“幼い頃、父が苦手だった。父は喜怒哀楽が激しく日常生活を中心にさまざまなことへの注意が多かった。それら全てが父の嫌なところだと私は思ってきた。少なくとも私が二十九歳のときまでは。
私は想定外の早産で次女を産むことになり、不安と悲しみの中、父に電話をした。しっかりしなさいと言われるだろうと思っていたが、父は電話口で泣きだした。そして行き場のない私の悲しみに寄り添ってくれた。それから、父は孫である次女の成長を誰よりも喜んでくれた。
それまではいつも父の日に何をプレゼントしたら喜んでくれるかと悩んできたが、父にそっくりな次女の成長ぶりを話して聞かせることが最高の贈り物なのだと思っている。”(6月16日付け中日新聞)
岐阜県大野町のパート・伊藤さん(女・34)の投稿文です。父親も親である。子供のことを気にかけない親はない。ただその表現である。昔の父親は唯我独尊、しかも素直でない父親が多かったのだ。父親と母親の役割分担がはっきりしていた。父親は威厳を保ち、その分母親はただ優しかった。子供には父親は随分嫌な存在であった。今から思うと随分損な役割であった。最近の父親は随分変わってきた。娘婿を見ていると本当に思う。共に優しくなった。父親の方が好きという子供も多かろう。一般論であろうが、ボクはこのように思っている。子育てにはどのようなことがいいか、一概に言うのは難しい。共に優しくていいのか、恐い人があった方がいいのか、同じように育てても全く違う子供になる。同じように育てているようでも子供はその本質を見抜いているのではなかろうか。子育ても野菜作りも同じである。同じようにやっていても、同じようにならない。愛情を注ぎ込むより方法はない。
伊藤さんのお父さんも全く昔のお父さんであった。でも、早い時に父親の本質を知ることができてよかったと思う。亡くなってから知ってはもう取り返しがつかない。「親孝行したい時に親は亡い」十分に注意したい。