快気分析

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仕組みとアプローチ -  秀吉の情報戦で巧妙だったと思われる暗示効果

2020-01-31 12:59:48 | 明智光秀
 本能寺の変が発生した後、秀吉が「上様(信長様)と信忠様は生きておられる」旨の書状を少なくとも中川清秀に送り、同様な書状をおそらく他の武将らにも送り付けていたと思われますが、信長、信忠の首が出て来なかった事と合わせて、これが山崎の戦いで秀吉勢が大勝する要因となったと言う説は多いようです。
 個人的にもこの考えには同感で、それは万が一でも信長、信忠が生きているかも知れないと思う武将らが、信長が恐ろしくて明智光秀に加勢できなかったという理由によるものです。
 ですがこれ以外の要因も良く考えてみると有ったような気がします。
 それは「秀吉が信長、信忠が生き延びていると言う前提の政策を一部でも採る可能性が有ったから」、と言う事で、それが何なのか?ですが、結論から言うと「秀吉は信長の方針に従って征夷大将軍である足利義昭を上洛させるつもりはない」と言う暗示内容です。
 明智光秀の生命線は「信長に追放された足利義昭を上洛させて、逆賊である信長を討って成敗した」と言う形を採る事だったはずなのですが、秀吉による「足利義昭は上洛させない」と言う暗示の効果で明智勢に加わるはずだった有力武将らが次々と離脱したように思えます。
 光秀は仕方なく、足利義昭が上洛するまでだけでもとりあえず自分自身が征夷大将軍になって何とか信長襲撃を正当さする形にしようとしたようですが、筒井順慶や細川藤孝らはついて来ませんでした。
 では足利義昭が何とか秀吉勢の警戒網をすり抜けて上洛する事は出来たでしょうか?・・・それはおそらく無理か相当なリスクが有ったと思われます。
 何せ陸路も海路も当時は既に秀吉が制圧していたからです。
 毛利氏は既に秀吉と癒着関係に有った可能性が高いと考えている事は以前の記事で書きましたが、毛利氏が仮に秀吉と癒着してなかったとしても、切り札に仕える足利義昭を明智光秀の為に手放す事などしなかったと思える上、考え方を変えて明智勢に加勢する為に足利義昭を上洛させようとしても、秀吉が陸路も海路も制圧していたのでこれを敢えて強硬すると非常にリスクが高かったはずで、この点からも毛利氏は足利義昭を上洛させない秀吉に協力する選択肢を選んだものと思われます。

仕組みとアプローチ -  織田信忠の征夷大将軍就任が近日中に予定されていたのではないか、と思う理由

2020-01-30 12:59:49 | 明智光秀
 本能寺の変の起きる前々月、朝廷は信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙すると言う案を示したのですが、信長はどれもすぐに受け入れる姿勢を見せず特に進展がないままとなっていて、これが「三職推任問題」と言われるもののようです。
 では信長は最後までどれも受け入れるつもりは無かったのか?となるのですが、石見銀山を御料地から外すと言う願望が仮に信長に有ったのならばそれは考えられる事かも知れません。
 また信長が仮に正親町天皇には従いたくはなかった場合も同様です。
 しかし5月に毛利攻め援軍の準備にかかり始めた事から、もしかすると信長は征夷大将軍に織田家の誰かを就任させようとしたかも知れないと思っています。
 何故そう言う事が考えられるかと言えば、毛利氏にとって戦略上の切り札の一つである足利義昭を征夷大将軍の座から外してしまえば、それだけでも毛利勢には大きなダメージとなるわけで、織田勢はより簡単に毛利氏を殲滅できるわけです。
 そして信長自身でなく例えば織田信忠をこの征夷大将軍にしてしまえば、毛利攻めの正当性もより高くなり、一方で石見銀山の取り分などの問題が出て来た場合、今度は信忠を毛利方面司令官から外して甲州方面などに配置変えしてしまい、毛利氏領に関しては信長自身が前面に出て総指揮をする、それならば征夷大将軍ではない信長が朝廷の意向に反した事をしてもより正当性を主張できるわけです。
 本能寺の変の前日に有った茶会では信忠も来ていたようですが、この征夷大将軍就任nは無しも出されていて、その翌日か或いは数日後には正式な就任式が予定されていた可能性はゼロではないのではないか?と考えています。
 そうなれば足利義昭だけでなく、毛利氏にとっても、そして(旧?)室町幕府奉公衆(出身者?)らにとっても大変なダメージになってしまうはずです。
 そして石見銀山の利益を従来通りの量で朝廷に納めないなどの展開が予想された場合には公家衆も含めた朝廷にも危機となるはずです。
 実際に信長はどの程度の事までを考えていたのか、今となっては定かではありませんが、信長が毛利攻め援軍と総決戦を決定したのなら信忠を征夷大将軍にすれば、信長は朝廷支配と毛利勢殲滅の両刀を得る事ができる事になり、そうなっては困る勢力はあらゆる手段で事前にこれを阻止しようとしたはずで、それは本能寺の変の一つの側面であると(個人的にと言う程度ですが)考えています。
 

仕組みとアプローチ -  北条早雲は伊勢貞興と同じ伊勢一族なのでした

2020-01-29 21:29:41 | 明智光秀
 後北条氏の初代である北条早雲は無名の下級武士から下克上で領主となったと言うのが少し前までの定説だったのですが、「北条早雲 伊勢氏」などで検索するとわかる通り、最近では室町幕府では名門である伊勢氏の出であり、しかもある程度の地位だった事と見るのが大半のようです。
 伊勢氏と言えば本能寺の変で主力部隊の一つだった部隊の伊勢貞興がいますが、その名の通り伊勢氏の後継者でした。
 そして後北条氏は本能寺の変の前までは織田氏とは一応同盟関係に有ったのですが、信長は後北条氏とはあまり関わり合おうとはせず、そして本能寺の変の直後には後北条氏が織田勢に反旗を翻したのでした。
 当時の後北条氏は常陸土岐一族や上総土岐一族と連携しており、信長はやがて土岐一族とは決戦を考えていたものと思えてしまいます。
 土岐氏と伊勢氏の共通点は何か、と言えばそれは両一族共に室町幕府の重臣だった事です。
  

仕組みとアプローチ -  本能寺の変の少し前から信長が対土岐一族警戒心をエスカレートさせた理由と思われる事

2020-01-29 08:55:38 | 明智光秀
 本能寺の変から少し前から信長が対土岐一族警戒モードが急に上がったと考えている事については以前に記事にしました。
 その理由はこの時の記事にある通り、家康の実質筆頭側室の西郷局が土岐一族系であり、そして家康との間に男子(後の秀忠)が生まれた事、そして長曾我部信親のがやはり土岐一族の石谷頼辰の娘をおそらくその頃に正室とした事で、土岐一族のネットワークが急激に拡大しつつあった頃だと言う事、更に後北条氏が当時の常陸土岐氏や上総土岐氏と連携して里見氏らに対抗していた事などの史実が有り、明智光秀のライバル達も信長にそのあたりの事を指摘していた可能性が高い事などです。
 そして一方では当時の土岐一族の家系と言う面に限れば中枢ともいえる土岐頼芸が、斎藤道三に追放された後、親族である六角氏、それから同じく親族の常陸土岐氏、更に親族の上総土岐氏に身を寄せていた事が江戸時代以前の史料でわかるようです。
 たかだか土岐頼芸やその近習いと言う僅かな人数なら別にどこかの親族が長く世話しても良いはずなのに、何故か次々と身を寄せる先を変えています。
 六角氏についてはわかりませんが、常陸土岐氏や上総土岐氏に身を寄せていた事が何を意味するのか?と言えばそれは(個人的にと言う程度に過ぎませんが)、「土岐頼芸は織田勢に対抗、反撃できるような土岐一族を中心とする勢力を構築しようと走り回っていたのではないか?」と言う事です。
 そんな状況の時、ある決定的とも言える事が起きたようなのです。
 それは信長、信忠ら織田勢による甲州征伐の時、土岐頼芸が武田家に身を寄せていた所を発見された事でした。
 その前は上総土岐氏に身を寄せていたはずの土岐頼芸が冷たくされて武田氏に身を寄せたとは考えにくいと思うのです。
 これが何を意味するのか?と言えは、それはまさしく「土岐頼芸は甲斐武田氏と土岐一族を連携させる根回しの外交を繰り広げていた」と言う事だと考えています。
 そして当時は後北条氏が上総土岐氏、常陸土岐氏と連携していた事、甲州征伐直前は武田氏と後北条氏が連携を深めていた事などの史実が有り、そうなると後北条氏、常陸土岐氏、上総土岐氏、そして武田氏をも組み入れた連合勢力を土岐頼芸も含めた武将らが作り上げようとしていた、と言う事になると思われるのです。
 その証拠になるのかどうかはわかりませんが、甲州征伐には何故か明智光秀は積極的な姿勢は取らずにその後に信長からこの点を指摘されて叱喝されたと書かれている史料も有るようです。
 これは単に明智光秀の戦闘姿勢を叱ったと言うよりも、土岐頼芸が武田氏、土岐一族系、北条氏、そして長曾我部氏の連合勢力を構築しつつ有った事を信長が把握する所となり怒りを表した、と言う事ではないでしょうか。
 土岐頼芸が武田家に身を寄せていた事は当然、信長の知る所となったでしょうから、その後に土岐一族系(長曾我部氏も含む)と後北条氏に対する警戒心が更にエスカレートし、それも明智光秀を畿内から離そうとして国替えを考え、光秀もそれに同意した、と言う状況だったように思えます。
 安土城で家康の饗応役で有った明智光秀を信長が解任したと言う事が真実なのかどうかはわかりませんが、家康の側室である西郷局が土岐一族である事はおそらく信長も知っていたはずでこれを警戒したのかも知れません。
 ところで発見された土岐頼芸を引き取って世話したと言うのが稲葉一鉄だったようですが、この稲葉一鉄までもその生まれが土岐一族だとする史料も有るようです。
 斎藤利三の娘である福(後の春日局)を保護したのも稲葉一鉄でした。
 

仕組みとアプローチ -  弥助が本能寺から二条御新造に行ったと言う事の不可解な点

2020-01-28 21:14:31 | 明智光秀
 江戸時代以前の史料によると、本能寺の変が有った時に弥助は前夜から本能寺に信長らと共に有りました。
 そして本能寺から退出(脱出?)して信忠らがいる二条御新造に行ったような事が書いてある史料も有るようです。
 この件について当時の状況から考えると(個人的に程度に過ぎませんが)どうも不可解に思えるような点が有る気がするのです。
 弥助が本能寺を退出(脱出?)できる位なら信長だって脱出できてしまうのではないでしょうか。
 当時はおそらく蟻も這い出る隙も無い位に襲撃部隊に包囲、監視されていたはずで、とてもわからないように本能寺から移動する事など出来なかったはずです。
 「弥助が襲撃部隊に紛れて脱出した可能性」については、弥助がアフリカ系の人で肌の色や顔つきが違い、そして180cm以上の長身だったと言われる事からどう見ても目立ってしまい必ず見つかったはずで到底有り得ないと考えてしまいます。
 そうなると浮かんで来る事は「襲撃部隊には弥助なら討たずに逃がしてやる、と言う命令が出ていた可能性が高い」となるわけで、確かに二条御新造で弥助が投降した時も明智光秀は殺さずに逃がしてやったようです。
 しかし本能寺、二条御新造の襲撃が終了した後ならそれもわかるのですが、「本能寺から出てどこかへ行く」、と言うのは信忠らにいち早く危機を知らせる為である可能性も高いわけでこれを襲撃部隊が何故放っておいたのか?と言うのが疑問になって来ます。
 それで想定できる事の一つは、「弥助が自由に移動できるのを容認して容姿が目立ってわかりやすいのを良い事に襲撃部隊は弥助の後を追い、おそらく信忠の所へ行くだろうからそこで信忠を討つのに利用しようとした」、と言う可能性です。
 もう一つ想定できる事は弥助が「南蛮寺(教会)へ戻りたい」と言ったのでその通りにしてやったケース。これなら納得できなくも有りませんが、では南蛮寺のイエズス会関係者は弥助が危険な二条御新造に行くのを何故許したのか?と言う疑問が出て来ます。
 もしかするとと言う程度ですが、イエズス会は「弥助が信忠の所に行くのを容認する事で、襲撃部隊が後を追い、信忠を討つのに役立つように誘導しようとしたのではないか」とも思えて来ます。
 通常なら教会にいるように指示するはずなのを敢えて混戦が予想される信忠の居場所に行かせたのは、「やはりイエズス会もまた間接的に信長、信忠襲撃に加担していたのではなかろうか」、と考えられて来てしまうのですが、これは仮に弥助が教会に一度立ち寄った場合のケースに過ぎないので実際の所どうだったのかについて確定までは行っていません。