都は、甘ったるいような、少し酸っぱいような空気が、この870年
の積み重ねで、ついには空の色まで変えるようになっていた。その都の
真ん中に、232年もの歴史を持つカフェがあったとさ。
わたくしは、17代目の店主であります。
夕方6時から8時頃は、たいていお暇な時間帯でありますので、常連
の方が、ちらほらいらしては、たいへんおかしな、それでいて何もなら
ないようなお話を、10席ほどのカウンターにどっかりと、まるでじぶ
んのお家の如くお座りになって、うれしそうに語り出すのであります。
くじらさん、は6時になるといらっしゃいます。カウンターの一番奥、
身体に似合わずひっそりとお座りになり、キンキンに冷えたビールを、
とりあえず8.3リットル一息に飲み干されます。その、痛いくらい
の冷たさと、爽快感、一杯目のクラクラ感が体中にゆきわたりますの
に、きっかり13分、かかりますので私は、特注したぴたり13分の砂
時計をひっくり返して、くじらさんに話しかけるタイミングを見計らう
のが、常になっています。
ひとくちに13分と言っても難しゅうございまして10分経過、の一番
いいとき、に話しかけてもお邪魔のようで悪いですし、うっかり話しか
けるのを忘れてしまいますと、気弱にいじけて雑誌など読み始めてし
まっては、気まずくなってしまうのであります。
わたくしとしましても、くじらさんは大切なお客様、常連さんでありま
すので、そんな彼のわかりやすい繊細さを愛しくも思われまして、私が
言うのもおこがましいのでありますが、大事に、させていただいている
のです。
「今日は、なんだか、妙にグリーンだねえ」
と、くじらさんはお空の話からお始めになります。
「左様、今日は一段とグリーンであらせられますね」
私は、空の話をするのが何よりも楽しく、常連のお客様は勿論、一見さ
んであっても、誰彼となく話し掛けてしまい変な顔をされてしまうこと
も、しばしばであります。ともかく、都のお空は格別なのです、様々な
表情を、とりどりの色彩を持っていらっしゃるのです。そして、そ
の色を感じるココロ、言い表すひとたちの感性はこの都にあっても、研
ぎ澄まされているのです。ここ2,3日は大まかに言えば、グリーンで
あらせられましたし、2週前は、玉虫色サイケデリック、恍惚、でありま
した。
「この緑は、どうも憂鬱になる。苦手な色なんだな。ここんとこの濃や
かさには閉口だ。どうにもやりきれねえ」
「くじらさん、やっぱり青ですか、オーシャンブルー」
「うん、あお、ね。海の藍、・・・・、その辺の微妙な色合い、ニュア
ンス、空の蒼さではない、深さ、様々なものを呑み込んだ、深淵、生の
みなもと、色というより、根源的な感覚・・・」
くじらさんに海の話をさせると、2時間18分は息継ぎなしで楽にお続
けになり、さらには、感極まって泣き出すと、お店はたちまち浸水の憂
き目に遭うので、すかさず話頭を変えるようにしております。
「ああ、ひつじ君、ね、そろそろお願いしますよ」
当店の専属ピアニスト、ひつじ君に話しかけます。
「夜は、どうしませうか、マイ・ボス」
急に振られたひつじ君は、慌てて煙草を消して、こちらの方に改まって
向き直ります。昼間はバッハの「インヴェンションとシンフォニア
」や、「ゴルトベルグ ヴァリエーションズ」を演っていただいており
ましたから、夜はお気楽にボサノヴァでも・・・、と思っておりました
が、話の流れから、思わず出たのが、
「・・・とりあえず、BLUE IN GREENを・・・」
「ああ、マイルス」とくじらさん。
「いや、あれは、エヴァンズでせう」
ひつじ君は、微笑って言うと、ピアノに向って、鍵盤を掴んで、祈るよ
うに大真面目に弾きはじめました。
お店の雰囲気が、すっと、沈んで落ちつくのがわかるようです。
私は、ゆっくりライトダウンをいたします。
の積み重ねで、ついには空の色まで変えるようになっていた。その都の
真ん中に、232年もの歴史を持つカフェがあったとさ。
わたくしは、17代目の店主であります。
夕方6時から8時頃は、たいていお暇な時間帯でありますので、常連
の方が、ちらほらいらしては、たいへんおかしな、それでいて何もなら
ないようなお話を、10席ほどのカウンターにどっかりと、まるでじぶ
んのお家の如くお座りになって、うれしそうに語り出すのであります。
くじらさん、は6時になるといらっしゃいます。カウンターの一番奥、
身体に似合わずひっそりとお座りになり、キンキンに冷えたビールを、
とりあえず8.3リットル一息に飲み干されます。その、痛いくらい
の冷たさと、爽快感、一杯目のクラクラ感が体中にゆきわたりますの
に、きっかり13分、かかりますので私は、特注したぴたり13分の砂
時計をひっくり返して、くじらさんに話しかけるタイミングを見計らう
のが、常になっています。
ひとくちに13分と言っても難しゅうございまして10分経過、の一番
いいとき、に話しかけてもお邪魔のようで悪いですし、うっかり話しか
けるのを忘れてしまいますと、気弱にいじけて雑誌など読み始めてし
まっては、気まずくなってしまうのであります。
わたくしとしましても、くじらさんは大切なお客様、常連さんでありま
すので、そんな彼のわかりやすい繊細さを愛しくも思われまして、私が
言うのもおこがましいのでありますが、大事に、させていただいている
のです。
「今日は、なんだか、妙にグリーンだねえ」
と、くじらさんはお空の話からお始めになります。
「左様、今日は一段とグリーンであらせられますね」
私は、空の話をするのが何よりも楽しく、常連のお客様は勿論、一見さ
んであっても、誰彼となく話し掛けてしまい変な顔をされてしまうこと
も、しばしばであります。ともかく、都のお空は格別なのです、様々な
表情を、とりどりの色彩を持っていらっしゃるのです。そして、そ
の色を感じるココロ、言い表すひとたちの感性はこの都にあっても、研
ぎ澄まされているのです。ここ2,3日は大まかに言えば、グリーンで
あらせられましたし、2週前は、玉虫色サイケデリック、恍惚、でありま
した。
「この緑は、どうも憂鬱になる。苦手な色なんだな。ここんとこの濃や
かさには閉口だ。どうにもやりきれねえ」
「くじらさん、やっぱり青ですか、オーシャンブルー」
「うん、あお、ね。海の藍、・・・・、その辺の微妙な色合い、ニュア
ンス、空の蒼さではない、深さ、様々なものを呑み込んだ、深淵、生の
みなもと、色というより、根源的な感覚・・・」
くじらさんに海の話をさせると、2時間18分は息継ぎなしで楽にお続
けになり、さらには、感極まって泣き出すと、お店はたちまち浸水の憂
き目に遭うので、すかさず話頭を変えるようにしております。
「ああ、ひつじ君、ね、そろそろお願いしますよ」
当店の専属ピアニスト、ひつじ君に話しかけます。
「夜は、どうしませうか、マイ・ボス」
急に振られたひつじ君は、慌てて煙草を消して、こちらの方に改まって
向き直ります。昼間はバッハの「インヴェンションとシンフォニア
」や、「ゴルトベルグ ヴァリエーションズ」を演っていただいており
ましたから、夜はお気楽にボサノヴァでも・・・、と思っておりました
が、話の流れから、思わず出たのが、
「・・・とりあえず、BLUE IN GREENを・・・」
「ああ、マイルス」とくじらさん。
「いや、あれは、エヴァンズでせう」
ひつじ君は、微笑って言うと、ピアノに向って、鍵盤を掴んで、祈るよ
うに大真面目に弾きはじめました。
お店の雰囲気が、すっと、沈んで落ちつくのがわかるようです。
私は、ゆっくりライトダウンをいたします。