快気分析

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仕組みとアプローチ -   江戸幕府の参謀となったと言うのが北条征伐後の土岐一族ではなかったのか

2019-05-14 22:07:27 | 明智光秀
 明智十五朗の名が有る墓が千葉県市原市に有る件を以前に記事にしましたが、正確にはその墓に記されいるのは「明智重五郎」との事です。
 十分に説明しきれなかった面は有るかと思いますが、ただこの墓には「土岐」の字も入っている事やその他に側室の名も有ることから、個人的にですが明らかに明智十五郎の名がある墓と考えています。
 墓の位置もまともに江戸城そのものと言うわけではなく、万喜城(万木城)と江戸城の丁度ほぼ中間の位置に有る事からやはり明智十五郎の名前も墓の位置も意図的に中間的なものにずらされたものにしたのだろうと思っています。
 では何故そうする必用が有ったのか?
 それはこの墓が出来た時は未だ豊臣氏が滅亡していなかったからだと考えています。
 つまり1615年の大坂の陣の前に出来たと言う事ではないでしょうか。
 ではこの墓に明智重五郎(明智十五郎と個人的には解釈)の名があると言う事は、天海が明智十五郎ではなかったと言う事にもなって来ます。
 以前に記事で書いた通り天海が明智十五郎だった可能性が有ると考えていましたので天海の没した年齢と事なり矛盾が生じます。
 このあたりはまだ調べ切れていないというのが現状ですが光秀の側室と明智十五郎が同時に死亡したと言う事は通常考えられません。
 千葉県市原市に有る墓に明智重五郎(明智十五郎と個人的には解釈)の名があるのが明智十五郎自身の墓も兼ねているのか? ですが明智十五郎以外の親族の墓をまず造りそれからかなり後に明智十五郎自身も往生してその墓にもなったと言う事ならば「天海=明智十五郎」と言うのは成り立つかと思います。
 それで考えられる事は以前の記事で書いた通りで、やはり山崎の戦いの後に明智一族で落ち延びた人達は未だ勢力が有った上総土岐氏に身を寄せたのではないか?と言う事です。
 そして関東移封された家康の徳川氏もまた土岐一族である西郷局を正妻にして、地方の国人からステップアップしたと言う事ならば土岐一族の流れに頼っていた面も十分有り、上総土岐氏と連携したりそこに身を寄せた土岐一族である明智一族を匿った可能性はかなり高いと考えています。
 更に豊臣勢とは言いながらも実は土岐一族の流れを組む浅野長政が同じく土岐一族の流れを汲んでいる家康と合同で、上総、下総、安房などの攻略のにかかわったと言うのは実は何とかやりくりして本多忠勝と共に上総土岐氏とそこで匿われていた同族を何とか落ち延びさせた、それだけでなく家康やその後の江戸幕府の参謀、言わばブレインとなったと言うのが北条征伐後の土岐一族だったのではないでしょうか。