遅まきながら『戦争する国の道徳』(小林よしのり・宮台真司・東浩紀著 幻冬舎新書 2015.10.15)を読んだのだが、その中に以下の文章を見つけた。話題はネトウヨの感情の劣化についてである。
「宮台:(中略)分断され孤立した連中がいると、彼らが世を捨てていない限り、自分の周囲に承認を供給する共同性がないので、ネット内のクラスタみたいな疑似共同性や、崇高な精神共同体としての国家のような疑似共同体の『虚妄』に自分を委ね、自分は寂しくないと思おうとする。僕は元ナンパ師だからよく知ってるんだけど、主婦にネトウヨが多いでしょ。
東:そうなんですか。
宮台:だったらセックスしろよ! 要は退屈なんだ。だから毎日を充実させたいと思って何かをする。ところが、退屈という感情は多くの場合『寂しさ』の変換形。自分は寂しいと思うと自分を傷つけるから、そう思いたくない。だから『退屈』に変換される。それを充実で埋め合わせたい。そこで『ダイエット』と『ネトウヨ』が等価に機能するわけだ。
サリン事件の頃のオウム真理教幹部はまさに『こんなはずじゃなかった感』を生きる人たちだった。彼らは元エリートだが、上野千鶴子氏は彼らは『二流エリート』だったとした。でも文字どおり地位が『二流』だというのなら間違いだ。彼らのなかには地位上はピカピカのエリートもいたからね。正しくは『こんなはずじゃなかった感』を生きるエリートなんだ。」(p.59-60)
宮台に言われなくてもネトウヨの主婦はセックスしているとは思うが、それはともかく宮台の話から小谷野敦の『退屈論』(弘文堂 2002.6 河出文庫 2007.10)を思い出した。何故ならば『退屈論』が書かれた経緯は以下の通りだからだ。
「たとえば、オウム真理教事件が起こった時、社会学者の宮台真司は、この事件の根底に、高度経済成長が終わり、今日とは違う明日が信じられず、革命や大きな変革が期待できなくなった時代の『終わりなき日常』を見て取った(『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫)。しかし、それ以後宮台は、ではどのようにこの『終わりなき日常』を生きればいいのか、という処方箋提出の要求に苦しめられるようになる。私が『退屈』について考えはじめたのは、序文で示したとおり、宮台の困惑に対応したものだ。宮台は当初、女子高生たちのように『まったりと生きろ』と言い、何らかの期待をせず、半睡半醒の状態で生きていくことを勧めたが、最近ではこれもやめたらしい。(中略)宮台は結局その後、『原天皇制に帰依する』とか『サイファ』とか言いだして、自己破産してしまう。」(p.47-49)
残念ながら宮台の「退屈論」がその後どうなったのか分からないのだが、宮台の言う「こんなはずじゃなかった感」という感情は多くの場合「退屈」の変換形であろうから、エリートだかといって退屈から逃れられるわけではないのである。結婚して子供もおり、「有名文化人」として講演をしたりマスコミに出たりして(今のところ)退屈から逃れられている宮台には理解できない問題なのである。