このブログで、あえて実名を出してる人は、好意のあかしなんです。
あの当時はありがとう、迷惑かけてごめんね、って。
だから、「自分の名前は伏せてほしい」って人は
DRAMA FACTORY
からメールフォームでその旨伝えてね。
「いざ、シラキュースへ! そして日本」
この頃は女に惚れこんだよな~。
心理学の講義で教科書を貸してくれたミホちゃん、英会話学校で仲良くなった美紀ちゃん、二人ともつれなかったけど、好きやったで~!
まあ、そんなことはさておき、俺はニューヨーク州のシラキュース大学芸術学部映画学科への編入が決まり、渡航の準備に追われた。
シラキュース大学は、東海岸では名門校らしい。
ついていけるかな~という不安はあったが、夏に新入生オリエンテーション(留学生は普通でない)に、大学事務局の手違いで招かれて、3泊5日で現地に行って、俺の決意はより固いものになった。
何せネイティブの新入生向けのオリエンに、わざわざ日本からやってきたわけである。
VIP待遇に近かったね。
普通、オリエンの寮は二人部屋か三人部屋で風呂は別なのに、俺だけ一人部屋バス付だったからね。
学長のスピーチでも「今日は、わざわざ遠い日本から来てくれた学生もいる」と俺について触れられたくらいだから、大学側も慌てていたのだろう。
オリエンは、まあ日本でいえば幼稚園の歓迎会みたいなフレンドリーなもので、楽しかったね。
パツキンのピチピチギャルと話したのも、生まれて初めての経験だった。
俺も国際人や!
そんな勘違いをしたものだった。
そして、夏の終わりごろに渡米した。
シラキュース大学には二つ映画学科があって、ひとつは俺が編入した芸術学部の映画学科、もう一方は全米No.1に格付けされたNEWHOUSEという別名を持つコミュニケーション学部のテレビ・ラジオ・映画学科で、非常にこの二つの学科は仲が悪かったんだな。
講師からして競い合ってたからな。
でも、就職率では圧倒的にNEWHOUSEの方が高かったけどね。
芸術学部の方は、どちらかというとインディペンデント系の映画作りを教える傾向だった。
ただ、面白い事に、アメリカで何回か撮影に挑んだけど、楽しさという観点からはむしろ座学の方が面白かった。
これはにっかつとは正反対だったね。
やっぱ講師の人間性とか、アメリカンは違うね。
特に面白かったのが「ホラー映画概論」。
目からうろこの理論がいっぱいつまった授業だった。
もちろん俺は「映画史」の授業も「ホラー概論」でもAをとったよ。
俺にとってもっとも大変な授業だったのが「シナリオ」。
台詞の重要さを教えてくれた重要な授業でもあったんだ。
英語が多少できるといってもネイティブじゃない俺は、キャラを引き立たせる台詞、かっこいい台詞は書けない。
そのことを講師に痛烈に指摘されたね。
だから、逆に奮い立って、講師の助手をしてた大学院生のところに日参して台詞をチェックしてもらった。
この授業では、中村くんというもう一人の日本人と共同で、次の学期に撮影する映画の脚本を書くことになっていたんだけど、中村くんとはネタをちょこっと打ち合わせして、あとはほとんど俺が書いて、院生のところに日参していた。
院生の彼女(名前忘れた)は親切に教えてくれたよ。
彼女も日本映画に少し興味があって、そんな話をしながらホンの手直しをしてたな。
結局このシナリオが最終的に講師に気に入られて、映画学科全体で話題になってしまった。この授業もAをもらいました。
実作の授業は、結構大変だった。
機材はNEWHOUSEと共同の倉庫から自分で借りてきて、重たい照明機材を豪雪のなか滑車で運んだっけな。
で、いざ撮影ってときに、同じ学科で同じ寮の同じフロアで、よくつるんでたエリオット・ゴールドステインが余計な口出ししてきて、俺の作品なのにやつが演出し始めちゃったので、次の撮影からは彼に隠れてやった。
もちろん彼が演出した部分は全部捨てたよ。
エリオットの絵コンテは面白かった。
エジプトの壁画みたいなコンテで、絵よりも説明文の方がわかりやすい絵コンテを見るのは生まれて初めてだった(笑)。
学期の最後に、講師陣の前で上映するんだけど、これがかなり厳しいって話で、酷評される率が非常に高いらしかった。
中村くんの撮った、女の子が殺されるホラー映画はボロクソに言われてた。
「何で女の子が殺されなきゃならないの?」
「こういう映画が撮りたいっていう理由だけでは映画は成立しない」
何もそこまで言わなくても、ていうくらいのつっこみ。
正直俺はびびっていた。
上映なんかしたくない。
もうこの場から逃げ出したいなァと。
でも、時間は容赦ない。
俺の番が回ってきた。
仕方なく俺はムビオラ(16mm編集機)にフィルムを通して、上映した。
上映が終わって、しばらくの静寂。
こうなりゃ、まな板の上の鯉。
好きにしやがれ!
ところが、最初に口を開いた学科のディレクターが「ナイスイメージ」と褒めてくれたのだ。
俺が笑いを仕込んだところも上手く成功していて「演出の計算が成功してる」と評価された。
音響は、高校時代からこだわる主義だったから「覇王別姫」のサントラ使ったんだけど、これも「サントラもいいね」と絶賛。
マイナス評価は誰もしなかった。
この上映会で得た自信が今の俺を支えているといっても過言じゃない。
何せ本場で俺の演出が認められたんだから。
女関係では、寮の同じフロアーのメラニーちゃんがよく声をかけてくれたな。
サンクスギビングの時に「家に来ない?」と誘ってくれたんだが、フィラデルフィアの友人とこに行く予定だったので、断っちまった。
ああ、朴念仁。
だが、神様って意地悪なのね。
俺がそうしている間に、我が家の家計は火の車。
とても俺が留学を続けられる状態ではなかった。
春学期が終わって、一時帰国のつもりで帰った俺を待っていたのは、我が家の惨状だった。
俺は親父と話し合って、LOA(休学)をとることに決め、代わりに学費が比べられないくらい安い日本のシナリオ学校に通う事に決めた。
監督になるために、まずシナリオで成功を収めて、という考えからだった。
で、日本シナリオ作家協会シナリオ講座27期研修科に入学したんだ。
講師は、掛札昌裕、桂 千穂、柏原寛司の三氏。
あるシナリオ学校では、シナリオライターでもなんでもない人が教えているというから、この三氏について学べるのはラッキーだった。
特に柏原さんは、「面白い」とか「つまんない」とか漠然とした感想を言うんじゃなくて、的確に弱点を指摘してくれ、「俺ならこうするよ」とヒントをくれる。
そういう教え方をされると、こちらは「なら俺はこうしてみる」と違った味付けが考えつくんだ。
この学校で学んでよかったと思ってるよ。
家計が厳しいのは変わらないから、俺もバイトしなきゃ、ってことで、たまたま英語を売りにしたバイトを探してたら見つかったのがICSという、JTB子会社のイベント・セミナー(お堅い系)専門会社のスタッフだった。
金目当てでやり始めたバイトだったが、やはりお堅い系とは言ってもイベントっていうのは現場が命。
映画の現場でもどの現場でも、現場経験っていうのは重要だね。
イベントは特に生ものだから、いざってときの咄嗟の判断が瞬時にできるかどうかがポイント。
映画製作で培った、現場の勘みたいなのが、ここで役に立った。
始めてすぐに現場でのあらゆるニーズにこたえられるようになったし、現場の社員からの評価が高くなって、2年目からは「自分の現場に村田を」って声が多かったらしい。
俺は、というと仕事も楽しかったが、バイトにくるほとんどが学生で、可愛い女の子が多かったので、恋愛しまくり(すべて片思いだったが)。
スピーカー受付を二人で一緒にやった中畠さん、色んな現場で一緒になった不思議ちゃんの斉藤さん、ちょっとヤンキーっぽかったが愛らしかった山口さん、みんな好きやったで~!
この幸せは、親父が心筋梗塞で死ぬまで続いた。
以降のことは次回で。
俺の青春の火は消えかけていた…。
あの当時はありがとう、迷惑かけてごめんね、って。
だから、「自分の名前は伏せてほしい」って人は
DRAMA FACTORY
からメールフォームでその旨伝えてね。
「いざ、シラキュースへ! そして日本」
この頃は女に惚れこんだよな~。
心理学の講義で教科書を貸してくれたミホちゃん、英会話学校で仲良くなった美紀ちゃん、二人ともつれなかったけど、好きやったで~!

まあ、そんなことはさておき、俺はニューヨーク州のシラキュース大学芸術学部映画学科への編入が決まり、渡航の準備に追われた。
シラキュース大学は、東海岸では名門校らしい。
ついていけるかな~という不安はあったが、夏に新入生オリエンテーション(留学生は普通でない)に、大学事務局の手違いで招かれて、3泊5日で現地に行って、俺の決意はより固いものになった。
何せネイティブの新入生向けのオリエンに、わざわざ日本からやってきたわけである。
VIP待遇に近かったね。
普通、オリエンの寮は二人部屋か三人部屋で風呂は別なのに、俺だけ一人部屋バス付だったからね。
学長のスピーチでも「今日は、わざわざ遠い日本から来てくれた学生もいる」と俺について触れられたくらいだから、大学側も慌てていたのだろう。
オリエンは、まあ日本でいえば幼稚園の歓迎会みたいなフレンドリーなもので、楽しかったね。
パツキンのピチピチギャルと話したのも、生まれて初めての経験だった。
俺も国際人や!
そんな勘違いをしたものだった。
そして、夏の終わりごろに渡米した。
シラキュース大学には二つ映画学科があって、ひとつは俺が編入した芸術学部の映画学科、もう一方は全米No.1に格付けされたNEWHOUSEという別名を持つコミュニケーション学部のテレビ・ラジオ・映画学科で、非常にこの二つの学科は仲が悪かったんだな。
講師からして競い合ってたからな。
でも、就職率では圧倒的にNEWHOUSEの方が高かったけどね。
芸術学部の方は、どちらかというとインディペンデント系の映画作りを教える傾向だった。
ただ、面白い事に、アメリカで何回か撮影に挑んだけど、楽しさという観点からはむしろ座学の方が面白かった。
これはにっかつとは正反対だったね。
やっぱ講師の人間性とか、アメリカンは違うね。
特に面白かったのが「ホラー映画概論」。
目からうろこの理論がいっぱいつまった授業だった。
もちろん俺は「映画史」の授業も「ホラー概論」でもAをとったよ。
俺にとってもっとも大変な授業だったのが「シナリオ」。
台詞の重要さを教えてくれた重要な授業でもあったんだ。
英語が多少できるといってもネイティブじゃない俺は、キャラを引き立たせる台詞、かっこいい台詞は書けない。
そのことを講師に痛烈に指摘されたね。
だから、逆に奮い立って、講師の助手をしてた大学院生のところに日参して台詞をチェックしてもらった。
この授業では、中村くんというもう一人の日本人と共同で、次の学期に撮影する映画の脚本を書くことになっていたんだけど、中村くんとはネタをちょこっと打ち合わせして、あとはほとんど俺が書いて、院生のところに日参していた。
院生の彼女(名前忘れた)は親切に教えてくれたよ。
彼女も日本映画に少し興味があって、そんな話をしながらホンの手直しをしてたな。
結局このシナリオが最終的に講師に気に入られて、映画学科全体で話題になってしまった。この授業もAをもらいました。
実作の授業は、結構大変だった。
機材はNEWHOUSEと共同の倉庫から自分で借りてきて、重たい照明機材を豪雪のなか滑車で運んだっけな。
で、いざ撮影ってときに、同じ学科で同じ寮の同じフロアで、よくつるんでたエリオット・ゴールドステインが余計な口出ししてきて、俺の作品なのにやつが演出し始めちゃったので、次の撮影からは彼に隠れてやった。
もちろん彼が演出した部分は全部捨てたよ。
エリオットの絵コンテは面白かった。
エジプトの壁画みたいなコンテで、絵よりも説明文の方がわかりやすい絵コンテを見るのは生まれて初めてだった(笑)。
学期の最後に、講師陣の前で上映するんだけど、これがかなり厳しいって話で、酷評される率が非常に高いらしかった。
中村くんの撮った、女の子が殺されるホラー映画はボロクソに言われてた。
「何で女の子が殺されなきゃならないの?」
「こういう映画が撮りたいっていう理由だけでは映画は成立しない」
何もそこまで言わなくても、ていうくらいのつっこみ。
正直俺はびびっていた。
上映なんかしたくない。
もうこの場から逃げ出したいなァと。
でも、時間は容赦ない。
俺の番が回ってきた。
仕方なく俺はムビオラ(16mm編集機)にフィルムを通して、上映した。
上映が終わって、しばらくの静寂。
こうなりゃ、まな板の上の鯉。
好きにしやがれ!
ところが、最初に口を開いた学科のディレクターが「ナイスイメージ」と褒めてくれたのだ。
俺が笑いを仕込んだところも上手く成功していて「演出の計算が成功してる」と評価された。
音響は、高校時代からこだわる主義だったから「覇王別姫」のサントラ使ったんだけど、これも「サントラもいいね」と絶賛。
マイナス評価は誰もしなかった。
この上映会で得た自信が今の俺を支えているといっても過言じゃない。
何せ本場で俺の演出が認められたんだから。
女関係では、寮の同じフロアーのメラニーちゃんがよく声をかけてくれたな。
サンクスギビングの時に「家に来ない?」と誘ってくれたんだが、フィラデルフィアの友人とこに行く予定だったので、断っちまった。
ああ、朴念仁。
だが、神様って意地悪なのね。
俺がそうしている間に、我が家の家計は火の車。
とても俺が留学を続けられる状態ではなかった。
春学期が終わって、一時帰国のつもりで帰った俺を待っていたのは、我が家の惨状だった。
俺は親父と話し合って、LOA(休学)をとることに決め、代わりに学費が比べられないくらい安い日本のシナリオ学校に通う事に決めた。
監督になるために、まずシナリオで成功を収めて、という考えからだった。
で、日本シナリオ作家協会シナリオ講座27期研修科に入学したんだ。
講師は、掛札昌裕、桂 千穂、柏原寛司の三氏。
あるシナリオ学校では、シナリオライターでもなんでもない人が教えているというから、この三氏について学べるのはラッキーだった。
特に柏原さんは、「面白い」とか「つまんない」とか漠然とした感想を言うんじゃなくて、的確に弱点を指摘してくれ、「俺ならこうするよ」とヒントをくれる。
そういう教え方をされると、こちらは「なら俺はこうしてみる」と違った味付けが考えつくんだ。
この学校で学んでよかったと思ってるよ。
家計が厳しいのは変わらないから、俺もバイトしなきゃ、ってことで、たまたま英語を売りにしたバイトを探してたら見つかったのがICSという、JTB子会社のイベント・セミナー(お堅い系)専門会社のスタッフだった。
金目当てでやり始めたバイトだったが、やはりお堅い系とは言ってもイベントっていうのは現場が命。
映画の現場でもどの現場でも、現場経験っていうのは重要だね。
イベントは特に生ものだから、いざってときの咄嗟の判断が瞬時にできるかどうかがポイント。
映画製作で培った、現場の勘みたいなのが、ここで役に立った。
始めてすぐに現場でのあらゆるニーズにこたえられるようになったし、現場の社員からの評価が高くなって、2年目からは「自分の現場に村田を」って声が多かったらしい。
俺は、というと仕事も楽しかったが、バイトにくるほとんどが学生で、可愛い女の子が多かったので、恋愛しまくり(すべて片思いだったが)。
スピーカー受付を二人で一緒にやった中畠さん、色んな現場で一緒になった不思議ちゃんの斉藤さん、ちょっとヤンキーっぽかったが愛らしかった山口さん、みんな好きやったで~!

この幸せは、親父が心筋梗塞で死ぬまで続いた。
以降のことは次回で。
俺の青春の火は消えかけていた…。