秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
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世界格闘技の日

2016-06-26 07:32:30 | スポーツ
6月26日(旧暦5月22日 干支=己卯 九星=三碧 六曜=友引)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今年は梅雨らしい梅雨というか、雨が例年と比べて強いように思います。

日本各地でところによっては非常に激しい雨となったり、農作物の生育に影響が出てくる恐れもあるので、十分な警戒が必要となりそうです。


昨日は、長嶋茂雄の天覧試合の話でした。

長嶋茂雄は1936年2月20日生まれですが、この2月20日にはもう一人偉大な人物の誕生日になっています。

それは、アントニオ猪木です。


アントニオ猪木こと猪木寛至は、1943年2月20日に神奈川県横浜市で生まれ、13歳のころに祖父や兄弟らとともにブラジルへ移民します。

コーヒー農園での過酷な労働のかたわらで、砲丸投げに熱中し、陸上選手として大会に出ていたところ、ブラジル興業で訪れていた力道山の目にとまり、そのままスカウトを受け、1960年に日本プロレスにてデビューを果たします。

この同日にデビューした新人には、元巨人・大洋の投手であったジャイアント馬場がいました。


彼が大型スター候補として期待されていたのに対して、猪木は力道山の付け人として身の回りを世話し、時に厳しい仕打ちを受けました。

1963年、巨星・力道山が急死し、日本のプロレスは大きな危機を迎えます。

1966年、猪木は先輩の豊登と東京プロレスを立ち上げますが、わずかな間に倒産、再び日本プロレスへ戻り、馬場とタッグを組んで日本プロレスの2大エースとして活躍します。

しかし、1971年に猪木は日本プロレスから追放処分を受けてしまいます。


翌1972年、猪木は新団体「新日本プロレス」を旗揚げし、それに次ぐ形で馬場も日本プロレスを退団、「全日本プロレス」を立ち上げ、2人のエースは2団体の代表となりました。

馬場の全日本プロレスが、アメリカのバリバリの大物レスラーを招聘し、スケールの大きい試合を行う一方で、猪木の新日本プロレスは大物を呼べず、興業は苦戦していました。

その中で、タイガー・ジット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどの名の知られていない外国人レスラーを発掘して育て、特にシンと猪木の遺恨マッチは、新日本プロレスに大きな関心を与えるきっかけとなりました。


また、プロレスこそ最強の格闘技として、異種格闘技戦を行い、各国の大物格闘家との試合はそのたびに大きな注目を浴びることとなりました。

中でも、先日亡くなったプロボクシング・ヘビー級王者モハメッド・アリとの対決は、世界中に衝撃を与えるものとなりました。

今日は、1976年に「猪木対アリ」が行われた日として、今年からは認定された記念日となりました。


キンシャサの奇跡で、フォアマンからヘビー級のタイトルを奪取したアリは、そのビッグマウスでこう言いました。

「東洋人でだれか俺に挑戦するやつはいないか」と。

それに、猪木は名乗りを挙げます。


一人の無名の日本人プロレスラーの挑戦は、ばかげたものとして相手にされませんでした。

しかし、猪木はミュンヘン五輪柔道無差別級・重量級金メダルのウィリアム・ルスカに勝利するなど、自身のアピールを強引に行い、アリに交渉のテーブルにつかせるまでになります。

この時点で、猪木・アリ戦は、絵空事でなくなっていました。


1976年6月16日、ボクシング世界ヘビー級王者モハメッド・アリが、羽田空港へ降り立ちました。

猪木との格闘技戦は、ほぼ実現のものとなり、日本のプロレスファンの熱狂はうなぎのぼりとなりました。

6月20日、後楽園ホールで公開スパーリングが行われ、猪木のその真剣なしぐさに、アリは「これはエキシビジョンでない」と警戒し始めました。


6月26日。

ついに世界が注目する、世紀の一戦が日本武道館で始まりました。

ゴングが鳴ると、猪木はアリの足元をめがけて滑り込みながら蹴りを放ち、あおむけに寝転んだままアリの方へ足を上げ、蹴り込むタイミングを見計らいます。

アリは猪木に立ち上がれとグラブを振り、猪木はその後も幾度も低い体勢でアリの足を蹴り込みながら、リング中央に寝ころびます。


ボクシングとプロレス。

両方の派手な技の攻防はほとんど見られず、会場も、テレビ中継も、ボクサーの立ち姿とレスラーの寝姿のにらみ合いをずっと見続ける形となりました。

やがて、3分15Rの試合終了のゴングが鳴り、世紀の一戦は幕を閉じました。


こうした試合が行われた背景には、アリサイドの「猪木のレスリング」を警戒し、ほとんどのプロレス技が禁じられたルールであったことが大きいとされています。

その中で猪木はアリに64発のキックを放ち、アリの足に重傷を与えて入院させ、猪木もまた足を骨折するなど、両者の激戦のダメージは大きなものでした。

しかし、派手な両者のぶつかり合いへの期待は裏切られ、引き分けに終わった猪木・アリ戦は、世紀の凡戦として酷評されます。

猪木サイドにはマッチメイクにかけた莫大な借金が残る一方で、猪木と新日本プロレスの名は世界へと広まり、パキスタンの英雄アクラム・ペールワンとの格闘技戦や、ヨーロッパ遠征への道筋へとつながっていきました。


猪木・アリ戦は失敗したとされる一方で、猪木の異種格闘技路線は、その後のUWFやシュート・ボクシングなどの設立に大きな影響を与え、既存のプロレスの選択肢を広げる形となっていきました。

大山倍達の極真空手の流れをくむ正道会館ではK-1が立ち上がり、プロレスのリングに空手・キックボクシング競技者が上がる道筋を作りました。

その中で、アメリカで行われたUFCでは、プロレスラーやキックボクサーらを抑えて、ブラジリアン柔術のホイス・グレイシーが優勝し、その後も日本ではヒクソン・グレイシーが高田延彦や船木誠勝を破るなど、プロレス界にとってグレイシーはトラウマに等しくなっていました。


その中、2000年5月に行われたPRIDEグランプリ決勝戦において、ホイスと桜庭和志の一戦が時間無制限の特別ルールで行われました。

柔術道着を着たホイスは、得意の寝技に持ち込むようにリング状にあおむけになり、対する桜庭は立ち姿勢でホイスの隙を伺います。

ホイスが猪木、桜庭はアリのような状態で膠着したと思えば、今度は桜庭がホイスを攻めていきます。

桜庭はホイスの道着の裾をつかみ、左の太ももに強烈なローキックを放ちます。

あるいは、寝ているホイスの顔面をめがけて、桜庭は踏みつぶすようにキックを放つなど、予想もしない攻めを繰り出していきます。

やがてホイスの動きは止まり、試合は6R90分が終わって、両選手がリングサイドへ下がりました。

7R開始前、ホイスサイドからリングへタオルが投入され、桜庭の勝利がコールされました。


この試合は、東京にいるときにPPVでリアルタイムで観ていました。

とんでもないものを観た気がして、異常な興奮状態となっていたと思います。


現在では、一時の総合格闘技ブームも終わり、またプロレスもかなり細分化されたことから、テレビのゴールデンタイムで観る機会もめったになくなりました。

しかし、観客の前で鍛え上げた肉体同士がぶつかり合い、互いのプライドをかけて技を出し合うという戦いは、観る者に感動と興奮を与えてくれるものだと思っています。


怪我や痛みを抱えながらも、激しいトレーニングで体を作り、毎日観客のためにリングに上がり、相手の技を受けきって己のパフォーマンスを誇示するプロレスラーの姿には、いつも尊敬の念を感じています。

実際の試合会場に行くと、打撃で肉体を打つ音や、リングマットにたたきつけられる音、観客の息をのむ音や拍手と歓声、スポットライトのまぶしさなど、テレビでは味わえない魅力がたくさんあります。

後楽園ホールにも、久々に行きたくなりました。

語りだせばきりがないので、そろそろ閉じたいと思います。

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