ケンのブログ

日々の雑感や日記

想像を絶するパワー 変革の時代

2020年11月23日 | 大相撲
大相撲11月場所は貴景勝優勝ということで幕を閉じた。

貴景勝が本割で照ノ富士に破れ、両者十三勝二敗の相星となり、優勝決定戦で今度は貴景勝が照ノ富士を破っての優勝決定ということだった。

本割の照ノ富士が勝った相撲。決まり手は浴びせ倒しということになっている。

しかし、ネットに出ている映像を見ると浴びせ倒しというよりは、照ノ富士が右で貴景勝の縦みつのさらに深いところをとって貴景勝の腰の動きを封じて左の腕力で強引にねじ伏せているように見える。

あんな、強烈な浴びせ倒しってちょっと今までに見た記憶がない。

ねじ伏せ、という決まり手はないけれど、実質的には照ノ富士が貴景勝を浴びせ倒すと言うよりはねじ伏せてしまっている感じだ。

貴景勝があのときどのくらいの力を身体に受けたかと思うとちょっとぞっとする。

僕は照ノ富士がどういう経緯で足を痛めたのか知らないけれど、素人の想像で言うと、あれだけ上体の力が想像を絶するほど強いと、そのパワーに下半身がついていかなくなって下半身の故障につながるということもあるのではないかと思ってしまう。

なんかいろんな意味である種の恐怖感を覚える。

優勝決定戦は、貴景勝が終始、照ノ富士との身体の距離を詰める形で押して、照ノ富士につけいるすきを与えなかった。

それもすごいと思う。

けれど、本割で照ノ富士が貴景勝をねじ伏せた相撲のパワーのほうが印象に残ってしまう。

これは決して貴景勝の優勝に水をさすつもりで書いているわけではない。

ただ、ちょっと、これだけのすごいパワーの相撲になると、見ていてちょっと怖いということが言いたかった。

貴景勝の体型もちょっと見には、トレーニングの機器を使ってつけた筋肉のようにも見える。

あれだけあんこ型の体型で、上半身がボディービルダーのように逆三角形になってしまっている体つきの力士って、そんなに見た記憶がない。

なくなった北の湖理事長が、ある対談で、私見ですが、と前置きしつつも、トレーニング機器で鍛えた筋肉は固くてけがにつながりやすい、だから僕は基本的には器具をもちいたトレーニングはしないという主旨のことを言っておられたような気がする。

パワーのある相撲をみせてもらって胸がスカッとすると言うよりも逆に怪我しないだろうかと見ていて怖くなってくる。

実際、今場所は上位陣けが人のオンパレードだし。

なんか、今の時代って相撲も、そして相撲以外のことも、今までの常識では考えられないことになっているなと思う。

例えば今日の新聞には、若いうちに卵子を冷凍保存して、子供を生みたくなったときに備える、という話が載っていた。

そういうのも一昔前には考えられないこと。

科学技術が進めば、またそれで選択肢が増えて、女性の悩みも増えるようにも思えてくる。

卵子を冷凍保存することによる遺伝子の変化などについてはまだ、十分な実証研究も進んでいないと言うし。

このコロナも、様々な判断が必ずしも科学的実証に基づいて行われているとは思えないところもあるし。

本当に様々な意味で、今は変革の時代なのだなと思う。








死んだつもりで生きる

2020年11月22日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説を読んでいると、主人公の次郎に関して次のような記述がある

“”
死んだつもりで生きろ とは、次郎がスイスの高原で、自分に言い聞かせたことである。しかし、日本に帰ってからややもすれば忘れがちであった。死んだつもりで生きる覚悟であったからこそ、この世に裨益する人間になろうとする悲願や、社会科学を研究する野望などをすてて、自分の喜びのために、せめて仰臥しなができる文学に精進しようと、考えたのだった。
中略
生きているだけで喜んでもらえる人になればいいのだ、それが、死んだつもりで生きるということだった、もう他に仕事など考えまい。そう決心した。“”

※次郎はスイスの高原で当時は日本では死の病と思われていた結核の療養をした。


ちょっと乱暴な要約の仕方かもしれないけれど、 死んだつもりで生きるとは、生きているだけで喜んでもらえる人になること。

そう考えると、これは究極の考え方だなと思う。

金光さんの言葉に、本当におかげを受けようと思えば、ままよという気持ちにならなければならない。ままよとは死んでもままよのことである。
というものがある。

芹沢光治良が書いている死んだつもりで生きる、ということと金光さんのままとは死んでもままよということ という言葉に類似点というか、ある意味での共通点があると思う。



演歌の第一人者

2020年11月21日 | 日記
昔の歌って、セリフの入った歌が結構多かった。

最も有名なものの一つは加山雄三の君といつまでも。

“”しあわせだなあ、 僕は君といるときが一番しあわせなんだ
僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ“”

とか、、、。

大阪でももっともディープな地域にあるカラオケ喫茶であるおばちゃんが
もう寅さんの啖呵売の口上のように、調子のいいセリフがいっぱい入っている歌を
歌っていた。

歌があるところにさしかかっとき、そのおばちゃんはカラオケのモニターの字幕を見ながら
「あれ、ここセリフのとこやったかなあ。歌のところやったかなあ。
わからんようになった」と言った。

気合を入れてセリフを語っているうちに気持ちが入りすぎて
歌とセリフの区別がつかなくなったという感じだ。

カラオケの字幕は歌のところとセリフのところでは自体が違う。

僕は字体を見て、「ここは歌のところですよ」と言った。

するとおばちゃんは、しばらく考えてそれからまた
きりのいいところから歌い始めた。

そして、歌はまた、長いセリフの部分に入った。

そこは細かい字でセリフがいっぱい出てくる。

おばちゃんはセリフに出てくる字幕が多すぎてついていけなくなってしまった。

セリフを二行くらい飛ばして読んで

「あかん、セリフが早すぎて、ついていかれへんようになったわ」
と言って、そこで歌が終わった。

こういうおばちゃんって僕、好きだなって思う。

失敗も多い代わりに、歌に勢いがあるので聴いていて気風が良くて心地よい。

おばちゃんが歌った歌の中の一曲に「赤いランプの終列車」という歌があった。

カラオケのモニターに出てくるクレジットを見ると春日八郎と出ている。

春日八郎は僕、「お富さん」一曲だけ知っている。

それでお富さんを僕の順番が来たときに歌ったらそのおばちゃんは体をスイングさせながら聴いてくださった。

お富さん 赤いランプの終列車の二曲を並べてイメージして、いやあ、今まであまり気づかなかったけれど、春日八郎ってなかなかいいなと思った。

それでちょっとウィキペディアで調べてみると
藤山一郎に憧れて歌手になったとのこと。

そして春日八郎に続く形で、村田英雄、三波春夫、都はるみ、北島三郎などが出てきて、美空ひばりも演歌を積極的に歌うようになったため、春日八郎を演歌の第一人者と見る向きも多いというようなことが書いてある。

そう言われればそうだなと思う。





コロナのジレンマ

2020年11月18日 | 日記
僕がよく行くマクドナルトは夏場は座席はソーシャルディスタンスということで、この座席には座らないでくださいという張り紙がしてある座席がかなりあった。

秋口になってそういう座席をあまり見かけなくなり、だんだんお店の方針も変わってきたのかなと思った。

特に若者はもう秋には街に繰り出すようになり、あまりソーシャルディスタンスを厳密にしすぎると席にあふれる人がかなり多く出て混乱をきたすということもあったのだと思う。

まあ、僕は座席が余裕を持って使えることはありがたいことと個人的には受け止めていた。

ところが数日前、マクドの座席で新聞を読んでいて、この寒さは一体何なんだと思った。

寒いのは僕だけかと思ってみると、周りの人も店の中でコートを着たりしている。

やはり寒いのは僕だけではないのかと思った。

換気をしているせいなのだろう。

僕がいた場所からはどこの窓が空いているかまでは確認できなかったけれど。

マクドで爽健美茶Sサイズ100円で長時間新聞を読んだりするのはさすがに気が引けるのでMサイズ200円を注文するようにしている。

でも寒くてとても爽健美茶を最後まで飲むことはできなかった。

中身の半分くらいを帰りに所定のタンクに放してしまった。

まあ爽健美茶の200円は座席を利用させてもらう値段と思っているのでそれで特に損をしたとは思わないけれど。

寒いのはマクドだけではない。

電車も窓を開けて走っている。

昼間はまだいいけれど、この時期、日が暮れて冷え込んできてから電車が窓を開けて走るとかなり体にこたえることがある。

僕は外気が寒いのはそれほど気にならない。外では割とさっさと歩く方なので歩いているうちに体が温まってくるからだ。

しかし、電車の中でじっとしていて、窓から強烈に冷たい風が入ってくるのは体にこたえる。

窓から入る冷たい外気は扇風機の風と同じで身体のすべての部分に均等に当たるのではなく、身体の特定の部位に集中的に当たることが多い。

僕は体質的に、この身体の特定の部位に冷気が当たるというのが苦手でしゃっくりが出てきてしまう。

コロナ対策で窓を開けて電車が走って、体調に変調をきたして、風邪でも引いたら、抵抗力がおちてコロナに感染する可能性はたかまるのではないのか。

本当にコロナだけでなく人の健康全体をトータルで考えて最大多数の最大幸福のためになにをしたらいいのか、ということに対して、どうやら現在の科学は答えを与えてくれていないように思う。

老人ホームなどでもコロナ対策と言って、家族との面会をなしにしたら、それで孤独感を覚えて体や心の不調をきたす人は逆に増えたというような記事も新聞に載っているし、、、。

今日の新聞にも、これから年末にかけてかきいれどきの飲食店の悩みとして
窓を開けっばなしは寒い。
高機能な換気設備は価格が高い
というジレンマに悩むお店が多いと出ている。

本当に自粛、自粛と言い過ぎると経済がだめになってしまう。

全日空は例年3000程度採用するところを来年度は200人に減らす予定と新聞に出ている。

本当にコロナも怖いけれど、経済の落ち込みもそれ以上に怖いようにも思える。

新聞にはオバマ前大統領の回顧録が出版されたと出ている。

その中でオバマさんは
日本を訪れたとき彼が天皇 皇后両陛下に深々と頭を下げたことが米国内で大きな物議を醸し出したが、オバマさんは「米国の右派が恐れや不安から正気を失った」などど記し、批判は不適切だとの考えを示したと出ている。

本当に恐れ、不安が人間の考えをあらぬ方向に導いてしまうことはよくあることで私達が心にいましめとして、常に自分に言い聞かせるべきことと思う。

僕は立冬をすぎるとクリスマスソングが恋しくなる。

クリスマスソングの中でも名曲中の名曲と言って差し支えないジョンレノンの
ハッピークリスマスのサビの歌詞はこんなふうになっている。

A very merry christmas
and a happy new year.

Let’s hope it’s a good one
without any fear.

“”メリークリスマス、そして良い年を。
それが恐れのないものであることを願おう。“”

本当に恐れのないものでありますようにと僕も願わずにはいられない。

そして恐れというのは、客観的な根拠から発生するものではなく、むしろ主観的な思い込みから生まれることが多いということを私達は心にとどめておくべきだと思う。

ジョンレノンのハッピークリスマス 女性による素晴らしいカバーです。



人出もふえたけれど

2020年11月16日 | 日記
コロナの第三波ということが言われているけれど、京都の繁華街はすれ違うのもままならないほど多くの人が歩いている。

もう、感染者が何人とか言われても、ある程度みんなそういうのになれてきて、驚かなくなっているというのもあるのだろう。

何人感染したという数字はよく出るけれど。何人死亡したという数字はそんなに出ないし。

特に若い人は気にしてなさそうに見える人が多い。

電車で「車内での会話はなるべくお控えください」というアナウンスが流れると、車内での会話に苦情を言っていく人がいるんだろうな、とむしろそちらの方に気持ちが行ってしまう。

感染者が多いのは、検査の数も増えて、感染者数の掘り起こしが進んでいるからということも新聞に書いてあるし、4月ころに比べると感染者数に占める重症者の割合も5%程度から1%くらいに下がっているという新聞の記事も何日か前に読んだ記憶がある。

新聞の経済欄を読んでいると、ボーナスはカット、希望退職の募集、地方銀行の経営統合を政府が後押し、閉店に追い込まれるお店が続出、もうコロナのニュースよりもそういうニュースのほうがむしろ怖いという状況になってきているように思う。

仕切りの板のいっぱいある、牛丼チェーンのカウンター。仕切り越しに隣のおじさんの前にある生姜のポットに手を伸ばしたら、ポットの前においてある爪楊枝の入れ物が倒れたり、、、。

おじさんも僕も、この仕切りさえなければこんな気を使うこともないのに、という感じになっている。

仕切りに手がつかえて、爪楊枝の入れ物が倒れれば、その方が不潔なようにも思えるし。

もし仕切りに、ウィルスがついていたら、仕切りがあるがゆえに接触感染になってしまったということになりかねない。

ビニールの垂れ幕が垂れ下がった、いろんなお店のレジ。

店員の方の声は聞き取りにくい、ビニールの垂れ幕が邪魔で小銭が扱いにくい。

もしビニールにウイルスがついていてそれに触ったら接触感染の可能性は高くなってしまう。

ビニールの垂れ幕で換気が悪くなるようにも思えるし。

いちいちコインをトレーの上に乗せるから、勘定に時間がかかり、レジに列ができてしまう。

その列もソーシャルディスタンスと言っているから、通常の場合の2倍、3倍の長さになってしまう。

並ぶ間隔が中途半端だから、列に並んでいる人なのか、列の間で商品を見ている人なのか判然としないことも多い。

冬なのに窓をあけて走る電車。

外を歩いているときよりも電車に乗ったときのほうが寒い冬って今までに経験したことがない。

しかし、これだけ街に人があふれていても、なぜか人が入っていない飲食店も多い。

このカオスのような状態。

いつまで続くのか。

しかし諸行無常。同じコロナの人数が増えていると言っても人の振る舞いは5月くらいの頃と今では違う。

なるようになっていくのだと思うけれど、すこしでも良い方向に行ってほしいものだと願う。