快気分析

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仕組みとアプローチ -   山崎の戦いの謎 明智光秀は何故ハシゴを外されたのか その4

2019-05-23 19:28:18 | 明智光秀
 前回記事の続きになります。
 本能寺の変の後に明智光秀は朝廷から征夷大将軍に任命されるのですが、では光秀がどうして征夷大将軍になる必用が有ったのかと言う疑問になるかと思います。
 これですが、おそらくと言う個人的な見方に過ぎませんが明智光秀は一度短期間であれ征夷大将軍となってとりあえず時間稼ぎをし、その後に足利義昭を上洛させ征夷大将軍に戻るまでの仮将軍となるつもりだったのではないでしょうか。
 当時の状況を考えると、主君である信長を討ったと言うレッテルを想定外に貼られてしまった明智光秀にはそれ以外に選択肢が無かったのだと思われます。
 何故そうした選択肢しか無かったのか? ですがそれはやはりそこまで突然追い込まれたとしか言いようが有りません。
 それが何を意味するのかと言うと、やはり当時に於いて信長の信頼が厚い明智光秀が仮に何か信長襲撃らしきものが発生すればそれは警護隊長である明智光秀のペナルティであるか、或いは明智光秀が信長襲撃犯に加担しているとしか解釈されないわけでそうなると警護隊長として光秀には責任追及だけでなく更には襲撃グループとの共謀関係などの疑惑とがその後に激増するわけで、仮に光秀が襲撃犯でなくても明智方にはもう反織田で突き進むしか選択肢が無くなって来る事となります。
 それでトリガーとなる本能寺の信長の襲撃を誰かが偽装してでも強行してしまえば、その後は明智方はもう主君で有る信長を討った逆臣と言うレッテルを貼られるわけでその場合に唯一つだけ助かる命綱は足利幕府将軍である足利義昭の擁立しか無い、となります。
 従って足利義昭の上洛阻止をできる武将グループが全てを支配できるわけで秀吉や毛利氏にとってこんなウマイ話は有りません。 

仕組みとアプローチ -   山崎の戦いの謎 明智光秀は何故ハシゴを外されたのか その3

2019-05-23 12:45:35 | 明智光秀
 以前の記事で書いたのですが、毛利氏は足利義昭を手放すわけはないし。秀吉も足利義昭が上洛し明智光秀と合流する事は徹底的に阻止するはずです。
 その為には秀吉や毛利氏の手先が必ず足利義昭の側近にいたはずであるわけですがそうすると矛盾となる古文書をどのように解釈するべきか?と言う問題になります。
 この古文書とは以前にも記事で通りですがもう一度引用しますと次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://www.sankei.com/west/news/170912/wst1709120014-n1.html

書状原本発見で「動機」めぐり議論白熱-光秀の単独謀反否定、義昭黒幕説に疑問も

 天下統一目前の織田信長を殺害し、激動の渦中にいた武将、明智光秀が室町幕府の再興を図っていたことを示す新史料が発見された。調査に当たる三重大の藤田達生(たつお)教授(日本史学)は「素直に読めば、光秀が自ら天下人になろうとした単独謀反説は成立しない」と解説するが、室町幕府再興の事前計画説には専門家からは疑問の声も上がっている。

 光秀の書状「土橋重治(しげはる)宛光秀書状」が書かれたのは天正10(1582)年6月12日。淀城(京都市伏見区)周辺にいた光秀が、反信長派の雑賀(さいか)衆リーダー・土橋重治から受け取った密書への返信と推察される。藤田教授らが今年5月から調査し、花押や筆跡が一致したため光秀の書状と判断した。

 室町幕府最後(第15代)の将軍の座を追われた足利義昭は当時、鞆(とも)(広島県福山市)にいた。書状は味方の情勢などを伝えた後、「詳細は上意(義昭)からご命じになられるとのことです。(私からは)申し上げられません」と結ばれている。

 藤田教授は「分をわきまえた光秀らしさがにじみでている」と書状の印象を述べ、「(信長に追放された)天正元(1573)年をもって室町幕府滅亡とされるが、書状は幕府の権威が健在だった事実を突きつけている」とも話す。

 大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長も「戦国時代に入ると、足利将軍が京都を追われることはよくあった。本能寺の変まで、義昭、信長の2つの公儀が併存していたのは確かだ」と同意する。

 これに対し、天理大の天野忠幸准教授(戦国時代史)は、「義昭は信長に追われ、毛利氏に庇護(ひご)されていたが、反信長派大名などに幕府再興を働きかけていた。光秀は義昭に仕えた時期もあり、義昭を戴(いただ)く政権をつくることに最後の希望をかけたのだろう。ただ、義昭が変の黒幕だったとまでは言えないのではないか」と疑問を投げかける。

 また本能寺の変に関する著書がある歴史学者、藤本正行氏も「義昭が光秀と連絡を取るために重治を使う必要があったことを示す書状でしかなく、光秀の孤立無援を印象づけている。『義昭黒幕説』など成り立たない」と否定する。

引用終了

 様々な見方が有りどれが真相かはわかりませんが、個人的には次のように2通り考えています。
 一つは明智光秀は足利義昭からの連絡など無かったのにあたかも足利義昭と連絡が既に取れていて足利幕府復活を暗示するような宣伝工作の書状を送り明智方に加勢する武将を増やそうとしたのではないか、と言う事。
 この場合だとおそらく土橋重治以外には実は多くの武将や織田勢力に大量に送りつけていたのだろうと思われます。
 もう一つは実際に足利義昭から明智光秀に連絡が有った・・・・・がしかしそもそも密書を鞆から畿内に届けるにはまず毛利氏や秀吉らの監視をすり抜けなければならずそれは当時困難だったと考えられます。
 とするとどう言う事になるのか?
 個人的な見方に過ぎませんがおそらく「足利義昭が明智光秀に上洛と連携をとる連絡を秀吉と毛利氏がわざと泳がせて放置した、か或いは毛利氏が後押しして連絡をさせた」と言う事ではないでしょうか?
 では何故そうするのか?
 この前提ならば答えは明白です。
 それはこうです。毛利氏と秀吉は共謀して足利義昭が明智方となるように光秀に思い込ませ戦いに誘い出した後、実際にはそうさせずにハシゴを外してしまえば山崎の戦いのように確実に明智方に楽勝できるはず。
 では毛利氏は何故明智方に足利義昭を急遽送らなかったのでしょうか?
 それは毛利氏にとって秀吉に加勢するのが得か、明智光秀に加勢するのが得か、を考えて見れば簡単だと思います。
 仮に毛利氏が明智光秀に加勢する為に足利義昭を上洛させても室町幕府が復活しその筆頭家臣は明智光秀らになるわけで、毛利氏は上杉氏、徳川氏、長宗我部氏、北条氏、その他などと同等程度に扱われるに過ぎません。
 ならば秀吉と裏で早い内に結託してしまった方が得な事になります。
 そして毛利氏にとっては人質と同じ役割を持っていた足利義昭を手放してしまうと切り札を失ってしまうのと同じと言う点も有り、そこまで明智光秀らの明智方を信用はしていなかったでしょう。
 ましてや明智光秀は斉藤利三を通じて長宗我部氏と関係が深くいわけで、その長宗我部氏は毛利氏とは仲が良いとは言えません。
 これらの事象から考えれば毛利氏は秀吉と結託し、かつ足利義昭を手放さない方法が選択されたはずです。
 以上、大きく分けてこの二つが明智光秀から土橋重治へ宛てた書状の解釈と考えています。
 特に後者の方であればと言う仮定での話ですが、山崎の戦いに至る過程で明智光秀のハシゴを外したのは毛利氏か、或いは毛利氏と共謀していた秀吉と言う事になると考えています。