MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『特集:中国の若き巨匠ジャ・ジャンクー 奇跡の軌跡をたどる』 100点

2009-06-05 23:17:38 | goo映画レビュー

特集:中国の若き巨匠ジャ・ジャンクー 奇跡の軌跡をたどる

-年/中国

ネタバレ

リアリティーの在り処

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ジャ・ジャンクー監督作品をオフィス北野が配給するようになった経緯は分からないが、ジャ・ジャンクー監督の作風は、特に登場人物の覇気の無さなどが北野武監督の作風と非常によく似ていると思う。しかし残念ながら映画監督としての力量の違いは一目瞭然である。
 わざわざこの特集を観に渋谷まで足を運ぶ人ならば、当然近くの映画館で同時期に上映されているアン・ハサウェイ主演、ジョナサン・デミ監督の『レイチェルの結婚』も観に行っているはずなので、比較考察してみたい。
 『レイチェルの結婚』はハンディカメラを用いてドキュメンタリータッチで撮影されていてリアリティーを醸し出している。この作品に不満が残るとすれば、結局主人公のキムが何故薬物中毒になってしまったのか詳らかにされないところである。キムの父親はキムに知り合いを介して働くことを勧めるのだが、キムは翌日リハビリ施設に戻っていく。つまりキムの父親は自分の娘のことを何も知らないのであるが、何故キムの両親はキムに対して親としてそれほど関心がないのかが描かれないままにこの作品は終わってしまう。『レイチェルの結婚』が駄作だというのではない。ここで言いたいことは映画というものは物語の‘起源’を無視した上で‘ドラマ’が展開されるということである。
 何故物語の‘起源’が無視されてしまうのかを問うために、ジャ・ジャンクー監督は映画を撮っているのではないのかと私は邪推してしまう。彼の作品を複数観たことがある人ならば、その物語の類似性に唖然としてしまうであろう。彼の長編作品には全て男女の痴話喧嘩が含まれている(その雛形が彼が2008年に制作した短編『河の上の愛情』であろう)。そして‘ドラマ’とは男女の痴話喧嘩を‘起源’として、それが発展したものであろう。だからジャ・ジャンクー監督作品に物語の面白さを期待して観るなら、落胆することは間違いない。彼の作品には‘ドラマ’はないのだから。
 そのような‘ドラマ’のない作品にジャ・ジャンクー監督がリアリティーを与える方法はポップソングと既成の映像作品である。例えば『四川のうた』で証言者の一人、ソン・ウェイドンの別れた彼女は山口百恵主演のテレビドラマ『赤い疑惑』の主人公の髪型を真似ていて、別の証言者であるグゥ・ミンホァは1978年にヒットした映画『戦場の花』のヒロイン、シャオホァ(小花)に似ていると言われる。最後の証言者、スー・ナーは女優になることを目指していた。『長江哀歌』のマークの呼び名も『男たちの挽歌』のチョウ・ユンファの役名から取られているし、『青の稲妻』のシャオジーは俳優の仕事をしないかと誘われたり、『パルプフィクション』などのDVDを売ったりしている。
 『世界』『青の稲妻』『プラットホーム』でもテレビを介して様々な映像が流される(ヒロインたちはテレビに映されることを目指している‘ダンサー’である)。このことが何を意味しているのか考える時、私たちはそこに‘メディア’の介在を見ないわけにはいかない。つまり私たちはジャ・ジャンクー監督の作品において奇妙なことに必ず‘既視感’によってリアリティーを感じるのである。
 そういう意味ではジャ・ジャンクー監督の長編デビュー作品『一瞬の夢』において歌と映像が合わさっている‘カラオケ’がメインの素材に使われていることは大変に興味深いのだが、主人公で歌が下手な小武(シャオウー)が恋人のはずだったメイメイと歌った後にメイメイは行方不明になり、小武はスリがばれて警察に捕まり群衆に囲まれて晒し者になり、『青の稲妻』の主人公のビンビンは恋人のユェンユェンと一緒に歌った後に、銀行強盗に失敗して捕まって、警官の前で同じ歌を歌わされる。『四川のうた』で引用されている山口百恵の「ありがとうあなた」も哀しい歌である。ジャ・ジャンクー監督の『プラットホーム』というタイトルはポップソングのフレーズから取られているにも関わらず、彼の作品において歌は縁起が悪いのが不思議である(長江‘哀’歌!)。
 ジャ・ジャンクー監督は‘既視感’を描くことでリアリティーを獲得するのだが、それはなにも既成の映像を用いるだけではない。例えば『一瞬の夢』の主人公の小武には瓜二つの兄弟がいる。小武の入浴シーンでは彼の局部が露わになっている。道を歩いているカップルの映像に他のドラマのサウンドトラックを被せて異化効果を利用している。『青の稲妻』においてバイクで走るシャオジーの背後で稲妻が走るシーンは言うまでもないが、『長江哀歌』で主人公のハン・サンミンの歩きに合わせて壁が崩れ落ちたり、ガラス越しで建物が崩壊したりするし、『世界』(そのロケ地であるテーマパーク‘世界公園’自体が‘既視感’で出来ているのだが)でハイウェイが映されると同時に列車が左から右へ走り抜けるシーンや、屋上で2人の人物が会話している時に不意に飛行機が上空を左から右へ飛び去るシーンも強烈に印象的であるが、なによりも不意打ちのようにアニメーションが使われていることに驚かされる。どれもこれも始めてみるはずのものなのではあるが、何故か‘既視感’を持ってしまうのは、このような‘タイミングの良い’シーンを私たちはいつも映像を通して見るからであろう。つまりメディアの介在なしに現代の私たちにとってのリアリティーは存在しないということがジャ・ジャンクー監督の一貫した姿勢なのであり、そこに物語の‘起源’を挿入することで、彼は理想と現実の解離に関する独特のドラマツルギーを生み出したのである。(その雛形が彼が2007年に制作した、写真で十年を綴る短編『私たちの十年』であろう)。
 俯瞰的な映像の構成力においてジャ・ジャンクー監督は現役監督の中で間違いなくトップであると思うが、彼の代表作と呼ばれているものが彼がオーソドックスに撮ったはずの『長江哀歌』であるということが何とも複雑な気持ちにさせる。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Poetically correct? | トップ | デッドエンド? »
最新の画像もっと見る

goo映画レビュー」カテゴリの最新記事