酷暑である。熊谷市で41度越えなど、百葉箱の中の温度なのだから、太陽の下はまさに炎天下なのだろうな。
酷暑は静かである。蟬の声ばかりである。カラスはどこへ行った? 国体道路を運転していて、けやき通りに入ると、涼しい木陰にほっとする。歩いてても車でも、信号待ちは日陰に入りたい。歩きは日傘必須である。夕刻も静かだ。夜も過度に暑いので、静かだ。玩具花火の売れ行きはどうだろうか。
子どもの頃は夏休みともなれば、まず終業式の夜は隣に住んでた従兄妹たちとでガーデン花火大会である。朝はラジオ体操。まあよくある感じね。
家から数分歩けば、そこは入り江の中にある遠浅の海岸で、いつでも泳げた。そんな距離だから、家から直接水着を着て浮き輪を持って行く。入り江を取り囲むのはふたつの岬で、ひとつは月崎、入り江の向う側は灯台のある漁港で丸尾崎といった。その入り江の月の岬の近く側が私たちの遊び場だった。今では考えられないかも知れないが、子どもだけで勝手に海に行って泳いでいた。夏休みの心得に、6時までには帰宅しろ、行き先は親に教えろ、というのはあった気がするが、必ず大人と行きましょうなどという注意はなかった。当時は、海は勝手に行って泳ぐものだった。ともかく遠浅で、どこまで行ってもぬるい海水があって、足が地面についた。ちょっと掘ればアサリがいた。砂浜には普通にカブトガニがいた。桜貝の貝殻を集めた。誰が溺れたとか死んだとかいう話も聞いたことがなかった。大きな川が流れ込んでいない入り江の遠浅海岸というのは、今考えれば、海水浴場としては理想的である。安全だったのである。
この海岸沿いに昔から住んでいたのだと父は言った。二十何代まで遡る、と。文政期の墓が残っているので、江戸時代の人の移動を考えると、たぶんそれは本当のことなんだろうな、と思う。いちど「その前はどこで何をしていたの」と聞いてみたことがある。さあ、瀬戸内の海賊だったのかもね、と笑ってた。江戸時代には樺太探検をした人も出た場所である。海賊はともかく、海の民の住み着いたところかも知れない。ちなみに、そのあたりで歌い継がれている盆踊り歌は、なぜか那須与一だった。
お盆過ぎには刺すクラゲが増えるので、海に行くのはやめる。それとともに宿題モードとなり、そのうち夏休みは終わるのだった。
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