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MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『カンバセーション 盗聴』

2017-03-11 00:03:57 | goo映画レビュー

原題:『The Conversation』
監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ
撮影:ビル・バトラー
出演:ジーン・ハックマン/ジョン・カザール/アレン・ガーフィールド/シンディ・ウィリアムズ
1974年/アメリカ

映像や音への執着と「情報戦」のあり方について

 本作を観るにあたって『欲望(Blowup)』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督 1967年)と比べて観ることで理解が深まると思う。『欲望』において主人公のトーマスは写真家で、自分が撮った写真に写り込んだ「真実」を追求すればするほど「真実」から遠ざかってしまうというアイロニーが描かれていたのであるが、本作の主人公のハリー・コールは映像ではなく、音にこだわる盗聴のエキスパートである。
 ハリーはある会社の専務から妻と浮気相手の会話を録音することを依頼され、その会話から雑音を排除すると相手の男が自分が殺される可能性を示唆していることに気がつく。ここまでは写真を引き伸ばして拳銃を見いだす『欲望』と展開が似ているのだが、「真実」のあり方が違ってくる。
 ハリーは自分がした仕事で起ころうとする殺人事件を未然に防ごうと、2人が密会の約束をしていたホテルの部屋の隣の部屋を取る。女の叫び声は聞こえたし、隣の部屋へ忍び込むと部屋はきれいに整っているが、トイレの水を流すと「赤い水」が溢れてきた。ところが2人は生きており、女の夫は交通事故で死亡したことになっているのである。納得できないまま自宅に戻ると、知らない男から電話がかかり「盗聴している」という言葉と共にさっきまで自分が演奏していたサックスの音が聞こえてくる。ハリーは部屋を徹底的に調べるのであるが、盗聴器は見つからないのである。
 同業者のバーニー・モランが最新の機器を披露したように、どちらが相手よりもより良い機器を使っているかによって「立場」はコントロールできるのであるが、実はハリーはもはや音にこだわる必要はない。警察に事実を語ればいいだけなのだが、まるで音に「憑かれた」かのようにハリーはわざわざ自宅に電話を引いてしまい音から逃れられないのである。


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『恐怖のメロディ』

2017-03-10 00:54:28 | goo映画レビュー

原題:『Play Misty For Me』
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ジョー・ヘイムズ/ディーン・リーズナー
撮影:ブルース・サーティース
出演:クリント・イーストウッド/ジェシカ・ウォルター/ドナ・ミルズ/ドン・シーゲル
1971年/アメリカ

女性版「アメリカン・ニューシネマ」について

 例えば、中条省平の『クリント・イーストウッド - アメリカ映画史を再生する男』(ちくま文庫 2007.12.10)などで付け加えることがないほど本作は語り尽されているのであるが、本作と「アメリカン・ニューシネマ」との関連性を見逃してはならないような気がする。
 言うまでもなく「アメリカン・ニューシネマ」は体制に抵抗する反体制の若者の一時の栄光と避けようのない挫折が描かれているのであるが、本作において体制は「男性」のデイブ・ガーランドで反体制は「女性」のイブリン・ドレイバーである。デイブにはトビーという恋人がいながら、遊びのつもりでイブリンを誘い、一夜を過ごすのであるが、誘われたイブリンの方は本気だったのである。まるでイブリンが「空気が読めない」頭のおかしな女性のように見えるが、誘ったのはデイブであることを忘れてはならないし、デイブに限らずイブリンは男性に対して容赦がない。
 後に「ストーカー」という言葉が生まれて、本作はストーカーと化した女性の物語のように括られてしまっているのだが、勝ち目のない戦いの末、崖から「突き落とされて」惨めな最期を遂げるイブリンの物語は、男性に勝ちようがなく挫折してしまう女性版「アメリカン・ニューシネマ」ではないのだろうか。


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「Dinah Flo」 Boz Scaggs 和訳

2017-03-09 00:52:33 | 洋楽歌詞和訳

 ボズ・スキャッグス(Boz Scaggs)が1972年にリリースしたアルバム『マイ・タイム(My Time)』

の一曲目に「ダイナ・フロー(Dinah Flo)」という曲がある。一応このタイトルは女性の氏名と

して認識されているのであるが、以前から不思議に思っていた理由は、ダイナもフローも

女性の名前で、つまりこの氏名には名字が無く、名前が二つ重なっているからである。とりあえず

和訳してみたい。

「Dinah Flo」 Boz Scaggs 日本語訳

君がいなくなってからとても長く感じる
僕はこんな悲しい歌を歌い続けている
僕は君を見つけてとても嬉しい
僕の世界が君に覆われることが嬉しいんだ

ダイナ、僕は君のために一人でいたんだ
どれほど僕が君を気にかけているのか全く知らなかったんだろうね
君が戻って来てくれて嬉しいよ
僕の腕の中に飛び込んでこいよ

ダイナ・フロー、僕は君がとても好きだ
僕をゆっくりと運んでいってくれ
僕のダイナ・フロー
日々愛が増してくる

僕が君に相応しいことは確かだと思うけれど
ダイナがどうするのかははっきり言えない
彼女が戻って来て嬉しい
僕の腕の中に彼女は飛び込んでくる

ダイナ・フロー、どうか行かないで欲しい
ゆっくりと丁寧に僕を運んでいってくれ
ダイナ・フロー
日々愛が増してくる

僕のダイナ・フロー、一緒に行こう
いつもの調子でゆっくり行こう
ダイナ・フロー
日々愛が増してくる

ダイナ・フロー、どうか行かないで欲しい
ゆっくりと丁寧に僕を運んでいってくれ
僕のダイナ・フロー
日々愛が増してくる

ダイナ・フロー、僕は君がとても好きだ

僕は君を永遠に愛する

ダイナ・フロー
日々愛が増してくる

 ここでキーワードとなる歌詞は「僕をゆっくりと運んでいってくれ(Take me down way down slow)」

という部分や、あるいは「僕の世界が君に覆われる(My world's around you)」という部分などで、

つまり「Dinah Flo」とは「Dynaflow」というアメリカの自動車会社のゼネラルモーターズ社

General Motors Company)のビュイック(Buick)に搭載された自動変速装置の名前で、

主人公が所有していた愛車の車検が終わり戻ってきた時の想いを歌ったものと解釈できるのである。


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『彼らが本気で編むときは、』

2017-03-08 00:39:06 | goo映画レビュー

原題:『彼らが本気で編むときは、』
監督:荻上直子
脚本:荻上直子
撮影:柴崎幸三
出演:生田斗真/桐谷健太/柿原りんか/ミムラ/小池栄子/門脇麦/柏原収史/田中美佐子/りりィ
2017年/日本

「自然主義」の作風について

 リンコが本気で編んでいるものは、リンコがかつて所有していた男根である。供養の意味を込めて沸き起こる「怒り」をなだめながら108個編んで一気に燃やそうとしているのである。そんなリンコがベランダで休憩中に遠くで見つけたものは風になびいている3匹の鯉のぼりである。鯉のぼりとリンコが編んでいる「男根」の編み物は形状は似ているものの、「男根」は決してなびくことはない。「男根」は何もなびかせることはないのだが、「おっぱい」は男女問わず人の心をなびかせることはリンコは母親のフミコから編んでもらったことから経験済みで、だからリンコも編んでトモにプレゼントしたのであろう。
 トモが、居なくなった母親のヒロミの服を洋服ダンスから引っ張り出して破きながら、それでも母親の服の匂いをかいで泣いている場所は母親の布団の上で、トモが母親の元に戻った後に、トモが忘れていった使い古しのハンカチの匂いをかいで号泣するリンコの様子も見る時、これは田山花袋の私小説『蒲団』なのではないかと思った。


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『君と100回目の恋』

2017-03-07 00:21:48 | goo映画レビュー

原題:『君と100回目の恋』
監督:月川翔
脚本:大島里美
撮影:小宮山充
出演:miwa/坂口健太郎/竜星涼/真野恵里菜/泉澤祐希/太田莉菜/堀内敬子/田辺誠一
2017年/日本

「青春の終わり」と音楽の関係について

 2016年の7月31日は主人公の長谷川陸にとって「鬼門」となったのがいつだったのかは分からない。大学院に通って熱心に物理学の勉強をしている様子を見ながら幼なじみの日向葵海は、やがてそれが自分のためだったことを知り何とかしようと試みるものの、7月31日の葵海の「運命」は変わらない。
 だから2人は楽しい学生生活を何度も送ることになるのだが、これではいけないと考えるのは葵海の方だった。このまま同じ学生生活を続けることは陸が大人にならないということを意味するからで、葵海は自ら時間を遡れるレコードを割って退路を断ったのである。
 レコードが割られ、2人が友人たちと組んでいたバンド「The STROBOSCORP」が葵海の不在で解散に追い込まれる時、音楽から疎遠になることが「青春の終わり」の象徴だった時代があったことを感じた。個人的にはラストは、葵海の声に促された陸が涙を流しながらチョコレート製のレコードを食べるというシーンを観てみたかった。


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テオドール・シャセリオーとアリス・オジーの微妙な関係

2017-03-06 00:16:20 | 美術

 現在、上野の国立西洋美術館において『シャセリオー展 19世紀フランス・ロマン主義の異才』

が催されている。

 ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)の『見聞録(Choses vues)』(1887年)に拠るならば、

テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)は当時交際していた女優のアリス・オジー

(Alice Ozy)に「私のような美人を手に入れようとするには、あなたはあまりにも醜すぎることは

自覚しているわよね(Tu es vraiment trop laid, vois-tu, pour avoir une jolie femme comme moi.)」

と言われたらしい(これを読んだアリスは否定しているが)。しかし上の自画像を見ても分かる

ようにそれほど容姿が酷い(laid)ようには思えない。

 そのようなことを考えていると、最後の方でシャセリオーの友人だったギュスターヴ・モロー

Gustave Moreau)による『シャセリオーの肖像(Portrait de Théodore Chassériau)』

という1856年頃のシャセリオーが亡くなる直前に描かれた作品を見たのであるが、

当時36歳のシャセリオーの頭は既に禿げ上がっているのである。

 シャセリオーの自画像は16歳の頃のもので、シャセリオーがアリス・オジーと出会った

1849年はシャセリオーが30歳の頃でおそらくシャセリオーは禿散らかしていたのだと推測される。


(『カバリュス嬢の肖像(Portrait de Mademoiselle de Cabarrus)』1848年)


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『トリプルX:再起動』

2017-03-05 00:54:10 | goo映画レビュー

原題:『xXx: Return of Xander Cage』
監督:D・J・カルーソ
脚本:F・スコット・フレイジャー
撮影:ラッセル・カーペンター
出演:ヴィン・ディーゼル/ドニー・イェン/サミュエル・L・ジャクソン/クリス・ウー/ルビー・ローズ
2017年/アメリカ

ますます「女子力」が高まる「ヒーローもの」について

 作品の冒頭においてアウグスト・ギボンズが中華街でリクルート相手で、アベンジャーズのメンバー発掘のオーディションを受けているつもりだったネイマール・Jrに対して「トリプルX」プログラムの成り立ちを説明している。ギボンズに拠るならば「トリプルX」は1977年のアメリカのカリフォルニア州の大干ばつが発祥の元になっている。空になったプールを利用してスケートボードを練習したザンダー・ケイジが頭角を現すようになり、その経緯は『ドッグタウン&Z-ボーイズ(Dogtown and Z-Boys)』(ステイシー・ペラルタ監督 2001年)というドキュメンタリー映画にも映っているらしい。
 やがて舞台はアメリカのデトロイトに人工衛星が落ちるという状況になり、ストーリーは全く違うのに、最初に言及される1977年という時代とメインの事件が起こる場所が『ナイスガイズ!』(シェーン・ブラック監督 2016年)と同じで、こんなにも被るものなのかと驚く。
 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督 2015年)あたりから顕著になったように、例えば、頭脳明晰でありながらたまにドジもしてしまうベッキー・クラリッジというキャラクターなど、明らかに「女子力」の高いヒロインたちの活躍が目立つ。


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『ナイスガイズ!』

2017-03-04 00:42:03 | goo映画レビュー

原題:『The Nice Guys』
監督:シェーン・ブラック
脚本:シェーン・ブラック/アンソニー・バガロッツィ
撮影:フィリップ・ルスロ
出演:ラッセル・クロウ/ライアン・ゴズリング/アンゴーリー・ライス/キム・ベイシンガー
2016年/アメリカ

クライムスリラーとコメディー要素を合わせ持つ作品の観賞方法について

 1977年のアメリカのロサンゼルスで展開されるこの作品を、果たしてクライムスリラーとして観るべきなのかコメディーとして観るべきなのかよく分からなかった。主人公を情け容赦のない示談交渉人であるジャクソン・ヒーリーと13歳の娘のホリーを一人で育てているホランド・マーチという対照的なキャラクターにしたことはよかったが、例えば、司法省の要職に付いているジュディス・カットナーが、自分の娘のアメリア・カットナーを助けたいのか暗殺したいのか真意がよく分からないし、アメリアが制作に携わったポルノ女優のミスティー・マウンテンズ主演の『How Do You Like My Car, Big Boy?(私の車をどのようにもてあそびたいの、坊や?)』というアート系の映画が、1978年のデトロイトの自動車産業にどれほどの影響をもたらすのかもいまいち分からないのである。実際に、調査官はフィルムを押収したものの、証拠不十分で自動車会社は不起訴になっているのであるが、当時流行したスローガン「What is good for Detroit is good for America(デトロイトにとって良いものがアメリカに良いものだ)」を使っていても、本作に政治的なメッセージを持たせている訳でもない。
 人が車の上に2度も落ちてくるシーンと、ジャクソンがブルー・フェイスをじっくりと絞め殺してしまうシーンが上手くかみ合っていないように見えて、観賞の難しさが興行的に成功しなかった要因だと思う。


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『素晴らしきかな、人生』

2017-03-03 00:23:01 | goo映画レビュー

原題:『Collateral Beauty』
監督:デイヴィッド・フランケル
脚本:アラン・ローブ
撮影:マリーズ・アルバルティ
出演:ウィル・スミス/エドワード・ノートン/キーラ・ナイトレイ/ケイト・ウィンスレット/ヘレン・ミレン
2016年/アメリカ

最初に「殻を破る」理由について

 本作はかなり誤解されているように思うので、ラストのネタバレを避けて最初にストーリーを整理しておきたい。
 主人公で広告代理店のCEОを務めるハワード・インレットは3年前は会社のトップとして輝いていたのだが、2年前に娘を病気で亡くして以来、魂の抜け殻のようになってしまい会社においてはドミノ倒しに熱中し、家ではオカルト関係の本を読み漁っている有様だった。同僚のホイット・ヤードショウ、クレア・ウィルソン、サイモン・スコットはハワードを元気つけようと頑張っていたのだが、会社の業績は悪化し身売りする事態にまで追い込まれていた。
 ある日、ホイットがコピーを考えていたところ会社にオーデションを受けにきていたエイミー・ムーアが、ホイットが呟いていた「Find your life, shed your skin(あなたの人生を見つけて殻を脱ぎ変えよう)」を「Shed your skin, find your life(あなたの殻を破って人生を見いだそう)」と変えた方が心に響くとアドバイスすることから、ホイットはエイミーがブリジットとラフィーが結成している「劇団」を見つけ、探偵のサリー・プライスと共に彼らを雇ってハワードを治そうと試みる。
 しかし何故かサリーが隠し撮りしたハワードの映像にはエイミーもブリジットもラフィーも映っておらず、ハワードが一人で公共の場で怒鳴り散らしており、自身の症状を悟ったハワードは弁護士の言う通りに書類にサインし、会社の経営から身を引くのである。ここのシーンをどのように捉えるかで本作の評価は大きく変わると思う。
 振り返ってみるならば、ハワードに限らず、例えば、ホイットは浮気が原因で妻と離婚してしまい、娘のアリソンにも嫌われている。クレアも40歳を超えて子供が欲しいと思って精子バンクなどを調べており、サイモンは末期の骨髄腫を患っている。つまりハワードだけではなく彼らもそれぞれ「愛」と「時間」と「死」に囚われており、彼らも「愛」のエイミー、「時間」のラフィー、「死」のブリジットの「亡霊」を見ていると捉えることが自然であろう。
 ラストでブリジットが口にする原題「Collateral Beauty」は日本語字幕で「幸せのおまけ」と訳されているが、そもそもこのタイトルは軍事行動によって民間人が受ける人的および物的被害を意味する「Collateral damage(付帯的損害)」をもじった言葉と捉えるべきで、「付帯的見もの」と解釈すれば分かりやすい。ホイット、クレア、サイモンはハワードを治そうとすることで自分たち自身の「治癒」もなされることになっており、本作は心が傷ついた者たちが見る「幻影(=beauty)」が描かれているのである。


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『ウルビーノのヴィーナス』と『ダナエ』

2017-03-02 00:22:16 | 美術

 ティツィアーノ・ヴェチェッリオが描いた『ウルビーノのヴィーナス(Venus of Urbino)』(1538年)を

見て感動したイタリアの枢機卿のアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)が

ティツィアーノに注文した作品が『ダナエ(Danae)』(1544-46年頃)なのである。

 官能性が増したことを理解するにはオウィディウスの詩によるギリシア神話を理解していないと

分かり難い。「アルゴス王アクリシオスが男児を授かるかどうかの神託を受けたところ、

王自身は男児に恵まれないが娘のダナエが息子を産み、そしてその息子にアクリシオスは

殺されるという予言が下った。この神託を恐れたアクリシオスは男性が近づかないように

ダナエを地下室に幽閉する」まではウィキペディア通りである。ダナエもその神託を知っては

いたのだが、全知全能の主神であるゼウスが黄金の雨に姿を変えたことで「ディフェンス」を

下げてしまったダナエは誘惑させられ妊娠させられてペルセウスを産んだのである。

だからエロス(=キューピッド)がダナエのそばにいるということは姦淫があったという

証しで官能性を増しているのである。


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