マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

みんなで話し合うこと

2008-07-14 16:57:24 | 教会の風景
昨日の午後は、臨時の役員会でした。
本部の教会の方々に相談に乗って頂きました。

もちろん、真面目な課題ばかりでしたが、
時折、笑いが起きるような和やかな雰囲気の中で話合いを持ちました。

正直なところ、まだまだ自分は何もしらないんだな~と感じました。
特に、法律や実務面の知識は乏しいです
その分、優れた役員さんたちに支えられています
相談に乗り、協力してくださる先生方の存在も大きいです

周囲の方々の理解と支えがあって・・・
今の自分があり、
将来の自分があることを忘れてはいけないな~とつくづく思います。
そして、教会はチームワークなんだということも。
自分も、助けを必要とする人の役に立てる時が来るのでしょうか


さて、昨日も夕方はYouth For Jesusでした。
ヨハネ15:9-12から
「互いに愛し合う」というテーマで話しました。
この夏の2大イベントの告知と打ち合わせもしました
そして、いつもどおり夕食も。

定番メニューの仲間入り 皿うどんでした。

食後にはデザートも。杏仁豆腐でした。

おいしかった

食後には、またみんなでテーブルを囲んで話をしていました。
いつもながら、Youthのみんなの話題はおもしろい
内輪で別の企画も生まれそうです。
盛り沢山の夏になります。
昨日も12時に解散でした

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「赦してください」

2008-07-14 16:24:36 | 教会の風景


「赦してください。」

・・・なかなか素直に言えない言葉の一つ



昨日の礼拝説教のダイジェスト。

聖書箇所 創世記50:15-21

「赦し」

父ヤコブの死後、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフの恨みと仕返しを恐れました。
彼らは、過去に犯した過ちを悔やんでいました。
罪責感と報復の恐れ


 人は悪を行うことでは幸せになれない。
非常にシンプルな原則です。
どんな理由や状況があるにせよ、悪を行うことでは本当の喜びや平安を味わうことはできないのです。
たとえ不正を行うことで、何かを得たとしても。



 万一、過ちを犯してしまった時には・・・赦しを求めるほかない。
赦しを求めて、できる限りの誠意をもって謝るべきです。
恨まれている相手と和解する方が、神への供え物に優先する(新約聖書 山上の説教)とは印象深い比較です。

ヨセフの兄弟たちは、改めてヨセフに「・・・赦してください」(17)と求めました。



 赦す心は、一体どこから来るのか ・・・神を恐れる信仰から。
ヨセフはそれを聞いて「泣いた」(17)とあります。
ヨセフには、兄たちの過去の酷い仕打ちを赦すだけの心がありました。

「私が神の代わりでしょうか。」  ヨセフは、神が人の行いを裁くと考えていました。
自分を神と同列に置く愚かさを退けました。
個人的な復讐心で兄たちを追及することをしませんでした。

補足ですが・・・
これは悪を容認しているわけではありません。
善と悪の規準をあいまいにしているのでもありません。
ただ、神が介入したとき、兄たちの悪でさえ家族の救いという結末へと用いられたと信仰告白しているのです。



 このヨセフの態度に、イエス様の姿を想起します。
父なる神は、ひとり子イエスをこの世に遣わされました。
しかし、世はイエスを受け入れず、十字架につけました。
これほどの悪はありません。

しかし、神は、この悪をかえっていのちをもたらすための手段となさいました
御子イエスも、受けられた苦しみと恥の大きさにも関わらず・・・
和解のための福音を私たちにもたらしてくださいました

「もう恐れることはありません」
「養いましょう」
「慰め、優しく語りかけた」
・・・という、ヨセフの言動は、救い主イエス様の姿を彷彿させるものです。


私たちは、この方のゆえに「赦してください」と神の御前に出ることができます。
そして、人の前にも「赦してください」と誠実に謝るべきです。
そこから、本当の幸せな生き方が始まります。


自分が間違っている時に「赦してください」と言えないということは・・・
最も愚かで、惨めな状態であるということでしょう。




いつのまにか、非常に長くなってしまいました
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます
キリストにある赦しを体験し、喜びと平安を受けられますように



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復習

2008-07-09 21:12:48 | 教会の風景
今日は、ほぼ一日教会にこもっていました
今晩の祈祷会の準備をした後・・・

ギリシャ語中級文法の復習をしました。
休み明けの中間試験のためにも早めの準備が安心ですね
主格と属格の働きを見直しました

その後、前年度に受講した牧会カウンセリング講座のノートをPCで整理し始めました。
もう一度復習しながらの作業です。
きちんと整理できたら、分かち合いたいと思います。
何とか今月中には仕上げたいです
実は・・・他にも教会史のノートがまだ途中でストップしたままなので

今日は、特に頭の中がフル回転の一日でした。

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聞くことを大切に

2008-07-08 00:48:34 | 教会の風景
日曜の午後は、毎月恒例の役員会でした。
聖書からの学びと具体的な教会の運営について話し合いました。
今回も話し合いの中で、新たな発想と動きが生まれました。
役員さんたちの話を聞くのも楽しみの一つです
時間ギリギリまで有意義な話し合いが持てました


そして、Youth For Jesusです。
司会のS君が教会の別の用事で遅れたので、急きょN君に司会を頼みました。
いつもどおり賛美と聖書の短い集会。

メッセージはヨハネ15:7,8からでした。
「みことばを聞くこと」というテーマで前回の続きです。

人の話を聞くのにも、注意力や忍耐や思考が必要です。
相手が自分に何を伝えたいのかを掴むのは、時には難しいこともあります。

それは聖書を通して
神様のみこころを知ることにも当てはまります。
「わたしにとどまりなさい」(4節)と語られたイエス様。

そうして、このようにも言いました。
「あなたがたがわたしにとどまり、
わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

ものすごい約束です。
「何でも・・・ほしいものを求めなさい。
そうすれば、・・・かなえられます。」
私たちにとって、とても心躍るような約束です。

ですが、注目すべきところは・・・
「あなたがたがわたしにとどまり・・・」です。
やはり、主に聞き続けること、
主のみことばからみこころを正しく知ることが、大切な鍵です。

主のみこころを正しく知り、それに従って生きる時、
実り多い人生となり、本当の意味での弟子となるのです。
それによって、神様は栄光を受けられるのです。
主のみこころを教えていただくための忍耐や注意力を頂いていきたいものです。
聞き続ける者でありたいです。



夕食はいつもどおり、みんなで。
メニューは、ロコモコ丼とスープ・デザート付でした。





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大切にしたいものです

2008-07-08 00:15:18 | 教会の風景
今日は休日ということで、しっかり休みました。
午後、教会の事務的な仕事を少ししましたが。
充電の日になりました。
明日からまたがんばります


さて、昨日の一日を振り返ります。


朝は分級からスタート
集まった方々と賛美と祈りの時間。
そして、「神の国はあなたがたのもの」から学びも。
義に渇くという面と義に満ち足りるという面を併せ持つ私たちについて。

続いて礼拝です。
礼拝説教は、創世記49章の後半から50章の最初の辺りからです。
「ヤコブの死」を迎える場面です。
「死」について考えました。

日常では「死」について語ったり、考えることはあまり歓迎されることではありません。
誰にも必ず訪れることなのに。
でも、死を意識することで、今の生を大切にできるのではないでしょうか?

 時を大切に。
ヤコブは死を意識した時、子孫の祝福の祈りと自分の埋葬への指示という行動を取りました。
その時その時に自分が何をなすべきかを知り、行動できることは幸いなことです。

 別れを悲しむ。
「死」は、当然のことながら、信仰の有無に関係なく訪れます。
「死」は、別れの時です。
ヨセフは、自然な感情として父との別れを悲しみました。
この自然な態度が、実はもっともふさわしく、必要です。
悲しい時は、悲しむ。
周囲(エジプト全土)も喪に服しました。
エジプトで権力者になっていたヨセフのゆえだったのでしょうが。
はるか昔から、しかも異教社会においてさえ・・・
悲しむ者とともに悲しむことこそ、
人が本来大切にしてきた態度でした。

 故人への尊敬や感謝を示す。
ヨセフは、父ヤコブの遺言を実現するように行動します。
埋葬についての指示は、神様に対する父の信仰の表明でもありました。
ヨセフは、父の意向を大切に扱いました。
パロもヨセフの願いを尊重しました。
エジプト式の葬儀を故郷カナンで7日間行うことを許しました。
もちろん、この場合、表面上エジプト式だったのでしょうが、
偶像崇拝的な要素は行われなかったと考えるのが妥当でしょう。

以上、これらを踏まえて・・・
確かに「死」に対しての態度を考えることは大切です。


しかし・・・
これらのことは大切ではありますが、「死」に対する根本的な解決にはなりません。
読んでいて、気付かれたことでしょう。


聖餐式でイエス・キリストの十字架での「死」を心に留めました。
「死」対する根本的な解決は、イエス・キリストの十字架の死にあります。
イエスの十字架の死は、身代わりの「死」です。
主の死を自分のためだと信じる者には、「死」に対する根本的な解決が与えられます。


イエスの死によって・・・

「死」は、神の裁き・滅び・永遠の別れ から
       
神のみもとに、永遠のいのち、再会の希望 を伴うものとなりました。


改めて、主の救いの尊さを心に留めました。
「死」について真摯に向き合えるのは、この救いがあるからこそ
イエス様の御名がほめたたえられますように

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