ハート・ロッカー
2008年/アメリカ
‘びっくり箱’について
総合 90点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
タイトル通りにこの作品が観客に‘極限の苦痛の時間’を与えるとするならば、それはいつ死んでもおかしくない極限状態に置かれているアメリカ軍の爆発物処理班の兵士たちの姿を垣間見るだけではなく、爆発物の処理だけでは我慢できなくなったウィリアム・ジェームズ(William James)一等軍曹が‘元凶’を辿ろうとすると、いつも行き詰まってしまうところにもある。
例えば腹部に爆弾を埋め込まれたまま手術台の上で死んでいた少年を、DVDを売っていたベッカムだと思ったウィリアムがその犯人を突き止めようとしても、突き止めた場所は身元がよく分からない男の家だった上に、ベッカムは死んではいなかった。わざわざ腹部に爆弾を埋め込む手術をした意図も不明のままである。
敵の攻撃を受けた後に、ウィリアムはJ・T・サンボーン三等軍曹とオーウェン・エルドリッジ特技兵と一緒に敵を深追いしていくのだが、オーウェンが重傷を負っただけで敵方のことは何も分からない。
砂漠の中での長時間の銃撃戦の相手の敵の正体も結局全く分からないまま(最初は自分たちの仲間のことさえ認識できなかった!)、ただ爆発物を処理することによる原状回復のみの終わりなき作業を強いられるためにウィリアムたちだけではなく私たち観客までもイライラしてくる。
任務を終えたウィリアムは妻と幼い子供のいる我が家へようやく帰れたのであるが、ある夜、ウィリアムは幼い子供に向かって、自分には一つだけ愛しているものがあると語りかける。ポイントはその時に彼の子供が遊んでいたものである。子供は‘びっくり箱’で遊んでいた。びっくり箱は英語で‘Jack-in-the-box’で、‘Jack’とは‘James’の愛称である。たくさんの爆弾を処理して周りを‘びっくり’させるためには箱に戻らなければならない。つまりウィリアムは一旦は抜け出た‘Box’へ再び戻っていくわけであるが、この‘箱’は間違いなく「戦争はドラッグである」という‘パンドラの箱’ではないのか? そしてパンドラといえばジェームズ・キャメロン監督の『アバター』に登場する衛星の名前でもあり、さすがは元夫婦と感心してしまうのである。
ハンディーカメラの多用は戦場の臨場感を上げるために有効であるとは思うのだが、例えばアンソニー・マン監督の『最前線(Men in War)』(1957年)などを観てしまった後では、演出をごまかす手立てのようにも見えてしまうことは避けられない。
『群像』の2010年5月号の映画時評で蓮実重彦氏がマノエル・ド・オリヴィエラ監督の『ノン、あるいは支配の空しい栄光』を論じている(P.155)。その文章の中の『ハート・ロッカー』を論じている部分を引用してみる。
「この徹底した不自然さを曖昧に避けようとする者に、『戦争映画』など撮れるはずもない。疑似ドキュメンタリー風の素人じみたキャメラをいかにも自然なことだといわんばかりに兵士たちに向けるキャスリン・ビグローの『ハート・ロッカー』(ニ〇〇八)の自堕落さは、描かれていることを納得してもらえればそれですむという演出の安易さが必然化するものであり、生涯忘れられない顔や声のまったき不在がその事実を残酷にあばいてみせる」
私も同じようなことを感じたのであるが、同じような‘自堕落さ’は2007年にブライアン・デ・パルマ監督によって制作された『リダクテッド/真実の価値』にも散見されるはずなのである。しかし蓮実氏は『リダクテッド』を高く評価していた。私にはその違いが分からない。
登校問題で両陛下「誰も犠牲にならぬ配慮を」(読売新聞) - goo ニュース
東宮大夫から9日に問題の報告を受けた際に皇太子妃や愛子内親王に配慮した
うえで「事柄が愛子さまと学校、さらには数名の児童ともかかわりをもつことから、
いずれかが犠牲になる形で解決がはかられることのないよう、十分に配慮を払う
ことが必要ではないかと思う」と両陛下は語ったというが、誰も犠牲にならないような
形で解決が図られるようなことはどだい無理だと思う。それでもあえて無理をした
結果、皇太子妃は適応障害を患ってしまい、愛子内親王は学校に登校できなく
なってしまったはずなのである。両陛下が立場上“自己犠牲”を求めていることは
致し方ないのであるが誰もができるわけではない。今回の愛子内親王の登校問題
は改めて両陛下と皇太子夫妻の意思の疎通の欠落を露呈させてしまっている。