きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(1)・父母のこと

2010年09月14日 | 思い出探し
母が残してくれた写真から、生まれたばかりの私。
もこもこに綿入れの着物を着せられて、昭和24年、群馬県沼田市。

思い出を探す旅の始まりは、今は亡き父と母のことからになる。
両親ともあまり昔のことを話さない人達であったが、たまに夕飯の食卓を囲んで、父が酒を飲みながらポツポツと昔話をしてくれることはあった。
多くは忘れてしまったが、今でも記憶に残っている切れ切れの話を思い出し出し書いてみるところから始めてみようと思う。

父母の一生に大きく影響したのは戦争であった。
両親が終戦の日を迎えたのは樺太の泊居(とまりおる)であったが、連合軍に無条件降伏した前後にロシア軍(赤軍)が樺太に侵攻し、追われる様にして両親やその一族が樺太を去ったのは昭和22年であった。 
その時には私はまだ生まれていなくて、兄が母のお腹の中にいた。
本土決戦というと沖縄と言うことになるが、本土最後の地上戦は樺太で行われたのである。当時の樺太在住日本人は約40万人という。

大きなお腹で、樺太から取りあえずの落ち着き先の青森県浅虫までの道中はさぞ大変だったと思うが、ロシア軍や強制労働をさせられていた朝鮮人の暴動などで殺された人達や病気で亡くなった人も多くいるわけで、また引き上げが適わず現地に残った人達も少なからず居たわけで、そのことを思うと不幸ではあったが運が良かったと言えるのかもしれない。
ちなみにその時 父は27歳、母は22歳であった。

父の母親は滋賀県の人であり、大阪で商売をしたあと樺太に渡ったと聞く。
母ひとり子ひとりの経済的には苦しい生活であったが、父はスポーツ万能で、勉強も良く出来、祖母には随分可愛がられたようだ。 
当時の国民の多くがそうであったように祖母も大変教育熱心で、父は泊居高等小学校を卒業してから、一人で遠く離れた長野の木曽山林高等学校へ進学した。ちなみに、私自身も気仙沼中学校を卒業してから、仙台第一高等学校へ進学して下宿生活をしたが、父が経験した樺太から長野の距離には比べようもない。

父の小学校の同級生の仲良しに歌手のさだまさしさんのお父上の「さた君;父はそう呼んでいた」がいて、戦後も同窓会などがあり、後々まで交流があったようで、さだまさしさんが製作した映画「長江」の発表記念パーティーで長崎のさださんの家(島)に招待されたりしていたのを記憶している。そのお父上も先ごろ他界されたようである。

家の裏には戦後人気があったシャンソン歌手の高英夫(「雪の降る町を・・・」で有名)も住んでいたということも良く話していたのを思い出す。
樺太時代はつらいことも沢山あっただろうに、当時のことを話す父母はいつも楽しそうであったと記憶している。

父母にとって樺太は夢の故郷のままで終わってしまったなあ・・・などと考えていると私もなにか胸が熱くなってしまうのだが、これも歳のせいかな。
学校に進学した後の父の話は、次回に・・・。

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