マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

「赦してください」

2008-07-14 16:24:36 | 教会の風景


「赦してください。」

・・・なかなか素直に言えない言葉の一つ



昨日の礼拝説教のダイジェスト。

聖書箇所 創世記50:15-21

「赦し」

父ヤコブの死後、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフの恨みと仕返しを恐れました。
彼らは、過去に犯した過ちを悔やんでいました。
罪責感と報復の恐れ


 人は悪を行うことでは幸せになれない。
非常にシンプルな原則です。
どんな理由や状況があるにせよ、悪を行うことでは本当の喜びや平安を味わうことはできないのです。
たとえ不正を行うことで、何かを得たとしても。



 万一、過ちを犯してしまった時には・・・赦しを求めるほかない。
赦しを求めて、できる限りの誠意をもって謝るべきです。
恨まれている相手と和解する方が、神への供え物に優先する(新約聖書 山上の説教)とは印象深い比較です。

ヨセフの兄弟たちは、改めてヨセフに「・・・赦してください」(17)と求めました。



 赦す心は、一体どこから来るのか ・・・神を恐れる信仰から。
ヨセフはそれを聞いて「泣いた」(17)とあります。
ヨセフには、兄たちの過去の酷い仕打ちを赦すだけの心がありました。

「私が神の代わりでしょうか。」  ヨセフは、神が人の行いを裁くと考えていました。
自分を神と同列に置く愚かさを退けました。
個人的な復讐心で兄たちを追及することをしませんでした。

補足ですが・・・
これは悪を容認しているわけではありません。
善と悪の規準をあいまいにしているのでもありません。
ただ、神が介入したとき、兄たちの悪でさえ家族の救いという結末へと用いられたと信仰告白しているのです。



 このヨセフの態度に、イエス様の姿を想起します。
父なる神は、ひとり子イエスをこの世に遣わされました。
しかし、世はイエスを受け入れず、十字架につけました。
これほどの悪はありません。

しかし、神は、この悪をかえっていのちをもたらすための手段となさいました
御子イエスも、受けられた苦しみと恥の大きさにも関わらず・・・
和解のための福音を私たちにもたらしてくださいました

「もう恐れることはありません」
「養いましょう」
「慰め、優しく語りかけた」
・・・という、ヨセフの言動は、救い主イエス様の姿を彷彿させるものです。


私たちは、この方のゆえに「赦してください」と神の御前に出ることができます。
そして、人の前にも「赦してください」と誠実に謝るべきです。
そこから、本当の幸せな生き方が始まります。


自分が間違っている時に「赦してください」と言えないということは・・・
最も愚かで、惨めな状態であるということでしょう。




いつのまにか、非常に長くなってしまいました
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます
キリストにある赦しを体験し、喜びと平安を受けられますように


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