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ヘタレ創作ヤログ~人生これでいいのだ!!

原点に立ち返った、創作ヤロウのブログ!
「負け組プータログ!!」からタイトル再変更。でも、今まで通り幅広くいきます~

久しぶりに

2006年01月10日 23時28分46秒 | 俺小説
俺小説を書いてみようか、と。
ネットが盛り上がりはじめた90年代後半をテーマに。
小説というより、論文になってしまうかもね。


「ネットの夜明けをあの娘と見た日」

 1997年。
 この年に俺は初めて「ホームページ」なるものを持った。
 シナリオ作家協会の研修科を卒業し、広告代理店に入社して間もない頃だった。
 旧来のメディアには飽き飽きしていた、ということもあったし、インターネットという新しい、誰でもが発表でき、誰でもが見られるメディアで自分の作品を公開するのが目的だった。
 実際、開設してみると、中々人は集まらないし、自分の作品に対しての評価も聞けないで、悶々としていた。
 そんなある日、当時俺のサイトのコンテンツのひとつだった「読者をモデルにシナリオを書く」というコーナーに応募があった。
 それが彼女との出会いだった。
 その娘は、まだ高校生で、小説家を目指しているという。
 自分について、彼女は「時流に流されない。ルーズソックスなんて絶対にはかない頑固者」と語っていた。もちろん自分のキャラクターを語ってくれと俺が謳っていたから、彼女もそういうことをメールに書いてきたのだ。
 世は「アムラー」「ルーズソックス」「エンコー」の時代である。
 そんな時に、それに頑強に抵抗している女子高生というのは、新鮮だった。
 俺は、オーダーに応じたシナリオももちろん書いて公表したが、その娘のページが気になり、訪問してみた。
 まだ高校生なだけあって、デザインや内容は稚拙だったが、明るく、勝気な雰囲気漂う、非常に居心地のいいページだった。
 初めて掲示板に書き込むときは緊張した。
 人の掲示板に書き込むこと自体初めてだったし、相手は高校生で、メールを一通もらっただけの仲だから話が合うかどうかもわからなかった。
 彼女のレスは、丁寧かつ明朗なものだった。
 テレビで映し出される渋谷の女子高生が「女子高生」と決め付けられていた時代にこういう高校生もいるのだ、と素直に感心した。
 小説家を目指しているということで、何篇が読んだ。初心者にありがちな、完結していなかったり、笑えないおどけた地の文など稚拙な物ばかりだったが、想像力と、何よりも彼女の夢がそこにはあった。
 高校生がプロ顔負けの小説を書いていたら、それこそとんでもないことだ。
 俺は、その無邪気な小説に好感を覚えたし、また彼女にも好感を覚えた。
 実際に会ったこともない人物に好印象を覚える、というのは初めての体験だった。
 俺は、手厳しい批評をしながらも、楽しく交流を保っていった。

 そんな彼女が、東京の大学に入学し、上京した。
 若干18歳の女の子がひとりで東京に出てきたのである。
 当時のネット仲間でオフ会をやろう、ということになった。
 これも俺にとっては初体験だった。
 音頭をとったのは、彼女がまだ地元の高校生だった頃、最後の方で彼女のページに出入りした男だった。
 そして、ネットでしか会話したことのない俺とその娘は、はじめて会った。
 ネットのイメージと実際のイメージは違う。
 そんなことがよく言われるが、その通りだった。
 実際の彼女は、明るく勝気な女の子ではなく、控えめのおとなしい、少しシャイな娘だった。
 なんのことはない、ネットでは能弁な俺だって、実物はシャイな男だったわけだから、彼女もさぞかしガッカリしたことだろう。
 だが、その最初のオフは、それなりに楽しかった。音頭をとった男が雄弁な男だったから良かったのだが、その彼が彼女の保護者代わりになっていったことは、結果的に彼女にとってはマイナスだったのかもしれない。彼は、未成年者にドンペリを振舞うなどかなりの遊び人だったのだ。
 だが、まだ子供の彼女には、確かに保護者代わりが必要だった。
 そして、俺にはその役は出来なかった。
 あの娘も望んではいなかっただろうが。

 俺のネット交流は、しかしそれからどんどん盛んになっていった。
 オフ会に顔を出すこともしばしばあった。
 ただ、その娘と顔を合わすことは、最初のオフ以降あまりなかった。

 一度だけ、彼女と池袋を二人でぶらぶらしたことがあった。
 喫茶店で、愚痴を語りあったのを覚えている。
 大分東京の生活にも慣れ、活き活きとした表情だったのが印象深い。
 後にも先にも、彼女と二人きりで話しこんだのはあれっきりだが、お互いの夢を語り合うのは楽しかった。
 たぶん彼女もそうだったのではないだろうか。

 彼女は、大学生活が忙しくなるにつれ、ネットでのイメージも変貌していった。
 明るく勝気で、なおかつ礼儀正しい娘から、世の中への不満をぶちまける攻撃的な女へと変貌していった。

 そんな彼女と最後に会ったのは、自分にとっても最後のオフ会となった2002年末、新宿の居酒屋だった。
 音頭をとったのは、やはりあの男だった。
 それまでのオフ会とは雰囲気が違う、退廃したムード漂う飲み会だったが、あの娘は楽しそうだった。
 俺は、まったく楽しくなかった。
 話題の合わない連中と飲むほど辛いことはない。
 正直、このオフ会は俺にとっては苦痛以外の何ものでもなかった。
 オフが終わり、あの男とともに歌舞伎町の街に消えていくあの娘を見たのが、俺が見た彼女の最後の姿だった。

 その後、彼女はページで彼氏が出来たことを告白している。
 ネットを通じてとはいえ高校時代から彼女を知っている俺にとっては驚きだった。
「異性にまったく興味がわかないんです」
 が、彼女の決まり文句だったからだが、別にショックを受けたわけではなく、かといって嬉しいというほどオーバーな感動もなく、ただ「ああ、あの娘も成長したんだな」と少し感慨深いものを感じただけだ。

 いわば、ネットというメディアを通して、一人の女の子が歳月を経て女に成長を遂げる姿を見た事になる。

 恋愛感情があったわけでもないし、「妹分」といえるほどの付き合いをしたわけでもない。
 つまり距離感があったからこそ客観的にひとりの人間の育っていく姿を見ることが出来たわけだ。
 まさにネットならでは、ということか。

 あの娘の成長と、ネットの成長を重ね合わせて見ることができる。
 今、さかんにブログやミクシをやっているのは、それからネット世界に入った今の人達だ。
 俺も彼女も、そしてあの頃の人達もネット世界では今の人=旬な人ではない。

 「到来しようとしているネット時代の夜明け」を、あの当時あの娘と見ていたような気がする。
 その日々を、ともにネットで過ごした。

 もうあの娘との交流はない。
 激突のない絶交。ネットでは珍しいことではない。

 ある時点で意気投合し、ある時点で息が合わなくなった。
 それも人の成長だ。
 俺も成長したし、あの娘も成長した。

 ネットの楽しさは変わっていない。
 それは新しい「出会い」なのだ。

 もう、あの娘とネット時代の「これから」を見ることはない。
 それを見るのは、これから出会うであろう新しいネット仲間なのだろう。

 アナログ世代には信じられない感覚だろうが、ネットの友人というのは、誤解を恐れずに言うなら使い捨てなのだ。

 そういう意味において、俺は彼女を「使い捨て」たし、彼女もそうした。
 ネットコミュニケーションとはそんなものだ。

 まだ見ぬネット仲間よ、近々会おう。
 そしてまたお互いの成長ぶりを眺めあおうではないか。

                  完

母の人生

2005年12月14日 23時06分43秒 | 俺小説
俺小説ってわけじゃないんだけど、(カテゴリ的には「雑談」だよね)今母親の半生を物語化して書いている。

戦時中に生まれ、激動の昭和を乗り切り、平成の世になっても幸薄い母親は、その人生のパーツだけでも、十分ドラマになる。

今書いてるのは小説のプロットだけど、連ドラ用のプロットも書こうと思ってる。
いつか、テレビでドラマ化できたらいいね。
主演は前田 愛あたりがいいんじゃないかな。
内山理奈でも悪くないな。
栗山千明という線もある。
ドラマのヒロインは、やっぱどこかに華と演技力がないとね。

Webビジネスの方も、ひょっとするとうまくいく可能性も出てきたし。
来年はがんばるぞー

俺小説第七回

2005年09月05日 14時20分11秒 | 俺小説
 大人時代まで進んでいた「俺小説」だけど、今回はちょっと戻って、高校時代にタイムスリップしてみました。
 当時の権力闘争を、大幅に脚色して書いてみた。
 やっぱり、高校時代が俺の原点なんだな、と実感した。


「城南高校映画部との別れ」

 バブルの絶頂期に高校生活を送っていた俺にとって、映画部は、「生活」そのものだった。
 1年生の時は、優しい先輩らに囲まれて、好き勝手にやらせてもらったおかげで、今の映画好きの俺がある。幸せな1年間だった。

 翌年、俺は初めて人間関係のトラブルに頭を抱える事になる。
 しかも女難という、十代の男にとっては最も厳しい局面だった。
 俺が2年になったこの年、新入生の秋元知美、浦島弥生、滝沢美帆、竹下美恵子、津島 愛の5人が入部してきた。
 最初は、女の子ばかりということもあって、俺も3年生になった唯一の男子部員・金田正則も有頂天になっていた。
 新入部員5人という数字は、文化部にとってはとても大きな数字だった。
 まさに磐石の態勢で、俺は映画部の部長に就任した。
 その後、権力闘争の渦に巻き込まれるとも知らずに。

 俺と金田氏は、思想的に真逆の二人だった。
 俺は、当時はバリバリの右寄り人間だったが、金田氏は左、つまりかなりリベラルな人だった。
 前年から、裏での確執はあったが、この年は頼れる先輩は金田氏しかいなかった。
 つまるところが、同床異夢での友好関係を築いたのだった。

 部長は、部活の権力者だ。
 俺が部長である以上、映画部は右寄りに傾いていった。
 だが、女の子っていうのは、大抵リベラルな思考回路をもっている。
 色々他にも事情はあったが、金田氏が醸し出すリベラルさに、彼女らはすっかり浸りきり、実務を取り仕切る俺は、完全に孤立した状態に立たされた。
 金田氏とは協力関係にあったから、この年に衝突したことはなかったが、金田氏に心酔した新入生らとは、夏あたりから全面戦争の様相を呈してきた。

 彼女らには、彼女らの言い分がある。
 楽しく部活をやりたいのだ。
 高校生なのだから当然といえば、当然の願いだ。

 それに対して、俺は部活なのだから、目標をしっかりもって、規律正しく活動した上で楽しむべきという姿勢を崩さなかった。

 当然、「楽しければ何でもあり」の彼女らと、俺との間に大きな亀裂が走った。

 ここで舵を大きく左へ切ればよかったのかもしれない。
 だが、俺は右に固執した。
 部員活動情報なる監視体制を敷いたのが、決定的な衝突を招いた。
 さすがに、これには3年女子も反発したのだった。

 俺は、独裁者と化していた。
 だが、「映画部のあるべき姿」を追求することを、俺はやめるわけにはいかなかった。
 彼女らとは何度も話し合った。
 だが、彼女らには、俺の意見は聞き入れてもらえず、また俺も彼女らの考えが理解できなかった。

 秋、文化祭は最悪の状態で行われた。
 ほぼ全員が映画部展示への参加をボイコットし、俺はほぼ孤立無援状態で文化祭を乗り切らなければならなかった。
 3年女子は漫画部かけもちだったが、リベラルな彼女達に、新入生のほとんどがついていった。
 金田氏は、というと、さすがに文化祭ボイコットには呆れていて、思想は違えど俺のよき理解者として、引退する日まで俺を支えてくれた。
 金田氏は、引退するとき「自分が楽しい、というのも重要だが部活は皆が楽しくなければ意味がない。映画部は村田が部長なんだから、彼を支えてやってほしい」と演説してくれた。
 だが、もう金田氏でさえ繋ぎ止めることが出来ないほど俺達の亀裂は大きなものになっていた。

 「もうだめだ」
 俺は、金田氏が引退した後、つまり秋の終わりごろそう思った。
 思想にこだわるがゆえに、ストレスは限界に達していた。

 「映画部を解散する」
 11月に入って最初の部活で、俺は皆を集めて宣言した。
 衝突がたえなかっただけに、彼女らにも言葉がなかった。
 「関係ない話をダベるのもいい。空き時間に漫画読んでてもいい。でも、映画を作ろうとしないお前達が、今後部活を支えていくのは無理だし、俺ももうおまえらに映画部員としての自覚を持たせる事が出来ないと判断した。だらだらと集まったり集まらなかったりしているうちに自然消滅するより、ここできちっと廃部にした方がいいと思う。だから、映画部の部活は今日でもうおしまいだ。以上」
 そう演説して、俺は映画部を後にした。

 廃部届けは出さなかった。
 もし、彼女らに、あるいは次の年に新入生でやる気があるやつが入るなりして、活気を戻すことができるなら、もう一度自らの力で再生すればいい、そう思ったからだ。

 だが、映画部が再生することは二度となかった。

 数年後、文化祭を訪れた俺に渡されたパンフの出展部活リストに「映画部」の名はなかった。

 そして、去年、東京都立城南高校は統廃合により、なくなった。
 施設自体は、新しく設置された単位制定時制高校の都立六本木高校になったが、もう母校がなくなったことには違いない。

 組織とは、しばしば権力闘争の舞台となる。
 自分のために、皆その闘争に明け暮れる。

 だが、もし俺が権力を分権化し、リベラルな運営をしていたら、もし彼女らが映画オタクだったなら、俺も彼女らも幸せな3年間を過ごせただろうに。
 卒業してから毎年、秋の文化祭の時期になると、俺はそんな切ない思いにかられた。

 映画部は、俺が葬った部だ。
 その後、何度も映画部のような集団を結成しようとしたが、出来なかった。
 時代性もあったかもしれない。
 でも、「高校生が映画で遊ぶ」という状況であってこその映画部なのだ。
 もう高校生でない俺に、映画部に似た組織を作ることが出きるはずがなかった。

 「映画部再生」をあきらめた俺に残された夢は「映画監督になること」だった。

                  完

俺小説第六回

2005年08月23日 21時54分53秒 | 俺小説
前回から大分間が空いてしまったが、実際小説なんてのんびり書いてられる状態じゃなかったもので…。
ということでしばしの復活。


「青春の終り」

 諸々の事情で、シラキュース大学を休学し、日本に帰国した俺は、シナリオ講座に通いつつ、バイトを始めた。
 このバイトは、国際会議や学会の運営の補助をするスタッフ要員として実際の会場運営をサポートする仕事で、英語力を求められる現場もあったし、バイトは大学生がほとんどで、女の子が多く、しかも可愛い子ばかりだったので、俺は26歳にもなろうという歳なのに、相変わらず青春していた。
 現場でかけずりまわるのは、やりがいのある仕事だった。
 無線を片手に、それこそ「事件は現場で起こってるんだ!」状態で、スーツ姿でテキパキを仕事をこなす自分に満足していた。

 女遊びを覚えたのもこの時期だ。
 夜の世界はコワイ、という印象があったが、以外とそうでもなかった。
 夜の世界で働く女の子には、皆それぞれ事情がある。
 それを敢えて聞くこともなく、楽しく夜を過ごす、そんなことが楽しい時期でもあった。
 バイトで、女の子に恋しつつ、夜は夜の女と遊ぶという、女漬けの日々だった。

 そんな日は、しかし突然終りを告げた。
 俺の元に「オヤジが心筋梗塞で重態」の一報が入ったのは、バイトで入ったビッグサイトでの現場にいた時だった。
 俺は、家庭の事情があって、オヤジの病床に駆けつけることはできなかったが、情報によると、回復は絶望的で、延命処置をしているとのことだった。
 オヤジも会社の倒産関係の事情があって、弁護士をふくむ周りがすぐには死なせてくれなかったわけだ。

 結局俺はオヤジの葬式にも行っていない。
 だから、「オヤジが死んだ」という実感は未だに湧かない。
 ただ、いなくなったという事実を受け入れることしかできなかった。

 オヤジが死んで、でもそれを悲しんでいる余裕は俺にはなかった。
 残された母親を面倒見なければならない。
 俺は、たまたまサイドビジネスで習得したWebデザインの技術を活かして、派遣社員として働くことになった。

 だが、自分がやりたいとは思っていないことはやるもんじゃない。
 どの職場でも、俺は溶け込めず、技術も伸びず、精神的にも追いつめられた。

 「青春が終わった」
 そう感じたのはその頃だった。

                    完

俺小説第五回

2005年07月21日 23時44分46秒 | 俺小説
「Coming to America!」

 その年の夏は暑かった。
 日本にいながらにしてアメリカの大学生だったオレは、予ねてからの計画通り、アメリカへの映画留学を着々と進めていた。

 テンプル大学JAPANという、当時流行りだったアメリカの大学日本校で、学部生になったオレは一般教養過程をとりつつ、映画制作にも余念がなかった。
 テンプルでは、英語演劇を2度ほどやったおかげで、いわゆる大学時代の仲間というやつが出来ていて、そいつらを巻き込んで映画を撮っていたわけだった。
 英語演劇は、思っていた以上に楽しかった。
 英語の台詞覚えは大変だったが、歌の歌詞を覚えるようなもの、とわりきって何とか乗り切った。
 舞台は、やはり客の反応が直接こっちにぶつかってくるのがいい。
 オレが主演した舞台は、コメディだったので、オレの演技で笑ってくれたときは、とても感慨深いものがあった。

 当時は、結構インターナショナルな友人関係を築いていた。
 一番に思い出すのはタイ人と日本人のハーフの女の子・桜木カイエだ。
 この娘は、ある意味魅力的な雰囲気をもった女の子だった。
 いわゆる恋愛の対象というよりは、こういっては失礼だが、セックスシンボル的な魅力を持った子で、オレにとってこういう女の子ははじめてだった。
 彼女がオレのことをどう思っていたかは知らないが、こういうタイプの子はとても思わせぶりだ。
 やたら触ってきたり、意味深な事を言ってみたり、デートは大抵の場合OKだったりと恋愛経験のない男なら間違いなくイチコロだ。
 彼女には、オレの友人の持田義明が手玉にとられた。
 だが、そうしておきながら、彼女に聞いてみると、その気はまったくないという。義明はなかばストーカー的になっていたから、友人としてもこの当時は大変だった。
 義明は、彼女とつかず離れずを楽しんでいたオレにヤキモチをやいていたようだった。 そう、こういう女性とは「つかず離れず」で遊ぶのが一番だと思った。
 もし、一線を越していたら、と思うと冷や汗がでる思いだ。
 カイエも、今はどこで何をしているのだろうか。

 大学は、勉強に追われつつもよく遊んだ。
 日本人とユダヤ人のハーフのイケメン男の野木伊砂耶とバンドを組んだのも、出来心だった。
 オレはハードロック至上主義の男だから、LOUDNESSとかやりたかったが、色々な事情があって、簡単な曲を選んでタレントショーで演奏したりした。
 他のメンバーは知らないが、オレは楽しかった。
 たぶん当たっていると思うが、当時のオレの友人は皆「あいつは自分のことしか考えてない」と思っていたに違いない。
 その通りだったから、申し開きのしようがない。
 あの当時は、本当にオレさえ楽しければ、後はどうでもよかった。
 20代の学生なんてそれでいいと思っていた。
 まだ両親も健在で、何も考えなくていい、青春時代だった。

 で、何とか標準的な成績を収め、願書を出しまくり、最終的にニューヨーク州のシラキュース大学の芸術学部映画学科に編入することが決まった。
 映画留学といえば、UCLA、USC、NYUなど名門は色々あるが、オレは結果的にシラキュースはよかったと思っている。
 まあ、前にあげた有名大学はすべて滑ったというのが本当のところなんだが…。
 シラキュースは、他の大学の映画学科とは少し事情が違って、インディペンデント系の映画製作を中心に教えていたし、学生にもそういった活動を推奨していた。
 いわば、アンチハリウッドである。
 そこに、バカなハリウッド信望者のアメリカ人たちが集まってくるわけだから、どうしようもない映画ばかりが出来上がってくる。

 最初の学期で製作したのはサイレント映画だから台詞がない。
 だから、英語中途半端モンのオレでも理解できるはずのものばかりなはずだが、ほとんどの作品が、何を言いたいのか、何を撮ろうとしているのか理解不能な作品ばかりだった。
 オレは日本でも映画学校に通っていたことがあるのでこう思った。
「いくら映画が好きでも、バカがつくる映画は世界共通だ」
 アメリカ人の方が優れているなんてことは全然感じなかった。
 
 そんなこんなで、アメリカでの映画制作は、日本でやってたときほど充実しなかったし、面白くなかったが、授業は面白かった。
 特にホラー映画概論の授業は、講師も含めて最高だった。
 「ファイナルガール。ホラー映画で最後に生き残るのは間違いなく女、しかも処女である」「ホラー映画は、少女が女に成長する過程を描いている(例:エクソシスト)」
 前者の理論はアメリカでは、ホラー業界にいる人間なら誰でも知っているもので、それを敢えて打ち破ったのがウェス・クレブンの「スクリーム」であることは言うまでもない。
 エクソシストに関しては、講師の説明が面白かった。
 あれは要するに神父が悪魔にとりつかれた少女を救出する話だが、ホラー論でいえば「オレに突かれろ。それですべて解決する」とのこと。
 つまりはセックスのことだ。
 処女が処女でなくなることで、悪霊が退散するという論理構成になっているらしい。
 自分の映画制作に役立つかどうかはともかくとして、非常に勉強になった授業、それがホラー概論である。

 シラキュースは、はっきりいってニューヨークの田舎町で、大学と病院以外何もない。 ショッピングモールに行けば映画館やレストランがあるが、車なしではいけない。
 だから、車の免許を取ろうとオレが思ったのも無理からぬことである。
 だが、時期が悪かった。
 思い立ったのは3月後半。
 5月には春学期が終り、オレは日本に一時帰国する予定になっていた。
 それまでに何としても取る。
 そう決めたオレは即効で仮免許(日本のとは意味合いが異なる。ラーナーズパーミットといって、免許取得者が同乗している場合に限り運転していい、という免許)を取り、ドライビングスクールのお姉ちゃんにほぼ毎日来てもらって実地訓練した。
 アメリカには教習施設はない。
 つまり公道が教習の場だ。
 オレは、危なっかしい運転で路上を走り、幾度となく教官の姉ちゃんや、練習に付き合ってくれた友人の絶叫を聞いた。
 ハイウェイの運転は本当に怖かった。
 慣れないオレはゆっくり安全運転が信条だったのだが、周りの車がガンガン飛ばしているため、かえって危ないと教官はスピードを出すようにせかした。
 集中訓練のおかげで、大分車との相性がよくなったが、やはり2週間半という実地訓練は短すぎて、実地試験でみごとに落とされた。
 仮免は、もうとっくに期限が切れているが、記念に今でもサイフにしまってある。
 New York State のロゴ入りの仮免は、向こうでの一番の記念品だ。

 もうひとつシラキュース時代で忘れられないのは、バンドだ。
 テンプルで適当なバンド活動をしていたオレは、ここでもバンドを組んだ。
 もともと最初の日本人会で会ったヒデというキーボーディストと「何かやろうぜ」って話から始まり、ギターにヒデの知り合いの韓国人・サンを加え、三人でスタートした。
 しかし、アメリカで金がないオレたちの音楽活動は、はっきりいって悲惨だった。
 まずドラマーがいない。
 打ち込めばいいじゃんって思うだろう。
 実際打ち込みはした。
 だが、実際の演奏ではキーボードの音はスピーカーからしか聞こえなく、しかもスピーカーは客席に向いているから、オレにはまったく聞こえない。
 つまり、オレはステージ上でかすかに聞こえてくるキーボードのメロディと、後ろに置いてあるギターアンプから聞こえてくるギターサウンドのみで歌わなければならなかった。
 メロディをあわすのはわけないが、肝心のリズムが聞こえなければ、歌と演奏が合わない。
 そんな情けない演奏をして、当時はがっくりきていたオレだったが、今となっちゃいい思い出だ。

 アメリカには11月にサンクスギビングデーという大型連休があって、オレは当時フィラデルフィアで生活していた義明のところに遊びに行く予定でいた。
 そんなオレを、留学当初からからかったり、はたまた突然抱擁したりと色々気に掛けてくれていたようだった女の子・メラニーちゃんが「サンクスギビング、ウチに来ない?」と誘ってくれた。
 オレは義明のところに行く予定で、すでに航空券も買っていたので、丁重にお断りしたのだったが、断った直後から後悔の念にかられていた。
 これからいくらでも遊びにいける日本人の男友達と、美人ではないが、それなりに可愛らしくてナイスバディな白人女性と、普通どっちをとる?
 「OK」
 と言っていれば、オレはあるいはめくるめく官能の世界をアメリカで味わえたかもしれなかったのに…。
 朴念仁は、それだけで罪だ。

 そして、春学期を無事終え、夏の講座はテンプルで取ろうと思って帰国したオレを待っていたのは経済危機を迎えたウチのお家事情だった。
 両親と話し合って、結局休学手続きをとり、オレの短いアメリカ生活は幕を閉じた。

 あれから、もう10年。
 経済事情は悪くなる一方で、とても復学なんて出きる状況にはないが、一生のうちでもしビル・ゲイツを抜くほどの資産家になったら、もう一回留学して学位をとりたいね。
 
 留学を考えてる人は、くれぐれも十分な資産を確保して望みましょうね

※「俺小説」は事実をベースに、脚色を加えながら書いていますが、登場人物の名前はすべて仮名です。

俺小説第四回

2005年07月10日 19時01分15秒 | 俺小説
「我が人生最良の時PART1」

 「人生山あり谷あり」
 誰もが人生を語るときに、念頭に置く言葉だろう。
 俺の人生は、まだそんなことを語るほどのものじゃないが、「あの時が最良といえるのでは?」と思える時は、数えるほどだが存在する。
 今回は、そのひとつというか、人生最初のハピエスト(いくつもあるのに最上級を使うのはおかしいか?)のことを語ろう。
 男の俺が「最高!」と感じるのだから、もちろん女がらみだ。
 それ以外の「最高モーメント」もあるに違いないが、それらにはまだ出くわしてないな。

 それは俺が高校2年生になって間もない頃のこと。
 俺が映画部できばっていたことは、別カテゴリ「俺的映画人生」で語っているので割愛するが、2年のごく最初の頃は、実は剣道部にもアタマをつっこんだことがあった。
 理由は、映画部の部長と副部長が、剣道部の副部長と部長で、「やってみない?」と誘われて、出来立ての格技棟で遊びがてら稽古したのがことの始まりだった。
 剣道部はその当時実質休部状態だったし、「剣道部に入部しよう」とか「立て直してやるぜ」なんてことは露ほどにも思ってなかった。
 ただ、久しぶりに剣道で汗をかいてみよう、そう思っただけのことだった。
 それが、どういういきさつがあったのか忘れたが、俺と同学年の2年の剣道部連中が俄かにやる気を出し始め、2年になったとたん、いきなり剣道部が本格始動し始めたのだ。
 俺はなすがままに剣道部に正式に入部してしまい、新入生の指導を任された。
 当初は、女の子2人と男2人の計4人が入部したらしかった。
 その中で、目だって俺になついたのが若林理恵だった。
 見た目には、小学生と間違えるほど小柄で、顔も童顔。
 性格はしかし、太陽のように明るかった。
 俺は彼女を妹のように可愛がったし、帰り道も一緒だったので、仲良くイチャついたものだった。
 帰りの車中。
「先輩、今度ウチの近所で祭りがあるから、一緒にいきませんか~?」
「あ、ほんとに? いいねぇ。行こうか」
「ホント、ホント? 楽しみ~」
 行きたかったな。その祭り。
「先輩のめがねってかっこいいっすね」
「そうかぁ? 普通だけどな」
「かけさせてくださいよぉ」
「じゃ、俺にもお前のかけさろよ」
 互いの目がねをかけ合いイチャつく俺たち。

 だが、そんな剣道部員としての生活も長くは続かず、映画部の新部長に就任した俺は、美女ぞろいの新入部員を指導しなければならなくなった。

 若いってのは短慮で、残酷だね。
 ビジュアル的に秀でている映画部員と楽しくやっているうちに、剣道部がわずらわしくなり、稽古にも出なくなった。もちろん若林のことも、どうでもよくなっていた。
 そんな中、映画部の新入部員の一人と付き合いはじめたが、後から聞いた話、この当時、俺は相当モテていたらしい。
 映画部新入部員の一部に、若林、同じクラスの女子、と今から考えれば、パラダイス状態だったようだ。
 もちろん当時の俺には、それを知る由もなかったし、知ったとしてもあの女にベッタリだったから、気にも留めなかっただろう。
 明らかな選択ミスだった。
 あの女を選ばなければ、その後の人生も大きく変わっていたに違いない。
 大体俺は明るくて、自己主張のしっかりできる女が向いている。
 俺が当時付き合っていた女は、それとは真逆な女だった。
 続くわけがない。

 若林に関してだが、結果的にフッてしまうことになる。
 剣道部から遠ざかり、夏休みに入った頃に女の子から電話がかかってきた。
 若林だった。
「(剣道)部に戻ってきてくださいよ。先輩いないとさみしいよ。お願いします」
 彼女は俺を必死に説得しようとしていた。
 俺は「映画部が忙しくて剣道部には出れないんだ、ごめん」と言って電話を切ったが、彼女にしてみれば、俺に電話をかけること自体が一大決心だったに違いない。今思えば可哀想なことをした。
 剣道部に戻る、という選択肢は今でも考えられないが、「彼女」に若林を選択する余地は十分にあったはずだ。
 あの子ならうまくやっていけたかもしれない。
 部活の政治的なウザさとも関係なく付き合えただろうし、何よりもデートが楽しかっただろう(笑)。
 恋人なんて、「一緒にいるだけで楽しい」なんて最初の何ヶ月かだけだ。あとは相手による。
 俺が付き合ってた女は、俺を楽しくさせる術を持っていなかった。だからもうする事といえばひとつだけしかない。
 若林は、とても明るく、しかもトークもはずむ女の子だった。見た目に似合わず(失礼)物知りな面もあったし、とても短時間だったが、俺は彼女と遊んでいるときは楽しかった。ただ、どうしても「妹」みたいにしか思えなかったのが残念でならない。

 この頃のことで一番印象に残っているのは若林だが、映画部の新入部員の浦島弥生も忘れられない一人。
 これは俺の当時の彼女情報だが、浦島も入部当初は俺に気があったらしい。
 浦島は、誰がみてもほぼ完璧な「美人」だった。モデルのように背も高かったし、性格も明るくて素朴で、選択するなら当時の状況なら、若林よりむしろ彼女の方が付き合いやすかったろうな。

 もうひとつ、これも俺の彼女情報だったが、俺のクラスで、下級生を使って(つまり俺の彼女のクラスの子たち)俺の情報を収集していた女の子がいたらしい。西山さんという子だが、彼女についてはよくわからなかった。
 俺の情報収集の目的だって、必ずしも好意からとは限らないし。

 同じクラスといえば、1年生の頃、文化祭の準備で同じクラスの清水さんという子を手伝ってあげた事があって、後でその子が映画部によく手伝いに来ていたテニス部の子に「村田くんってどんな人?」と聞いたらしい。だが、そのテニス部の子は、俺と仲がよかったからかどうかしらないが「変なやつ」と答えたそうだ(本人弁)。
 1年時の俺の、実ったかも知れない恋は、彼女の悪意無き一言によってつぶされてしまったわけだ。

 高校の頃は、モテた。
 別に自慢するわけでもひけらかすつもりでもない(だって18年も前のことなんて他人事だからね。だから小説にできる)。
 モテない男でも、人生で3回はモテるらしい。
 ということは俺の場合、少なくとも高校の時に使っているから、後2回か。
 「ひょっとしたら」というのもその後の人生にもあるので、あるいはもう使い果たしているかもしれない。
 なら、俺はもう結婚できないのか…。
 なんだか、書く意欲が失せてきたが(笑)。

 この場を借りて、若林にだけは謝っておく。
「ごめんな。でも当時の俺なんか男としちゃ最低のヤツだったから、君にとってはあれでよかったんだよ」

 こんなことを言える相手が、他にいない俺って…。
 というか、小説にイマイチならなかったな。



※「俺小説」は事実をベースに、脚色を加えながら書いていますが、登場人物の名前はすべて仮名です。

俺小説第三回

2005年06月23日 18時58分40秒 | 俺小説
中学生くらいって、みんなちょっと悪ぶらない?
そんな、ちょっとだけ悪ガキがした、ちょっとだけ悪い青春を書いてみました。


「大脱出」

 中学校は渋谷の学校に入学した。
 俺が入学した当時は、不良ブームの最後の嵐が吹き荒れてた頃だったかな。
 窓が割れたり、壁が崩されたり、消火器が噴射したり、先生がボコボコにされたり、とまあ、無法地帯だった。
 だから、当時は竹刀を持った強面のヤクザ教師なんてのも流行ったが、ウチの学校には幸か不幸かそういう教師はいなかったな。教職員に左派が多かったのかもしれない。
 だから、俺のようなどちらかというとマジメな生徒も、校則は破り放題、破るためにある、ってなもんだった。
 当時、一番楽しかったのは、エスケープと呼ばれた、学校からの脱走。
 今はどうかしらないが、俺たちが中高生の頃は、生徒は終業するまで学校の敷地を出てはいけなかった。
 でも俺たちは当然出たかった。
 何故か?
 間食がしたかった。
 ただ、それだけ。
 当時は、何故か必ず通称「裏店」と呼ばれる駄菓子屋が学校の裏門近くに会ったものだ。
 最初のうちはそこをよく利用しつつエスケープしていたのだが、そこはすぐ教師達の監視対象になり、俺たちは行き場所を失った。
「どうするよ?」
「俺、○○にお菓子買って来るように言われてんだよ、どうしよう」
 言わずと知れたパシリの会話。
 パシリにはパシリの仁義があり、パシリのボスである不良も、自分のパシリに危害が及ぶとだまってはいなかった。かろうじて仁義がまだ残っていた時代である。
 さて、どこで買い食いをするか?
 まもなくして、俺らは学校から少し離れたところに穴場を発見した。
 目的地があればすぐ実行。
 問題は、正門も裏門も教師に完全に見張られていたことだった。
 だが、教師も所詮は人間。広大な敷地のほとんどはフェンスで囲まれている。つまりフェンスを越えれば間単に脱走可能だった。
 俺はパシリ2号に目配せをした。
 フェンス越えの最大の弱点は、校舎内から丸見えというところ。
 パシリ2号は、サッと身を隠しつつ校舎内をうかがう。教師の姿は確認できない。
「よし! 今だ!」
 俺とパシリ2号は、スポーツ苦手なわりに素早い身のこなしでフェンスを乗り越え、向かいのマンションの敷地内までダッシュして、身を隠す。
 再び学校を見るが、俺たちの脱走がバレた様子はない。
 俺たちは、ここまでくれば大丈夫、と離れた駄菓子屋に意気揚々と向かった。
 同じスリルを、帰りにも味わう事になる。
 まず、マンションの敷地内から、学校の様子を伺う俺たち。幸運にも教師の姿はゼロだ。俺たちは、まるで突入する特殊部隊のように素早く学校のフェンスに近づき、敷地内に侵入。かくしてエスケープ&買い食いは成功した。
 俺たちパシリの腕前は、不良たちの間でも評価が高かった。何よりも「厳しい監視の目をかいくぐり、学校を脱走し、しかる後に見つかることなく帰還する」という神業?にやつらも脱帽していたのだろう。
 だが、こんな脱走劇にも終りが来る。
 ある日、いつもどおりフェンスを乗り越えた俺とパシリ2号は、校舎からの怒号に飛び上がった。
 慣れからか、脱走前の教師の有無の確認を怠ったのだ。
 俺たちは、何も考えずにマンション敷地に逃げ込み、校舎をうかがった。
 校舎は、行きかう教師達で騒然としていた。
「(しまった!)」
 俺は内心舌打ちした。
「ちきしょう、見つかっちまったよ!」
 パシリ2号が吐き捨てるように言った。
 だが、まあとにかく脱走はできたわけである。
「とりあえず駄菓子屋行って考えようや」
 俺はそう提案し、駄菓子屋に向かった。
 そこでいつもより少し多めに駄菓子(名前は忘れたが当時は誰もがうまいと認めるチョコケーキ100円が俺たちのメインの買い物だった)を買い、恐る恐るマンション敷地まで戻ってみる。
 校舎は、さっきとうってかわって静かである。授業中なのだから当たり前だ。
「(教師どもめ、あきらめたか)」
 俺はにんまりとし、パシリ2号と示し合わせて抜き足差し足で学校のフェンスに近寄り、フェンスによじ登って、学校敷地に入った。
 途端に
「おまえら、どこ行ってた!」
 そこに待ち構えていたのは社会科の、今から考えれば正義感に燃えた若者だが、教師が仁王立ちしていた。
 俺は不良じゃない。
 不良なら、こんな時は「うるせーな、この野郎!」と力でかなわない事を知りながら向かっていくところだろうが、何せ俺は不良じゃない。
「先生、先生の分も買って来ました!」
 咄嗟に俺の口から出た言葉だった。
 それが彼の怒りに火をそそいだことは、言うまでもないことだろう。
 俺たちはさんざ頭をなぐられ(顔を殴る、という行為はウチの学校でやる教師はいなかった)、俺たちは人生ではじめてVIPルーム=校長室に入ることを許された。
 表現が違うか。
 校長室に連行されたわけだ。
「校長室ってなんて立派なんだろう。ここを教室にしちゃえばいいのに」
 そんなことを思っていたことを覚えている。
 というか、それ以外のことは覚えていない。

 校長室という聖域に入ったのは、人生あれが最初で最後だった。

 俺たちは、いうなれば「ちょっとグレ」。
 中学生なんてみんなそんなもんだ。


俺小説第二回

2005年06月11日 21時43分19秒 | 俺小説
今回はちょっとしっとりと恋愛物を…。
ということで、よろしく!


「愛しきあの娘」

 小学校5年生のクラス替えで、俺は初めてその子に会った。
 茂田香織。おさげ髪の可愛い、それでいてちょっと大人びた感じのある子だった。
 最初の頃は席が遠くてお互い存在自体知らなかったが、席替えで席が近くなってから、俺はその子の悪口を面と向かって言い始めた。もちろん嫌味なく、である。
 このくらいの年代の男の子が女の子を冷やかすって言うのは、間違いなくその子のことが好きだからだ。
 普通の子なら、怒るとこだが、その子はやはり少し大人びていた。
 笑ってかわす。
 大人な対応だった。
 そんな彼女に、俺はどんどん惹かれていった。

 ある日、からかいついでに香織の髪を掴んだ俺は、その時、生まれて初めて女という別の生き物を知った。セクシャルな意味ではない。
 それまで男も女も一緒になって遊んでいたし、もちろんその中には今ではセクハラにあたるスカートめくりや胸タッチもあったが、やってる当人に性的な欲求があったわけではなく、ただエッチと呼ばれる行為をしたかっただけだ。
 だが、香織の髪の毛を触るという行為は、それまでとは全く違う感情を俺にわきたたせた。
 愛しく、そして切ない感情。
 それ以来、俺は彼女のことが気になってたまらなかった。

 当時の小学校は5年生まで体育の着替えが男女合同だったので、男も女もみんな上半身は裸になったものだった。
 俺の目は、もちろん香織の、まだ少しだけ膨らみかけた胸に目が行った。
 だが、それまでエッチな行為をガンガンしていた俺も、彼女にだけはまったく出来なかった。
 もちろん裸でなくてもだ。

 ある日、友達の家で集団工作の課外授業で香織と一緒にやっていたのだが、俺はニードルで親指の股を刺した。
「いて!」
 その瞬間、香織は俺を見て
「大丈夫?」
 と、それまでにない心配そうな顔で聞いてきた。
「大丈夫だよ」
 といっては見たものの、相当痛かった。
 その怪我が原因で、俺の親指の脈は少し場所がずれ、今でもちょっと触っただけで脈が測れるほどだ。
 そんなことはさておき、香織に本気で心配されたことがとても嬉しかった。

 そんな彼女ともお別れのときが来た。
 それは5年生の2学期の最後。
 俺は母親の仕事の関係で、調布から渋谷に引っ越す事になったのだ。
 そしたら驚いたことに香織も同時に、広島に引っ越す事になっていた。
 クラスで、二人へのお別れ会が開かれたが、俺は正直このお別れは辛かったから、よく覚えてない。

 最後の日。
 クラスの前に立った俺と香織。
 クラスのみんなに握手をしたあと、担任の先生が
「貴方達も握手しなさいよ」
といってくれた。
 だが、俺は出来なかった。
 男って、本気で好きな子には、いざって時に何もできないもんだ。
 そして、香織も照れ笑いをしながら「いやだ~」とか言っていた。
 彼女も「ひょっとして」だったのかもしれない。
 その照れ笑いは、今でも俺の記憶の底に残っている。

 あれから色んな女に恋をしたが、香織だけは特別。
 いまでは姿すらおぼろげにしか思い出せないが、あの気持ちだけは鮮烈に残っている。 思い出して切なくなる女は彼女だけだ。

 性を意識しない、最初で最後の恋だったのだろう。
 いわゆる「初恋」ってやつ。

 こんな経験をしながら、男の子は男になっていくんだ。

                       完

俺小説第一回

2005年06月06日 22時16分12秒 | 俺小説
一回目は、小説というより随筆だな。
まあ、暇つぶしにでもどうぞ。


「ガンプラ・ラプソディ」

 1970年代後半から80年にかけて、一世を風靡したアニメがあった。
 「機動戦士ガンダム」といえば、大抵の人にはわかるだろうが、アニメとは思えないそのストーリー性の高さ、画のクオリティの高さは、当時の小中学生を狂喜させた。
 俺もその一人だったが、俺が最もはまったのは、このアニメのブームの中核ともいえる商品だった。
 小学生といえば、当時はロボット物おもちゃといえば超合金がその中心だったが、超合金の持つ無粋さをいっさい拝し、アニメの斬新なデザインに忠実なその商品が出たとき、俺を含めた全国の子供達は、その美しさに魅了された。
 プラモデル、というのはそれ以前から存在するマニアックな商品だったが、「機動戦士ガンダム」のモビルスーツたちがプラモデルで発売されるやいなや、おもちゃの主流商品となった。
 製造・販売元のバンダイは、汚いもので商品の出荷数をうまく調整し、品薄感をあおって商品をヒットさせるという手段を、この当時から使っていた。
 最近でいえば「たまごっち」なんかがこの手法に当たる。
 で、当然普通におもちゃ屋に買いにいってもまず手に入らない。
 俺は両親にねだり、デパートをかたっぱしからあたり、発売日を聞き出し、当日デパートへと直行した。
 たぶん、俺が強行にものをねだったのはこれが最初だったと思う。
 そして、新宿についた俺を待っていたのはデパートをぐるりと取り囲む行列だった。
 開店は朝10:00。
 こんな異常ともいえるブームにまったく無縁だった俺とその両親は9:00くらいにいけば十分だろう、とふんでいたので、結局かなり後ろの方に並ぶはめになった。
 そして開店、行列が次々とデパートへ飲み込まれていき、エスカレーターを次々と上っていく。俺は「ガンプラ(ガンダムのプラモデルの愛称)が手に入る!」という興奮を抑えきれずにエスカレータをどんどんと踏み鳴らしたものだった。
 おもちゃ売り場があった7Fに着き、そこからガンプラ売り場への長い行列を乗り越え、「さあ、ガンプラを手に出来るぞ!」と俺の目に飛び込んできたのは…確かにガンプラには違いなかった。
 ジオン軍戦艦ムサイにガンダム武器コレクション。それ以外は売り切れ。
 ガンプラはガンプラだ。
 だが、俺がほしかったのはモビルスーツといわれるロボット物だ。
 戦艦も眼中になかったが、武器コレクションというのは…。
 こうして初戦敗退(それでも悔しくてムサイは買った)し、俺たちは実家のある調布に戻った。
 新宿のデパートに買いに出た理由は二つある。
 まず、調布というのは当時(あるいは今も)東京の辺境で、流行り物が入ってくるのにタイムラグがあることだった。ガンプラが流行り始めて半年くらいたってから、調布でも普及しはじめたというのが事実である。
 つまり「買いたい!」と初めて思った時には、まだ調布にはガンプラブームのみが到来していて現品はなかったのである。
 そしてもうひとつ。当時の我が家はデパート神話を信じていたふしがあった。
 つまり「デパートに売ってないものはない。なんでもそろう」という不思議な思い込みだ。
 今ならガンプラとデパートを結びつけること自体無理な理論なことは考えなくてもわかることだが、当時の調布の田舎モノには、そのくらい新宿デパート群の神話は絶大だったのである。

 初戦敗退から数ヵ月後、調布の小さなデパートにもガンプラが入り始めた。
 俺は、その頃はすでに「ガンプラをゲットするには朝6:00には現着必須!」ということをアタマに刻み込んでいたので、早朝近所の兄貴分とともに自転車で猛スピードを出し、調布のデパートへと急いだ。
 そして、初めてジオン軍モビルスーツを手に入れたのだった(確かズゴックだった)。 悲劇は、その帰りに起きた。
 喜びで興奮していた俺は、立体交差の道を猛スピードで下っていたときに自転車がいうことをきかないことに気づいた。ハンドルがきかないのだ。自転車は猛スピードでダッチロール走行をはじめ、そのまま転倒、俺は顔面の半分を地面に叩きつけながら猛スピードで坂を転げ落ちていった。
 
 俺の記憶はここで途絶えている。
 いまだに、その後どうやって家に戻ったのか思い出すことが出来ない。
 だから、家について一眠りついた後に鏡をみた俺は叫び声を上げた。
 どうやら俺は顔面半分が血だらけ傷だらけだったらしい。それに驚いた母親が俺の顔を包帯でぐるぐる巻きにしていた。
 だから、鏡に映ったのは、半分ミイラ男と化した自分だったのだ。

 なにせ記憶喪失(当時は事故があったことすら覚えていなかった)という一大事に見舞われた俺は、病院で検査という検査を受け、結局脳などには異常はなく、一時的なショックによるものと診断され、一件落着となったのだが、この大怪我が我が家に与えたショックは当時は大きかった。

 学校でも、ミイラ姿の俺は注目を集めた。
 だが、何せガンプラをゲットするための名誉の負傷だ。
 俺は英雄だった。
 ガンプラというのは、そのくらい希少価値の高いものだったのだ。

 その数ヵ月後、近所のプラモデル屋で定期的に売られ始め、俺も様々なガンプラを買っては、シンナーくさい部屋でプラモ作成に興じたものだった。

 子供ってのは、おもちゃに命をかけられなきゃ男の子じゃない。

 今の男の子は、何に命をかけるのだろう?

                                             完