以前にも当ブログで記事にしたのですが、毛利氏が足利義昭を手放すわけはなく、更に本能寺の変の後になってからならば秀吉が足利義昭の上洛を徹底的に阻止するのは明らかだったはずです。
それでも明智光秀が足利義昭の上洛を期待した古文書が残っていると言うのは一体どう言う事でしょうか。
引用開始(一部抜粋)
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
戦国時代の武将、明智光秀が、本能寺の変の後に反織田信長勢力の豪族に送った書状の原本を発見したと三重大の藤田達生教授(日本史学)らが11日、発表した。信長に京都から追われた室町幕府の将軍を再度、京都入りさせようと協力を求める趣旨の記述があり、藤田教授らは「本能寺の変は幕府再興が目的との説を裏付けるものだ」としている。
本能寺の変は1582年6月2日、信長の家臣だった光秀が謀反を起こし、京都・本能寺で信長らを自害に追い込んだとされる。動機は、信長に対する怨恨説や天下を取って代わろうとした野望説、光秀は実行犯で何者かに操られた黒幕説など諸説がある。
これまで書状の写しが東京大学史料編纂所にあるのは知られており、藤田教授は幕府再興説を唱えていたが、原本は見つかっていなかった。
書状は縦11.5センチ、横56.7センチ。1582年6月12日付で、紀伊雑賀(現和歌山市)を治めていた豪族、土橋重治に宛てたもの。写しと同じ内容が記され、室町幕府の15代将軍、足利義昭が京都入りする際には「将軍の命に従い協力することが大切です」とあった。
義昭への協力や光秀への援軍を申し出た重治に対し、感謝していることもつづられていた。
引用終了
この資料が真実ならば、ですがそれは明智光秀が秀吉の中国おお返しを想定していなかった、そして光秀は次のように思っていたと考えられるのです。
「秀吉が自分にまさか牙をむくとは考えられず、足利義昭上洛をまさか阻止する事など有り得ない。何故なら秀吉が毛利氏が癒着、共謀している事は有り得ないから」となるのですが、現実はそうでは無かったと言う事が山崎の戦いと言う史実で証明されています。
本能寺の変が明智光秀の想定外で起きてしまった可能性については当ブログで何度も記事にしていますが、その後は光秀が何とかしようとして足利義昭を上洛させて信長襲撃犯行の首謀者にされてしまった事を室町幕府再興と言う大義名分で切り抜けようとしたようなのですが、そのロジックは秀吉が完全把握していたはずであり、そして更に足利義昭の近習には当然秀吉のスパイが潜り込んでいた、と当然考えられます。
当時に於いて秀吉が敵対していたと思われていた毛利氏の家臣に実際には内誓紙を書かせて個人レベルで調略しそれをネタに脅して徐々に交渉を有利にしながらも毛利氏とは共謀関係になって行く、と言う秀吉の得意技が足利義昭の側近に対して行われなかったはずはなかった、と考えています。
それでどう言う事になるのか?と言うとですが、追い詰められた明智光秀が足利義昭に上洛を懇願する密使の書状などを送ればそれを秀吉はガッチリ把握し、足利義昭の上洛がすぐに可能と言う返信を土橋氏に送らせる・・・がそれは光秀を野戦に誘き出す為のエサであり、誘き出した後には足利義昭の上洛など当然の如く秀吉はどんな手を使ってでも阻止するわけで、ハシゴを外された明智光秀は信長を討った大義名分を失ったまま秀吉に短期惨敗、となったと考えています。
それでも明智光秀が足利義昭の上洛を期待した古文書が残っていると言うのは一体どう言う事でしょうか。
引用開始(一部抜粋)
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
戦国時代の武将、明智光秀が、本能寺の変の後に反織田信長勢力の豪族に送った書状の原本を発見したと三重大の藤田達生教授(日本史学)らが11日、発表した。信長に京都から追われた室町幕府の将軍を再度、京都入りさせようと協力を求める趣旨の記述があり、藤田教授らは「本能寺の変は幕府再興が目的との説を裏付けるものだ」としている。
本能寺の変は1582年6月2日、信長の家臣だった光秀が謀反を起こし、京都・本能寺で信長らを自害に追い込んだとされる。動機は、信長に対する怨恨説や天下を取って代わろうとした野望説、光秀は実行犯で何者かに操られた黒幕説など諸説がある。
これまで書状の写しが東京大学史料編纂所にあるのは知られており、藤田教授は幕府再興説を唱えていたが、原本は見つかっていなかった。
書状は縦11.5センチ、横56.7センチ。1582年6月12日付で、紀伊雑賀(現和歌山市)を治めていた豪族、土橋重治に宛てたもの。写しと同じ内容が記され、室町幕府の15代将軍、足利義昭が京都入りする際には「将軍の命に従い協力することが大切です」とあった。
義昭への協力や光秀への援軍を申し出た重治に対し、感謝していることもつづられていた。
引用終了
この資料が真実ならば、ですがそれは明智光秀が秀吉の中国おお返しを想定していなかった、そして光秀は次のように思っていたと考えられるのです。
「秀吉が自分にまさか牙をむくとは考えられず、足利義昭上洛をまさか阻止する事など有り得ない。何故なら秀吉が毛利氏が癒着、共謀している事は有り得ないから」となるのですが、現実はそうでは無かったと言う事が山崎の戦いと言う史実で証明されています。
本能寺の変が明智光秀の想定外で起きてしまった可能性については当ブログで何度も記事にしていますが、その後は光秀が何とかしようとして足利義昭を上洛させて信長襲撃犯行の首謀者にされてしまった事を室町幕府再興と言う大義名分で切り抜けようとしたようなのですが、そのロジックは秀吉が完全把握していたはずであり、そして更に足利義昭の近習には当然秀吉のスパイが潜り込んでいた、と当然考えられます。
当時に於いて秀吉が敵対していたと思われていた毛利氏の家臣に実際には内誓紙を書かせて個人レベルで調略しそれをネタに脅して徐々に交渉を有利にしながらも毛利氏とは共謀関係になって行く、と言う秀吉の得意技が足利義昭の側近に対して行われなかったはずはなかった、と考えています。
それでどう言う事になるのか?と言うとですが、追い詰められた明智光秀が足利義昭に上洛を懇願する密使の書状などを送ればそれを秀吉はガッチリ把握し、足利義昭の上洛がすぐに可能と言う返信を土橋氏に送らせる・・・がそれは光秀を野戦に誘き出す為のエサであり、誘き出した後には足利義昭の上洛など当然の如く秀吉はどんな手を使ってでも阻止するわけで、ハシゴを外された明智光秀は信長を討った大義名分を失ったまま秀吉に短期惨敗、となったと考えています。