出発前日に大急ぎでパッキングと掃除などをすませ
夕食後に犬達をいつもお世話になってる友達の所へ連れて行く。
犬達は、寂しそうだったけれど
すぐにおもちゃなどに釣られて遊んでいた。
食べ物にもすぐ釣られる。飼い主に似ている。
出発当日は朝4時半に起きて支度し空港へ。
ここからヒューストンで乗り換えてプエルト リコへ。
待ち時間など入れると、10時間ちょっとの旅だった。
私がいつも苦手なのは
アメリカの税関。
こちらが笑顔でいるのに、
いつもむすっとした係員が事務的に質問してきて
顔写真とフィンガープリントを撮られる。
(ちなみに顔写真とフィンガープリントは、入国毎に毎回撮られる)
この日はチェックインの係りが間違えて
違うビザの紙を渡したために
ビザを書き直さなければならないと言う
2度手間になってしまった。(私も迂闊だったんだけど)
Gはカナダ国籍なので割と簡単にスルーできるから
私のパスポートの関係で
こういう風にちょっと手間どると、イライラするらしい。
時々そういうことで喧嘩になったりするが
結局最後は
国籍の違うもの夫婦なんだからそんなこともあるよ
で納得する。(いつもはあんまり考えて生活してないから
自分達が国際結婚だったというのが
こういうときに目に見えてはっきりする。)
飛行機の中から見たヒューストンの空は
灰色に煙っていて汚かった。
Gにこれってポリューションだよねと聞いたら
さあ~?とか間抜けな返事が返ってきてがっくし。
プエルト リコ行きの搭乗口が変更になっていて
空港の端から端までを一緒のフライトだった
他のセールスレプの人達と
ぞろぞろぞろぞろと歩いて行った。
到着はプエルト リコタイムの午後11時くらい。
ホテル行きのシャトルにのって1時間のドライブ。
高速にすぐ乗ったので
外は真っ暗で何も見えなかったけど
所々、ファーストフードの看板があちこちに点在していて
お~とか思う。
月がきれいだった。
長いフライトでちゃんとした御飯も食べてないのに
カナデイアン組の元気のよいこと。
荷物を部屋に置いて下のバーでウェルカムドリンクを
飲む。
モヒートというラムベースのカクテルを
もらったら 口当たりが良くて3杯ほど飲んでしまい
妙に明るくなって笑い上戸になってしまい
なぜか饒舌になっていた。
お酒というのは 普段開いてない脳の中のトビラをぱこっと開けるみたいで
普段使ってない英語の単語とかもぽろぽろ出て来て吃驚した。
お~英語マトモに喋ってるよ自分とか思った。
(いかに普段マトモな英語しゃべってないか分ると言うもの)
カナデイアン組みの他に
ツアーをオーガナイズしてくれるアメリカ人達も先に来ていて
彼等も一緒に飲んでいたんだけど
その中にGの会社のセキュリテイーを長年やってるじいさんがいた。
じいさんは 私に話し掛けてきて
日本人ですか?とかなんとか最初友好的だったのだが
だんだん第二次世界大戦の話に突入していき
日本と戦った話を出して来た。
あ~、こらいかん方向へ話が広がってるわ~と思っていたら
”俺がエアフォースで働いていた頃、俺の親友は日本人に殺されたんだ”といってきた。
一瞬、へっ?と思って目が点になった。
彼は私が固まってるのをよそに
訛りのある英語で”その話は長くなるから今は話さないが、詳しいことが知りたいなら
いつでも声をかけてくれたら話してやるよ”と言った。
じいさんは、あきらかに物凄い酔っぱらいだったんだけど
あの憎しみの隠った目は酔っぱらってなかった。
彼のこころの奥深くに渦巻いてる物は
ここで、誰がなにを反論しようが意見を言おうが
微動だにせず 聞く耳をもたないと察したし
考えたら なんでプエルトリコまで来て着いた日そうそう
そんな話を聞かされないといかんのだと思ったら
ばからしくなり
今まですごいポライトに接していたが(といっても
途中からだんだん崩れて来てはいたが)
もう、わたくしに話し掛けても
わたくし貝になってますからなにも聞こえません
状態に突入した。
Gは私がそんな間、他の人達とくっちゃべっていて
全然何を話してるか知らなかったらしく
後で話したら、彼は相当飲んでいたし普段からクレイジーな人物だから
今度なにか言われたらすぐ教えなさいと言っていた。
ベッドに入ってからも
疲れているのに寝つけず
ずっとあのじいさんの言ったことを考えていた。
じいさんの根はこれからもずっと
深く心の中に這って引き剥がされることなんかないんだろうな。
うちのじいさんも
戦争でアメリカのフォースから銃弾を受けて亡くなったことなんか
彼は一生知らないで終わるだろう。
でも、私はアメリカ人のことを憎んではいない。
戦争は人を狂わせる。あの時は皆狂っていた。
憎むべき対象は 戦争であって
その戦争で犠牲になった人達ではないと思う。
戦争を実際に体験してなくても
今それはだれもが知ってることだと思う。
憎しみからは何も生まれないけど
人によっては憎しみを持つことで生きている人がいるのを
否定出来ない。
それが良いのか悪いのか
その人が亡くなる時に答えが分るんじゃないかな。
でも、もしかしたら答えなんかないかも知れないけど。
私は、これからの人生
なにかあったとしても出来れば憎しみなんか
持ったまま 死にたくはないと思う。
*あのじいさんはその後
デイナーで1回ちらっと見かけただけでした。
なんせ、次の日から1000人あまりの人がホテルに泊まっていたから
もうなにがなんだか分らない状態でした。
夕食後に犬達をいつもお世話になってる友達の所へ連れて行く。
犬達は、寂しそうだったけれど
すぐにおもちゃなどに釣られて遊んでいた。
食べ物にもすぐ釣られる。飼い主に似ている。
出発当日は朝4時半に起きて支度し空港へ。
ここからヒューストンで乗り換えてプエルト リコへ。
待ち時間など入れると、10時間ちょっとの旅だった。
私がいつも苦手なのは
アメリカの税関。
こちらが笑顔でいるのに、
いつもむすっとした係員が事務的に質問してきて
顔写真とフィンガープリントを撮られる。
(ちなみに顔写真とフィンガープリントは、入国毎に毎回撮られる)
この日はチェックインの係りが間違えて
違うビザの紙を渡したために
ビザを書き直さなければならないと言う
2度手間になってしまった。(私も迂闊だったんだけど)
Gはカナダ国籍なので割と簡単にスルーできるから
私のパスポートの関係で
こういう風にちょっと手間どると、イライラするらしい。
時々そういうことで喧嘩になったりするが
結局最後は
国籍の違うもの夫婦なんだからそんなこともあるよ
で納得する。(いつもはあんまり考えて生活してないから
自分達が国際結婚だったというのが
こういうときに目に見えてはっきりする。)
飛行機の中から見たヒューストンの空は
灰色に煙っていて汚かった。
Gにこれってポリューションだよねと聞いたら
さあ~?とか間抜けな返事が返ってきてがっくし。
プエルト リコ行きの搭乗口が変更になっていて
空港の端から端までを一緒のフライトだった
他のセールスレプの人達と
ぞろぞろぞろぞろと歩いて行った。
到着はプエルト リコタイムの午後11時くらい。
ホテル行きのシャトルにのって1時間のドライブ。
高速にすぐ乗ったので
外は真っ暗で何も見えなかったけど
所々、ファーストフードの看板があちこちに点在していて
お~とか思う。
月がきれいだった。
長いフライトでちゃんとした御飯も食べてないのに
カナデイアン組の元気のよいこと。
荷物を部屋に置いて下のバーでウェルカムドリンクを
飲む。
モヒートというラムベースのカクテルを
もらったら 口当たりが良くて3杯ほど飲んでしまい
妙に明るくなって笑い上戸になってしまい
なぜか饒舌になっていた。
お酒というのは 普段開いてない脳の中のトビラをぱこっと開けるみたいで
普段使ってない英語の単語とかもぽろぽろ出て来て吃驚した。
お~英語マトモに喋ってるよ自分とか思った。
(いかに普段マトモな英語しゃべってないか分ると言うもの)
カナデイアン組みの他に
ツアーをオーガナイズしてくれるアメリカ人達も先に来ていて
彼等も一緒に飲んでいたんだけど
その中にGの会社のセキュリテイーを長年やってるじいさんがいた。
じいさんは 私に話し掛けてきて
日本人ですか?とかなんとか最初友好的だったのだが
だんだん第二次世界大戦の話に突入していき
日本と戦った話を出して来た。
あ~、こらいかん方向へ話が広がってるわ~と思っていたら
”俺がエアフォースで働いていた頃、俺の親友は日本人に殺されたんだ”といってきた。
一瞬、へっ?と思って目が点になった。
彼は私が固まってるのをよそに
訛りのある英語で”その話は長くなるから今は話さないが、詳しいことが知りたいなら
いつでも声をかけてくれたら話してやるよ”と言った。
じいさんは、あきらかに物凄い酔っぱらいだったんだけど
あの憎しみの隠った目は酔っぱらってなかった。
彼のこころの奥深くに渦巻いてる物は
ここで、誰がなにを反論しようが意見を言おうが
微動だにせず 聞く耳をもたないと察したし
考えたら なんでプエルトリコまで来て着いた日そうそう
そんな話を聞かされないといかんのだと思ったら
ばからしくなり
今まですごいポライトに接していたが(といっても
途中からだんだん崩れて来てはいたが)
もう、わたくしに話し掛けても
わたくし貝になってますからなにも聞こえません
状態に突入した。
Gは私がそんな間、他の人達とくっちゃべっていて
全然何を話してるか知らなかったらしく
後で話したら、彼は相当飲んでいたし普段からクレイジーな人物だから
今度なにか言われたらすぐ教えなさいと言っていた。
ベッドに入ってからも
疲れているのに寝つけず
ずっとあのじいさんの言ったことを考えていた。
じいさんの根はこれからもずっと
深く心の中に這って引き剥がされることなんかないんだろうな。
うちのじいさんも
戦争でアメリカのフォースから銃弾を受けて亡くなったことなんか
彼は一生知らないで終わるだろう。
でも、私はアメリカ人のことを憎んではいない。
戦争は人を狂わせる。あの時は皆狂っていた。
憎むべき対象は 戦争であって
その戦争で犠牲になった人達ではないと思う。
戦争を実際に体験してなくても
今それはだれもが知ってることだと思う。
憎しみからは何も生まれないけど
人によっては憎しみを持つことで生きている人がいるのを
否定出来ない。
それが良いのか悪いのか
その人が亡くなる時に答えが分るんじゃないかな。
でも、もしかしたら答えなんかないかも知れないけど。
私は、これからの人生
なにかあったとしても出来れば憎しみなんか
持ったまま 死にたくはないと思う。
*あのじいさんはその後
デイナーで1回ちらっと見かけただけでした。
なんせ、次の日から1000人あまりの人がホテルに泊まっていたから
もうなにがなんだか分らない状態でした。