※ 「翻訳出版」カテゴリのエントリーは、過去を振り返って書いています。
契約締結が完了し、いよいよ翻訳に取りかかることになった。原書はA5判より少し大きい判型で約370ページ。
普段、日本人の著者に執筆を頼んでいるときは、本文が完成するまでが大変で、「参考文献、リストアップしておいてくださいね」とか「あとがき、どうしますか?」なんていうのは、私にとってはゴールが見えてきて嬉しい段階である。なのでその感覚で、本文の前に謝辞や推薦文などが10ページ以上あったが後回しにすることにした。
とりあえず本文から訳し始めたが、今の私は翻訳家として食べているわけではない。契約書やマニュアルを訳していたこともあるが、今は友人知人に頼まれて手紙やメールなどを訳したりする程度である。話すほうは問題ないが、プロの翻訳家ではない。それでも、たまに見る不自然な和訳が嫌で決めたことなので、何度もくじけそうになりながら頑張った。頑張った…というのは、訳すのに苦労したとか訳が分からないということではなくて、そのボリュームに怖じ気づき、いったいいつになったら終わるのかと不安だったのである。
途中、本文のまっただ中に写真ばかりのページがある。口絵でもなんでもなく、なぜ本文中の関係あるところに入れないのか不思議だったが、とりあえず訳していく上で「折り返し点」のような存在になった。これがなかったら、めげることがもっと多く、時間ももっとかかっていたかもしれない。
あと、普段しょっちゅう翻訳しているわけではないので、全部で23章あるうちの最初の2、3章は、ペースが乗らなくて大変だった。スピードもそうだが、訳文の自然さやリズムの点で乗り切れなくて苦労した。最終的に全部訳した後も、これらの章だけノリの悪さが気になって、何度も推敲することになってしまった。
しかし一番の問題は、「編集したくなってしまう」ことだった。疑問に思うことは著者と確認していったんだが、明らかな事実誤認などは「あなたが正しいと思うなら変えていい」というなんともタカビーな返事をもらいながらも、少なくとも修正できるわけで、これらは問題ない。そうでなくて「こういう構成のほうがいい」とか「ここの部分は分かりづらい」とか、日本語の原稿で言う読みやすさ的観点で赤を入れたくなる部分が多かったのである。一読者として原書を読んでいたときには気づかなくても、訳しながらだと感じることが結構あった。
なので、「こうしたほうがいいと思うには思うが、あくまでも翻訳書なのだから黙っているべき」とか、「さすがにこれは著者に確認したほうがよかろう」などと、編集者魂(こんな私にもそういうものが身に付いたのだ!)との兼ね合いで悩むことが何度もあった。翻訳だけ請け負っていたら、そういう悩みはなかったと思う。
それから、本書は膨大なインタビューをテーマや時系列に合わせて著者がまとめたものなのだが、著者がインタビューした相手の中にひとり日本人がいた。理由は端折るが彼と会う必要があり、そこで「インタビューで本意が伝わってない可能性があり、日本語バージョンが出るなら、自分が語った部分に関しては出る前に確認したい」と言われた。
私にとっては何の問題もないので赤を入れてもらって著者に確認したら、一部変更を認めてくれたものの、「流れをぶった切るのでダメ」というところがいくつか出てきた。「まあそうだよな」と思うところは日本人氏に説明して納得してもらったが、「いや、流れ的にもOKじゃん」というところもある。そういうところに限って、日本人氏が「そうは言ってない」とこだわったりして、調整が結構大変だった。
翻訳そのものに関する苦労は他にもあるんだがそれは別の記事に書くとして、本来しない(すべきでない?)編集的口出しを自分の中で押さえ込んだり、押さえ込めないものは確認したりしたので、ますます時間がかかってしまった。
翻訳出版でも、ビジネス書でコンセプト(と著者名)だけ輸入したり、実用書で日本の読者に合うように編集するようなケースはあると読んだことがある。私の場合、始めに「あなたの本にホレました!」とコンタクトしたこともあり、編集したくなるとは契約段階では思いもよらなかった。翻訳出版を数多く手掛けている版元はきっと、そういう可能性についてきちんと認識していて、編集や営業の方針を決め、著者とも契約する前に確認するんだろうなと、今になって思う。
契約締結が完了し、いよいよ翻訳に取りかかることになった。原書はA5判より少し大きい判型で約370ページ。
普段、日本人の著者に執筆を頼んでいるときは、本文が完成するまでが大変で、「参考文献、リストアップしておいてくださいね」とか「あとがき、どうしますか?」なんていうのは、私にとってはゴールが見えてきて嬉しい段階である。なのでその感覚で、本文の前に謝辞や推薦文などが10ページ以上あったが後回しにすることにした。
とりあえず本文から訳し始めたが、今の私は翻訳家として食べているわけではない。契約書やマニュアルを訳していたこともあるが、今は友人知人に頼まれて手紙やメールなどを訳したりする程度である。話すほうは問題ないが、プロの翻訳家ではない。それでも、たまに見る不自然な和訳が嫌で決めたことなので、何度もくじけそうになりながら頑張った。頑張った…というのは、訳すのに苦労したとか訳が分からないということではなくて、そのボリュームに怖じ気づき、いったいいつになったら終わるのかと不安だったのである。
途中、本文のまっただ中に写真ばかりのページがある。口絵でもなんでもなく、なぜ本文中の関係あるところに入れないのか不思議だったが、とりあえず訳していく上で「折り返し点」のような存在になった。これがなかったら、めげることがもっと多く、時間ももっとかかっていたかもしれない。
あと、普段しょっちゅう翻訳しているわけではないので、全部で23章あるうちの最初の2、3章は、ペースが乗らなくて大変だった。スピードもそうだが、訳文の自然さやリズムの点で乗り切れなくて苦労した。最終的に全部訳した後も、これらの章だけノリの悪さが気になって、何度も推敲することになってしまった。
しかし一番の問題は、「編集したくなってしまう」ことだった。疑問に思うことは著者と確認していったんだが、明らかな事実誤認などは「あなたが正しいと思うなら変えていい」というなんともタカビーな返事をもらいながらも、少なくとも修正できるわけで、これらは問題ない。そうでなくて「こういう構成のほうがいい」とか「ここの部分は分かりづらい」とか、日本語の原稿で言う読みやすさ的観点で赤を入れたくなる部分が多かったのである。一読者として原書を読んでいたときには気づかなくても、訳しながらだと感じることが結構あった。
なので、「こうしたほうがいいと思うには思うが、あくまでも翻訳書なのだから黙っているべき」とか、「さすがにこれは著者に確認したほうがよかろう」などと、編集者魂(こんな私にもそういうものが身に付いたのだ!)との兼ね合いで悩むことが何度もあった。翻訳だけ請け負っていたら、そういう悩みはなかったと思う。
それから、本書は膨大なインタビューをテーマや時系列に合わせて著者がまとめたものなのだが、著者がインタビューした相手の中にひとり日本人がいた。理由は端折るが彼と会う必要があり、そこで「インタビューで本意が伝わってない可能性があり、日本語バージョンが出るなら、自分が語った部分に関しては出る前に確認したい」と言われた。
私にとっては何の問題もないので赤を入れてもらって著者に確認したら、一部変更を認めてくれたものの、「流れをぶった切るのでダメ」というところがいくつか出てきた。「まあそうだよな」と思うところは日本人氏に説明して納得してもらったが、「いや、流れ的にもOKじゃん」というところもある。そういうところに限って、日本人氏が「そうは言ってない」とこだわったりして、調整が結構大変だった。
翻訳そのものに関する苦労は他にもあるんだがそれは別の記事に書くとして、本来しない(すべきでない?)編集的口出しを自分の中で押さえ込んだり、押さえ込めないものは確認したりしたので、ますます時間がかかってしまった。
翻訳出版でも、ビジネス書でコンセプト(と著者名)だけ輸入したり、実用書で日本の読者に合うように編集するようなケースはあると読んだことがある。私の場合、始めに「あなたの本にホレました!」とコンタクトしたこともあり、編集したくなるとは契約段階では思いもよらなかった。翻訳出版を数多く手掛けている版元はきっと、そういう可能性についてきちんと認識していて、編集や営業の方針を決め、著者とも契約する前に確認するんだろうなと、今になって思う。