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ヘタレ創作ヤログ~人生これでいいのだ!!

原点に立ち返った、創作ヤロウのブログ!
「負け組プータログ!!」からタイトル再変更。でも、今まで通り幅広くいきます~

俺映画第7回

2005年05月16日 22時44分14秒 | 俺的映画人生
このブログで、あえて実名を出してる人は、好意のあかしなんです。
あの当時はありがとう、迷惑かけてごめんね、って。
だから、「自分の名前は伏せてほしい」って人は
DRAMA FACTORY
からメールフォームでその旨伝えてね。



「いざ、シラキュースへ! そして日本」

この頃は女に惚れこんだよな~。
心理学の講義で教科書を貸してくれたミホちゃん、英会話学校で仲良くなった美紀ちゃん、二人ともつれなかったけど、好きやったで~!

まあ、そんなことはさておき、俺はニューヨーク州のシラキュース大学芸術学部映画学科への編入が決まり、渡航の準備に追われた。
シラキュース大学は、東海岸では名門校らしい。
ついていけるかな~という不安はあったが、夏に新入生オリエンテーション(留学生は普通でない)に、大学事務局の手違いで招かれて、3泊5日で現地に行って、俺の決意はより固いものになった。
何せネイティブの新入生向けのオリエンに、わざわざ日本からやってきたわけである。
VIP待遇に近かったね。
普通、オリエンの寮は二人部屋か三人部屋で風呂は別なのに、俺だけ一人部屋バス付だったからね。
学長のスピーチでも「今日は、わざわざ遠い日本から来てくれた学生もいる」と俺について触れられたくらいだから、大学側も慌てていたのだろう。
オリエンは、まあ日本でいえば幼稚園の歓迎会みたいなフレンドリーなもので、楽しかったね。
パツキンのピチピチギャルと話したのも、生まれて初めての経験だった。
俺も国際人や!
そんな勘違いをしたものだった。

そして、夏の終わりごろに渡米した。
シラキュース大学には二つ映画学科があって、ひとつは俺が編入した芸術学部の映画学科、もう一方は全米No.1に格付けされたNEWHOUSEという別名を持つコミュニケーション学部のテレビ・ラジオ・映画学科で、非常にこの二つの学科は仲が悪かったんだな。
講師からして競い合ってたからな。
でも、就職率では圧倒的にNEWHOUSEの方が高かったけどね。
芸術学部の方は、どちらかというとインディペンデント系の映画作りを教える傾向だった。
ただ、面白い事に、アメリカで何回か撮影に挑んだけど、楽しさという観点からはむしろ座学の方が面白かった。
これはにっかつとは正反対だったね。
やっぱ講師の人間性とか、アメリカンは違うね。
特に面白かったのが「ホラー映画概論」。
目からうろこの理論がいっぱいつまった授業だった。
もちろん俺は「映画史」の授業も「ホラー概論」でもAをとったよ。

俺にとってもっとも大変な授業だったのが「シナリオ」。
台詞の重要さを教えてくれた重要な授業でもあったんだ。
英語が多少できるといってもネイティブじゃない俺は、キャラを引き立たせる台詞、かっこいい台詞は書けない。
そのことを講師に痛烈に指摘されたね。
だから、逆に奮い立って、講師の助手をしてた大学院生のところに日参して台詞をチェックしてもらった。
この授業では、中村くんというもう一人の日本人と共同で、次の学期に撮影する映画の脚本を書くことになっていたんだけど、中村くんとはネタをちょこっと打ち合わせして、あとはほとんど俺が書いて、院生のところに日参していた。
院生の彼女(名前忘れた)は親切に教えてくれたよ。
彼女も日本映画に少し興味があって、そんな話をしながらホンの手直しをしてたな。
結局このシナリオが最終的に講師に気に入られて、映画学科全体で話題になってしまった。この授業もAをもらいました。

実作の授業は、結構大変だった。
機材はNEWHOUSEと共同の倉庫から自分で借りてきて、重たい照明機材を豪雪のなか滑車で運んだっけな。
で、いざ撮影ってときに、同じ学科で同じ寮の同じフロアで、よくつるんでたエリオット・ゴールドステインが余計な口出ししてきて、俺の作品なのにやつが演出し始めちゃったので、次の撮影からは彼に隠れてやった。
もちろん彼が演出した部分は全部捨てたよ。
エリオットの絵コンテは面白かった。
エジプトの壁画みたいなコンテで、絵よりも説明文の方がわかりやすい絵コンテを見るのは生まれて初めてだった(笑)。

学期の最後に、講師陣の前で上映するんだけど、これがかなり厳しいって話で、酷評される率が非常に高いらしかった。
中村くんの撮った、女の子が殺されるホラー映画はボロクソに言われてた。
「何で女の子が殺されなきゃならないの?」
「こういう映画が撮りたいっていう理由だけでは映画は成立しない」
何もそこまで言わなくても、ていうくらいのつっこみ。
正直俺はびびっていた。
上映なんかしたくない。
もうこの場から逃げ出したいなァと。
でも、時間は容赦ない。
俺の番が回ってきた。
仕方なく俺はムビオラ(16mm編集機)にフィルムを通して、上映した。
上映が終わって、しばらくの静寂。
こうなりゃ、まな板の上の鯉。
好きにしやがれ!
ところが、最初に口を開いた学科のディレクターが「ナイスイメージ」と褒めてくれたのだ。
俺が笑いを仕込んだところも上手く成功していて「演出の計算が成功してる」と評価された。
音響は、高校時代からこだわる主義だったから「覇王別姫」のサントラ使ったんだけど、これも「サントラもいいね」と絶賛。
マイナス評価は誰もしなかった。
この上映会で得た自信が今の俺を支えているといっても過言じゃない。
何せ本場で俺の演出が認められたんだから。

女関係では、寮の同じフロアーのメラニーちゃんがよく声をかけてくれたな。
サンクスギビングの時に「家に来ない?」と誘ってくれたんだが、フィラデルフィアの友人とこに行く予定だったので、断っちまった。
ああ、朴念仁。

だが、神様って意地悪なのね。
俺がそうしている間に、我が家の家計は火の車。
とても俺が留学を続けられる状態ではなかった。

春学期が終わって、一時帰国のつもりで帰った俺を待っていたのは、我が家の惨状だった。
俺は親父と話し合って、LOA(休学)をとることに決め、代わりに学費が比べられないくらい安い日本のシナリオ学校に通う事に決めた。
監督になるために、まずシナリオで成功を収めて、という考えからだった。

で、日本シナリオ作家協会シナリオ講座27期研修科に入学したんだ。
講師は、掛札昌裕、桂 千穂、柏原寛司の三氏。
あるシナリオ学校では、シナリオライターでもなんでもない人が教えているというから、この三氏について学べるのはラッキーだった。
特に柏原さんは、「面白い」とか「つまんない」とか漠然とした感想を言うんじゃなくて、的確に弱点を指摘してくれ、「俺ならこうするよ」とヒントをくれる。
そういう教え方をされると、こちらは「なら俺はこうしてみる」と違った味付けが考えつくんだ。
この学校で学んでよかったと思ってるよ。

家計が厳しいのは変わらないから、俺もバイトしなきゃ、ってことで、たまたま英語を売りにしたバイトを探してたら見つかったのがICSという、JTB子会社のイベント・セミナー(お堅い系)専門会社のスタッフだった。
金目当てでやり始めたバイトだったが、やはりお堅い系とは言ってもイベントっていうのは現場が命。
映画の現場でもどの現場でも、現場経験っていうのは重要だね。
イベントは特に生ものだから、いざってときの咄嗟の判断が瞬時にできるかどうかがポイント。
映画製作で培った、現場の勘みたいなのが、ここで役に立った。
始めてすぐに現場でのあらゆるニーズにこたえられるようになったし、現場の社員からの評価が高くなって、2年目からは「自分の現場に村田を」って声が多かったらしい。
俺は、というと仕事も楽しかったが、バイトにくるほとんどが学生で、可愛い女の子が多かったので、恋愛しまくり(すべて片思いだったが)。
スピーカー受付を二人で一緒にやった中畠さん、色んな現場で一緒になった不思議ちゃんの斉藤さん、ちょっとヤンキーっぽかったが愛らしかった山口さん、みんな好きやったで~!
この幸せは、親父が心筋梗塞で死ぬまで続いた。

以降のことは次回で。

俺の青春の火は消えかけていた…。

俺映画第6回

2005年05月08日 22時12分16秒 | 俺的映画人生
にっかつ退学から、留学決意までの過渡期が今回のメイン。
振り返ると、色々あったなぁ&年食ったなぁ、とため息漏れ漏れです。


「日本映像界の憂鬱~アメリカへの憧れ」

にっかつを辞めて、しばらくしてから大阪のテレビ番組制作会社に来ないかって話が知人からあって、俺は真剣に考えた。
その知人は、俺に「シナリオを勉強したほうがいい」と言って、ある人を紹介してくれた。
日本脚本家連盟理事の西条道彦先生だった。
西条先生は、俺の書いたくだらない短編シナリオを読み終わると、うーむと少し考え込み、こう言った。
「映像をやるならシナリオ学校に通うより現場に出なさい。ドラマよりもバラエティの構成(放送作家という)の方が出やすい」
知人は、その言葉を聞いて、俺を大阪に呼ぶのを辞めた。
そして、西条先生の紹介でとある放送作家集団のリーダーに会いに日本テレビのスタジオに出かけた。
とある番組の収録を陰で見学させてもらったあと、そのリーダーと話をしたんだけど、話がかみ合わない。
「ドラマがやりたいんなら、ディレクターズカンパニーでも行って草履取りやったほうがいい」
いわゆる門前払いだった。
そのことを西条先生に報告すると、「構成をやってる人間にはドラマをやる人間に対する嫉妬心のようなものがある。でも、君は現場に出たほうがいい。」といって再度そのリーダーを説得してくれ、俺は後日、その集団の副リーダーに会いにナベプロに行った。
ろくな話もせずに、俺は編集スタジオに連れて行かれ、いきなり深夜番組の打ち合わせに参加させられた。
もちろん何の番組だかわからない打ち合わせに、バラエティ経験皆無の俺がついていけるわけはない。
ただ、呆然と打ち合わせを見学し、その後六本木の中華屋で副リーダーと若手構成作家のひとりと食事をした。
その時にはじめて「きみは何をしたいの?」と聞かれたので、「映画監督になりたいです」と答えた。
特別な反応はなく、食事も終り、帰り際に「また連絡する」と言われ、俺は帰宅した。
その後、連絡がくることはなく(彼らは連絡した、と主張したらしいが)、俺も「縁がなかったんだな」とあきらめた。

それを不憫に思ったのだろう。
母の知人が、「知り合いに映画監督がいる」と紹介してくれたのが、一応商業映画監督だったN氏。
会うなり、N氏は「映画よりテレビの情報番組の方が実績になる」と言った。
確かに彼は、商業監督として売れてるとはお世辞にもいえない監督だったし、当時テレビの某情報番組ではそこそこの業績をあげていたから、当然といえば当然の言葉だった。
そして、再び俺はN氏にその番組を制作しているスポニチテレビニュース社に紹介された。
お偉い方の面接は好感触だったが、これも「じゃあ、また連絡するから」の言葉を最後に待てど暮らせど連絡が来なくなった。
同時にN氏との連絡も途絶えた。

誰に紹介されても「映画よりテレビ」と当時は言われ、いざ紹介されてみると「いっこうに連絡がこない」の繰り返し。
知人に紹介されていった某製作会社(のちにヤラセ事件を起こす)の社長にも「映画やりたきゃ映画やれば」と門前払いをくらい、俺の日本の映像業界に対する不信感は頂点に達した。

当時22歳。
振り回されて絶望して当たり前の年齢だ。

だが、「転んでもタダでは起きない」が座右の銘の俺は、次の手を考えた。

ひとつは自主映画。
この年の夏には本田さんと共同プロデュースで2本撮った。
ひとつは本田監督の「沙希」。
これは城南高校映画部で、Y女史が脚本を書きながら、実現しなかった企画を、俺が脚本を書き直してリメイクしたものだったが、出来上がりは…。
「本田さーん!(怒)」
もう一本は俺の代表作「土鍋」。
これは当時のにっかつの池原くんを見て(顎鬚モジャモジャにモヒカンといういでたち)パッとアタマに浮かんだネタをそのまま映画にしたものだ。
御伽噺の「金の斧、普通の斧」のネタをパロッたんだ。
これは、今でも気に入っている。
たぶんにっかつの卒製では出来ないネタだったろう。

そしてもうひとつが「留学」。
しごく単純だったが、一度は目指したことだ。
「ゴーイング・トゥ・アメリカ」
日本の映像業界に入るにしろあきらめるにしろ、本場を知らない手はない。
かくして俺は女にフラれながらも英語の勉強に没頭し、翌年テンプル大学JAPANに入学した。
最初は英語教育機関への入学だったが1学期で一般教育学部への入学が許可され、同時にたまたまとった演劇の授業で講師のハンク・ロバーツに誘われて演劇部(部活だったかどうかはいまだに不明)に入ることになった。

そこですぐに仲良くなったのが、帰国子女の面々だった。
生まれも育ちもNYのりさ、オハイオで青春していた佳世、こまかいプロフは忘れたが卒業間近で楽観家の佳子、アメリカ映画に憧れ、UCLA(だったっけ?)を目指していたヨリ、そしてテンプル大学本校(フィラデルフィア)から帰国直後の寛、その他にもいたがこの場では省く。
一時夢見た大学生活がようやく実現したひと時だったね。
また演劇の楽しさを覚えたのもこの時期だった。
最初にチョイ役兼スタッフで参加した「ハイジ・クロニクル」は、いまだによくストーリーわかってないけど、メイキングビデオ作ったりして楽しかった。
この頃はドキュメントを作るのに結構はまってたな。
城南高校映画部のフィルムをビデオに落として編集して、映画部のメモリアルビデオを作ったりしてたっけな。
演劇第二段の「6rms Riv Vu」では主役を演じた。
さすがに主役で、しかもほとんど二人芝居の舞台だから台詞も多く覚えなければならなかった関係上、ストーリーは把握したものの、やはり長ぜりふを覚えるのは至難の業だった。
でもね、舞台上で、うまくいった時はもちろんのこと、NG出して冷や汗かいても楽しかった。
舞台ってのは観客と一体になれるのが、なによりも楽しい。
「6rms Riv Vu」はコメディだったので、笑わせるシーンで、観客が笑ってくれると超嬉しかった。

他にも、ハーフの女の子とデートに明け暮れたり、ショート映画撮ったり、テンプル大学JAPANには楽しい思い出しかない。
ショート映画は「土鍋」路線のナンセンスギャグ「5人の怒れる若者」と「死亡遊戯」の2本をこの年は撮った。主役を演じたのは寛。彼は、俺がそれまで会った素人俳優の中ではぴか一の演技力をほこっていた。
マジメな男だったが、コメディをやらせると、これくらいうまいやつはなかなかいないね。

とにかく、俺のアメリカへの憧れは頂点に達していた。

そして翌年、本土の大学の映画学科に編入するわけだが、そのお話しはまた、ということで。

テンプルは熱く燃えていた!

俺映画第5回は

2005年05月02日 21時05分41秒 | 俺的映画人生
にっかつ芸術学院での青春を書こうと思ったけど、愚痴にしかならないかもな(笑)。
まあ、政治ドラマでも読む感じでみてください。


「小説・にっかつ芸術学院」

「魔胎伝」の監督には本田さんが立候補し、対抗馬なしで決まった。俺はプロデューサーになったんだ。
初会合は、にっかつの食堂で行われた。そこには覚えているだけで池原、工藤、小松、関、堀内、日比野の各氏だったかな?(抜けてる人いたらゴメン)。
そこで何を話し合ったのかはもう忘れた(笑)。
ただ本田監督の承認と、「魔胎伝」のGoサインを出したのだけは確か。
で、役者は「せっかくだから俳優科に頼もう」となったわけだが、これが後々のトラブルの元だった。
打ち合わせの後日、俳優科と合同で撮影研修があったんだけど、そこで本田さんやこまっちゃんが色々声をかけてきて、最終的に俳優科から仁井田くん、宮内くん、南塚くん、関塚さん、野口さんが集まった(これも抜けがあったらごめんなさい)。
問題は、すでにこの時点で主役の渡辺剛造役にこまっちゃんをキャスティングしていたことだった。
俳優科は、快く映画出演を承諾してくれたが、どうも煮え切らない。「なんでだろう」と自宅で考えてたところに本田さんから電話が。
「こまっちゃんが主役ってのが気に入らないって言うんだよ!」
本田さんは怒り心頭に達していたのか、泣き声だった。
つまるところ、彼らに言わせれば、せっかく俳優科が出演するのに、主役がなんで映像科の人間なんだ?ということだったらしい。
脚本担当の俺に言わせれば、俳優科参入前からキャラ作りに入っていて、主役はキザな関西人という設定にしていたから、こまっちゃん以外考えてなかった。
こまっちゃんは演劇もやっていたし、一発目の自主映画企画の主役にはもってこいだろう、と俺は考えたわけだが、それが俳優科には理解してもらえなかった。
プロデューサーとして、俺は決断を迫られていた。
俳優科をきるか、こまっちゃんを降板するか。
俳優科をきってしまえば、たちどころに役者がいなくなってしまうので、これはどう考えてもNGだった。
こまっちゃんを降板する、という選択肢は、こまっちゃん以上に「キザな関西人」を演じられる人間がいれば俺も抵抗感が少なかったが、当時つきあいのある俳優科の中にそんな人はいなかった。出演承諾した俳優科の誰を登板しても、こまっちゃんのインパクトを超えられないのは明白だった。

でも、結局政治を優先しました。

こまっちゃんと電話会談し、こまっちゃんも「俺が降りることでまとまるなら」と半ば俳優科の我儘に呆れながらも承諾してくれたので、泣いて抗議する本田さんを説得して、こまっちゃんを主役から降板したのだった。
まあ、無難な人を後任にってことで、一番人の良さそうだった仁井田くんに主役をオファーして、俳優科のクレームをかわすことに成功したが、俺の中には俳優科に対する不信感がこの頃から芽生え始めたね。
このキャスティングは、でも失敗だったと俺は思っている。

「魔胎伝」は結局完成してない。
フィルムが一本欠損したことが理由だが、これが俺の立場を微妙にしたのは想像に難くないでしょう。
また、これの撮影はだらだらと行われていたこともあって、俳優科から不信感を買った。
わがまま聞いてやったのに不信感を持たれるのはきわめて遺憾なことだが、まぁ当時はみんな若かったから、しょうがないね。
そんないきさつがあって、次回作の「狂気への逃避行」(俺監督作)へは同じ俳優は非協力的で、使えなかった。
で、俳優科のつきあいの幅を広げて、「魔胎伝」とはまったく違うキャスティングで撮影を開始したんだが、いざ始めてみると、この作品はオールオープン(野外)撮影なのだけど、そのロケ場所を追い出されてしまった。
その後俺達はロケ場所を探してジプシーと化した。
結局、管理の甘い横浜市のとある公園で撮影再開となったのだが、十分な時間がとれず、俺は製作中止を決めた。

「魔胎伝」と「狂気への逃避行」。
この2作の頓挫で、両作のプロデューサーである俺の立場は完全に失われたんだ。
何か責任を取らなければ。
政治家ってよくこういうときに辞職するじゃない?
俺もそれを真似て、にっかつ芸術学院を辞職しました(笑)。
いや、ホントそれだけなんだよ。
学校辞めたのって、たぶん他の連中は「嫌になったんだろう」とか思ってたと思うけど、俺は本気で政治家の引退を気取ってただけ。
「日本で映画を勉強する」というテーマはすでに俺の中ではクリアになっていたし、俺は次のことを考えていたんだ。
それは、現場に出ること。
まさか、それがアメリカ行きになるとは、当時思いもしなかったが…。

以降は次回!

にっかつは燃え尽きた

俺映画第4回

2005年04月26日 20時23分08秒 | 俺的映画人生
さびしく幕を下ろした高校生活…。
だけど、俺はくさってはいなかった。
映画への情熱は燃え盛っていたのよ。
ってなわけで、第4回をどうぞ!


「映画部のあと~にっかつ芸術学院への道」

映画部引退から城南高校卒業までについて少し触れておこう。
引退後、大学生になっていたK氏と「ファイナル・ジャーニー」を16mmモノクロで撮ろう!と話を進めていたが、彼がイギリス留学を決意したため頓挫、結局映画プロジェクトにはその後しばらく携わらなくなる。
ちなみに先輩のH氏はすでにアメリカに留学していた。
映画部出身者は留学者が多いんですな。
で、俺はH氏に憧れ(環境にね)、アメリカ留学を目指すようになり、高校卒業と同時に、今は無きピッツバーグ大学ELI日本校に入学する。
ここで俺は英語に初めて触れる事になるが、映画とは関係ないので、今は詳しい説明ははぶく。でもこの頃も楽しかったな。
外人の先生達と飲みに行ったり、カラオケ行ったり。なんといってもアメリカ本土に憧れていたからね。
でも、それ以上に俺は日本の学校生活に憧れるようになり、ここを中退し、しばらくフラフラしていた。
ここらへんは、俺が就職面接の時にいつも「フリーターやってました」とごまかす部分だ。
そんな折、H氏=本田さんがアメリカから帰国した。
もう未成年じゃないから、実名公表に踏み切ります。
本田さんはアメリカへいく前の誠実な少年からファンキーな若者に変貌していたが、映画への情熱は冷めてなかったらしく、俺が決めていた日本での映画学校入学に彼も付き合う形で当時のにっかつ芸術学院映像科に入学した。
にっかつ芸術学院には日本映画学校落選者が多く入学していたが、かくいう俺もその一人。でも「日本映画学校は農村実習があるからやだったんだ」と豪語していた。日本映画学校落ちの人間は皆同じような強がりを言ってたっけな。
で、初日に本田さんと二人で休憩所=喫煙所にいったところで、本田さんから声をかけたんだったか、逆だったか忘れたが、タバコの火を本田さんが貸したのが小松氏=こまっちゃんだった。
それ以降急速に仲がよくなった俺らは常に教室の最前列に座る優等生となった!って別に優等生だったわけじゃないが、なんで最前列に座ったんだろうなァ。
忘れた。
シナリオの授業では最前列で三人して居眠りをかぶり、先生に「いい度胸してるな!」としかられたっけな。つまらなかったんだよ、アンタの授業がさ。もう死んじゃったからこのブログを見ることはないだろうけどさ。
おっと話がそれたな。
自己紹介が初日に確かあって、その時にすでに仲良しだった俺、本田さんとこまっちゃんは自己紹介の時に「一緒に自主映画やりませんか!」と力説したんだ。
それに一番に食いついてきたのが、故・飯田くん。
飯田くんはすごい情熱を燃やしてたな。「是非一緒にやろうよ!」ってね。
で、その後生徒会の歓迎会があって、1次会でターゲット(女)を見つけた飯田くんは、彼女らとともに2次会へ。
「がんばってな~」
それが彼に送った最後の言葉になった。
2次会で彼はビルのトイレから落ちて亡くなった。
今でも事故だか自殺だかわからない。
俺達は少なからずショックを受けたね。
そして彼の死を乗り越え、集まった10人近い同士たちとともに初のプロジェクト「魔胎伝」の製作に着手したのだったが・・・。

つづきは次回!

にっかつは燃えた!

第三回は

2005年04月23日 21時11分58秒 | 俺的映画人生
いよいよ城南高校映画部の最後だ。
俺にとっての最後じゃなくて、ホントに最後ってところがさみしいやら、くやしいやら、どうでもいいやらで。でもその責任は当時の俺にあった。でもそれは過去の話。責めるのはやめてね。デモしないでね。投石もやめてね
というわけで、映画部の最終章を読んでやってください。


「城南高校映画部の終焉」

 彼女らの暴走は、次回作「フォーリナー」から始まった。先輩(俺)に対するタメ口に始まり暴言、撮影のボイコットなど、この頃は最悪だったな。でも、これは俺のせい。ATとの児童福祉法違反的交際に没頭し、彼女らのことを真剣に考えてなかった。部活であることを考えれば、また女所帯で男一人という状態を考えれば、恋愛ざたはご法度である。ホントよ、これ。今これみてる部活動やってる共学の高校生はよく考えた方がいいよ。男女混在の部活に恋愛はご法度です。特にどちらかの数が極端に少ない場合はね。
というわけで、半ば部の崩壊状態のまま「フォーリナー」の撮影を終え、俺は矢継ぎ早に一年ぶりの監督作「DREAMER」の撮影に入った。この行動の早さが、一時的に部活動に命を与えた。
作品の解説をしておくと、「フォーリナー」は不老不死の秘薬を探して行方不明になった兄を探してほしいと頼まれた探偵が、その依頼人の女とともにジャングルを探検する、インディジョーンズみたいなアクションもので、宇宙人が出てきて滅茶苦茶になる話。「DREAMER」は、悪夢から抜け出せない男の話。絵で見せるタイプの映画ね。
文化祭当日は、AT以外非協力的で、OBの松田氏も呆れていたくらい。
その後、部活動を一時休止し、春に復活させて2本撮った。
1本はOが脚本、Tが監督を買って出たファンタジックコメディ「HAPPY BIRTHDAY」で、俺は敢てノータッチ。これは翌年俺は早めに引退するつもりだったから、俺抜きでちゃんとできるか確認しときたかったのが意図なんだけど、これも「非協力的」と悪い方にとられた。これを最後にOは何故か俺をビンタして退部。残りのメンバーで、俺が脚本、ATが監督というやってはならない企画「ZONE」を撮影。これは夢枕 漠さんの短編を基にしたものなんだけど、わけわからんといえばわからん内容だね。狭い一室で気づいた少女はたまたまそこにいた入院中のはずの友人とともにそこを逃げ出すが…というスリラー。
これを上映するときのためにアンケートを作ったんだけど、AT以外の他のメンバーは、よほど「HAPPY BIRTHDAY」に自信があったらしく、見た作品に順位をつけたい、といってきた。もちろん、俺はダメだと言った。だって結果はどうなるか見えていたし、それをすることによって余計翌年のATとT&Uの関係が悪化するのを恐れたんだ。だが、それが原因で、UもTも退部。結局映画部は俺とATしか残らなかった。
そんなギリギリの状態で新入生勧誘用上映会をしたところ、丁度良くそこに来た3人の新入生がみなATの後輩だったこともあり、全員強制入部させ、映画部廃部の危機をその時は脱した。
で、入った3人だけど、何か個性のない連中でね。こいつらで俺の映画部での最後の作品「星祭の夜」を製作するんだけど、撮影はしごく順調。でもなんか違うのよね~。部活としての面白さがまるでなかった。「星祭の夜」は、強制収容所を脱走した児童達が真相をつきとめようとするスリラーだったんだけど、みんな演技下手でね。まあそこらへんはしょうがないんだけど、俺は結構この作品は気に入ってる。もうフィルムから落としたビデオがかびちゃって、見る事はほぼ不可能なんだけど。
さて、やはり部活に恋愛は禁物でした。「星祭」の撮影中に俺とATは破局。映画は完成し、文化祭で上映して好評を博したけど、その後部は実質的に活動停止、俺が引退後は廃部状態になったみたいだった。
卒業式に後輩に花をもらわなかったのは、俺が知ってる映画部員では俺だけじゃないかな(笑)。こうしてさみしく俺は高校生活を終えた。
城南高校映画部のその後は、俺が卒業した年に入ってきた1年生が一度復興しようとしたらしいが、どうやら失敗したらしい。何年か後に文化祭にH氏と行ったら映画部の名前はリストになかったよ。
こうして、時代の波とともに映画部は消え去った。
そして、俺は新たな状況に飛び込むことになるが…。

その後のことは、次回!

よろしく!!

俺的映画人生第二回!

2005年04月21日 21時12分00秒 | 俺的映画人生
なんか、書く気が起きてきたナァ。過去の話を面白おかしく語るって、ストレス解消にもってこいだったのね。
さて、今回は二回目。
一回目は下の投稿だから、読んでない人はひとつ下の記事から読んでね。

「女難!城南高校映画部」

 本田氏の企画は、一言で言えば夢に翻弄される男が最後は彼女と仲良く帰る、という、ただ単に本田氏が鴨田さんと仲良くしたかっただけの企画だったが、山口さんのアリス企画「DREAM TIME」と並行して撮影された。「Illusion」と名づけられたこの作品、完成したのは翌年の春。撮影はこの秋時期に終わってたんだけど、フィルムの現像が間に合わなくて、文化祭には出展できなかったため、翌年まで放置プレイ状態だったわけだ。それが理由で、もう1本文化祭用に必要になった。そこで急遽俺がプロット書いて、シナリオならぬプロットで撮影された監督処女作「Over the Dream」と「DREAM~」の2本で文化祭に挑んだ。
 文化祭は、結果的には成功だった。お客も百人近く入ったし、評価も良好。遊びに来たOB連中とも仲良くなったいい機会だった。
 鴨田さんと、俺達の淡い恋物語はこの後終焉を迎える。そりゃそうだ。他にも女の子がいるなかで(映画部はいつしか女所帯になっていた)ひとりだけ男連中がチヤホヤすれば、ご本人も、また周りの女の子達も内心穏やかではなかったはず。そんなわけで鴨田さんは部活をやめ、俺達は二度と彼女と仲良く遊ぶことはなかった。
 翌年の春に久々に金子氏を監督に登板して、新入生歓迎用に「宝」という作品を撮った。映画部みんなで宝探しをするというばかばかしい話だったが、何故だか強引に進められ、完成にこぎつけた。
 で、翌年の上映会でこれを上映したら、たった二人の見に来た新入生に気持ち悪がれ、逃げられ、新入生獲得の機を逃した。だが、その後変な意味で映画に情熱を燃やす新入生のTAさん(この年度の方々は都合によりイニシャルにします)、なんとなく興味をもったATさん、OMさん、Tさん、そして最後に宮崎アニメが特に好きだったUさんが入って、映画部は新しい血を得て、大飛躍するはずだったんだが、これが映画部の、というか俺の女難の相の始まりだった。
 新入生とくれば、「誰が可愛いか」となり、金子氏はOMさん、俺はATさんを狙い、これが見事に的中(人生でこれほどうまくいったことは後にも先にもこれだけ)!生まれて初めて彼女が出来て有頂天だった俺は、少し偏った部の運営をし始めていた(部長になっていたんです)。ATさんの近所の公園で、二人で児童福祉法違反を犯しつつ(おっと検閲対象になるので、これ以上はだめ~ん)、新生映画部の初作品「リフレイン」に取り掛かっていた。この脚本は、Tさんが書いたんだけど、ドロドロしすぎてきつかったらしい。プロデューサーなのに、俺ってこのホンは読んだ記憶がない。
まあ高校生だからいっか。
で、「宝」にひきつづいて監督を務める金子氏は相当苦労して脚色したらしい。これの撮影は、元々リベラルな考えをもつ金子氏がリードして進められたから、部の規律は著しく乱れた。新入生は、我々のことを同士とは思えども先輩とは思わなくなってしまった。
これ以降、彼女達の暴走が始まるのだった。

と、きりのいいところでつづく。
次は城南高校映画部の最後ね。

ここも

2005年04月19日 22時21分34秒 | 俺的映画人生
シナリオの辛気臭い話ばっかりで、つまんないでしょ?
だから、ちょっとやめにして、その代わり「今までの俺の映画人生」を語ります。
俺イズムってやつですが、つきあってね

というわけで第一回、よろしゅうおねがいいたしやす。

「城南高校映画部との出会い」

高校に入って絶対すると決めていたのが映画部に入部することだった。
中学で痛い目にあっていたから、もう絶対映画撮ってやるって息巻いてたな。
でも、入部しても企画は乱立すれど、すべて撮影になったとたん部員がさぼりはじめて撮影できず、結局本格的に撮影に入ったのは2学期に入ってしばらくたってからだった。
それまで部の企画番長だった金子氏を降板し、バイトでさぼりまくっていた部長の山口女史を呼び戻して企画を考えてもらった。なぜ俺が考えなかったかって?全部金子氏にボツにされて、その当時は企画力が低下していたからさ。
話を戻そう。
山口さんは、結構ファンタジックな構成をするとうまい女の子だったから、できあがったプロットは不思議の国のアリス城南高校版的な内容だったが、そういうのって以外といいもんなんだ。自主ってドロドロしたのが多いからね。そうして初のクランクアップをこの作品で迎え、映画部の雰囲気は頂点に達した。
アリス役の鴨田女史は、金子氏と最年長の本田氏と俺とで憧れバトルを繰り広げた、当時の映画部の華。なっつかしいなー。このブログみつけたら、コメントお願いします!!
話を戻して。。。
この頃本田さんが「俺、なんとなくやりたいものがあるんだよ」って読めない字で紙一枚に書きなぐってきたのがあったんだけど、それがどういう企画だったか。
それは次回、ということでよろしく~。