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ヘタレ創作ヤログ~人生これでいいのだ!!

原点に立ち返った、創作ヤロウのブログ!
「負け組プータログ!!」からタイトル再変更。でも、今まで通り幅広くいきます~

インターネットって何ぞ?~ヘタレ人生の幕開け

2012年11月02日 23時27分29秒 | 人生楽しや~我が90年代
久しぶりの回顧録です。

シラキュース大学の春学期を終了した俺は、一時帰国することにした。
帰国後の話をする前に、ちょっとだけシラキュース終盤の話をしておこう。

音楽活動については、ちょこちょこっとライブをやったものの、3ピースのバンド(ドラムなし)はやっぱキツイということになり、ドラムを俺が担当し、Vo.はギターの韓国人の友達で、ということになったのだが・・・韓国人はとにかく「連帯」を最重視する人達。
元々ギターの彼の技量といい加減さに不安を抱いていた俺とHideは、ギターの上手い韓国人が別にいる、とその当人から聞かされ、この際だからメンバーをガーっと増やしてしまえ!と3人くらい加入させてしまった。
韓国人が4人、日本人が2人という構成のバンドは、残念ながら「ほどよくバランスの取れた多国籍バンド」とはならず、「韓国人バンドに日本人が付属」的な感じになってしまって、俺はこの時点では誰にも言わなかったけど、やめようと思っていた。
一人ひとりはホントいいやつなんだけど、数集まるとナショナリズムというか、変に民族意識が高まるんだね。
色んな話を当時聞いたけど、ここでは書くのやめとくわ。
まあ、帰国してから二度とアメリカに戻ることがなかったわけだから、やめるもヘッタクレもなかったけどね

音楽はこんな感じで、いずれにしても続けるつもりなかったんだけど、留学自体もあきらめざるを得ない状況が帰国した俺を待ち受けていた。
父親の会社経営が火の車どころの話じゃなくて、俺がまだシラキュースにいる頃から送金が途絶えることが何度かあった。
日本の雪国を凌駕するほどの豪雪地帯でもあるシラキュースの大学構内にあるポツンとあるATMで金を下ろそうとして「残高$5」は正直かなりキツかった。
映画学科ってそれでなくともフィルム代や現像代は自腹なので、学費ギリギリしか用意してないってこと自体、留学準備が出来てなかったって事なんで、帰国後俺は家族会議を開いて色々話を聞いて、「これは継続しても卒業する前に破綻するな。退学とはいかないまでも、とりあえず休学するしかない」と思い、父親にそう提案して、結局休学という形をとった。

シラキュース終盤の話と帰国直後の話が一緒になってしまったけど、こんな感じで俺は留学継続をすっぱりあきらめ、「ならせめて日本で安く通えるシナリオ学校に行こう」と思い立ち、今はなき山手YMCAのシナリオ講座を資料をとりよせた。
今は日本シナリオ作家協会単独でやってるシナリオ講座と同じなんだけど、基礎科と研修科があって、研修科は建前上面接試験をパスしないと入塾できない仕組みになっているということだったので(当時は建前だとは知らなかったwww)、どうしようかなあ、面倒くさいなあ、と悩んだんだけど、ふとその期の講師陣3人の名前を見て、面接に行く事にした。
ルパンの脚本やってた人に教えてもらえるなんて、当時の俺には逃す手はないチャンスだったからね。
まあ、面接官は別の脚本家の方だったんだけど(この人も作品歴凄かった)気に入ってくれたみたいで、面接は無事パス。

1996年の10月から、俺はシナリオ作家協会主宰シナリオ講座の第27期研修科に通うこととなった。
システムは、3人の方々が週交代で講師を務めるというもので、俺のお目当ての脚本家の方は、最初の1ヶ月ちょいは残念ながら初監督作の仕事があって講座に来られずだったが、俺は今思えばどうでもいいようなプロットをチャカチャカ書いていたものだった。

シナリオ教室の上級講座の内容ってどんな感じ?
って思う人もいるかと思うので、一言で言おう。

吊るし上げ

当時の講座は研修科といえども少人数ではなかったので、その場でプロットを読みあって論評しあう、という時間的余裕はないわけ。
だから、あらかじめ事務局がコピーしてくれた生徒提出プロットを事前に持ち帰り、次の授業でプロットの作者が教室前に登壇して、教室の端から順に他の生徒の批評をひたすら聞いていく、というサンドバッグ形式だった。
もちろん、これって決して悪い授業内容ではないよ。
ただ、話作りっていうのは結局100人いれば100とまでは言わないまでも60~70通りの意見やスタンスがあるわけで、それをただただ聞いていくだけの時間っていうのは辛いwww
打たれ強くなる人はなるだろうけど、才能あっても耐えられないでプロットださなくなっていく人は結構多かったな。

「才能や技術だけでなく、根性も必要だ」
「根性があれば、後はなんとかなる」
というこの業界独特の考え方もあるけど、まあハッキリ言ってそれは見る人間の事考えてないよな~っていうのは今でも思う。
だって、アノ当時に比べてテレビドラマって激減してますよ。
しかもドラマのほとんどは脚色モノ(原作付ってことね)。
映画は多少増えたけど、そのほとんどはテレビでヒットしたドラマの映画化か、ヒットしたマンガの映画化。

あの期の講師の人達は声をそろえて「今回の生徒はレベルが高い。間違いなく作家が生まれる」みたいなこと言ってたけど、確かに卒業後コンクールで入賞したり、アニメの仕事したりって事がしばらくはあったみたいだけど、ほとんどが消えていったね。
あの当時売れっ子だった若手脚本家が、今も一線でドラマや映画のホン書いてるってことが何よりの証拠
まあ、それでもいつかどこかで聞いたことある名前をゴールデンタイムや映画のクレジットで見ることを期待してはいるけどね。
自分はもう脚本業界は目指さないから、これはお世辞でも皮肉でもなく、本心です。
やっぱ知ってる人が成功しているのって、嬉しいじゃない。

って脚本の勉強をしていただけではなくて、ですね。
97年に研修科を、一本もシナリオを書くことなく卒業した俺は、当時まだ一部の人達にしかわからないメディアで仕事をすることになったのです。
もちろん、脚本が書けるというスキルを活かして欲しいという会社の希望があったからこそ、作る側として出会えたメディアでもあるんだけど。
それが、インターネット。

つづく

ニューヨーク州は広かった~シラキュースシティは寒かった…

2011年12月25日 23時06分40秒 | 人生楽しや~我が90年代
大分ご無沙汰してます。

早速ですが、回顧録の続き。


「イエーイ、今年から俺もNY市民だぜぃ」と勘違いもはなはだしかったわけだけど、まあ一応NY州ではあるSyracuse市を裏表で牛耳るパーティー大学(まあ日東駒専レベルよ)のSyracuse Universityに編入したおいらがまず驚いたのは、午後8時の明るさw
日本なら午後3時くらいの明るさなのよ。
慣れるのにしばらく時間がかかった。。。

で、初日は留学生向けオリエンがあって、その後に日本人会の会合があり、そこで俺はHideという日本人と知り合った。
彼はキーボードが得意な一年生で、「一緒にバンドやりましょう!」と初日で意気投合。
テンプルで不満がたまっていた俺は、シラキュースで音楽に没頭したのだった!(ってほどでもなかったか)

Van Halenの「Right Now」は、Hideがスコア(銀盤用)を持っていたのでまずはこの曲のコピーから。
ギターは、Hideの友人だったコリアンのSungが担当、ドラム&ベースなし(打ち込み)の無茶な3ピースで、3回ライヴのようなものをやりました

ノリは、1回目の時が一番よかったな。
3回目は最悪で、PAやってた女の子が映画学科で俺と同じ授業を受けていたやつの友達で、彼女いわく「サイテーだった」とのこと

まあ、そりゃそうだわな~
リハーサルスタジオなんて近くになかったし、練習はHideの寮の部屋でやってたし。
何よりも経験不足だった(練習も)。

音楽に関しては結局、3回目の後新しいメンバーでやろうということになって、コリアンのシンガーとギタリストが加入し、俺はドラマーにまわされ、次の学期から再始動しようということになった(実はこの時俺は辞めるつもりだった)。

音楽の話はこれくらいにしておいて、映画はというと、さすがに専攻が映画だと、自主制作やろうなんて話にならなくて(ある意味「にっかつ」でもそうだったな)作ったのは授業用の2本のみ。
しかもその2本目が、現時点での最後の作品。

1本目はサイレントで白黒、カメラもBolexの手巻き16mmと、制限された中で作ったものだったんだけど、新しい話考えるのも面倒だったから、再び「DREAMER」の焼き直しをやった。
US版「DREAMER」www
タイトルは「Man with Movie Script」だったと思う。
これが、学期末の教授陣へのプレゼン&レビューで予想以上に評判が良くてね。
正直驚いた。
担当講師からはあまり評価されてなかったから。
その次の学期に同じ授業をとっていた日本人の留学生と組んで「Never Shown」というサイコスリラー(の予定だった)を撮った。
これはシナリオは講師から絶賛されていたんだけど、肝心のキャストが全く決まらなくてね。
撮影が全然進まなくて、急遽シナリオを変えて、というか撮影できるようにその場の流れで撮影したものを編集した、って感じで作ってしまった。
まあ、サイコスリラーではなくなったけど、「サイココメディ」というジャンルで勝負した唯一の生徒として脚光を浴びたのは事実w
2年最後の作品は、公の上映会で上映したんだけど、大爆笑をいただきました

自分の映画について語るのは、今回がラストだねぇ。
次からは、日本帰国後の新たなメディアとの出会いから、ってな感じ?

つづく

演劇に目覚めたTUJ時代~そしてアメリカへ

2011年08月06日 23時16分28秒 | 人生楽しや~我が90年代
長い事間が開くと、前に何を書いたか確認しないとならないから、結構大変

さて、「土鍋」制作後、再び「映画やるならやっぱアメリカだろ?」と思い直した俺は、色々英語の勉強をし、最終的にテンプル大学JAPANの門をたたいた。

まあ、当時はナントカ大学日本校なるものが日本中に溢れかえっていて、アメリカに憧れる学生達から大金を巻き上げるという、結構あくどいビジネスを展開できた時代だったけど、テンプル大学はフィラデルフィアでは知らない人間はいない有名大学(レベルは低いけど。日本でいうこところの日大とかそんな感じ)。
なので、日本校もしっかりしてたよ。
本土からの留学生もいたしね。

そこでオネエ演劇講師だったハンクってのに誘われて演劇サークルに入ることになって。
チョイ役で出演したんだけど、これがかなり楽しくってね
仲間とも仲良くなれたし(今でも一部とはFacebook上でやりとりあり)。
その中の何人かと、土鍋に続く作品を作りました。
しかも、仲間同士の旅行の先で無理矢理ね

一日で撮影を終え、家帰ってきてから編集して、即効で出来上がったのが「五人の怒れる若者」。
もちろん、土鍋の流れをくんだコメディ。
タイトルは「12人の怒れる男」からとったものだけど、内容はまったくオマージュでもなんでもありません。

その後も、フィルムノワールに影響を受けて、とりあえず白黒で撮ったサスペンス「死亡遊戯」(編入先の大学の審査書類として送ったw)を同じメンバーで撮り、翌年の1995年、日本では最後の作品となる「終章~Epilogue」を自宅で撮影しました。
ヒロインにアサインした佳子ちゃんは、今までの自作の中では一番キレイだったんじゃないかな?
演技はともかく、画は今でも一番気に入ってます。

これが、ホントに日本での最後の作品になってしまいました。。。
まあ、また作ればいいんだけどね。

この作品を最後に、俺は編入が決まったニューヨーク州のシラキュース大学へと飛ぶわけだが…


つづく

鍋の精VS悪霊~今まででベストな作品

2011年06月19日 23時05分58秒 | 人生楽しや~我が90年代
にっかつ芸術学院メンバー(俺以外)で制作し、完成したのが
「土鍋」

「沙希」。

土鍋は、まったくの新作で、当時一緒にやろうとなったメイン三人のうちの一人をどうしてもメインにした映画を作りたくて、考えに考えた挙句、「金の斧と銀の斧」をモチーフに、土鍋の精をやってもらおうと企画したものです。
文字で説明しても、よくわかりませんね
その内、ゆつべにでもアップするか…いや出演者から抗議がくるだろうからやめておこう。

で、もう一本は、87年度城南高校映画部最後の作品として企画され、結局数カット撮影したのみで頓挫した企画を、先輩Hが気に入っていて、それをリメイクした。
脚本を俺が書き直してね。

両方とも、出来はともかく、今までで2番目に印象に残っている、楽しかった撮影現場でした。

土鍋の撮影は、しかし、楽しかったけど過酷でもあった。
真夏の夜に鍋をやるという設定上、昼間の撮影は完全に光をシャットアウトしたうえで、しめきった部屋の中でガスコンロをつけるわけだから、もう暑いこと暑いこと。
肌で温度の上昇を感じたのって、後にも先にもあの時だけだね。

しかも、表に出たら寒いのよwww。
鳥肌がたったほど。
皆汗だくで歩いているというのに、土鍋スタッフは、「さみぃ~」と悲鳴を上げながら、クーラーガンガンきいたコンビニで死にそうになりました

まあ、映画製作が無条件で楽しかったのも、このくらいまでかな?

To be continued.

メドがつきましたら辞任します、いやしました(意味不明)~気づいたら90年代

2011年06月05日 22時13分57秒 | 人生楽しや~我が90年代
の話になっていました。
タイトルは無視してください。

ということで、カテゴリーを変更しつつ、回顧録はつづく。

にっかつは、結局すべてのプロジェクトが頓挫したのと、やはり渡米したくなったのとで途中で辞めてしまいました。
「ひとつのメドがついたら、あとは若い世代に」
ということで、まあつまる話後は野となれ山となれってな感じで、今思えば結構無責任だったなぁ。

でも、面白くなかったから。
面白くない事って続かないよ、やっぱ。
金になるわけじゃないしね。

後、若かったせいもあるけど、女ッ気がほぼなかったというのも耐えられなかったんだねwww
俳優科には結構いたけど、縄張り意識が当時は強かったみたいで、あまり仲良くはなれなかったしね。
でも、この頃が一番
「映画作りたい!」
って思ってた時期だと思うな。
プロットは、高校時代の次に多く書いていた時期だった。
クオリティの点からすれば、高校時代以上にやっていたな。
まあ、その情念が学院を辞めた翌年に2作品を創る下地になったわけだけど。

翌年は、にっかつで知り合った何人かと、それから親友の先輩と一緒に2本作ろうという話になった。
先輩が高校時代からやりたかった(高校時代にやって頓挫した)作品をリメイクしたいという流れから、オリジナルも一本やることにして、スタッフィング&キャスティングを先輩に任せた。
まあ、俺はもうにっかつ辞めてたから、にっかつでの人集めは出来なかったんで、まだ在籍していた(というかちゃんと卒業した)先輩に頼んだわけね。

で、結構いいメンバーが集まって、このプロジェクトはスタートした~

次回につづく