先日ようやく、以前からの希望だった「水仁舎」さんを訪ねることができた。(「水仁舎」さんのリンクは、このブログの下のほうにあります。)
最初は、「なんとかして傷まない本を作れないだろうか(細かいところを製本所に指定したら傷みが少なくならないか)」と、本作りをしている人たちのHPを訪問して見つけた。
ところがこう見えても私はモノづくりが大好きで、「水仁舎」さんの「流通に乗せる本とは違う、残しておく本」に、いっぺんにはまってしまった。今私がやってる出版とは、直接のつながりはあまりない。今やってる出版でイライラしたりギスギス感に悩まされると、ちょっと彼のブログを見にいったりして気分を変えている。
その仕事場を見せてもらいたくて、ずっとうずうずしていた。が、私のスケジュールに余裕があるときには彼が忙しそう(ブログを読んで探っていた)だったりして、なかなかチャンスがなかった。先日ようやく車で出かけていった。
そこでいろんな話を聞いたんだが、その中のひとつ。「商品に値段が書いてあるなんて、流通している本くらい」。服とかカバンにはついてない。
実は私は、あまりそのことを考えたことがなかった。
カバーデザインをしていて、「バーコードを作る」のが面倒ではあるが、邪魔だとまで思ったことはない。デザインを壊していると感じるほど、アーティーにこだわってないからだ。表はともかく、裏のデザインなんかはほとんどこだわらない。「もうすぐ全部(データが)出来上がる」ってな感じで、手抜きモードに入っているときもある。
直近の本は、カバーは包装のためというコンセプトで装丁を考えたが、結局は「カバーなしではちょっと…」という感じになってしまった。
それはそうと、例の「出版のこころ」という本に、全然違う観念が書かれていた。カバーなんかでなく、きちんと奥付に価格を表示せよ。つまり、書物というものは、内容と装丁と発刊の時期と当時の値段を一体にして残すことで、文化資料的価値も生む、というのだ。
私は文化資料的価値のために本を出したいとはこれっぽっちも思わない。が、かといって、なんで奥付だけに定価を書かないかも、考えたことがなかった。
最初に出した本を頼んだDTPデザイナーが作った奥付のフォーマットを今でも使っていて、そこに「定価はカバーに記載してあります」と書いてあったのでそのままになっている。
別に奥付に書いたって、何の問題もなさそうだ。
ほとんどの本で「定価はカバーに・・・」となっているということは、突然カバーだけ刷り直して値上げしてもいいってことだろうか。
最初は、「なんとかして傷まない本を作れないだろうか(細かいところを製本所に指定したら傷みが少なくならないか)」と、本作りをしている人たちのHPを訪問して見つけた。
ところがこう見えても私はモノづくりが大好きで、「水仁舎」さんの「流通に乗せる本とは違う、残しておく本」に、いっぺんにはまってしまった。今私がやってる出版とは、直接のつながりはあまりない。今やってる出版でイライラしたりギスギス感に悩まされると、ちょっと彼のブログを見にいったりして気分を変えている。
その仕事場を見せてもらいたくて、ずっとうずうずしていた。が、私のスケジュールに余裕があるときには彼が忙しそう(ブログを読んで探っていた)だったりして、なかなかチャンスがなかった。先日ようやく車で出かけていった。
そこでいろんな話を聞いたんだが、その中のひとつ。「商品に値段が書いてあるなんて、流通している本くらい」。服とかカバンにはついてない。
実は私は、あまりそのことを考えたことがなかった。
カバーデザインをしていて、「バーコードを作る」のが面倒ではあるが、邪魔だとまで思ったことはない。デザインを壊していると感じるほど、アーティーにこだわってないからだ。表はともかく、裏のデザインなんかはほとんどこだわらない。「もうすぐ全部(データが)出来上がる」ってな感じで、手抜きモードに入っているときもある。
直近の本は、カバーは包装のためというコンセプトで装丁を考えたが、結局は「カバーなしではちょっと…」という感じになってしまった。
それはそうと、例の「出版のこころ」という本に、全然違う観念が書かれていた。カバーなんかでなく、きちんと奥付に価格を表示せよ。つまり、書物というものは、内容と装丁と発刊の時期と当時の値段を一体にして残すことで、文化資料的価値も生む、というのだ。
私は文化資料的価値のために本を出したいとはこれっぽっちも思わない。が、かといって、なんで奥付だけに定価を書かないかも、考えたことがなかった。
最初に出した本を頼んだDTPデザイナーが作った奥付のフォーマットを今でも使っていて、そこに「定価はカバーに記載してあります」と書いてあったのでそのままになっている。
別に奥付に書いたって、何の問題もなさそうだ。
ほとんどの本で「定価はカバーに・・・」となっているということは、突然カバーだけ刷り直して値上げしてもいいってことだろうか。
なので、消費税率は関係ありません(今んとこ、かな?)
ISBN13桁化もお達しが来ていて、私なんかにもわかるようになってます。聞いたところによると前倒しができないそうで、その時期の発刊は避けて、前か後ろかどっちかにしようと思ってます。
おそらく、定価を奥付に印刷してしまうと、消費税率改定などの際、本自体を廃棄して刷り直しになるためではないかと思われ。
カバーに印刷しても、カバーを破棄するのが嫌だから「シールを貼るか、外税方式で書くか」ということが議論されているみたいだから。
それにしても、ISBNが13桁化するときはどうするんだろうか。
しかし再販制度が先にあって本があるわけではないのですね。
それと流通を通さずに売買する「本」の世界というのもあります。
背中に定価の縫い取りされた服は着たくないし、値段の染め付けられた食器で食事はしたくない、というのが自然な感覚ではないかとおもうのです。
心地よい本がほしいし、つくりたいと僕はおもっていますが、何が心地よいかという教科書はないので、それぞれが見つけていくしかないのでしょう。
要は定価表示に関わらず、「これって必要なの?」「これでよいのか」と意識することが大切なのでは、ということです。
再販制度と定価表示は微妙な関係なのか論点が違うのか私もわかりませんが、なんとなく「再販制度や委託制度に原因を押し付けてる」ことって多い気がします。書店さんはレジでラクと言われればそれまでですけど、買う人には関係ないよな~と思ったり。ただ、レジで並んで待たなくて済むから、やっぱり買う人にも恩恵があるか・・・。
レジのすぐ横が出口で、「はい」と答えたら、問題なくそのまま出してくれました。
当時はそのシールなかったみたいです。
日本のCDにも定価が書かれているのが多いですが。
その勢いでDVDの値段を見ようとすると、書かれてないから混乱しますけど。
100%「要りません」と言うのですが、
すると最近、バーコードの上にシールを貼られました。
ガガーーーン。
確かにわたしはすぐに本をボロボロにしてしまうのですが、そのシールだけはイヤー!
弱気なわたしは、言い出せずに、お店を出てからそっとはがします。
定価表示は、今まで気にもしなかったのですが、実は「ポリシーを見せる」ところなのかな…とも思いまして。
カバーは流通で誰にも迷惑かけないようにしますが、奥付…ちょっとじっくり考えてみようかなと思ってます。
うちにもぜひ寄ってください。
本題にもどって、「文化資料的価値」というのは「書誌学的情報」ということだとおもいます。それなら発行部数や使用している紙などの情報もないといけませんね。
しかしそんなにていねいにすると書誌学者の探究心をにぶらせてしまいます(笑)。
「文化資料的価値」は僕にとってもどうでもよいものです。
本を手に取ったひとがよろこんでくれるかどうか、よい意味でのひとの手の痕跡がどれだけ本に残ってくれるか、それが最大の関心事です。
最近はあまり見かけませんが、奥付に定価表示のある本もあります。
手近にある本を見てみると、1984年発行の岩波書店の単行本にはカバーにも奥付にも定価が書いてありますね。
ちなみに水仁舎の場合は、企画のときは案内書に定価を書いておきます。
そうではない場合は、定価を書いた栞を本に挟んでおきます。
またなんとなくお話しましょう!