快気分析

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仕組みとアプローチ -   十勝岳における地震計のRMS振幅データに異変か

2019-05-08 22:40:44 | 地震 津波
 暫く自然災害関連の記事を書かなかったのですが、今日はVIVAのサイトで地震計のRMS振幅データを見ていたら十勝岳のグラフが見た事も無い(更に調べ直さないと全く初めてかどうかは判りませんが)ようなものになっていました。

引用開始(一部抜粋)

http://vivaweb2.bosai.go.jp/viva/v_datalist_toka.html
VIVAトップページ>十勝岳観測データ

引用終了

 画像は直接御覧下さい。
 今月4日以降に始まったTKOVとTKKVの乖離が翌日以降に大きなものとなりこの観測点の通常の乖離のレベルでは有りません。
 単に計測装置の誤差拡大なのか? それとも誤差は特に無く本当に2点間の乖離が大きくなっているのでしょうか。
 一方で国内の地震ですが今月4日以降、有感地震となったものは次の通りです。

                            Mj  最大震度
2019年5月8日 18時02分ごろ 熊本県熊本地方     2.0 2
2019年5月8日 9時22分ごろ 青森県東方沖     4.3 1
2019年5月8日 9時20分ごろ 岩手県沖     4.4 4
2019年5月8日 8時24分ごろ 宮古島近海     3.9 2
2019年5月8日 2時59分ごろ 択捉島南東沖     4.8 1
2019年5月7日 22時22分ごろ 宮城県沖     4.0 2
2019年5月7日 21時06分ごろ 岩手県沖     3.5 1
2019年5月7日 12時30分ごろ 熊本県熊本地方     3.0 2
2019年5月6日 19時12分ごろ 紀伊水道     3.1 2
2019年5月6日 14時13分ごろ 宮城県沖     3.8 2
2019年5月6日 10時26分ごろ 熊本県天草・芦北地方 2.4 1
2019年5月6日 9時50分ごろ 滋賀県南部     2.9 1
2019年5月5日 20時51分ごろ 茨城県北部     2.9 1
2019年5月5日 16時38分ごろ 佐渡付近     3.7 2
2019年5月5日 4時51分ごろ 宮城県沖     4.5 2
2019年5月5日 1時40分ごろ 根室半島南東沖     5.3 4
2019年5月5日 0時45分ごろ 熊本県熊本地方     2.6 1
2019年5月4日 21時35分ごろ 胆振地方中東部     4.2 2
2019年5月4日 11時41分ごろ 宮城県沖     4.4 3
2019年5月4日 9時19分ごろ 岩手県沖     4.3 2
2019年5月2日 16時15分ごろ 熊本県天草・芦北地方 2.1 1

引用終了

 最近、特に今月4日以降は東北地方北部、北海道、千島列島と各その沖でやや目立つ地震が増えているのと、国内の有感地震でこのエリアの目立つ地震の比率が増えているのは十勝岳の上記データと関連性があるのでしょうか。
 東北地方北部とその沖は東日本大震災の震源域の北側隣接域、そして北海道、千島列島は以前に記事にした通り、あの震源が深い、Hi-netで確認できる青か濃い緑の地震多発帯に近接したエリアでもあります。
 目立つ地震が多いと言うのは大地震の前触れなのか? それとも中小地震多発で歪(ストレス)が小まめに解消されているのでかえって安全なのか?と言うのは現時点では判りません。
 ただ台湾、グアムを含むこのエリアから北、千島列島を含むこのエリアから南の環太平洋西側では2016年4月の熊本地震を最後にその後3年以上もMw7以上の地震について空白期が続いており、大地震多発地域である割には空白期が既に長いものとなっています。

 

 


仕組みとアプローチ -   本能寺の変と山崎の戦いの謎 織田長益(有楽斎)らが生き残った事が意味する可能性

2019-05-08 08:16:30 | 明智光秀
 前回の記事で利休七哲と評されるグループのメンバーについて書きましたが、この時の引用資料には利休十哲と評されるグループも有り、その中に織田長益(有楽斎)も入っています。
 そしてこの織田長益は信長の兄弟であり、しかも本能寺の変の時に織田信忠と二条御所にいたはずのに、織田長益自身は何故か城を脱出出来ました。
 通常ではこれは考えられないのですが、やはり利休十哲に入る位に千利休の高弟だったグループに入っていたからではないでしょうか。
 そしてキリシタン武将であった大友宗麟の下、博多の豪商でありかつ茶人であった神屋宗湛と島井宗室も本能寺に信長と宿泊していて無事に本能寺から脱出できています。
 これらの事象と前回などの記事を合わせるとわかって来るのですが、本能寺の変でも、そして山崎の戦いでも弥助、高山右近、中川清秀、細川藤孝・忠興父子、更には明智方として戦った京極高次もでも含めて典型的なキリシタン武将(つまりイエズス会と関連が深い)か千利休の高弟だったグループやその近縁者から一人も死亡者が出ていない事がわかります。
 こんな事はイエズス会や千利休のコントロールが効いてなければ通常は有り得ないと思うのですが真相は果たしてどうだったのでしょうか。