出版屋の仕事

知識も経験もコネもないのに出版社になった。おまけに、すべての業務をたった一人でこなす私。汗と涙と苦笑いの細腕苦労記。

カラー

2009年09月24日 | 制作業務
新刊が無事出てホッと一息だが、近頃の配本数の少なさはすごい。うちに限って言えば、事前注文の数といい成績といい、まあしょうがないという気もする。が、見本納品のときに聞こえてくる会話からすると、他にも似たような配本数の出版社はいっぱいいるようだ。一方、5千部なんて数字も聞こえてきて、ようするに二極分化なのかなとも思う。

前回の記事にも書いたが、自分の本を出してくれたということで非常に気になってしまい、しばらくあちこちのブログを見に行ったりしていた。で、あることに気がついた。

出版社を始めた頃から自社のカラーを作っていけといろんな人に言われ続けているが、実現していない。自分では「ジャンルは絞れないが系統は同じ」と思っているが、カラーとはとても言えない。読書をするとき版元なんか気にしないので、別にいいじゃないかと思ったりもするが、新刊を出すたびにPR先とか「そのジャンルに強い書店」などを調べる手間が大変なのは事実。つまりカラーってのは読者を意識した言葉ではなくて、単純に経営面でのアドバイスだったのか。

しかし、経営面を考えて方針転換したら「悲しい」とか「違う出版社になってしまう」とか言うのは、読者だ。あるいは、今までに本を出してもらった人たち。

売れない部門を縮小して、何が悪いのかと言いたい。売れないんだからしょうがないじゃんとか、なら買ってくれと言いたくなる。おそらく、経営方針はしょうがないにしろ、その対応の仕方が悪かったんだと想像するが、あんなふうに言われたら経営者も大変だ。出版社じゃないが、社員が「私たちのことは最後でいいです、社長、頑張ってください」と言ってくれた会社を知っている。一時はその言葉に甘えたものの見事に再起して、未払いだった給料も全部払った。そこと比べると、やり方がよろしくなかったんだろうなあと、想像できる。

それでも、あんなふうに言われるんだったら、あまりカラーなんかつけないほうがいいんじゃないかという気もする。過去に売れた本はあくまでも過去に売れた本だし、営業がうまかったら補充を続けてもらえるんだろう。けれども、こんなに新刊が出ている時代だし、自社でも毎年新しい本を作っていくんだから、「古いものばかりを売り続けていく」ってのはあり得ない。

古いものではなくて本の雰囲気の話だと言われそうだし、編集方針という観念はわかる。けれども、この「人の動きが激しい」業界で、編集者ひとり辞めたら大打撃!なんてのは厳しすぎる。だって、一部の(私は直接知らないが)良心的じゃない版元以外、みんな一所懸命本を作ってる。別に、手抜きをしてるわけじゃないのである。センスの問題と言われたらしょうがないが、あちこちを読んでいると、話はセンスに限ったことじゃない。ようするに「昔を懐かしんでいる」のと同じ。レトロ感覚。

その懐かしんでいる昔のものに関する本を買い続けてくれるんならいいけど、それこそ社会は変化してるし読者も年とる。「当時よく受け入れられたもの」を出し続けていたとしても、きっと結果は同じだったと思う。自分自身ウン十年前に何に興味持ってたかを考えれば当然だ。

会社を続けていって株主に配当するために頑張っているのに、レトロ感覚に振り回されるのは嫌だ。いっそのこと、カラーなんかなくてもいいんじゃないかと思う。

以前、ある本を絶版にしてその情報をしかるべきところに流したら、突然返本が増えた。ここでも書いた気がする。刊行して4年くらい経っていたし、返本だってそれまでは月に1冊もなかったときもあったくらいなのに、急に返ってきた。確か「売れても補充できないから返したということ」とのコメントをいただいた記憶があるが、補充できないからって急に返すというのは今ひとつよくわからない。それと一緒かどうか知らないが、「売れない部門をやめる」ときも同じような悪影響があるような気がする(今度聞いてみよう)。

カラーをつけずにやっていけば、方針転換も黙ってできるんじゃなかろうか。あ、ここんとこ遊んじゃってる(出したい気持ちが先行しちゃった)な、ちょっと押さえて体制整えて・・・なんてことをしても、さすがに「死んだ」とは言われないだろう。

不特定多数の人に認めてもらえなくても、普通に本が売れて普通に営業していければ満足だ。「ここの本なら何でも買って読む」と言われたいのはやまやまだが、「ちょっと変わっただけでそっぽを向かれる」ほうが、経営者としては怖い。

ま、意識しなくても、カラーなんか無理なんだけど・・・。

ボキャブラリー

2009年04月20日 | 制作業務
自分の本を書いたとき、担当の編集者からもらったアドバイスがとても役に立っている。自分の原稿へのアドバイスに留まらず、編集者とはこういうアドバイスをするのだとわかったことが、非常に大きい。

今回の新刊では、ちょうどテーマが「本人にしか語れない」ことだったこともあり、「自分がしてもらったことをする」という感じだった。

そのおかげか、著者から上がってくる原稿は本当に「要望どおりに書き換えてくれた」というもので、こんなに編集が楽しかったのは久しぶりとも言える。なんというか、楽しいのはいつも楽しいんだが、今回は「楽しいだけじゃなくラク」であった。

著者の文章力によるものが大きい。が、文章力というのは「書く」だけじゃないんだなとつくづく思った。つまり、こちらの要望&意図どおり書き直してくれる以前に、それを確実に理解してくれたのが毎回わかった。

要望&意図を理解してもらうなんていうとエラそうだが、国語の問題みたいな「文章理解度」のことではない。それだったらこちらの説明能力の話にもなるし。

数ヶ月やり取りをして、なんというか、ボキャブラリーが同じタイプだったのではないかと思う。こういうときにはこういう言葉を使うという癖みたいなもの。文体や言葉の選び方、強調の仕方なども同じ系統で、ちょうど上手い具合に伝わるというか。だから、もらった原稿そのものも、「私にとってめちゃくちゃ読みやすい文章」であった。

あと、書き手とその文章にはいろんな個性があって、なるべく活かしたいという気持ちは常にある。でも、やっぱり好みというものはあって、読者としての自分の好みと違うとき、編集者としての能力を総動員しないといけない。

今回はたまたま、ボキャブラリーが同じで、読者としての好みにもピッタリだったのではなかろうかと思う。こんな「楽しいのにラク」な編集は、そうしょっちゅうはないだろうなあ。

組版

2009年04月07日 | 制作業務
先日、組版で必要なこと…のようなセミナーに行ってきた。うちも出版業を初めてもうすぐ8年。創業当時から持っていた古いソフトに替えてCS3なるものを入れたので、ついでに勉強というわけである。

ちなみに、印刷会社は古い分にはOKみたいで、古いソフトで入稿しても何の問題もない。けど、いかんせんパソコン本体がいかれるのが心配だ。ファイル自体は保存してあるけど、古いパソコンを諦めることになったとき、データ作成中なんてことになったら悲惨だ。なので、今のうちに…ということで手をつけた。

本日新刊のデータ入稿をしたんだがそちらは新しいソフトで、数日前にした重版は古いソフト。画面を切り替えながら作業していると混乱する、というのが面倒といえば面倒だが、そのうち慣れるだろう。

で、パソコンの環境が整い、やってる本人も慣れてきたので、以前からの懸案事項である「組版」の勉強に行ったのである。

なぜ懸案だったかというと、正式なものを知らないから。自分でデータを作っていてわからないことがあると調べるんだが、何やら意味不明のことがときどき出てくる。多くは活版印刷の頃からある約束事みたいなものらしく、これを一度ちゃんと学んでおかないといかんと前から思っていたのだ。

私は個人的には、活版印刷の紙面のほうがより美しいとか読みやすいとかは思わない。なんちゅうか、ノスタルジーを感じることはあっても、「それが王道」みたいなことを言われると、ケッ!と思うタイプである。特に最近の文庫の「文字を大きくしたのはいいが、かえって読みづらい」のは勘弁してもらいたい。

けど、昔の約束を知ってて無視する(私がいいと思うようにする)のと、知らないのとではやはり違うだろうと、なんとなく思う。例えば個人的には、カッコがどうとか句読点が頭に来ないってのはわかるが、ある行の頭が「る。・・・」というふうになっているのは好きじゃない。好きじゃないからいじるんだが、いじるときに「うちはこれでよいのだ」といじりたい。

想像していたとおり、セミナーの講師は活版印刷の頃からのプロで、「岩波さんあたりだと・・・」を連発する人であった。今回は「古くからの約束」を学ぶために行ったので真面目に聞いたし、非常に勉強になった。

が、やっぱり、「ホントにそのほうが読みやすいかあ?」と思うのも事実。講師曰くの「最近の本」も読み慣れているせいか、私はそうなってなくても違和感はない。頭が「る。」のほうがよっぽど違和感がある。

コンピュータの発展をありがたがっている身としては、むしろ、「昔できなかったからって、それじゃなきゃっていうのはどうよ」と思う。つまり、昔からいろいろできていて、その結果「古い約束」が美しく読みやすいのならわかるが、「限られた中で」より読みやすいのを生み出しただけなのであれば、そんなにこだわることある?と感じるのである。

だって、「版面からはみ出るのは絶対おかしいからやめる」と言ったって句読点ははみ出すんだし、結局、「当時できたこととだけが基本なんじゃん」と思う。

私は出版を初めて3、4年くらい経った頃、「古いのがベストとは限らん」とムキになった(そしていろいろ失敗した)ことがある。そうならないように、今回はちゃんと講師の言っていたことを噛み砕いて、「より読みやすい」本を作っていきたい。(美しいってのはどうかなあ? ビジュアル本ならともかく、情報を伝えるための「たかが書籍」で、それっておこがましくないか?)

印税支払

2009年02月26日 | 制作業務
ご存知のように、うちではコストを押さえて本を作って売っている。広告宣伝費などもほとんどかけない。たまにするFAX営業や献本なども送付先の数を気にするほどで、非常に細かい。

コスト削減を常に意識していて悪いことはないと思うが、「金をかけて効果を出す」ということができない。いや、しようと思ったらできるんだけど、「そういうことを始めたら、遣い癖がついちゃうんじゃないか」とか「効果がハッキリわからない出費はやはり押さえよう」などと不安に思っていて、結局いつものスタイルになる。

基本的に金を払う相手は、印刷製本会社と著者だけである。あとは本当に金額も小さく、1点あたりの収支計算をするときに常に入れている予備費でまかなう。

印刷製本に関しては、相見積もりを取ったり安く上がるように作ったりはしている。が、そもそも他社にやってもらうことなので、ちょっとまけてもらう以外、ほぼ相手の言い値である。そこで印税の話になるんだが、こちらも他者にやってもらうことなので相手の言い値かというと、違う。

出版を始めた頃は、「たかだが数十万円の印税で、本当に本1冊書いてくれるのか」と疑っていた。他にも着手金のようなものを払うのかと思っていた。まあ、そうじゃないということが判明し、他にもいろいろ学ぶにつれて、「10%は版元として胸のはれる数字」ということもわかってきた。

ここで、本1冊書き上げることへの対価として高いか安いかの議論は置いておく。書く側になったことは1回しかないし、そのときも印税より他のメリットのほうが重要だった。だから、肉体的精神的な作業量との単純比較となると、私にはわからない。

出版社としては、安いに越したことはない。でも本の根幹のことだから、宣伝費なんかとは違って「質に直結する=ケチるべきではない出費」という話を聞くと、そうかもなと思う。そうだ!と思わないのは、やはり1枚あたり原稿料なんかと違って部数によって上下するので「自然に支払額が変わってくるから」かもしれない。つまり、こちらが「はい、よく書けました! いっぱい払いましょう」あるいは「こりゃダメです、報酬減額します」という話にはならないので、ケチもへったくれもない。

と思っていたらそうでもなくて、印税も奥が深いとわかってきた。いや、わかったのはずいぶん前だけど、「できる範囲でできることをする」こともできると思うようになってきた。

ややこしい表現だが、私にとって「できる範囲以外」というのは結構ハッキリしていて、「初版は印税を払わない」、「5%以下」、「いつまでたっても払わない(売れたら払うが売れなかったらごまかす…みたいなこと)」の3点である。これはしたくない。

書協かどこかの契約書ひな形からあまりにもかけ離れるのはちょっと…という感じ。そのひな形だが、以前は「刷り部数に○%を乗じた金額を発刊月の翌月末」なんて書いてあって、パーセンテージこそ書き込むようになってたが、そう払うのが普通なんだと思ってそうしていた。が、最近は「刷り部数」でなくて「実売部数」になっている。どこもかしこも大変大変と言ってるから変えたんだろうか。

刷り部数が多いとは言えないが、刷った分に対して10%をとっとと払ってしまうのは気持ちがいい。「やることやった」という気になる。

刷り部数を発刊時に払うことは出版社の矜持だと言う出版社の人にも会ったことがある。それまでただ「他に倣う」ってな気持ちでそうしていたので、ふーんと思った。けれども矜持とまで言われて「見栄はってどうする」と思ったことがきっかけで、疑問を感じるようになった。するべきことはしたいけど、昔のプライドにつき合って会社を潰すんじゃアホみたいだな、というわけである。

そもそもなぜ「刷り部数」に対して払うことになったのか。ほとんど売れて、増刷を検討するケースのほうが多かったのか。けれども印刷製本会社に「実売部数」で払うことなんか、昔からなかっただろう。「持っている能力を使って納品する」って点は同じである。

けど、売れた分だけ印税を払うということは、そんなにケチ臭いことなのか。売上が見込める著者とそうでない書き手との違いだろうか。このへんも微妙な話で、売れ行きと質が一致しないこともあるだろうし、「あなた(著者)が売れるって言い張るんなら、じゃあ「実売部数」であなただって問題ないはずじゃないか」という理屈になる。あるいは、単なる支払時期の問題か。

あまりにも奥が深すぎて、もっといろんな話をしたいんだが、ちょっと長くなりすぎるのでこのへんでやめる。後日、「これこれ分をいついつ払う」のような具体的条件の話も書きたいと思います。

手作り

2007年12月05日 | 制作業務
業界勉強会に行って「勉強にはなったが、こんな人(講師)でも意外と財務的には古い頭だなと思った」こととか、大阪屋への取引申込が結局ダメだったこととか、ところがある忘年会に行って云々とか、書きたいことは多いんです。

ようするに書けばいいんだが、あちこちに正体がバレてるせいで書きづらい。時間差攻撃で乗り切ろうと思ってるんだが、意味ないか。。。 とりあえず、本日はちょっと別の話をさせてもらう。

うちはだいたい年2点の新刊というペースで来ていたんだが、あの本で興奮しているうちに数ヶ月過ぎてしまって、肝心のうちの本を作り始めたのは7月頃だった。で、その本の入稿がようやく終わって、今週中に見本納品の予定にしている。

ちなみにトーハンでは、またまた新しい担当者になっている。挨拶がてらブックライナーの伝票切替に行ったとき、怖くて仕方なかった前の担当の人が、笑顔で「また変わっちゃいました~」と言ってくれて、なんか変な気分になった。ようするに、怖い怖いと思っているのは私がちゃんと訪問していなかったから。晶文社さんのおかげで私の存在を認知してもらったら、雰囲気がずいぶん違う。怖いのは取次の仕入窓口の人たちのせいでは、まったくないのだ。まあ、人見知りタイプと思って許してもらおう。

で、今度の新刊だが、写真もいっぱい入れたビジュアル本である。

うちの場合、予算的に厳しい設定をしていて、そのことについては最初に著者と確認する。例えば、「リライトが必要そうだから、印税は10%じゃないけどいいか」と相談したりする。今回も、「写真をいっぱい入れたい、でも巻頭カラーみたいなのは嫌だから全ページフルカラーになりそう」と思った時点で、著者に探りを入れた。

著者は、文章を書く以外に写真に撮る物を自分で作る。だから、作ったものが本でどう表現されるか、すごくうるさいんじゃないかと思って、恐る恐るきいてみた。すると、写真も自分で撮りたいと言う。手作り感とかいろいろ理由はあったんだが、別にプロのカメラマンを頼まなくてもいいと言う。

私も、家庭画報の特集みたいな「ビシバシに決まっていてきれいだけど、別の雑誌でも見たような規視感がある」というページ作りは嫌だった。かといって、あまり面白くない素人のフォトエッセイみたいな自費出版調は絶対避けたい。とりあえず、いくつか撮ったのを見せてもらって判断しようということになった。

結局、いろんな人の助けを借りつつ著者が全部自分で撮影することになった。

私も満足だったんだが、カバーで引っかかった。別に本文を軽視するわけじゃないんだが、カバーとなると…という感じだったのだ。カバー案をいろんな人に見てもらうと、いいと言う人もいるものの、本ということに詳しい人たちの評判は、やっぱりよろしくない。

どういうアングルのほうがいいとか、どういう背景のほうがいいという話はわかりやすい。が、「写真にインパクトがない」と言われて困った。自覚しているものの、じゃあインパクトのある写真って何だ?

私は別に写真が趣味ってわけじゃないが、写真展などは好きでたまに行く。すごいプロ(というか有名な写真家)の写真がなんとなく違うということもわかる。が、すごい人じゃなくて職業カメラマンとでもいうんだろうか、そういうレベルの人の写真となると、よかったりどうってことなかったりする。

うちのような予算で本を作っていると、カメラマン&スタジオのコストを考えるだけで悩むのに、「せっかく金出して頼んだけど、どうよ」という写真があがってくるのは怖い。実際、相談に乗ってくれた編集者も、「そういうことはあり得る、プロが撮ったものなら全部OKってわけでもない」と言っていた。

読者に買ってもらうものなんだから、予算がないからと言って妥協はできない。けど、満足するまで何度も頼んだり違う人に頼んだり…というとこまでは、どうしてもうちでは無理だ。けど、無理だで済ませていいのか。一晩ぐちゃぐちゃ考えた。

結局、「著者が一人で撮ってくるんじゃなくて私が立ち会ってもう1回だけトライする、それでダメだったらプロに頼む」ということになった。撮影日までに写真に関する本を読みまくって、「ちょっとしたことで生まれる違い」について即席で学んだ。日芸行ったら4年かかることだが、知らないよりまし。

おそらく、類書があるような本だったら、撮った人を探すなりなんなりしてプロに頼んだと思う。

批判は覚悟で言うと、最終的には「うちが初めて世に出すんだから、うちの作り方でできるものでいい」と、自分に言い聞かせた。

それに、いろんなプロにあれこれ頼んでコーディネートするのも楽しいだろうが、やっぱり私は手作りで本を作るのが好きだ。著者が自分で頑張って撮りたいと言ったら、「ダメダメ、あんたじゃ」とは言えない。

どこまで読者に受け入れられるかってことも含めて、「自分の責任で自分の手で」作りたい。プロに頼みさえすれば読者も…ってことじゃないだろうし。。。

個性と統一性

2007年11月24日 | 制作業務
多くの方(私にとってすごく多くの方)に読んでいただいているのに、このままでは月に1回の更新になってしまう。なので、新刊データの入稿準備をしている合間にささっと書く。

ミシュラン騒動、今までだったら「へえ~、評判なのか」程度の他人事だったんだが、本屋のバイトのおかげで「実体験」した。本屋は本が売れたら嬉しいのはもちろんだが、妙に面倒くさいのはいかんというのがよくわかった。昔どこかで「ハリーポッターが他の(大手の)出版社から出ていたらどんなによかったか」という書店員のコメントを読んだが、その意味がよーくわかった。

バイトを始めてから、余計な「他とは違うこと」なんか、本当に余計なだけだとわかるようになった。バーコード周りとかオビとか、忙しい本屋では「異質なものに対して一瞬でも考える時間」を取られるのは、ただの迷惑。

それ(異質)で売れるんならしょうがないが、お客さんもそんなに単純じゃないとつくづく思う。どちらかというと、異質が効果を発揮するのは、ミリオンセラーレベルになってからじゃなかろうか。

本屋のバイトで学んだことは多く、今回の新刊ではいろいろ活用させてもらった。とはいえ内容とか装丁などは、「今までは営業嫌いなせいでろくに意見も聞かずに作ってたのが今回はそうでもない」程度の違い。最も大きな違いはスリップかもしれない。POSの書店さんだとあまり関係ないのかもしれないが・・・。

本当は、表紙画像がついているスリップを発見して「うちも次は!」と思ってたんだが、数ヶ月前の日販速報に「特許とりました!」というどこかの出版社の広告が載っていて諦めた。そりゃ、いいアイデアだけど、そんなに他人に真似されるのが嫌だったのか(後続のひがみ)。

とにかく、少しは進歩したんではないかと思う。ただし、ただでさえ「ジャンルはバラバラ」だし「少しずつ学んでいる」のに、いつまで経っても「うちの本としての統一性」が確立できない状態に陥っている。

改良だと本人は思ってるのでしょうがないが、いつになったら読者や本屋さんに「ここの本って○○でいいよね」と言ってもらえるようになるのか。。。

「中」と「今」

2007年08月30日 | 制作業務
本題の前に、ちょっと愚痴。

日販のおみくじ封筒は、だいたい土曜日か月曜日の郵便で来る。月曜は直接書店から電話をもらうことが多いので、それを待って納品の旅に出る。今週は月曜日に来なくて、「な、なんだ! 注文が1件もないのか!」と慄きつつ、水曜以降は天気が悪いこともあって火曜日に旅に出た。先週電話やFAXでもらった分だけだから、非常に少ない。昔は毎回こんなんだったな~と思いながら、軽い荷物を抱えて行った。

と、火曜の郵便でおみくじがドサッと来た。中を見ると、注文日が17日のものもある。ゲッと思ったんだが、昨日今日とずらせない用があり、明日行くつもりでいたら本日また来た。

2回分をまとめたって、うちレベルじゃ大したことないんだが、なぜイレギュラーに送ってくれたのか。システムの不具合とかお盆とかが重なったから、さっさと通常に戻すためなのか。

一瞬、「既刊の注文も増えてきて安定期に入ったと思っていたのは間違いで、やっぱり『さっぱり売れない時期』ってのはあるものなのか!」とビビッたが、ちょっとホッとした。

さて本題だが、たいした問題じゃないんだが、最近気になっていることがある。漢字かひらがなかという問題。

誰でもそうだと思うが、ほどよく漢字が含まれている文章が好きだ。個人的には、「出来る」じゃなくて「できる」が好きで、「致します」じゃなくて「いたします」が好き。けれども「警ら」じゃなくて「警邏」のほうがいいなあと思うくらいの漢字ミックス度なんだが、わかっていただけるでしょうか。

こないだライターさんに頼んだときは、「普通に学校で習うような漢字は漢字にしてほしい」とお願いした。当時(今もか)、ひらがな多用の文章のほうがどうのこうの…と言われていたが、それでは「ひらがな多すぎ」と思ったからである。

で、そのとき漢字に直してもらったのが、「中」、「他」、「今」。他にもあったかもしれない。

ところがそれ以降、気にしながら本などを読んでいると、「なか」、「ほか」、「いま」が圧倒的に多い。特に、出版業界でよく仕事をしているだろうと思われる人の文章で、ひらがなが使われている。何かのパンフレットみたいのは普通に漢字だが、本ではひらがなが多い。

「他」は、なんとなくわかる気がする。「等」みたいなもので、漢字だとちょっと硬くて「ほか」のほうが柔らかい。

けれども、「中」と「今」なんて小学校で習う漢字だし、別に硬くも柔らかくもない。前後がひらがなのときに多く出てくるから、視覚的にもたまに漢字が入って読みやすい気がする。

ただの読者として本を読んでいたときには気づかなかったんだが、前からひらがななんだろうか。私が気づかなかっただけとして、一般的には「習ってからは漢字で書く」言葉だと思うし、学校でも「本当はひらがなで書く」なんて習ってないが、何か出版業界の慣習みたいなものがあるんだろうか。

最近、商売の慣習より、こっちのほうが気になってしまうのである。

読者の・・・

2007年05月25日 | 制作業務
昨日書いたことは、ここんとこずっと頭にこびりついている。で、最近いろんな編集者の方のブログで、企画について読む。

曰く、「自分でいいと思った企画は視点を変えて検討してみよ」、「読者が求めているか、再度考えてみよ」。

昔はこういうアドバイスを読むたびに、なるほどと思っていた。が、最近はよくわからない。なぜかというと、「読者」の考えやニーズは、私なんかには分からないからである。

自分自身よく本を読むほうだが、一般的な読者なのかも分からない。読む数は多いだろうと思うが、最近晶文社さんのおかげで身近に感じるようになった「巷の本好き」かというと、それは違う。巷の本好きは、あるジャンルというか世界の本が好きなようだ。が、私はそういうのとはちょっと違う。エラそうに書いてるが、ようするに「ただ自分が好きなものをドンドン読む」という感じだ。かといって、「売れてる本から読んでみる」というタイプでもない。

で、企画だが、編集者が思い込んで企画を立てても、もう一度見直してみる必要があるという。「ひとりよがりになっていないか」ということらしい。

私は自分の思い込みで本を作っているが、それは思い込みじゃなくて思い入れと呼びたい。

だいたい、ひとりよがりかどうかなんて、出してみなきゃ分からない。出してそうだとわかったとしても、それを出したかったら出したわけで、採算さえとれれば構わない。もともと、「大勢と同じなのは嫌い」なので、どのみち「ひとりよがり度」は高いと思われる。

そこのところはうちの勝手だとしても、読者のニーズというのもよく分からない。

売れている本にニーズがあるのか。よく、パブラインとかで類書を検討という話を読む。それは一瞬「ニーズに合わせる」行動のための調査に思えるが、結局「こういう本が売れているから、君も買いたまえ」という、出版社側からのアクションじゃなかろうか。

ニーズに合わせると言いながら、実はトレンドを作っているのは出す側…とでも言おうか。売れてると言って煽ったり、売れてる本の隣に並べてもらったりするのは、すべて出版社側の行為だ。

世の中に、「売れてるらしいから買う」という人が多いってことを、ニーズと言いかえるのはちょっと違うような気がする。「ニーズ=必要」ってことにこだわりすぎてるのかもしれないが。

ただ、そういうことを突き詰めていくと、古い出版人の「読者をリードするべし」ってな話になっちゃいそうで、それはそれでおこがましい。

とにかく、私には視点を変えるのも読者の立場になるのも難しい。

『日本でいちばん…」のおかげで「出版業界にいるが知らないことがあった」と褒められる。ひとり出版社の特徴でありがたいんだが、読者のニーズとなると八方塞だ。いや、もちろん、書店さんと仲良くなってきいたり、マーケット調査をしたりという課題は残っている。

が、一度、レベルも高くて政治的にも難しい企画会議なんてものがある規模の出版社で、修行をさせてもらったほうがいいんじゃないかとも思う。

今までにない悩み

2007年05月24日 | 制作業務
正確に言うと「制作業務」というより「編集」についてなんだが、私にとっては企画も編集もDTPも制作業務のカテゴリーに入る。

『日本でいちばん…』が出たせいで(おかげで)、次の本にプレッシャーを感じている。いや、いつもの自意識過剰が大半なんだろうが、もしかして世の中に「あの出版社の新刊」という目で見てくれる読者がいるかもしれないと思うと緊張する。

あるアイデア(企画未満)があって、それは『日本でいちばん…』を書いていたときや直近の新刊を作っているときも常に頭にあった。それはじっくり…と思っていたんだが、他のアイデア(こちらも企画未満)は実用書なので後回しにしたい。「あの出版社の新刊」にはふさわしくないような気がする。なので、じっくりのほうを先に出したい。

この自意識過剰について周りに探りを入れてみると、やはり「気にしたほうがよかろう」という言葉が返ってくる。

じっくりのほうは、うちの本としては自慢できるものになりそうなのでいいんだが問題が2つある。明るくないし、シンプルじゃない本なのである。

『日本でいちばん…』を読んでくれた人の感想を見ていると、大きく分けて2つある。ひとつは「出版の業務でいろいろわかった」というもの。出版業界の人でそう言ってくれる人もいて、それはそれで「いや、私も知らないこと多いのであいこです」と思ったりする。もうひとつは、「好きな仕事を前向きにしてるのがよろしい」というもの。明るい感じでいいらしい。それはそれで「本人は大真面目なんだが、傍から見ると面白いのか」と思ったりする。

で、気になっていたのがその「明るい感じ」である。私自身は明るい本も暗い本も好きだが、「より受け入れられる」という意味では明るいほうがいいんじゃないかと思う。

あと、編集の方に頼んで『日本でいちばん…』の企画書をもらっていたんだが(勉強のため)、改めて見てみてまた勉強になった。その企画書は、「企画書の書き方」なんて本にあるような必要項目を埋めるという感じではなくて、編集の方が「面白いんじゃなかろうか」と思う点が簡単に箇条書きになっている。それがいちいち、読者の感想と一致するのである。

私は世の中にあまりない本を出したいと思っていて、「こう考える人もいるんですよ」というメッセージのつもりで作る本も多い。だから、うちの本は圧倒的多数に支持されることもないし、読者の感想が真っ二つに分かれたりもする。

けれども、『日本でいちばん…』の「受け入れられ方」を見ていると、シンプルさが非常にいいもののように思えてくる。

巷で「わかりやすい本」という話題が出るとき、わかりやすいとは「理解するのが簡単」なことだと思っていた。つまり、図解とか文章が易しいとかいうことだと思っていたんだが、そればっかりじゃないとわかってきた。

読んで「そうだね」と言いたくなる度合いが高いとか、「そうだね」という人が多いとか。。。

で、明るくもないしシンプルでもない本を「次に」出すか、考え込んでしまうのである。企画に関してこういう悩み方をするのは初めてである。

許される誤差

2007年03月23日 | 制作業務
新刊の制作がほぼ完了。「ほぼ」というのは、明日印刷会社に行って念のためにもう一度確認するから。「もう一度」というのは、またポカをしたからである。

この印刷会社のときばかり、ポカをする。・・・と思ったら、前回2回は本当のポカだったが、今回は久しぶりに、マニュアル系のページレイアウトが複雑な本だったからであった。

ページぎりぎりのところに文字とか入れてたら、オペレーターからダメが出たのがひとつ。ある画像に背景が入ってしまっていて、そこだけ白になってしまっていたのがひとつ。

ま、やり直しするなら1個も2個も同じである。

画像に関しては、イラストレーターさんからもらったファイルを、大きさを変えて使っていた。うちのドットプリンタでは背景がなくて地色が出ていたので安心していたら、ダメだった。慌ててクリッピングパスを作成。

ページぎりぎりに関しては、ちょっと微妙な気がする。

担当者から「何か問題があるそうなので、とにかく校正刷りを見てくれ」と言われて印刷会社に行ったら、ちょうど彼は席をはずしていた。こっちも搬入帰りに寄るので、厳密なアポとかはとってないからしょうがない。作業が進めばOKなので、工場フロアまで行ってオペレーターを捕まえた。

曰く、こういう端っこに文字とかノンブルがあるのは、誤差が出る関係でよろしくない。ページの端からは、少なくとも3ミリ離すように。

私は土建屋出身なので、「品質をごまかしやすいデザインにする(品質をごまかすんではなくて、ちょっとした品質のバラつきが目に付きやすいデザインは選ばない)」という心構えはある。オペレーター氏が言うのも同じことで、「変にページの端ぎりぎりのところにあると文字が切れたりするから、それは避けよ」ということだ。

が、土建屋のときのスタンダードは、例えば1メートルにつき2ミリとかのバラつき。それも、内装とか害のないトレードの話。橋とかになると土木なので詳しくないけど、もっと少ないと思う。悪いけど、たかだが128ミリの本で3ミリもズレられるなんてことは想定していない。

会社に戻ってから、オペレーターじゃなくて担当者に電話してきくと、まあ、3ミリってことはないと言う。1.5ミリ。それだって、「128ミリ中の1.5ミリ」で、私にとっては納得のいくものではない。

と思ったら、印刷ではなくて製本所の問題だという。考えてみれば、4色の版下をビシッと揃えて印刷するんだから、印刷工程で1.5ミリの誤差なんか出るはずはない。

知り合いに、企業が入ってるビルの清掃業務を請け負ってる人間がいる。彼曰く、「昼間(社員がいるとき)に入ると結構ラクだけど、夜中に入るビルは汚い」。つまり、掃除をしているオバサンを知っている社員は、ゴミをめちゃくちゃ捨てたりトイレを汚したりしないが、清掃人を目にしない会社だと、平気で汚すらしい。街で「他人には失礼なことをする」人たちと同じ感覚になるんだと思う。

うちは印刷会社に製本込みで頼むので、製本会社とは直接会ったりしない。掃除のオバサンと同じ理屈か。

でもな~、この前製本所の見学に行ったとき見たけど、機械を設定して後は流れ作業なのに・・・。彼らにとっては、128分の1.5ってのは、「許される誤差」なんだろうか。

ま、文句を言ってもしょうがないので、データを作り直した。で、その校正刷りの確認に、明日(土曜日だ!)、また印刷会社へ行く。

本当はバイク便を使って往復すれば行かなくてもすむんだが、私はそういうのは気が進まない。行ったら他の話もできて何でも勉強になるし、「この3月はなぜか印刷会社はどこもめちゃくちゃ忙しい」ことを知らなかった私のせいだと思うから。

今回みたいなケースに限らず、担当者にうちまで来てもらおうとすると、納期が延びる。他の仕事もしながら校正刷りを届けたりするんだから、当然といえば当然。だから、私が行ったほうが早い。

実際、印刷プローカーに頼んで、値段だけは安くなるけど納期はもっと延びるってこともよくある。急いでないときはそのほうがいいんだが、今回はしょうがない。

画像処理の件がなかったら「そんな誤差は許さない!」と言ったところだが、そう、1個も2個も変わらないので、こういうことになった。

来月に入ったらゆっくり休みたいところだが、今度は営業が待っている(涙)