本能寺の変の後、明智光秀は細川藤孝・忠興父子に加勢するように働きかきましたが、細川藤孝はそれを拒否して剃髪し不参加を決め込みました。
細川忠興の妻は明智光秀の娘である玉子(洗礼名:ガラシャ)であるのにです。
このあたりが謎めいているのですが、細川忠興はある弟子グループの一人だった事で理解ができて来ます。
その弟子グループとは「利休七哲」です。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E4%BC%91%E4%B8%83%E5%93%B2
利休七哲(りきゅうしちてつ)は、千利休の高弟7人を指す呼称。利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した『江岑夏書』(こうしんげがき)の中で挙げられている。
その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり[1]、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある。また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。
(中略)
七哲
蒲生氏郷、筆頭
細川忠興(三斎)
古田重然(織部)
芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)
高山長房(右近/南坊)
牧村利貞(兵部)
利休門三人衆
利休七哲に加えて利休門三人衆といい、利休門下の武将のなかで、特に優れていたといわれる、蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興の3人の武将がいる。 また、彼らは利休七哲にも加わっている。利休七哲と同じで、後世に呼称されたもの。
引用終了
そしてまた高山右近の名が出て来ました。
それだけでなく古田重然(織部)の妻は中川清秀の妹である「せん」です。
高山右近と中川清秀は秀吉方として戦いましたがどうも急な寝返りにも見える点については以前の記事で書きました。
これらから考えられるのは山崎の戦いで明智方か秀吉方のどちらにつくかは千利休からの指示が有ったのではないか?と言う事です。
細川忠興が妻ガラシャの父である明智光秀からの加勢要請が有ったにもかかわらず、中立の立場を採ったのは千利休の高弟グループの一人と言う立場も考えたからではないかと思えます。
こうして見ると山崎の戦いはイエズス会と、火薬などの輸入でイエズス会と親しくなければ商売ができない千利休が明智方か秀吉かたのどちらに勝たせるかを決めていた、と見えます。
そして明智光秀を始めとする明智方に勝たせる気など無かった。
細川藤孝・忠興父子はこの事がわかっていたのでしょう。
細川忠興の妻は明智光秀の娘である玉子(洗礼名:ガラシャ)であるのにです。
このあたりが謎めいているのですが、細川忠興はある弟子グループの一人だった事で理解ができて来ます。
その弟子グループとは「利休七哲」です。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E4%BC%91%E4%B8%83%E5%93%B2
利休七哲(りきゅうしちてつ)は、千利休の高弟7人を指す呼称。利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した『江岑夏書』(こうしんげがき)の中で挙げられている。
その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり[1]、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある。また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。
(中略)
七哲
蒲生氏郷、筆頭
細川忠興(三斎)
古田重然(織部)
芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)
高山長房(右近/南坊)
牧村利貞(兵部)
利休門三人衆
利休七哲に加えて利休門三人衆といい、利休門下の武将のなかで、特に優れていたといわれる、蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興の3人の武将がいる。 また、彼らは利休七哲にも加わっている。利休七哲と同じで、後世に呼称されたもの。
引用終了
そしてまた高山右近の名が出て来ました。
それだけでなく古田重然(織部)の妻は中川清秀の妹である「せん」です。
高山右近と中川清秀は秀吉方として戦いましたがどうも急な寝返りにも見える点については以前の記事で書きました。
これらから考えられるのは山崎の戦いで明智方か秀吉方のどちらにつくかは千利休からの指示が有ったのではないか?と言う事です。
細川忠興が妻ガラシャの父である明智光秀からの加勢要請が有ったにもかかわらず、中立の立場を採ったのは千利休の高弟グループの一人と言う立場も考えたからではないかと思えます。
こうして見ると山崎の戦いはイエズス会と、火薬などの輸入でイエズス会と親しくなければ商売ができない千利休が明智方か秀吉かたのどちらに勝たせるかを決めていた、と見えます。
そして明智光秀を始めとする明智方に勝たせる気など無かった。
細川藤孝・忠興父子はこの事がわかっていたのでしょう。