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用水の暗渠の上と見当をつけ南下すると、「光明寺大門前の堰と
水車」と題した案内板があった。
この辺りにはその昔、用水を西側に分流していた堰が設けられて
おり、分流された用水は根岸耕地(現在の千鳥町3丁目)を灌漑し
ていたという。また、光明寺門前には米穀卸・天明家所有の水車が
あり、精米が行われていたという。
光明寺は、天平年間(729~49)に行基が開創し、寛喜年間
(1229~32)に浄土宗に替わっている(鵜ノ木1-23-10)。現
在は寺の北側に環状八号線が通り喧噪であるが、当時は物静かな
ところであったのだろう。
(大田区南久が原2-30辺り)
堰と水車跡の案内板
水車」と題した案内板があった。
この辺りにはその昔、用水を西側に分流していた堰が設けられて
おり、分流された用水は根岸耕地(現在の千鳥町3丁目)を灌漑し
ていたという。また、光明寺門前には米穀卸・天明家所有の水車が
あり、精米が行われていたという。
光明寺は、天平年間(729~49)に行基が開創し、寛喜年間
(1229~32)に浄土宗に替わっている(鵜ノ木1-23-10)。現
在は寺の北側に環状八号線が通り喧噪であるが、当時は物静かな
ところであったのだろう。
(大田区南久が原2-30辺り)
堰と水車跡の案内板