今日は遠足である。ぼくはうれしいです。と書いたら、学校では減点である。しかし、なぜ、ですますと、である、が同居してはいかんのかしらん。べつに、違った型の血液が混じるわけでもないのに、なにか、文章の命とりみたいに言われるのは、ちょっと心外だよね。土屋耕一
竹内和宏さんがリツイート | 188 RT
日本語の「コミュニケーション」という語は、本来の共同性という意味合いがほとんどないまま使われている。ことばを発する側の発し方は問題にされず、受け止める側の受け止めの責任が問われる。上意下達の一方向性だ。「理解」という語が相手に主張を押し付けるのを意味するのと共通する思想である。
竹内和宏さんがリツイート | 1 RT
この状況では人間はこう思うべきだ。そういう正解を求める圧力が強くなり過ぎれば、思想を教えるという世界がやってくる。状況を教え、感想を聞き、答えあわせをする。間違えた感想を持った子は強制される。何を思ったかではなく、何を思うべきかを考えるようになる。
竹内和宏さんがリツイート | 186 RT
見る、想起する、思考する、そのほかどんな心のはたらきでもいいのですが、これを「私が見ている」「私が想起している」「私が思考している」と語ることによって片づけてしまうことに対しては、強烈な違和感が残ります。大森荘蔵先生はこの問題を生涯考え抜きました。『「死」を哲学する』
竹内和宏さんがリツイート | 5 RT