快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

自然災害 仕組みとアプローチ -  南海トラフ地震 相模トラフ大地震抜きで二度連続発生に見えてしまうカラクリ

2016-10-31 19:59:01 | 地震 津波
 1495年 鎌倉大仏殿が津波で破壊された言われている相模トラフ地震の後には、その後に特に大きな相模トラフが地震が発生していないにもかかわらず、後には1498年の明応地震、そして1605年の慶長地震と言う南海トラフ大地震と言われるものが二度連続して発生しているように筆者には見えたので、追跡サーチして見ました。
 そしてわかったのは次の通りでした。 

引用開始(一部抜粋)

http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/daidai/h15seika-hokokusho/honbun/3.3.2.2(pp376-397).pdf#search=%271590%E5%B9%B4++%E5%AE%89%E6%88%BF+%E5%9C%B0%E9%9C%87++%E9%9A%86%E8%B5%B7%27
3.元禄地震よりひとつ前の地震隆起イベントについて
貝化石の暦年代と離水ベンチの分析から、西暦 1600 年頃に約 2m の海岸隆起を伴う地震が発生した可
能性が高まった。この隆起量は、元禄型地震時のそれ(5〜6m)よりも有意に小さく、最新イベントとし
て知られる大正地震時の隆起量(1)など,平磯で 1.6m ほど)とほぼ等しいので、その地震は大正型地震
に相当するものと判断される。もし、これだけの地変があったとすれば、時代的背景から見てもその記
録は古文書等に残されているはずである。8)によれば、
1590 年(天正 18 年)2 月 16
日に関東諸国を揺
るがす大地震が発生したらしい。その出典である「関八州古戦録」には、
「諸国大地震、安房上総で激し
く・・・・、
汐にわかに退き 30 余丁干潟となる」と記されている。この場合の諸国とは、関東諸国を指
しており、千葉県南部で激しく揺れて海岸線が約 3km 引いて干潟が出現したことが記されている。3km
の干潟が現れるためには、海面は相対的に数 m は低下する必要がある。もし、この現象が、南房総一帯
に現れた現象であるならば、地震に伴い海岸部が数 m ほど隆起したことを示している。その時期と隆起
量からみて、平磯地区で見出された 1600 年頃の隆起イベントは、この
1590
年の関東大地震であったと
考えることができる。しかし、9)は、この地震を史実としての記録がそれのみなので「疑わし」と再判
定し、1605
年の東南海の津波地震の可能性も指摘しており、再検討の予知がある

引用終了

これともう一つ

引用開始(一部抜粋)

http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1601(慶長 6)年
  6月14日 地震あり。(義演准后日記)
 12月16日 上総・安房で大地震、山崩れあり。海が干上がった後、明日大津波あり。人畜死亡多数。
        (房総治乱記)(武江年表)

引用終了

 これらの事から、1590年と1601年に相模トラフ地震、それも元禄地震に近いような相模トラフエリアでの比較的大きな地震だったように判断されます。
 そして導き出せる結論は、「相模トラフ大地震は一発の巨大地震ではなく、1590年と1601年の二度に回数分散化された相模トラフ大地震としてストレスを発散されていた」と言う事、そしてその中でも特に1590年の方は地震による被害は殆ど無く、津波地震だった、と言う事ではないでしょうか。
 規模にもよるので、前回のストレス発散残りの大きくないマグニチュードの地震で次回発散されると言う可能性もゼロではなく、「南海トラフ地震の二度連続が全く無い」とは言いませんが、「南海トラフ地震が発生した後には、それが二度連続するよりも、その後は相模トラフの地震が発生する可能性を考えるべき」と言う基本的な考えは、これに近い事を以前にも当ブログで記事の中に既に書いた通りです。
  「模トラフ地震規模二期分散化の可能性」が筆者の結論です。

自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 豊臣方の敗因 フィリピンおける情報収集の欠如

2016-10-30 17:18:34 | 地震 津波
 大坂の陣の前半である冬の陣で長距離のガルバリン砲を持っている事で戦闘に望んだと言う事がネタバレした家康が、豊臣がこれを利用しないうちに早急に戦闘の終結を急いだというのが夏の陣の一面と筆者は見るわけですが、ではその家康がどう言う経緯で当時としては高性能な大砲を手に入れたのか? についてもう少し記事にしたいと思います。
 イギリスやオランダから射程距離の長いガルバリン砲やせーカー砲を購入した経緯には、確かにウィリアム・アダムス(三浦安針)やヤン・ヨーステン(耶楊子こと)が少なからず関わっていたのは確かなようですが、それだけではない、と筆者は見ています。
 オランダがフィリピンを攻撃したのが1610年からというのを調べた事は以前の記事で書きましたが、更によく調べると、それよりもかなり前から攻撃は始まっているのがわかりました。
 この件を含むフィリピンの状況は次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/timeline.html
1578.03.?? イギリスのフランシス・ドレイク船隊、ガレオン船を襲う。このあと、私掠船による攻撃が相次ぐ。 ZAIDE1,P.336.
1578.06.?? スペイン、ホロ島攻撃。モロ族(ムスリム系マレー人)征服戦争はじまる。 ZAIDE1,P.308.
1581.??.?? マニラに最初の中国人居住区(パリアン)。 ZAIDE1,P.278.
1582.??.?? フェリペ2世の命により、フィリピンからモルッカ諸島征服隊が送られる。オランダとのモルッカ諸島争奪が始まる。 ZAIDE1,P.229.
1584.06.15 王立アウディエンシア(最高司法院)開設。 ZAIDE1,P.166.
1585.??.?? パンパンガ地方でエンコメンデーロに対する反乱。 ZAIDE1,P.345.
1589.08.09 「奴隷制」廃止の勅令。 ZAIDE1,P.174.
1589.??.?? カガヤン、イロコス地方で貢税制度に対する反乱。 ZAIDE1,P.346.
1592.??.?? フィリピンから秀吉に対する総督使節としてフアン・デ・コボ神父がおくられる。    ZAIDE1,P.225.
1593.??.?? 木版印刷による祈祷書「ドクトリナ・クリスチアーナ」が出版される。 ZAIDE1,P.194.
1596.??.?? スペインによる最初のミンダナオ征服事業。 ZAIDE1,P.308;phelan, p.137.
1597.02.05 秀吉のキリシタン弾圧により、ペドロ・バウチスタ神父が殉教。 ZAIDE1,P.227.
1599.07.?? モロ族、ヴィサヤ諸島を攻撃。モロ族の反撃が始まる(このあと、1600、1602年)。 ZAIDE1,P.309.
1600.12.04 マリベレスの海戦。オランダのフィリピン攻撃始まる。 ZAIDE1,P.257.
1601.11.?? イゴロト族の反乱。 ZAIDE1,P.347.
1603.??.?? マニラで最初の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.278.
1610.??.?? オランダ、2度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.259.
1611.??.?? サント・トマス大学開校。 ZAIDE2,P.91.
1606.??.?? マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱。 ZAIDE1,P.297.
1610.??.?? 最初のタガログ語文法書。 zaide, p.156.
1614.11.21. 日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着。 ZAIDE1,P.300.
1616.??.?? オランダ、3度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.260.
1617.??.?? オランダ、4度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.261.
1621.01.?? イギリス・オランダ連合船隊、マニラ湾を封鎖(-1622.5.)。 ZAIDE1,P.262.
1623.??.?? マニラの日本人人口、3000人に達する(鎖国後、減少)。 ZAIDE1,P.291.
1620.??.?? スペイン宮廷、財政負担を理由とするフィリピン放棄の提案を却下。 ZAIDE1,P.161.
1621.11.?? カガヤン地方で反乱。 ZAIDE1,P.347.
1622.01.?? ボホール島のタンブロット、レイテ島のバンカウによる反キリスト教反乱。 ZAIDE1,P.348; Phelan, pp.147-148.
1624.08.?? 再び、オランダ・スペイン海戦。 ZAIDE1,P.263.

引用終了

 オランダの攻撃が1610年からで大坂の陣まで1回だけであれば、確かに現地人や外国からの滞在者にはわからなかったかも知れませんが、これだけ前から攻撃があれば、その攻撃状況やスペイン側の迎撃状況を目撃したり、間接的に見聞きしていたのはオランダ、スペインの関係者だけでなく現地人、現地に居留している諸外国人達も同様だったはずです。
 そしてその中には当然、少なからぬ日本人もいたのではないかと推測されます。
 それは何も日本を追放された者だけでなく貿易商、現地で雇われた傭兵など多数いたのではないでしょうか。
 このような状況に於いて、徳川方はこうした日本人、或いはそれ以外の国の居留者からオランダの大砲の射程距離や精度んどの性能、そしてそれだけでなくスペインの大砲の射程距離や精度のレベルなどについて情報を有る程度は得ていたのではないか、と考えられるのです。
 仮にスペインが射程距離の短いフランキ砲しか持っていなかったとしたならば、簡単にイギリスやオランダにフィリピンを制圧されていたはずなのですなのが現実にはそうではなかった、と言う事からスペインもそれなりの性能、つまりイギリス、オランダに匹敵するかそれに近い射程距離の大砲を持っていたと容易に推定されます。
 そうした状況は現地にいる日本人他諸外国の居留者にもわかるはずなのであれば、家康は当然、表面上は商人や傭兵でありながら実は情報収集活動を主な任務とする諜報員のような者を現地に少なからず配置させていたのではないでしょうか。
 そして収集された情報はウィリアム・アダムスかヤン・ヨーステン経由ではわからないはわからないようなものであった事だったと思われます。
 家康に情報提供していたこの二人はイギリス人とオランダ人ですから、スペイン側の大砲が実は結構なレベルで射程距離が長く、もしかするとほぼ同等の性能かも知れないと言う事はあまり家康には言わなかった可能性が有ります。
 そうした状況を家康も有る程度想定していたとすれば、家康を始めとする徳川方は現地に網を張り直接フィリピンから情報を得て、「考えている以上の高性能な大砲を持っているかも知れないスペイン、ポルトガルが豊臣氏や反徳川、不満分子などに接近しない内に豊臣氏を叩こう」と思い始めたのも大坂の陣に至った一つの要因かと思われます。
 では一方、豊臣方ではこうした情報収集をフィリピンで直接行っていたのか?と言うと、どうやらそう言う事は全くと言って良い程に行っていなかったのではないでしょうか。
 豊臣氏が旧式で射程距離の短いフランキ砲しか持っていなかった、或いは徳川方が射程距離が長いガルバリン砲、せーカー砲を持っている事がわからずに篭城戦を選択したと言うがその証です。
 また1609年にはスペインとオランダが休戦協定をしますが、その後も東南アジアではフィリピンでスペインとオランダが、インドネシアではイギリスとオランダが覇権争いを行っている状況であり、更にそこに一部の日本人も関係して、その一つが1623年のアンボイナ事件であるのは以前の記事の中で書きました。

引用開始(一部抜粋)
http://coconken.webcrow.jp/DATA/4408netherlands.htm
1,609 4 9 財政難でスペインとネーデルラントが12年間の休戦協定を締結、独立戦争に幕
引用終了

 と言う事は、豊臣氏もそのあたりの状況、つまりこれだけ決着がつかないと言う事はスペインとオランダの持つ大砲の性能はそれ程変わらないという事、更に休戦とは言うものの競合関係である事など、更に良く状況把握していれば、或いは日本にいる宣教師やキリシタンと連携して徳川方にもっと対抗できたかたかどうかと言う事になります。
 ですが、実際に豊臣氏はそうした動きは全くしていない、或いはせいぜい1612年の徳川方による禁教令強化あたりからやっと国内でスペイン勢の存在価値に気がつき始めたのかどうかと言う程度だったのではないでしょうか。
 では何故こう言う事になってしまったのか? と言えば、既に亡き秀吉が伴天連追放令を発してスペイン、ポルトガル、キリシタン達に対立する姿勢を採った以上、秀吉の御威光にすがって権威を維持しようとする遺族や家臣はそれには逆らえない、特に家臣達は亡き秀吉様の意向などとても反故にはできない、と言う立場だったのではないかと考えています。
 こうした思考停止、思考硬直性が有ったとしても、仮に秀吉の跡継ぎたる子が十分に成長していれば、父親の意向を覆す政策を敢えて採って海外でスペイン勢と交渉すると言う手もあったのでしょうが、如何せん秀吉の子は秀次が切腹、秀頼はまだ若く殆ど城に篭りっきりで、しかも戦闘や調略、諜報戦などの実践経験があまりにも少ない、と言うか皆無に近く、殆ど家臣が切り盛りしていた、そしてその家臣も次々と死去してノウハウを伝授せずに秀頼が取り残されたと言う実情では、スペイン、ポルトガル、キリシタンの力を背景に徳川方に反撃に転ずるなどと言う芸当のは所詮無理だったのかも知れません。
 しかし一方、スペイン勢側は、ガルバリン砲などの高性能な大砲が既に日本で知られているのならば仕方なく同レベルのものは売っても良いとは思っていたかもしれず、更には豊臣氏が従来の伴天連追放政策を止め、逆に伴天連支援の基本政策を採った場合、或いはオランダやイギリスなどの競合国が日本で更に力を増すようなら反オランダ、イギリスの日本陣営側について良いと、或いは考えていたのではないでしょうか。
 おそらくスペイン勢がその判断の為の様子見をしているうちに徳川軍が速攻で豊臣方を攻め滅ぼしてしまったように見えます。
 ヨーロッパに於ける17世紀の危機の一因には、世界的な寒冷化の他に、銀の産出が減った事も要因の一つであるようですから、豊臣方も銀と言う報酬でいつ逃げられるかわからない兵士を募る位なら、せめてその1/3でも配分して高性能な大砲等でも購入していれば或いばかなりの時間稼ぎは出来たのではないでしょうか。
 もう一つの可能性、明朝と連携して徳川方と対抗すると言う手を更に加える手法については、当時の明朝が既に17世紀に寒冷化も一部の要因となって弱体化しつつあり、とても勢力拡大策などの余裕が無かったので無理だったろうと思われます。
 豊臣方は情報収集だけを行う程度ならば徳川方と対立するリスクは小さいのにそれをしなかったと言う失策で、柔軟な姿勢をとらず、強便な姿勢のまま徳川方に対抗する選択をするような判断ミスをしてしまった、と言うのも大坂の陣の姿ではないかと思います。
 豊臣方が仮にスペイン等外国勢との連携を想定していたならば、大坂の陣の緒戦である木津川口の戦いの敗北の後、あっさり海上輸送ルートを放棄せずに執拗に何度もここを確保しようと攻撃を繰り返したはずではないでしょうか。
 この時点で既に外国や外様大名などの水運、水軍の支援が期待出来ない状況であった事を豊臣側自身がわかっていたとしか思えません。

自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 豊臣方における京都への進軍案

2016-10-29 08:57:08 | 地震 津波
 大坂の陣では、豊臣方の軍議に於いて当初は京都に進軍する案も出ていたとの説が有るようです。
 結論から書きますと、結果論になるのですが、仮に京都に徳川軍の兵や武器等があまり多く無かったならば、の場合に限りますが、この案はそう悪い方法でも無かったかも知れないと筆者は見ています。
 多少の時間稼ぎ程度だったかも知れませんが、ある程度は徳川方を手こずらせ、もしかして石高は減っても豊臣氏の存続になったかも知れないと思っています。
 では仮に京都へ進軍していたらどうなっていたのか、考えられる事についてリストして見ました。

1. 徳川軍の少なくとも一部または少なからぬ割合は、当然京都の城に篭城もするでしょうが、京都での地震の想定外の頻発で、篭城する徳川方がかなり動揺し、状況によっては城外に無理に出てしまい、不利な接近戦をさせられて苦労しかも知れない事。

引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen03.htm
1614(慶長19)年
  9月 2日 江戸で地震。(慶長日記10?)
 10月15日 諸国で大地震。(大地震暦年考)(御日記54)(孝亮記 2)(和漢合運指掌図 4)

1615(元和 1)年
  1月16日 京で地震。(孝亮記 2)
  1月17日 京で地震。(続史愚抄53)
  1月30日 京で地震。(続史愚抄53)
  2月24日 京で地震。(続史愚抄53)
  3月 4日 京で地震。(孝亮記 2)
  3月25日 京で地震。(孝亮記 2)
  6月 1日 江戸で大地震。家屋多く倒壊。(玉露叢 5)(続史愚抄53)
  7月14日 京で地震。(孝亮記 2)
  7月27日 台風による被害のため、佐渡の年貢を3年間半減する。
 11月25日 大地震。(日本災異誌)
        翌年にかけて諸国大飢饉。(津軽信枚公御代日記)(続史愚抄53)
        (歴史地理4-3)(凶荒史考)(青森県史 1)

1616(元和 2)年
  1月18日 江戸で地震。(孝亮記 2)
  7月28日 仙台で大地震。城壁楼櫓悉く倒壊。(台徳院御実記43)
  9月16日 江戸で地震。(孝亮記 2)
 10月10日 京で地震。(続史愚抄53)

1618(元和 4)年
  4月27日 京で地震。(孝亮記 3)
  8月11日 京で地震。(続史愚抄53)
  8月12日 京で地震。(孝亮記 3)

1619(元和 5)年
  5月 8日 京で地震。(孝亮記 3)

1620(元和 6)年
  1月 3日 京で地震。(孝亮記 4)
  3月 7日 浦和で大雹降り、鳥多く死す。(台徳院52)
  4月 5日 京で地震。(孝亮記 4)
  5月21日 大雨で賀茂川・大和川などが氾濫。(孝亮記 4)
  7月12日 京で地震2回。(孝亮記 4)
  7月14日 京で地震。(孝亮記 4)
  9月21日 京で地震。(孝亮記 4)
    この年、霧島山噴火。(日向郷土史年表)

1621(元和 7)年
  1月27日 京で地震。(孝亮記 4)

1622(元和 8)年
        冷気秋の如し。(台徳院御実記54)
 10月16日 京で地震2回。(資勝卿記)
 11月18日 京で地震。(孝亮記 5)

引用終了

 そして更に、

2.豊臣方が城攻めに固執せず、京都にある町人や公家などが住むエリアの多数の建物に分散すれば徳川方は高性能な大砲などが使えないケースが多い事。
3.市街地での接近戦では公家衆や町民などの反感を買わぬよう、一般人を巻き込むような手荒な戦法を双方共に採れず、戦闘が長期化した可能性が有った事。
 丁度、本能寺の変で仮に織田方の兵が明智光秀の軍とほぼ対等するような状況の戦闘が多数の箇所でほぼ同時に行われ、野戦とも言えない、篭城戦とも言えないような戦いが多数の個所で行われ、戦闘が長引いた可能性があり、これは神出鬼没な戦闘が得意な真田幸村には有利だったかとも考ええられる事。
3.市街地での接近戦、遊撃戦は通常の野戦と違い、全体で徳川方も豊臣方も戦闘力に差は殆ど無く、また兵力の差も開戦当初はあまり無かった事。
4.1615年6月には江戸で大地震が有り、それまで豊臣方が持てば徳川方には動揺が走った可能性もある事。
5.結果論ですが、仮に1616年1月に倒れるまで約1年、6月の家康の死去まで僅か1年半程度なら先頭を長引かせて時間稼ぎができれば、もう少し有利な立場で和睦できたかも知れない事。
6.京都の建物などの破壊や不安を嫌っ朝廷や公家衆、寺社勢力などが仲裁に入る可能性もある事。
 秀吉は人たらしだったと言われ、生前には公家衆に、そして伴天連追放令などで国内の仏教寺社勢力に快く思われていたと考えられる事。
7.1619年の飢饉まで戦闘が膠着状態であれば、明軍と連携した反徳川の勢力がスペイン勢の武器供給を背景に一斉蜂起した可能性もある事。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
ただし寛永の大飢饉を除いて江戸三大飢饉と呼ばれる場合も多い。また三大飢饉とは別個に寛永の大飢饉とこれに元和5年(1619年)・延宝3年(1675年)・延宝8年(1680年)の飢饉を加えた4つを「近世前期における4大飢饉」として取り上げる見方もある。[誰

引用終了

 飢饉ですが、明朝とても17世紀の寒冷化で滅亡したとの説も有ります。

引用開始(一部抜粋)

http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2014/03/blog-post_16.html

 実際に、明代末の17世紀前半にかなり後半な地域を捉える大飢饉があったことが史料からも確認されます。いくつかの断片的な記載を以下に記しておきます。
(中略)
 日本でも17世紀前半には、寛永の大飢饉が生じています。特に東北地方(青森)から中部地方(岐阜など)にかけての地域で大飢饉が発生しました。
 中国の国号の「大明」は太陽のことを示すといわれていますが、実際には気温の低下とともに大明帝国は滅びたと考えられます。

引用終了

 筆者は明が滅亡した要因は複数あり、寒冷化はその一つに過ぎないと見ていますが、寒冷化さえなければ他の要因があっても或いは明は滅亡しなかったかも知れないとも思えますので、やはり明の滅亡の要因が気温の低下だったとしても間違いでは無いとも考えています。
 京都進軍では徳川方の兵力、武器弾薬も或いは食料などを家康がどれだけの量で配置させていたのか、と言う点が鍵だったもでは、と思えます。
 用心深い家康ですからもしかしたらかなりの量を京都やその近くに隠し持っていたのでしょうか。

自然災害 仕組みとアプローチ  -  今度のスーパームーンとその前後では何が起きるのか

2016-10-28 00:17:38 | 地震 津波
 11月14日のスーパームーンまで後20日を切りました。
 当ブログの過去記事でサブタイトルにスーパームーンを含めたものもありますが、これ以外にもスーパームーンや満月や新月とそれらの前後について記事にしている内容、そしてその中で月の引力や潮汐による地震発生への影響を筆者が去年から筆者が書いている通りです。
 去年は9/28のスーパームーン前、9/17(標準時間9/16)にチリでのイヤペル地震、それで地球規模での地殻やプレートバランスが崩れたのかどうかと言うのは定かではありませんが、11/14に薩摩半島西方沖地震、11/24にペルーの地震、その他もありました。
 今年もスーパームーン前にまず南米で大地震が発生し、ついで2ヶ月近く遅れて日本でも・・・などと言うような全く同じパターンの繰り返しには多分ならないと考えますが、実際にどうなるかはわかりません。
 今年は既に10/21に鳥取県中部の地震が有りましたので、この時点で日本付近では去年と地殻やプレートバランス、歪の貯まり状況は去年と異なっていると思われます。
 また世界的にも4/16のエクアドルの地震、8/24と10/26のイタリアの地震などが既に発生し、去年とは異なった地殻やプレートバランス状況、歪(ストレス)の貯まり状況になっているのは明らかなようです。
 今回はエクストリームスーパームーンではないようですが、去年より更に月との距離が近くなり、68年ぶりと言われる近さのスーパームーンとなるとの事です。
 そして更に今回は11月と言う事で海水温度がかなり低下しつつある状況でのスーパームーンとなります。
 海底付近での海水温度が低下しつつある状況で、かつ大潮の場合、当ブログで以前の何度も書きました通り「寒天のお皿化変形現象」が発生しやすく、「プレート境界型地震のトリガーとなりやすい事が通常よりは多い」、と筆者は考えています。
 更に場合によっては海水温度の水平方向の分布状況により、横ずれ方向についても通常よりは地震トリガーになりやすいとも見ています。
 火山噴火も含めて今後どうなるのでしょうか。
 意外にも殆ど通常と殆ど変わらなかった、なんて言う可能性もゼロではないのですが、やはりどちらかと言えば地震か或いは火山噴火は通常よりは発生しやすい状況と考えています。

自然災害 仕組みとアプローチ -  イタリアでM6以上の地震発生

2016-10-27 08:58:12 | 地震 津波
 少し前にイタリアで地震が有りました。

引用開始(一部抜粋)

http://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes
2016-10-26 19:18:06.3
4hr 32min ago
42.92 N 13.12 E 10 6.1 CENTRAL ITALY

2016-10-26 17:10:36.3
6hr 40min ago
42.88 N 13.13 E 9 5.5 CENTRAL ITALY

引用終了

 M6以上は8/24以来です。
 鳥取県中部の地震と言い、全体にバランスが変化して来たのでしょうか。
 イタリアの大地震は16世紀には少なめで、17世紀に急に増えだしたような記録があります。

引用開始(一部抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8#.E8.BF.91.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E5.89.8D_4

16世紀

1508年5月29日 ギリシャで地震 - M 7.1、死者300人。
1531年1月26日 ポルトガル、1531年のリスボン地震 - Mw 8 - 8.4、死者3万人。
1555年 旧ユーゴスラビア南部スコピエで地震、壊滅的被害。

17世紀

1659年11月5日 イタリア南部で地震 - M 6.4、死者2,000人。
1667年4月6日 クロアチア南部、ドゥブロヴニク地震 - 死者5,000人以上?[44]
1688年6月5日 イタリア、カンパニア州で地震 - M 6.6、死者3,000 - 1万人?。
1693年1月11日 イタリアのシチリア島で地震 - M 7.4、死者8万人。
1694年9月8日 イタリア南部で地震 - M 6.4 - 6.8、死者4,000 - 1万5,000人?。

引用終了

 現在がその頃とやや似ているかどうかと言うのは、もう少し経ってからでないとわからないのかも知れません。