東京の山種美術館で催されている「川端龍子 - 超ド級の日本画 -」は興味深いものだった。
21歳で結婚した川端は家族を養うために雑誌などに挿画を描いており、後年になると戦争や
事件などをテーマに描くようになり、「大作主義」と共にアルフォンス・ミュシャ(Alfons Mucha)と
同じような軌跡を辿っているのである。
当初、川端は西洋画を描いていたのだが、アメリカ留学で挫折した後に、日本画に転向する。
しかし有名な『火生』なども観たのだが、まだ自分のスタイルを確立していないように見える。
川端が本領を発揮するようになるのは40歳代になってからで、いわゆる川端の「会場芸術」と
呼ばれる作品は大味にならず筆致がシャープで素晴らしく、その力量は『八ツ橋』や『爆弾散華』
を描く60歳(1945年)まで続く。
『八ツ橋』
ところが60歳を過ぎた頃から川端の筆致が鈍ってくる。例えば、『金閣炎上』(1950年)は
炎はともかく寺の描写が荒く、あるいは『夢』(1951年)は舞っている蝶はいいのだが棺桶に
入っている屍の描写が荒いように思う。70歳を過ぎると完全に精彩を欠くようになるのだが、
それでも『牡丹』(1961年)の牡丹の描写は悪くはなかった。