り絞って唄うと、自分でも信じられないほど声がしっかりと出てくれた。

 4時。 …終了。

 一息いれて後片付け、最後に残った人達は、みんな黄色のスタッフTシャツを着ていた。

 本当に、素敵な24時間でした。僕は、一人感動しています。



 そんな中で、ひとつだけ、24時間の中に汚点がありました。

 今日の午後2時に、静岡第一テレビが来るという連絡があったのは、ずいぶん前だった。その後何の連絡もないまま今日に至った。そのために、2時に勝坂に戻るスケジュールを坂下さんに組んでもらったのだが、結局、何の連絡もなく、静岡第一テレビはやってこなかった。
 来る来ないはどちらでもいいのだが、一度来ると言う連絡を僕に入れたのだから、来ないのなら来ないと言う事を、主催者の僕に連絡すべきだと思うのだが、間違っているだろうか。
 テレビ局にとって、僕達「24時間ライブ実行委員会」の取り組みは、他の諸団体に比べ、ささやかなものなのだろうが、僕達は、ささやかな企画ながら、この24時間のチャリティー企画に全力を注いでがんばって来た。その事を評価してもらうためにやっているわけじゃないから、邪魔をしないでほしかった。
 たった一本の電話で、行けなくなったと短い時間で伝えてくれるだけで、僕達はもっと楽なスケジュールを組み立てる事ができたんだ。

 365日連続ライブを取材し続けて、30分のドキュメント番組まで作ってくれたその当時の静岡第一テレビ報道部の人達とのかかわりがあったからこそ。何かお返しできたらと、昨年「愛は地球を救う、24時間テレビ」の募金活動に協力したいという思いで始めた「24時間ライブ」だ。
 同じ24時間を過ごしても、完全ボランティア体制、完全非営利でがんばっている僕達と、テレビ局で給料をもらって24時間を過ごしている人達では、その重みがまったく違うんだろうなー。
 それは、仕方のない事なんだろうけど、断りの電話一本くれなかった事は、なんだか、悲しい。