久しぶりの回顧録です。
シラキュース大学の春学期を終了した俺は、一時帰国することにした。
帰国後の話をする前に、ちょっとだけシラキュース終盤の話をしておこう。
音楽活動については、ちょこちょこっとライブをやったものの、3ピースのバンド(ドラムなし)はやっぱキツイということになり、ドラムを俺が担当し、Vo.はギターの韓国人の友達で、ということになったのだが・・・韓国人はとにかく「連帯」を最重視する人達。
元々ギターの彼の技量といい加減さに不安を抱いていた俺とHideは、ギターの上手い韓国人が別にいる、とその当人から聞かされ、この際だからメンバーをガーっと増やしてしまえ!と3人くらい加入させてしまった。
韓国人が4人、日本人が2人という構成のバンドは、残念ながら「ほどよくバランスの取れた多国籍バンド」とはならず、「韓国人バンドに日本人が付属」的な感じになってしまって、俺はこの時点では誰にも言わなかったけど、やめようと思っていた。
一人ひとりはホントいいやつなんだけど、数集まるとナショナリズムというか、変に民族意識が高まるんだね。
色んな話を当時聞いたけど、ここでは書くのやめとくわ。
まあ、帰国してから二度とアメリカに戻ることがなかったわけだから、やめるもヘッタクレもなかったけどね
音楽はこんな感じで、いずれにしても続けるつもりなかったんだけど、留学自体もあきらめざるを得ない状況が帰国した俺を待ち受けていた。
父親の会社経営が火の車どころの話じゃなくて、俺がまだシラキュースにいる頃から送金が途絶えることが何度かあった。
日本の雪国を凌駕するほどの豪雪地帯でもあるシラキュースの大学構内にあるポツンとあるATMで金を下ろそうとして「残高$5」は正直かなりキツかった。
映画学科ってそれでなくともフィルム代や現像代は自腹なので、学費ギリギリしか用意してないってこと自体、留学準備が出来てなかったって事なんで、帰国後俺は家族会議を開いて色々話を聞いて、「これは継続しても卒業する前に破綻するな。退学とはいかないまでも、とりあえず休学するしかない」と思い、父親にそう提案して、結局休学という形をとった。
シラキュース終盤の話と帰国直後の話が一緒になってしまったけど、こんな感じで俺は留学継続をすっぱりあきらめ、「ならせめて日本で安く通えるシナリオ学校に行こう」と思い立ち、今はなき山手YMCAのシナリオ講座を資料をとりよせた。
今は日本シナリオ作家協会単独でやってるシナリオ講座と同じなんだけど、基礎科と研修科があって、研修科は建前上面接試験をパスしないと入塾できない仕組みになっているということだったので(当時は建前だとは知らなかったwww)、どうしようかなあ、面倒くさいなあ、と悩んだんだけど、ふとその期の講師陣3人の名前を見て、面接に行く事にした。
ルパンの脚本やってた人に教えてもらえるなんて、当時の俺には逃す手はないチャンスだったからね。
まあ、面接官は別の脚本家の方だったんだけど(この人も作品歴凄かった)気に入ってくれたみたいで、面接は無事パス。
1996年の10月から、俺はシナリオ作家協会主宰シナリオ講座の第27期研修科に通うこととなった。
システムは、3人の方々が週交代で講師を務めるというもので、俺のお目当ての脚本家の方は、最初の1ヶ月ちょいは残念ながら初監督作の仕事があって講座に来られずだったが、俺は今思えばどうでもいいようなプロットをチャカチャカ書いていたものだった。
シナリオ教室の上級講座の内容ってどんな感じ?
って思う人もいるかと思うので、一言で言おう。
吊るし上げ
当時の講座は研修科といえども少人数ではなかったので、その場でプロットを読みあって論評しあう、という時間的余裕はないわけ。
だから、あらかじめ事務局がコピーしてくれた生徒提出プロットを事前に持ち帰り、次の授業でプロットの作者が教室前に登壇して、教室の端から順に他の生徒の批評をひたすら聞いていく、というサンドバッグ形式だった。
もちろん、これって決して悪い授業内容ではないよ。
ただ、話作りっていうのは結局100人いれば100とまでは言わないまでも60~70通りの意見やスタンスがあるわけで、それをただただ聞いていくだけの時間っていうのは辛いwww
打たれ強くなる人はなるだろうけど、才能あっても耐えられないでプロットださなくなっていく人は結構多かったな。
「才能や技術だけでなく、根性も必要だ」
「根性があれば、後はなんとかなる」
というこの業界独特の考え方もあるけど、まあハッキリ言ってそれは見る人間の事考えてないよな~っていうのは今でも思う。
だって、アノ当時に比べてテレビドラマって激減してますよ。
しかもドラマのほとんどは脚色モノ(原作付ってことね)。
映画は多少増えたけど、そのほとんどはテレビでヒットしたドラマの映画化か、ヒットしたマンガの映画化。
あの期の講師の人達は声をそろえて「今回の生徒はレベルが高い。間違いなく作家が生まれる」みたいなこと言ってたけど、確かに卒業後コンクールで入賞したり、アニメの仕事したりって事がしばらくはあったみたいだけど、ほとんどが消えていったね。
あの当時売れっ子だった若手脚本家が、今も一線でドラマや映画のホン書いてるってことが何よりの証拠
まあ、それでもいつかどこかで聞いたことある名前をゴールデンタイムや映画のクレジットで見ることを期待してはいるけどね。
自分はもう脚本業界は目指さないから、これはお世辞でも皮肉でもなく、本心です。
やっぱ知ってる人が成功しているのって、嬉しいじゃない。
って脚本の勉強をしていただけではなくて、ですね。
97年に研修科を、一本もシナリオを書くことなく卒業した俺は、当時まだ一部の人達にしかわからないメディアで仕事をすることになったのです。
もちろん、脚本が書けるというスキルを活かして欲しいという会社の希望があったからこそ、作る側として出会えたメディアでもあるんだけど。
それが、インターネット。
つづく
シラキュース大学の春学期を終了した俺は、一時帰国することにした。
帰国後の話をする前に、ちょっとだけシラキュース終盤の話をしておこう。
音楽活動については、ちょこちょこっとライブをやったものの、3ピースのバンド(ドラムなし)はやっぱキツイということになり、ドラムを俺が担当し、Vo.はギターの韓国人の友達で、ということになったのだが・・・韓国人はとにかく「連帯」を最重視する人達。
元々ギターの彼の技量といい加減さに不安を抱いていた俺とHideは、ギターの上手い韓国人が別にいる、とその当人から聞かされ、この際だからメンバーをガーっと増やしてしまえ!と3人くらい加入させてしまった。
韓国人が4人、日本人が2人という構成のバンドは、残念ながら「ほどよくバランスの取れた多国籍バンド」とはならず、「韓国人バンドに日本人が付属」的な感じになってしまって、俺はこの時点では誰にも言わなかったけど、やめようと思っていた。
一人ひとりはホントいいやつなんだけど、数集まるとナショナリズムというか、変に民族意識が高まるんだね。
色んな話を当時聞いたけど、ここでは書くのやめとくわ。
まあ、帰国してから二度とアメリカに戻ることがなかったわけだから、やめるもヘッタクレもなかったけどね

音楽はこんな感じで、いずれにしても続けるつもりなかったんだけど、留学自体もあきらめざるを得ない状況が帰国した俺を待ち受けていた。
父親の会社経営が火の車どころの話じゃなくて、俺がまだシラキュースにいる頃から送金が途絶えることが何度かあった。
日本の雪国を凌駕するほどの豪雪地帯でもあるシラキュースの大学構内にあるポツンとあるATMで金を下ろそうとして「残高$5」は正直かなりキツかった。
映画学科ってそれでなくともフィルム代や現像代は自腹なので、学費ギリギリしか用意してないってこと自体、留学準備が出来てなかったって事なんで、帰国後俺は家族会議を開いて色々話を聞いて、「これは継続しても卒業する前に破綻するな。退学とはいかないまでも、とりあえず休学するしかない」と思い、父親にそう提案して、結局休学という形をとった。
シラキュース終盤の話と帰国直後の話が一緒になってしまったけど、こんな感じで俺は留学継続をすっぱりあきらめ、「ならせめて日本で安く通えるシナリオ学校に行こう」と思い立ち、今はなき山手YMCAのシナリオ講座を資料をとりよせた。
今は日本シナリオ作家協会単独でやってるシナリオ講座と同じなんだけど、基礎科と研修科があって、研修科は建前上面接試験をパスしないと入塾できない仕組みになっているということだったので(当時は建前だとは知らなかったwww)、どうしようかなあ、面倒くさいなあ、と悩んだんだけど、ふとその期の講師陣3人の名前を見て、面接に行く事にした。
ルパンの脚本やってた人に教えてもらえるなんて、当時の俺には逃す手はないチャンスだったからね。
まあ、面接官は別の脚本家の方だったんだけど(この人も作品歴凄かった)気に入ってくれたみたいで、面接は無事パス。
1996年の10月から、俺はシナリオ作家協会主宰シナリオ講座の第27期研修科に通うこととなった。
システムは、3人の方々が週交代で講師を務めるというもので、俺のお目当ての脚本家の方は、最初の1ヶ月ちょいは残念ながら初監督作の仕事があって講座に来られずだったが、俺は今思えばどうでもいいようなプロットをチャカチャカ書いていたものだった。
シナリオ教室の上級講座の内容ってどんな感じ?
って思う人もいるかと思うので、一言で言おう。
吊るし上げ
当時の講座は研修科といえども少人数ではなかったので、その場でプロットを読みあって論評しあう、という時間的余裕はないわけ。
だから、あらかじめ事務局がコピーしてくれた生徒提出プロットを事前に持ち帰り、次の授業でプロットの作者が教室前に登壇して、教室の端から順に他の生徒の批評をひたすら聞いていく、というサンドバッグ形式だった。
もちろん、これって決して悪い授業内容ではないよ。
ただ、話作りっていうのは結局100人いれば100とまでは言わないまでも60~70通りの意見やスタンスがあるわけで、それをただただ聞いていくだけの時間っていうのは辛いwww
打たれ強くなる人はなるだろうけど、才能あっても耐えられないでプロットださなくなっていく人は結構多かったな。
「才能や技術だけでなく、根性も必要だ」
「根性があれば、後はなんとかなる」
というこの業界独特の考え方もあるけど、まあハッキリ言ってそれは見る人間の事考えてないよな~っていうのは今でも思う。
だって、アノ当時に比べてテレビドラマって激減してますよ。
しかもドラマのほとんどは脚色モノ(原作付ってことね)。
映画は多少増えたけど、そのほとんどはテレビでヒットしたドラマの映画化か、ヒットしたマンガの映画化。
あの期の講師の人達は声をそろえて「今回の生徒はレベルが高い。間違いなく作家が生まれる」みたいなこと言ってたけど、確かに卒業後コンクールで入賞したり、アニメの仕事したりって事がしばらくはあったみたいだけど、ほとんどが消えていったね。
あの当時売れっ子だった若手脚本家が、今も一線でドラマや映画のホン書いてるってことが何よりの証拠

まあ、それでもいつかどこかで聞いたことある名前をゴールデンタイムや映画のクレジットで見ることを期待してはいるけどね。
自分はもう脚本業界は目指さないから、これはお世辞でも皮肉でもなく、本心です。
やっぱ知ってる人が成功しているのって、嬉しいじゃない。
って脚本の勉強をしていただけではなくて、ですね。
97年に研修科を、一本もシナリオを書くことなく卒業した俺は、当時まだ一部の人達にしかわからないメディアで仕事をすることになったのです。
もちろん、脚本が書けるというスキルを活かして欲しいという会社の希望があったからこそ、作る側として出会えたメディアでもあるんだけど。
それが、インターネット。
つづく