快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  武田軍の惨敗と長篠の戦い 結局は織田勢の部隊が見えて無かった情報戦の敗北

2023-06-30 19:04:00 | 家康
 主旨はサブタイトルの通りです。
 当時の武田勝頼は信長が大部隊で出陣したとの情報はわかっていても未だ到着しているかどかがわかっておらず、「もしかしてもうすぐ到着すると言う程度なのでその前に徳川勢8000なら叩けるじゃん、早い内に叩いちゃおう」と言う「賭け」をしちゃったんじゃないでしょうか。
 馬場信春と山県昌景の両翼分散配置での攻撃などから見受けられる戦闘記録からはそう考えざるを得ません。
 まあ結果は織田勢はとっくに到着していながらも武田勢にはその姿を見せないような配置などの「ダマシ」に武田軍が引っかかったわけです。
 織田勢が陣取る森林に何故、武田側の諜報員がいなかったのでしょうね。
 そんな程度の情報収集ではやはり「即日決着で負け」となるのも無理はありません。

仕組みとアプローチ -  酒井忠次と長篠の戦い

2023-06-30 18:36:18 | 家康
 長篠の戦いでは酒井忠次の案で鳶の巣山などの武田軍の砦を奇襲したのが成功して織田・徳川勢が圧勝できたのですが、これって「情報戦で明らかに武田勢が手薄だった」、と言う事でも有ると思うのです。
 酒井忠次を指揮官とする織田・徳川勢の言わば「中入り部隊」が鳶の巣山などの武田軍の砦を奇襲するルートに、「何で武田勢の見張り部隊がいない」とわかっていたのでしょうか。
 仮に武田方の見張りがいて織田・徳川勢の部隊がやって来たとわかったなら、当然、旗などの合図、のろしによる合図、それが無理でも鉄砲の発射による合図などで「武田勢に危機を知らせる通信手段が有ったはず」です。
 ところがそうした記録は残っていません。
 つまり酒井忠次の「中入り部隊」案は既にそのルートには武田勢がいない、いても通報手段を持っていない事を知っていたから実行できた、と言う事ではないでしょうか。
 当時の武田勢は進軍側(つまりアウェイ)、迎え撃つ徳川勢は迎撃側(つまりイン)、と言う事で元々自領地内の森林に見張りを多数配置して武田勢の情報網でどこが弱点かがわかっていたからこその成せるワザだった、と考えていますがどうでしょう。
 ところで長篠の戦いですが、の信長が即日勝利した「桶狭間の戦い」と似ている面が有ると思っています。
 それは「囮と正面攻撃を兼ねた正面部隊」と「敵方には知られずに森林などの見つからないようなルートから奇襲する中入り部隊」をうまく使いこなしている点です。
 いずれにしても「現地の森林でどこに諜報員や守備兵がいるかなどのデータ」が無ければ成功はしないはずです。

仕組みとアプローチ -  孟宗竹と竹束 「竹束の補給戦」と「長篠の戦い」

2023-06-30 17:55:54 | 家康
 これまでの記事で書いた通りで、孟宗竹は少なくとも17世紀までは殆ど日本に存在していませんでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%81%E3%82%AF

モウソウチク(孟宗竹)はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種。種名は冬に母のために寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。
(中略)
日本国内への移入
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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "モウソウチク" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年5月)
日本では北海道から南西諸島まで広く分布する[2]。北限は函館市とされている[1]。

日本への移入時期は1728年、1736年など諸説ある[1]。

801年(延暦20年)、京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った、また1228年(安貞2年)に曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、など諸説あるが全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると元文元年3月に島津吉貴が、琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入し、元文3年に帰国すると吉貴のいる仙巌園に孟宗竹を献上したという。

引用終了

 と言う事で僅かには国内に有ったのかもしれないものの、竹束に利用する程は殆ど無かったと言う感じもします。
 ですが、もしかしたら戦国武将の中にはこの孟宗竹の銃弾防御機能、特に大鉄砲、大筒などに対する防御機能に目をつけてどこかで繁殖させていた可能性もゼロではありません。
 こんな状況だったわけですが、当時は城攻めや野戦などが頻繁に起きていた状況からすると、竹束の需要はかなり有ったはずと考えられます。
 また当時ならば真竹やハチクなどのタケノコもかなりの食糧だったはずなので、竹束にできるまで生育し固くなったものはそう多くなかった可能性はあるとも思えます。(タケノコと言うと孟宗竹の大きなタケノコをイメージしますが真竹などのタケノコは細いものの採りやすくてしかも結構美味しいんです)。
 武田軍が敵地に侵攻し、ましてや長篠の戦いでは長篠城と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので、そう言う竹の確保があまり十分ではなく、一方で迎撃する側の織田・徳川勢の方は自分の領地などで多くの竹林の位置や竹の質や量についてのデータが十分にあり、その補給路も確保していたはずで、性能の良い竹束の補給戦ではどう考えても織田・徳川勢の方が有利だったと考えています。
 「竹束の補給戦」と言う観点でも織田・徳川勢の方が有利だったはずなのは言うまでも有りません。

20230630 17:55 追記 一部訂正
 本文にやや言葉足らずの部分が有りました。
 特に常識的に知られている事に過ぎませんが「ましてや長篠の戦いでは長篠城と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので」は正確には「ましてや長篠の戦いでは長篠城周辺の武田軍の砦である鳶ヶ巣山などの各砦と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので」に訂正です。


仕組みとアプローチ -  竹束と長篠の戦い

2023-06-25 13:37:41 | 家康
 何故か長篠の戦いの合戦絵図等で殆んど描かれていない竹束の謎ですが、更に追跡してみたいと思います。
 もう一度、竹束とは

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F

竹束(たけたば)は、日本の盾の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって、形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。
(中略)
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。
大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。またそれらは兵が持って使用する他に、木の盾の前面に並べて立てかけるものや、それに車輪をつけて移動できるようにしたものがあった[1]。この他にも、九鬼水軍が囲船(かこいぶね)に大量の竹束で船壁や屋根を覆って、軍船の防弾を高めるのに利用した[2][3]。
防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。

他の使用方法として、攻め入りやすいように、通路状に竹束を配置し、これを「竹束道( - みち)」といった[4]。この使用法の場合、車輪付き大盾と比べ、攻め入るのに大量の竹束が必要となる上に、移動範囲も限定されるため、火攻めに会う危険性がある。

引用終了

 と言う事で「火攻めに弱いケースも有る」と言う点については「青竹は燃えにくい」と以前の記事で書きました。
 ただ青竹については「孟宗竹が未だ無かった16世紀や17世紀では真竹や破竹などで強度が十分な青竹なんてそう多くなかったかも知れない」と言う点と、もう一つ、青竹でも火攻めに遭った場合に問題となる事が有ります。
 それは「竹はそのまま火で熱せられたり燃やされると中の空気が膨張して破裂する」と言う点です。
 なので例え青竹であっても何の対策もしていなければ破裂(大した爆発ではないものの死傷事故につながるような危険なケースも有ります)する可能性も高いわけで、やはりそのままでは火攻めには使いにくいと思われます。
 但し対策としておそらく当時でも考えられて実行されていたであろう事はと言うと「竹の各節々に小穴を開けて空気を逃がす」と言う事かと思われます。
 小さな穴程度なら竹束の強度に殆ど影響はないわけで、こうした事も当時では軍事技術として重宝されたのではないか、と考えています。
 では「ドリルなど無かった当時にどうやって小さな穴を開けたのか?」と言う点については当時でも「キリ」程度は有ったはずなのでそう困難は事ではなかったでしょう。ただ時間は結構かかったかも知れません。
 いずれにしても長篠の戦いでは長篠城を攻めていた武田軍に対し、守備する奥平勢が大鉄砲も使って反撃していたと言う事実が有るのなら、武田軍はそれを想定して「対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された」とある通りで、大筒までとは行かなくてもかなり大き目の竹束を使って進撃しないといけなくなったとすれば、本来なら竹束は盾のように歩兵らを守るような使い方をしないといけないのが、武田軍が馬防柵で大き目の竹束をくぐらせる時には短時間であってもそれが出来ずに、竹束に守られなくなるわけで、その一瞬を織田・徳川勢が鉄砲や弓、槍などで狙い集中攻撃した、と言う状況だったように思えます。
 

仕組みとアプローチ -  武田信玄の家臣が発明した竹束 そしてその武田軍が大敗した長篠の戦い

2023-06-25 10:38:45 | 家康
 竹束は長篠の戦いの時には既に武田軍でかなり使われていたはずなのは明らかだと考えていますが、この戦いについて火縄銃の数とか武田騎馬隊とか或いは馬防柵ばかりが分析テーマとして採り上げられ、何故か竹束についての総数や使われ方について着目した論議は殆ど見当たりません。
 当ブログの今月記事 

仕組みとアプローチ -  続編 不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」
2023/06/18 19:28:3

仕組みとアプローチ -  不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」
2023/06/18 19:15:12

 で書いた通りで本当は竹束が武田勢、織田徳川勢で果たしてどの位使われて鉄砲から防御していたのかと言うのは重要なテーマと考えています。
 ところでその竹束ですが、当時は通常の火縄銃を想定して作られていた為、長篠城攻めで城を守る奥平勢が使ったと言われる「大鉄砲」には通用しない事がわかり、急遽その対策として竹束の改造がなされた可能性が有るかと思われます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

長篠の戦い
(中略)
長篠城攻城戦
1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻に何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。

引用終了

 難攻不落の長篠城と言えどもやはり大鉄砲が従来の竹束では対応できないものだった可能性は高いでしょう。
 この大鉄砲を当然ながら徳川勢が使っている可能性について武田軍側は考えていたはずなので、そうすると竹束の改造型を作成したりとかしなければなりません。
 ところがその竹ですが当時の森林にどれだけ有ったのでしょうか?
 もしかしてと言う程度ですが、竹束に適した太さ等の竹は案外「品薄状態」だったかも知れません。
 何故かと言うと長篠の戦いは天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)と言う事で、去年以前に生育した竹は既に使われてしまっていた可能性が高く、またその年に生えて来た竹は7月初旬では青竹で未だ柔らかく鉄砲の弾を十分に防ぐ事など出来ません。
 私はこの6月にタケノコが更に伸びた1~数メートルのものをよく伐採しますが、直径4cm前後のものでも塩ビ管とかを切るパイプソーで簡単に切れてしまいます。
 こんなのではとても竹束として使うのは無理ですから、武田軍がどうやって竹束に適した竹を確保できたのか?地元でもない武田軍はアウェイである長篠周辺では強度の十分なものを、もしかしたら十分に確保できていなかったのではないか?と言う見方もしています。
 真相がどうだったのかはまだわかっていませんが、少なくとも長篠の戦いの合戦絵図等で主な装備であるはずの竹束が殆ど描かれていない、と言うのはやはり何かあるのだと思っています。