発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

ヤモメのジョナサン/文明のオウンゴール

2015年04月17日 | 日記
◆愛川欽也氏、死去
 先日の映画「博士と彼女のセオリー」で、教会の合唱隊指導者でホーキング家にいろいろと手助けをする、妻に先立たれた男の名前はジョナサンといった。
 ヤモメのジョナサン!!!
私は、人間模様の機微が繰り広げられる美しい画面を見ながら、往年の映画「トラック野郎」シリーズの愛川欽也を思い出していた。愛川欽也といえば、私にとっては子ども時代のアニメ「いなかっぺ大将」のニャンコ先生の声優ぞなもし。「博士と彼女のセオリー」を鑑賞しているのに、脳内の一部で疾走する白ナンバーとラックの映像と、天童よしみの「大ちゃん数え歌」が小さく再生されていたのであった。
 あと土曜ワイド劇場の西村京太郎シリーズの亀井刑事。それから、あまりヒットしなかった映画だけど「この胸いっぱいの愛を」の、ヒロインの血の繋がらない父親。

◆素人考えですが
  福島第一の1号機の核燃料がすべて溶け落ちていたというニュースは、想定内ということだったが、これはあまり大きなニュースにはならなかったね。ロボットが動かなくなったことも大変なニュースで、それではどうやって廃炉するのか。原子炉の線量が10シーベルトあって、その10倍はあると思っていたけどそれよりは少ないと東電の人がニュースで言ってたけど、10シーべルトって、1時間以内に全員死亡の線量。
 おおごとだと素人は思うのだが。ちゃんと閉じ込められているのか、それはいつまでなのか、どこの地下水脈に落ちて行くようなことはないのか。だいじょうぶなのか。
 原発に怯えてる人が、羹に懲りて膾を吹く状態なのか、それともそれは正しい学習能力というものなのか。
 ともかく自分で選択するのだ。暮らしを成り立たせるために再稼働するのか。そのメリットデメリットはどうか。ちゃんと選ぶのだ。争点から外すと将来に禍根を残そう。ところが地方選の争点から微妙にはずされていた。
 福島において、汚染された地域の人たちが十分に補償されているかどうかは議論があるだろうが、いえることは、今後事故が起きた場合、その現在の福島の人々ほど担保されないことを覚悟しなければならないということである。
 ひとつには、財政の問題。ない袖は振れない、振る袖がなくなるという事態。
 ひとつには、何かことが起きればこういう(2011年とそれ以降の福島のような)ことになる、とわかって、再稼働を選択したのだから、それは地域住民の選択で、想定内のことであるから、(想定外の事態だった)福島ほど担保されない、ということにならないか、ということである。
 福島の廃炉のみちすじは立たず、ロボットも動かなくなる。
 この期におよんで、本当は誰も原発など稼働させたくないのではないかと思う。
 それでも稼働させようとする理由は、稼働させて稼いだ電気代を莫大な廃炉の経費に充てる必要がある、そうしないと廃炉の経費がまかなえない、ということかな、と素人は思っている。それならそうとちゃんと言って下さい。
 あと知りたいのは、高レベル放射性廃棄物が、震災前レベルで年間約500トン出ていて、再稼働するとまた出るようになるのですが、それをどこにやるのか解決したかどうかですね。できたての高レベル放射性廃棄物のガラス固化体は1500シーベルトあるんですって。ええと、10シーベルトで一時間以内に全員死亡。その150倍ってどういうことだろうかと。それが出なくなってるだけでも原発稼働停止の意義はあると思うのだけれども、それはどの程度の経費と天秤に掛けられているのか、ということも知りたいなと。
 そもそも、核融合反応を人為的に起こすこと自体、戦争に使うこと以前に、やっちゃいけないことだったのかなあ。
 文明のオウンゴールはあまりにも手痛い。