コーヒー&シガレッツ
2003年/アメリカ
独りで担うオムニバス映画の‘弛緩’について
総合 60点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
本作は11の短編から成っており、その点に関して言うならば前年の2002年に制作されたオムニバス作品『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』においてジム・ジャームッシュ監督が撮った「女優のブレイクタイム」の流れを汲むものであるが、さすがに一人で11作品を担うとなると作品ごとの出来の良し悪しが目立つ。確かに本作の3話目である「カリフォルニアのどこかで」は、1993年カンヌ映画祭の短編部門でパルム・ドールを受賞し、7話目の「いとこ同士」や9話目の「いとこ同士?」と共に個人的にも好きなものであったが、例えば、2話目の「双子」において、テーブルを挟んでコーヒーを飲んでいる双子のもとにウェーターが魔法瓶を持ってお代わりを注ぎに来るのであるが、誤ってコーヒーを注ぎ過ぎてカップからこぼしてしまった後に、双子と会話を始める際に、彼がテーブルの上に置いた魔法瓶が、テーブルの真上から撮られた映像には映っていなかったり、あるいは5話目の「ルネ」において、喫茶店でコーヒーを飲んでいるルネにウェーターが2度目のお代わりを訊ねた後に、ルネが読んでいる雑誌のページは銃の写真が掲載されており、ウェーターが3度目に話しかけた後のページはハンティング・ナイフに関するページなのであるが、カットが変わりルネが雑誌のページをめくると銃の写真のページが映され、ウェーターが4度目に話しかけてきた時には、再び雑誌は同じハンティング・ナイフに関するページが開かれているのである。もちろん演出上の意図があるのならば、問題ないのであるが、しつこいウェーターに無言の圧力をかける際に、銃とハンティング・ナイフに違いは無く、もしもギャグであるのならばインパクトに欠けており、18年もかけて撮りためてきた作品としては演出が甘いのではないかと思うのである。
白熱電球の販売自粛要請へ 政府 照明メーカーなどに(産経新聞) - goo ニュース
光量不足のLED電球を不当表示 消費者庁が12社指導(朝日新聞) - goo ニュース
私はLED電球を信じていない。LED電球は白熱電球に比べ消費電力が2割前後で済み、
寿命も約40倍、電気代など1年間のコストも大幅に低いと言われているが、私が買った
LED電球は使用し始めて1年ほどで輝度が低下してしまった。白熱電球のように使用開始
直後に突然切れてしまうならば却って文句も言えるのであるが、輝度が低下ということで
使えないことはないために、文句が言いにくいのであり、それならば例え“ハズレ”であっても
40ワットタイプの価格が100円程度の白熱電球の方が、同タイプで1000~3000円と
割高なLED電球よりも精神的にも肉体的にもダメージは少なくて済むのである。
地獄('60)
1960年/日本
『女死刑囚の脱獄』と『地獄』の関連性
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
本作のタイトルバックに流される映像は実に奇妙なもので、妖艶な恰好をした女性たちが次々と映される中で「ようい、スタート」という監督の声が聞こえてくるのであるが、このタイトルバックは本作の内容と関係するところがなく、寧ろ前作『女死刑囚の脱獄』の方を想起させるイメージであり、『女死刑囚の脱獄』において潔白の主人公である京子をメインに撮られたことを勘案するならば、『地獄』においては対照的に罪を犯した主人公の大学生の清水四郎の成れの果てを描いたものだと言えるだろう。‘脱’から‘地’への‘獄’というイメージである。
本作の冒頭に特筆すべきシーンがある。大学の講堂の椅子に座っていた四郎が、暗転後に矢島教授の家のリビングに座っているシーンを何とワンシーン・ワンショットで撮っているのである。あまりにも自然に撮られているので気がつかれないのであるが、これはメインの地獄以上に驚くべき演出である(地獄の描写そのものは1999年公開の石井輝男監督の『地獄』の方がパンチが効いていると思う)。
結局、清水四郎と関わる人物は全員死んで地獄に行き、その中には四郎の婚約者だった矢島幸子が身ごもっていた水子も含まれており、これは『女死刑囚の脱獄』の主人公の京子の死別した子供を連想させる。
地獄の中で周回しながらさまよう人々を掻き分けて四郎は自分の赤ん坊が乗っている大車輪に乗って救おうとするのであるが、大車輪は回転するだけで四郎の手は赤ん坊に届くことはない。‘回転’はそのまま矢島幸子と谷口サチ子が持つ傘に受け継がれて本作は終わるのであるが、「輪廻」と捉えてもかまわないように思う。
最後に『女死刑囚の脱獄』のレビューで書いた時計の話をしておきたい。9時から10時直前の間に真犯人が分かり、京子の無実が実証されたのであるが、『地獄』の壁時計はどれも9時を指したままで動くことはない。四郎を初め、地獄に落ちた人々は‘苦時’を耐えなければならないのである。
豪州戦、不可解判定多い…サッカー協会が意見書(読売新聞) - goo ニュース
本当にわけの分からない判定が多かった。オーストラリアのオジェック監督でさえ、後半の
内田のファウルは、後でモニターで確認しても、そういうふうには見えなかったと語っている
くらいだから誤審は明らかだと思うが、ホームのオーストラリアのミリガンをイエローカード
2枚で退場させてしまった後、周囲を囲んでいるオーストラリア人たちの“圧”にビビってしまい
急遽内田をスケープゴートにしてオーストラリアに1点を“プレゼント”することで、試合の
終了後、襲われないように保身をはかったように見えなくもない。特に海外のフーリガンが
何をするのか素人の私などには計り知れないものがあるのだろうから。
女死刑囚の脱獄
1960年/日本
ブレッソン+ヒッチコック
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
中川信夫監督のキャリアは1950年代後半あたりがピークだと思われ、一見奇妙なストーリー展開に見える本作『女死刑囚の脱獄』も同じ1960年に撮られた『地獄』同様に傑作と認めていいのではないのかと思われる理由は、本作の前半が主人公の今井京子の盛岡の女囚刑務所からの脱獄の仕方がロベール・ブレッソン監督の『抵抗(レジスタンス) - 死刑囚の手記より』(1956年)の主人公フォンテーヌのやり方と似ており、脱獄後の後半がヒッチコックの作品を想起させるためで、ブレッソンとヒッチコックを繋げた上に、妊娠している主人公を死刑囚にし、レズビアンを加味する‘荒さ’こそ高く評価するべきだと思う次第である。
やがて京子の無実が確実のように思えてきた宮田警部は、それでもあくまでも立場上、法に則って処理するしかなく、京子が盛岡に護送される前に義母と義妹から荘一が父親を青酸カリで毒殺した真犯人であることを白状させることになるのであるが、それは朝の9時から10時直前までの間に行なわれる。この‘9時’に関しては『地獄』のレビューに委ねたいと思う。
ブラザーコーン容疑者逮捕 暴力団名挙げ脅迫容疑、否認(朝日新聞) - goo ニュース
ブラザー・コーン容疑者を逮捕=暴力団の名挙げ、脅した疑い―警視庁(時事通信) - goo ニュース
去年の8月に暴力団関係者との交際が明らかになり引退を宣言した島田紳助を反面教師
として芸能人ならば誰でも暴力団との付き合いを自粛するものだと思っていたのだが、
奇しくも島田紳助と同学年のBro.KONE(ブラザー・コーン)こと近藤信秋が、元マネジャー
の男性の「暴力団事務所と関係があるとうわさされる芸能事務所などとの付き合いをやめる
ように」という親切な申し入れに対して、実在する暴力団名を挙げた上で「俺をなめんなよ。
ただじゃおかねえぞ」などと脅したことで暴力行為等処罰法違反(脅迫)容疑で逮捕された。
ブラザー・コーンは「そこまで強く言った覚えはない」と容疑を否認しているらしいが、問題
なのは暴力団事務所と関係があると噂される芸能事務所がいまだに存在できることである。
幸せへのキセキ
2012年/アメリカ
「Whatever」と「Why not」
総合 60点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
主人公のイギリス人コラムニストで突撃レポーターでもあるベンジャミン・ミーは、半年前に妻を亡くし、上司との諍いから仕事を辞めてしまい、14歳の息子のディラン・ミーが通っている学校で息子が描いた奇妙な絵を見せられたのを機に、7歳になる娘のロージー・ミーとともに閉鎖中の動物園付きの家を購入して、新たな人生をスタートさせる。
見知らぬ土地で素人がいきなり動物園の経営を始めるのであるから、次々とトラブルが発生するのであるが、ここではあまり語られることのない2つの言葉に注目してみたい。
ベンジャミンが嫌悪していたディランの口癖は「どうでもいい(Whatever)」だったが、やがてこの言葉はベンジャミンの兄で、弟の動物園経営に反対していたダンカン・ミーが動物園の設営に加わるようになった際に発する「どうでもいいじゃないか(Whatever)」により、言葉の意味を好転させるのであるが、もう一つの重要な言葉の出自が曖昧である。
ラストシーンにおいてベンジャミンは2人の子供たちと、亡き妻のキャサリンと初めて出会ったカフェを訪れる際に、おかしなことが起こるのであるが、それが亡き妻の出現だと野暮なことを言うつもりはない。ベンジャミンは偶然通りかかったカフェのガラス越しにキャサリンを見て一目惚れしてしまい、カフェに入るなり「すいません」とキャサリンに声をかけた後に、「どうしてあなたのような素敵な女性が、僕のような男と言葉を交わしてくれるのですか?」という趣旨の質問をするのであるが、これは初対面の人に対して最初にする質問としては、まだ十分に会話をしていない以上不自然なものである。もちろん、この質問に対するキャサリンの「どうしてしてはいけないの?(Why not?)」という答えが、ローズムーア動物公園の飼育員のリーダーであるケリー・フォスターの「どうして動物園を経営することにしたの?」という質問に対するベンジャミンの答え「どうしてしてはいけないの?(Why not?)」と通じることで、いずれもベンジャミンの人生が開けるきっかけとなるのであるのだが、ベンジャミンのキャサリンに対する問いかけの不自然さは否めず、そのような脚本の熟れなさが、ディランが描いていた奇妙な絵が昇華することなく‘普通’のトラの絵に‘落ちぶれてしまう’ことと相まって、本作が本来持つはずである爽快感を殺いでしまっているように思うのである。
心斎橋事件の容疑者、先月に出所 再犯防止策に課題(朝日新聞) - goo ニュース
保険金狙いで自宅に放火したなどとする罪で服役し、出所後、定職に就かないまま、生活費
を手に入れるために昨年11月から12月にかけて、堺市の主婦と象印マホービン元副社長
を殺害し金を奪った西口宗宏と比較するならば、覚醒剤事件で逮捕され、新潟刑務所に服役
した後に満期を迎え5月24日に出所したばかりだった礒飛京三が再入所するとするならば
どうせまた覚醒剤だろうと高を括っていたらしい新潟刑務所は、とんでもない輩を心斎橋に
放り込んでくれたものだ。いくら助けを求められても死にたいと思って包丁を振り回している
男は止めようがない。皮肉にも逆にこれで死刑廃止論が活発化することになるのだろうか
ミッドナイト・イン・パリ
2010年/スペイン=アメリカ
脚本と小説の不明瞭な違い
総合 60点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
主人公のギル・ペンダーはハリウッドで売れっ子の脚本家であるが、簡単に消費されていく娯楽作品の脚本の執筆に嫌気がさしており、小説家になるべく婚約者のイネズを連れてパリのやってくる。いつものように主人公のギル・ペンダーとは本作の監督であるウディ・アレンの分身であり、アレンは映画よりも小説の方が高級と見做しているために芸術の都であるパリで修行するという企みなのであろうから、ここでは既に語り尽くされたようなことではなく、「脚本と小説」というテーマに絞って書き記しておきたい。
ギルの処女小説のタイトルの「Out Of The Past」は‘思い出’を売っている店の名前であるり、実際に、ギルは1920年代や1890年代のパリにタイムスリップすることになり、著名な芸術家たちと邂逅することになる。アーネスト・ヘミングウェイの紹介で、ギルは自身の処女小説を、パリで画家や詩人たちのためにサロンを開いていたガートルード・スタインに見てもらうことになる。スタインはギルの小説を褒めた上で「何故、主人公は彼のフィアンセが知識をひけらかすような男と浮気をしていることに気がつかないの?」と疑問を呈する。つまり本作『ミッドナイト・イン・パリ』はギルが執筆している小説であることが明かされ、映画の脚本よりも小説の方が高尚と考えているギルを装ったアレン自身が、本作の‘ハードル’を一気に高めてしまうのであるが、その志とは裏腹に、例えばパリという舞台設定ならばアレンでなくても、良い画は撮れるであろうし、有名人の偽者を次々と登場させれば画面が映えることは間違いなく、他方で、ギルがルイス・ブニュエルに新作の脚本のヒントになるプロットを与えたりしており、明らかに『皆殺しの天使』(1962年)を観ているギル自身が何故ただの娯楽映画にならない高尚な脚本を執筆しないのか疑問が残る。
さらに問題だと思われる点は、ギルが書いた小説をなぞってストーリーが展開されている本作のラストシーンにおいて、フィアンセのイネズと婚約を解消することになったギルが、偶然橋の上で再会したガブリエルと、‘雨が降るパリ好き’という点で意気投合するという平凡なオチで終わらせているところで、確かに小説のタイトル「Out Of The Past」は「過去を越えて」という意味ではあるが、これではギルが嫌っていた娯楽映画のワンパターンのオチと変わらず、高い志が本作に全く反映されておらず、実はアレンはギルではなく、衒学趣味のポール・ベイツの方ではないのかと疑ってしまう。それとも‘この程度’でアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞の両方の脚本賞を受賞したということで、皮肉屋アレンは内心「してやったり」とほくそ笑んでいるのだろうか?
寮からタクシーで逃走か=長距離避け、神奈川東部に潜伏?―高橋容疑者・警視庁(時事通信) - goo ニュース
スーパー近くで青い大型バッグを持ちタクシーに乗り込む高橋克也の姿が写っていた防犯
ビデオの映像がテレビで流されていたのであるが、映されていたものは高橋の足元と買った
青い大型バックだけだった。高橋の部屋からは防犯カメラの性能を特集した雑誌が残されて
おり、かつてオウム真理教の諜報省に在籍し、その後は防犯カメラに映っていないところから
察するならば、これは防犯カメラに青い大型バックだけを故意に映させた可能性が高い。
青い大型バックというイメージだけを人々の記憶に残させて、実は高橋はこのような場合の
ためにあらかじめ買っておいた別のバックを使用して逃走しているように思われる。