ケンのブログ

日々の雑感や日記

一期一会の思い出

2021年07月26日 | 音楽
今日の読売新聞の投書欄に近江八幡の薬剤師の女性(72歳)の方の投書が出ている。

「辻久子さんの演奏心に」という見出しで次のような文章が書かれている。

“”
小学生の頃、私が通っていた広島県の小学校に辻さんが演奏に来られたことがありました。それまで、バイオリンは耳障りな音の印象しかなく、あまり好きではありませんでした。

しかし、辻さんの演奏を聴いて、深みのある音色から軽やかな音まで、多彩な魅力に引き込まれ、バイオリンの見方がガラリとかわりました。“”と。

これを読んで、僕も小学生の頃、岐阜の市民会館に母に連れられていって、辻久子さんを聴いたことを思い出した。

オーケストラがどのオーケストラで指揮者が誰だったかということはすっかり忘れてしまったけれど、バイオリン独奏が辻久子さんだったことははっきり覚えている。

一階席の一番前かそれに近いくらい前の方で聴いた記憶がある。

演奏された曲はチャイコフスキーのバイオリン協奏曲。

演奏が全体としてどんなものだったかは忘れてしまった。

しかし、はっきりと覚えているシーンがある。

このチャイコフスキーのバイオリン協奏曲の第三楽章

ロシアの舞踏音楽を思わせる、速い音楽が展開される。

それから、舞踏音楽風のメロディーが今度はゆっくりとひきずるように、たっぷりとした感じで奏でられる部分がある。

ウィキペディアの楽曲解説で調べると、この部分は第三楽章の第二主題と記されている。

その第二主題を辻久子さんは本当に、思い入れたっぷりに、引きずるように奏でておられた。

音色はかなり深く、小学生の僕の耳には鈍く黒光りしているように聴こえた。

鮮やかな黒光りではなく鈍く黒光りしているところが子供心にすごいと思った。

前の方の列で見ていたのでかなり近い距離からその主題を奏でる辻久子さんの姿を見て、すごい気迫だと思った。

あのシーンを僕は忘れることができない。

それから後に僕は辻久子さんの演奏をレコードやCDで聴いたこともないし、生演奏で聴いたこともない。しかし、これまでに僕が行ったコンサートの中であの辻久子さんのシーンは、もっとも印象深かったシーンの一つだと確信をもって言える。

たとえ、一期一会の出会いでも、そして直接言葉を交わしたことのないような出会いでも、こころがこもっていれば、相手の心に一生残るということがあるんだなとしみじみとおもう。

やはり、辻久子さんは素晴らしい方だったんだなといまさらのように思う。

それは、ともかく、いちにち いちにち無事で健康に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。





オリンピックの風景

2021年07月26日 | 日記
オリンピックが始まると、新聞も紙面のかなりの部分をオリンピックの報道に割くようになった。

いわば、紙面の構成がオリンピック仕様になっているということだ。

僕、テレビをあまり見ない。

その代わりというわけではないけれど。新聞でスポーツの写真はじっくりみる。

何年か前、イチロー選手が日米通算4000本安打を打ったとき、翌日の新聞の写真を見ると、キャッチャーのミットは映っていなかったので、左右のコースはわからないけれど、イチローが打った球の高さは丁度イチローのベルトのあたりを通過していた。

ベルトラインの高さ。

僕、野球をやったことがないけれど、一般的には打ちやすいと言われている高さだと思う。

あのとき、イチローは確か予告先発だった。(記憶違いだったらごめんなさい)

そして、僕は思った、予告先発で日本にもテレビで放映されているから、ベルト線に球が来たのか、たまたまベルト線に来た球をイチローが逃さず打ったのか。

そんなことを思い出しながら、イチローが4000本安打を打った瞬間の映像をネットで探してみると、それほど速くない球が、高さコースともほぼ真ん中に来て、それをイチローうまくさばいて打っていることがわかる。

こういう試合だから真ん中に球が来たのか、真ん中の球を逃さず打ったのか、それはわからないけれど、そういうこと、新聞の写真を見ながら想像するのは結構好き。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、オリンピックの開会式、長嶋さんと王さんと松井さんが、国立競技場に聖火リレーに登場したという。

その話を聞いて、母は「いくら長嶋さんでも、年寄が登場するより、こういうときはイチローがスリムな体で颯爽と走ったほうが凛々しくてみんな元気が出るのに」と思ったという。

まあ、イチローは国民栄誉賞も辞退するくらいだから、そういう場に出るのは好まないかもしれないけれど、言われてみればそれも一理あるように思える。

今日の読売新聞に、聖火ランナーとして登場した長嶋さんと王さんと松井さんの写真が出ている。

確かに、母が言うように、颯爽とした凛々しい姿というのには程遠いように思う。

けれども、いろんな思いが心をよぎる写真だなと思う。

写真と見ると、基本的には、長嶋さんと松井さんが主役、王さんは脇役で登場しているように見える。

真ん中で、ちょっと満悦顔の長嶋さんをいたわるように松井さんが聖火を持っている。

そして、その二人の傍らに王さんが寄り添っている。

写真は、そんな感じに見える。

そして、長嶋さんと松井さんは長いジャージをはいていて、王さんだけが、膝上までの丈のジャージをはいている。

服装でも王さんは、長嶋さん、松井さんの二人と一線を画している。

その姿のなかに、長嶋さん、松井さんの師弟関係の中には割り込まない、自分はここでは脇役に徹するという王さんの姿勢が現れているように僕には思える。

そんな気遣いが、王さんらしいなと思う。

あるインタビューで、王さんは、巨人のユニフォームを着て最も多くの回数、打席に立ったのは王さんで、王さんは、その事実をとても大切に思っているという主旨のことを語っておられた。

そのことを踏まえて考えると、こういうときに、聖火は、長嶋さんと松井さんに任せて、という姿勢ではなく、ちゃんと自分も一線を画しながらも出てこれらるところも王さんらしいなと思う。

一枚の、写真が教えてくれることは結構多いと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事で健康で過ごせることを第一に願っていきたい。








東京オリンピック開会

2021年07月24日 | 日記
旧約聖書の第一章は次のように書き出されている

“”はじめに神は天と地とを創造された。

地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。“”と。


旧約聖書がこのように書き出されているのは、まず、天と地があること、そして光とやみがあること、つまり昼と夜があることが、私達の世界にとって最も大切なことと、この時代に聖書が書かれた地域の人が考えたからではないだろうか。

きっとそうだと僕は思う。

日本国憲法の第一条はこのような書き出しになっている。


“”第一条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。“”


これも、やはり、敗戦後に日本が進むべき道を考えた人たちが、天皇を日本国の象徴とすること日本国民統合の象徴とすること、そして、それは主権者である国民の総意、つまり国民主権という前提の上で成り立つ事柄であると定めることが、非常に大切と考えたからではないだろうか。

きっとそうだと僕は思う。

大切なものを一番初めにもってくる。

物事を体系的に構成する上で大切なことと思う。

音楽でも、全体を構成する上で大切な主題を曲の最初にもってくる例は枚挙にいとまがないことと思う。

今日の読売新聞にオリンピックの開会式て天皇陛下とバッハさんが並んで会場に向かって手を振っている写真が掲載されていた。

天皇陛下は白いマスク、バッハさんは黒いマスクをしている。

公の場所で、皇族以外の方が、天皇陛下と並んで、会場に向かって手を振るという光景を始めてみたと思う。

天皇陛下のお顔は、読売新聞の写真がとらえた瞬間のものは困惑の表情に見える。

そして、読売新聞には写真についてのコメントは一切書かれていない。

ただ、写真が掲載されているだけだ。

ときどき、モーツァルトの音楽を聴いてとても人間業とは思えないと感じることが僕にはある。

天皇陛下と並んで手をふるバッハさんの姿を見て、それとはまた違う意味で、ちょっと人間業とも思われないような気がした。(個人の感想です)

それで、驚いて、ネットを見ると、僕が見た範囲では、天皇陛下とバッハさんが並んで手を振ったことに関しては特になにか書いてあるサイトはなかったけれど、政治家が、天皇陛下の開会宣言を座ったまま聴いていてあわてて、立ち上がったとかそういうたぐいのことはいくつか書いてあるサイトがあった。

オリンピックも始まった以上は、前向きに受け止めていこうと思っていたけれど、なぜかそんな気持ちにも水をさされたような気分になってしまう。

外国から乗り込んできて、天皇陛下と並んで日本国民にそして世界に向かって手をふる人物がいらっしゃるとはちょっと信じがたいようにも思える。(個人の感想です)

過去のオリンピックの歴史をひもとくとIOCの会長は開会式で、国家元首と並んで、開催国の国民、そして、世界に向かって手をふる慣例になっているのだろうか。

もし、そうであるならば、世界の慣例ということで、まあやむを得ないこととは思うけれど。


もし、そうでなかったとすれば、旧約聖書の書き出しや、日本国憲法の条文の書き出しに大切なものをもってくるという発想、つまり、ものごとを構成するときに大切なことがらをまず最初に考えるという発想が欠如していたのではないかと思えてならない。(個人の感想です)

ちなみに、金光さんも家を建てるときは神棚の位置をまず最初に考えよ という主旨のことを言っておられる。

神は目に見えないものだから、トイレはどこ キッチンはどこ、リビングはどこ と言っているうちに、あれ?神棚の場所決めてなかった ということにもなりがちだ。

今回も、コロナ対策、感染を防ぐ、リスクはゼロ、などとそちらに気を取られているうちに、天皇陛下の扱い、ひいては天皇陛下の開会宣言の扱いということがついおろそかになったということであるかもしれない。(個人の想像です)

神 とか、象徴、とか、そういうものは、目に見えないものだから、目先の事柄に追われると、つい、おろそかになってしまいがちだけれど、本当に日本国憲法の「統合の象徴」という表現にも現れているように、そこがしっかりしていないと、人心がまとまらなくなってしまうことがありうると思う。

そういうことを、私達は、こういう機会に考え直してみるべきだと思う。

オリンピックに関しては、気を取り直して、引き続き心のなかで応援していく所存でいる。

それはともかく いちにち いちにち 無事で健康に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。





濃尾平野の風景

2021年07月23日 | 日記
木曽川沿いを自動車で走る。

長良川に比べると、木曽川は下流域でも岩肌が多く男性的だなと思う。

僕の祖母は僕と同じ岐阜県でも、木曽川の流域で育った、

嫌なことがあると祖母はよく「まあ、わっち(わたし)、木曽川へ飛び込んで死のかしら」言っていた。

僕の祖母が木曽川へ飛び込むというのは、一種の慣用句のような感じで、実際にそれで祖母が死ぬだろうという心配を僕は一度もしたことがない。

まあ、木曽川に飛び込んで死のうと口に出していっているうちは実際に飛び込むことはないだろうといつも思っていた。

清水の舞台から飛び降りると言っている人が実際に飛び降りることはないように、、、。(たぶん)

実際に祖母は90歳以上まで生きて、川には飛び込まずにまあ言えば普通のなくなり方をした。

ただ、祖母が、木曽川と言うたびに、祖母にとっては川の原風景=木曽川なんだろうなとなんとなく思っていた。


木曽川沿いの道を自動車で走っていると、木曽川ライン下りの船を上流に向かって運んでいくトラックとすれ違うことが多いけれど、今年は今までのところ一度もすれ違っていない。

ライン下りがなくなったのか、それとも、コロナで今年はしていないのか、ニュースをチェックしていないけれど、コロナでしていない可能性が高いように思う。(まあ、ネットで調べればわかることとは思うけれど、ちょっとそれをするのが面倒なので可能性が高いという言い方にしておこう)

今年は、コロナで鵜飼をしないので、鵜飼のショーで首をしめられることから開放された鵜がストレスフリーでたくさん魚を取ってくるという噂もあるらしい。(うわさなので真偽のほどは知らんけど)

ちょっと、今まで通ったことのない道をグルっと回って前方を見ると、木曽川の河畔にある、国宝のお城が見えてくる。

実家の近所のお城はなんと言っても岐阜城が僕にとっては一番見慣れた城だ。

金華山の断崖絶壁の上に立つ岐阜城は、岐阜の象徴の一つで見るとなんとも言えない気持ちになる。

しかし、木曽川河畔の城は、岐阜城よりもなだらかで小さい山の上に建っているし、やはり、国宝ということもあるのだろうけれど、姿になんとも言えない品(ひん)がある。

きっと、こういうのは、遠くから自然に溶け込んでいる姿をこうして眺めているのが案外 花なのだろうなと思うことがある。

もちろん近くに行ったら行ったでまた別の思いは湧いてくると思うけれど、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

高校野球も地方の予選を報じる新聞の記事を見ていると、ベストエイトくらいまで進んでいる県が多い、甲子園も近いなと思いつつも、大会は、無観客なのかどうなのかという思いも心に浮かんでくる。

コロナになってから、何を見るにつけても、感じ方が変わってきているなと思う。

オリンピックも始まるけれど、やると決まった以上は、あとになって、良かったなと思えるオリンピックであってほしいと思う。

世界記録のオンパレードや、誰が世界一強いのかを見るだけがオリンピックではない。

出場した選手がいか与えられた条件下でに全力で戦うか、またコロナと共存しながらどのように大会が運営されるか。そのようなことを考えながらオリンピックを眺めたいと思う。

まあ、僕の場合、普段から、野球は甲子園球場よりも藤井寺球場で見るほうが好き(藤井寺球場 
もうないけど、、、)、というタイプなので、ただ、ハイレベルの戦い、人気のある戦いに熱狂できなくでもそれはそれで、という考え方になりやすいというのは一つの事実ではあるけれど、、、。

それはともかく いちにちいちにち無事で健康に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。






オリンピック始まる

2021年07月22日 | 日記
ここ何日かアシナガバチが家の中に入ってくることが多い。

刺されたことあるし、刺されると痛いので、ハチが入ってくると必死になって殺虫剤で殺してしまう。

やはり、さす虫は苦手だなと思う。

・・・・・・・・・・・・・

新聞に見覚えのある風貌のおじいさんの顔が大きく出ていたのでどなたかと思ったらカール・ルイスさんだった。

60歳と出ていた。

もう、ルイスさん、そんな年齢になるのかと思う。

ロサンゼルス五輪の頃が懐かしいなと思う。

生年を見るとルイスさんが1961年で僕が1962年だからルイスさんが1歳僕より年上ということになる。

それは僕も歳を取るはずだと思う。

ルイスさんが何かの陸上大会に出られたときに、長嶋茂雄さんが「ヘイ カール」と陸上競技場でルイスさんに呼びかけたことを思い出す。

本当に長嶋さんもそういうところ天然というかすごいなと思う。

そして、結局、オリンピック始まるんだなと思う。

さて、そのルイスさん、読売新聞の取材に応じて東京オリンピックに関して、このように語っておられる。

「10年20年先もコロナは消滅しないでしょう。大会ではコロナと共生する方法を理解するため、何が最善かに焦点を当てる必要があると思います」と。

本当にルイスさんのおっしゃるとおりだなと思う。

始まると決まった以上は、やはり、そういう気持ちで大会を眺めていくこともとても大切なことであるように思う。

それはともかく いちにち いちにち健康で無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。